はてなキーワード: 普通の人々とは
Gl17 「ルールを決めたのだから守らないサヨクが悪い」とか頻繁にウヨが言い張るアレの成立過程。倫理さえ無視すれば権力側は好き放題に不当なルール作れるし、更に「ルール破り」として正当性そのものを悪魔化できる。
そういうこと言われる左翼が守らないのはルールじゃなくて法律でしょ。
なお右翼や政治家とかも法律守らない奴らは同様に批判されますよね。
そういうこと批判してるのはウヨクやサヨクだけじゃなくて、普通の人々が多いんですよ。あなたがたには敵対勢力にしか見えないからウヨだサヨだってすぐ言うんでしょうけど。
全く間違っていない。ただ、やりすぎると社会が不安定化するというだけ。
例えば学習障害に対して努力不足だとか、今次の能登地震について「過疎で交通不便地は見捨てろ」という論と同じである。
人間社会を振り返ってみると、何度もこういう話は出てくるし、実際その淘汰圧に何度も負けてる。ただ、やりすぎると社会全体が不安定化する。なぜなら黒い犬は見捨てられ野良犬となり繁殖し狂犬病を持つようになるかもしれない。学習障害を放置すると就職に困難をきたした上で反社会的勢力の食い物やコマになるかもしれない。
そうでなくとも、後天的な身体障害を就職差別したケース(めちゃくちゃありますね)ではだいたい飲んだくれてたりする。
これらを放置すると社会全体が不安定になるし、そうでなくとも普通の人々(自分を普通だと思ってる人々)まで「一歩足を踏み外したら地獄だ」という気持ちにさせ、とてもよくない。
なお、これらは国家規模の作業なので、あなたが寄付をするという行為自体は、あなたが気持ちよくなるという側面が大きい。良いことをした、社会に向上した、という。
もしも可能ならば、黒い犬にもポメラニアンにも平等にする団体への寄付をするか、両者に50円寄付するとか、あなたが気持ちよく安心できる道を選ぼう。社会補助とか公女とかは不幸な人を助けるだけでなく、普通の人々(ないし普通だと思ってる人々)を助けるためにもあるのだから。
コスパ論は排除の論理である。そしてコスパ・排除論者に言いたいのは、君らミクロしか見えてなくてマクロで物を考えるってことが全然できてないってことだ。その結果、社会全体やひいては世界を亡ぼす。部分最適の総和は全体最適にならない、なんてことはもう一世紀以上前から常識だ。君らの論は、放置すると以下のような言説になる。
……
その結果、人は障碍を得たり年をとったり社会的に弱い立場に立っただけで簡単に人権を失い、強者が権力を振りかざす、安全・安心からほど遠いディストピアに住むことになるんだけど、それがコスパの果てに待つ社会だということを「コスパコスパ」唱える連中は理解もしない。自分がそういう主張をしているということを認めないばかりか、「そんなのはほかの誰かが対策すること」で「自分たちは目の前の問題についてだけ冷静に意見を言ってる」と思っている。その結果、20世紀から21世紀の現在、どういう社会が訪れたか、
コスパと排除の論理を突き詰めれば、すぐそこまで行く。歴史や世界情勢を見れば、一目瞭然である。
だから、コスパ論者は、自分に全体を見る目がないという認識があるならせめて黙っていた方がいい。とはいえ、自分の理解の及ばないことについては沈黙する、というのは意外と高い知性が必要な行為なので、人類そこまで頭良くない、っていうのも悲しい現実だ。その結果やがて、そういう「普通の人々」からの人気を当て込んで極論を振りかざすデマゴーグが現れて、多くの人が進んでその養分になり、社会や国家は破滅的な被害を受ける。なのに、喜んで養分になった人々は、全てが終わった後口をそろえて「知らなかった、騙されていた」と言い出して、自分には非がないと言い立てる。そうして数十年後、また同じことを繰り返す。世界のあちこちで。
人間の一員として生きるということは、そういう愚かさと共に歩む覚悟をもつということでもある。言い換えれば、その愚かさと共に歩む覚悟がない者は、政治についても社会についても何も実のあることを語ることができない。理念だけのリベラルが常にデマゴーグに敗北する理由がこれだ(それは数や勢力というだけの意味でなく、リベラル寄りの思想の持主もまた、たやすくコスパ論にからめとられて排除論者に闇落ちするということでもある)。
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さて、以下は、上記を踏まえた愚考である。ぶっちゃけ読まなくていい。けど、少し暇があり、与太話に付き合ってもいいというなら、読んでいただければ幸いだ。
民主主義には「少数意見の尊重」という、コスパ論に堕しないための重要な楔が打たれているのに、民主主義を標榜しながら人は安易に「多数決」を持ち出して、少数意見を無効化しようとする。少数意見を顧みず議論も廃した「多数決」は、現実主義でなく単なる数の暴力なのだが、近視眼的なコスパ論者にはその違いが分からない。そうして、コスパ論者、すなわち民主主義者と自認する「多数による独裁」主義者は、「諸外国の脅威に対抗するため」「緊急事態に対応するため」などの言い訳をつけて、やがて民主主義を独裁主義で蚕食しようとし始める。「その方がコスパいいと思う」から。
人間の脳のバグ、たとえば、動物的に振舞いたいというバグは、2000~3000年前ごろから「宗教・道徳」というパッチが発明されたことで世界的にデバッグが進んだ。結果、社会や文化は大きく進展した。宗教や道徳が整えば、人と人、国と国の協力が可能になり、交通が利便に、経済が発達し、国はうるおい文化が発達する。しきりに法が作られたのも、こうした理由である。道徳や法が国を栄えさせるという実例を見て、またほかの国もそれを真似るようになる。こうして急速にパッチは普及した。
だがその後、宗教パッチを当てると人は神秘主義に陥り、ある一定のレベルで文化の発達が止まるという新たなバグが見えてくるようになった。それに対して一般に「科学・哲学」パッチが発明され適用されるようになったのは、割と最近のことだ。科学が宗教に優越する地位を占めるようになったのは、近世になってからのことだ。科学は実証によって宗教に優越する効果を示した。ただ、同時に道徳を破壊することになる危険性についても、パッチ適用当初から危惧されてはいた。ただし、宗教パッチの害悪の方が重くなっていた当時の時代から見れば、それはまだ些細な問題に過ぎなかった。「科学・哲学」パッチによって、停滞していた文化は学問となって更に発展し、国の規模は拡大して強大な国家が生まれた。人は世界の果てまで到達し、文化の発達を謳歌した。
ところがその先に生まれたのが、狭くなった世界における衝突と排除の論理である。特に、宗教パッチの効果を低下させたことによる道徳性低下の影響はやはり無視できなかった。文化の発達によって世界は狭くなり、道徳性の低い強者がより一層大きくなることで、弱者が「合理的」に使い潰される状況が起きてきた。道徳性が高いと思われる者でさえ、「善意」と「合理性」により、異文化を侵略・排除する帝国主義が世界を支配した。つまり、コスパ論の時代である。
これに対し20世紀後半になってようやく、これではまずいという判断の下、「民主主義・人権」パッチが発明され普及を始めた。そのために人類は、数度にわたる世界大戦という苦い代償を払うことになったが、その教訓とともに適用されたパッチで、世界大戦の脅威をいくらか遠ざけることができるようになった。だが、何度もこれを無視した戦争が引き起こされ止まらないように、依然としてこのパッチは十分適用されていない。劣化版のパッチ(ポリコレ棒)やパッチに対抗する新たなウィルス(多数決万能論)さえ出てくる始末であり、パッチの普及にも暗雲が垂れ込めている。
それだけではない。狭くなった世界、拡大を続ける資本主義の下(拡大し続けることは資本主義の仕組自体の問題で、本質的には解消不能である)、環境問題といった新たに別のパッチが必要な問題が生まれてきた。それに対する「SDGsパッチ」はまだ発明されたばかりで、その有効性も不透明だ(このパッチ自体にバグがある可能性もまだ否定できない)。これが21世紀の現状である。
これらのデバッグが完了し、人類が「戦争」と「環境問題」という2つの危機を乗り越えるのは、一体いつになるのか。いや、そもそも乗り越えられるのか。優秀なデバッガーや啓蒙家の数がどれほどになれば、人類は生き延びられるのだろうか。
俺は理解できないんだけど、どうも普通の人(?)は他人に対してものすごく「期待」するものらしい。
彼らの言う「期待」とは、ある種命を預けるような、他者の振る舞いを自身の人格の拠り所にするくらいの勢いと重さを持っているもののようだ。
「怒らない人は他人に期待していないだけ」ということはビジネス書とかでよく言われるけど、この「期待」というのがそれなんだと思う。
他者が期待に沿ってくれるかどうかで命が左右されるくらいの重さで寄りかかるので、それが裏切られた際には耐えられない苦痛を覚えるのだろう。
そういう期待を他人に対してするタイプの普通の人々にとっては、他人に「期待」をしないということは極めて冷徹で非人間的な振る舞いに見えるらしい。
だから「怒らない人は他人に期待していないだけ」という言い方になる。「期待しない人間」として冷酷なサイコパスのような人格をイメージしているのだ。
俺みたいな人間はそもそもそういう重さで他人に依存するという発想自体がないので、
「期待しない」と意識したり冷酷に切り捨てると意識したりすることなく最初から自然に期待していない。「期待する」という回路が無いんだよね。
(前part)
https://anond.hatelabo.jp/20231214132432
この子も社会教育課にいた。子といっても、当時すでに40歳を過ぎていた。明らかにそういう症状があった。それで周りとの軋轢が生じていた。
この子の場合は、それなりの割合で悪意があった。発達障害であるだけで問題になることはない。彼もまた、T区の人事部局が認めるところの問題職員の一角だった。
話は逸れるが、前段として必要であるため述べる。私が学校教育の現場で教壇に立っていたのは十余年である。そこまで長くはない(教育現場から教委に異動する者としては標準的な年数)。その十余年の中でも、今でいう発達障害とされる児童と接した経験がたくさんある。
当時はまだ発達障害という言葉はなく、ただ「ボヤっとした子」「癇癪持ちの子」「よく動き過ぎる子」「細かいこだわりがありすぎる子」などの漠然とした分類があるだけだった。確かに、彼ら彼女らは扱いづらい。話が通じないこともある。
そんな児童と関わる中で感じたのは、人間の多様性というものだ。動物や植物も、これまで多くの種が生まれて現在に至っている。ハイデガー風に、存在し続けていることが正しさだと言うのなら、発達障害の人も其処に生きる意味がある。
私個人の意見だと、説得力がないかもしれない。以下にひとつ引用したい。
「もしも誰かがわれわれの手紙を読んだら、あまりの多様な内容にびっくりするのではないかと思う。なにしろ、われわれ二人ときたら、大変な重要人物ででもあるかのように、荘重な口ぶりで国際政治を論じあうかと思えば、一枚紙をめくるや、話題は一転し、軽い普通の人々に日々起るものに変るからだ。
このやり方は、品位を損ずると思う人もいるだろうが、わたしは悪くないやり方と思う。なぜなら、われわれ人間は自然を模倣するものだが、その自然たるや多種多様が当り前で、だから多様は非難さるべきことではないのだ」 わが友マキアヴェッリ1 (2010) 塩野 七生 (著) P.361
さて、厳しい現実ではあるが、上のような発達障害の子が公務員試験を受けるとどうなるか。ほぼすべての子が面接試験で悲惨な結果を遂げる。私はこれまで何百人もの正規職員、非正規職員の面接試験官を行ってきた。発達障害と思われる人には次のような傾向がある。
例)理想を述べるか、言いたいことをストレートに言うのどちらか
・そもそも喋ることができない
例)会話が極端に遅い、内容も伝わり辛い
・考え方が極端
例)児童虐待は絶対に許せない、地球温暖化はどんな犠牲を払っても止めるべきなど
稀にではあるが、面接に適性のある子がいる。D君はその一人だ。彼の外見や、話している最中の態度はまともとしか言いようがない。無能の鷹ではないけれど、外資系企業の営業マンのようだ。発達障害には見えない。
実際、公務員試験で評価される観点は、本質的に民間企業と同じである。「弊社で使える人材か?」ということだ。使える人材であれば、多少のことには目を瞑る。
日本国の法に反する思想があってもいいし、公にしないのであれば共産党員でもいい。有給休暇を取って組合活動をするのは公に認められているし、選挙期間外であれば多少の政治活動には目を瞑ろう。
勤務時間中に煙草休憩をしたり、ほんの小さな横領行為をしたり、取引会社と飲食を共にしたり、小売業者に個人購入品を値引きしてもらうとか、そういった行為でも咎めない。
そんな些末なことより大事なのは、その人がこれから公務員として採用されて、「使える人材」でいられるかどうかだ。国の機関だろうと地方自治体だろうと関係ない。何十年もこの世界にいた私が断言する。
話を戻そう。D君はどういうところが悪かったのか。私が三年間で見てきた彼のよろしくない行動は、概ねこんなところだ。
≪勤務態度≫
気分にムラがある。仕事に意欲的なこともあれば、反面ボーっとしていることもある。皆が必死に働いている時でさえも。
イベント・式典の時なども、サボっているのでは……? と思えるほど何もしない。C係長などに怒られても平然としている。
≪反社会性≫
D君の隣の席にいる職員がコーヒーか何かを机上にひっくり返した時、ほかの職員は一緒に机を拭くなど手伝っていたが、彼は何もせず書籍を読んでいた。
私がつい激高して、彼を叱責したところ、「お前には関係ないだろ!!」と逆ギレのような形で食いかかってきた。
≪無責任≫
区民や取引業者に迷惑をかけた時も、上司に言われるまで報告せず、報告の際にも悪びれた様子がない。
ある時などは、自治会長と思われる人との約束をすっぽかした後、現場から堂々と事務所に帰って来た。その際、C係長からどやしつけられていた。それでも、淡々とした態度で心の篭っていない「すいません」を繰り返したところ、C係長がまた怒鳴り声をあげた。
最悪だったのは、都庁から視察に来ていた都職員らにその現場を見られたことだ。パソコン入替業者や、シルバー人材センターの清掃員も聞いていた。
その後、C係長と、そのさらに上司である社会教育課長は厳重注意を受けた。教育局長の部屋で二時間に渡る説教を受けたのだ。D君は反省文をひとつ書いただけでお咎めなしだった。
≪嘘≫
平然と嘘をつく。このタイプの発達障害者はそうなのだが、涼しい顔で嘘を吐ける。まるで、自分自身が嘘をついている認識がないかのような。D君もその例に漏れず、上司にも同僚にも他部署の職員にも、区民にも(自らの利になる)嘘をついていた。傍から聞いている私でもわかるレベルの。
嘘がバレても平気な顔をしていた。周りの職員がどれだけ、何を言っても、例えば「Cさんは信頼できない!」と言われたとしても、彼は「心の底からどうでもいい」という表情だった。
あれは、言うなれば『悪魔』とか『魔族』とか言われるものだ。神話の時代の創作者は、ああいった者をモデルとして悪魔を作り上げたのかもしれない。
ここは官公庁である。診断書を要するレベルの障がい者が働くべき世界ではない。公務員というのは、陰ながら社会を支える存在であり、その地域の住民全員が相手である。学校教育で教わった考え方や価値観を元に、毎日コツコツと気を緩むことなく働き続ける人に適性がある。
いざ災害などの非常事態になれば、自分のことは一番後回しにして人助けを行う必要がある。私個人も、災害級の風雨の中で児童生徒の避難誘導をした経験が何度もある。命が危なかった。
公務員というのは、地域住民が毎日を幸せに、無事に暮らせる社会を支えるのが仕事である。教員だろうと自治体職員だろうと変わりはない。
そのような仕事を、人柄や人格、精神性、肉体に異常のある人間にこなすことはできない。自分という人間が安定・成熟しているからこそ、人を助けることができる。身分保障もそのひとつだ。
D君はその域に達していなかった。その意味では、先ほど取り上げたB君にしてもそうだ。誰かが、どうにかして辞めさせるのが組織にとっての正しい在り方だった(残念ながら、D君はC係長でも匙を投げるほどだった)。
官公庁においては、仕事にならないレベルの人間を採用すべきではない。公共性の高い仕事をこなすことができないからだ。そういった類の雇用は、民間企業やNPOを主体として行われるべきである。
(次part)
TwitterがXになって、創作垢が軒並み減った。それに伴って今まで駄弁っていた普通の人々もTwitterを離れていった。
残ったのは常に不平不満を垂れ流す人か、過激思想に染まり誰かに噛みつき続ける人か、そんな人々に都合の良くて耳障りのいい言葉を吐いて金を巻き上げる、いわゆる「他責ビジネス」で荒稼ぎする狡賢い連中だ。
彼らはInstagramのようにキラキラした生活はできず、facebookに名前を出せるほど豪胆ではなく、mastodonの多様性を容認できるほど温和ではない。
そしてGRAVITYで取り留めのない話を吐き出せるほど精神的な余裕はない。
いわば、Twitterという整備された綺麗なドブ底でしか生きられない、特殊な生き物だ。
Twitterはそれすら包み込むおおらかさがウリだったが、それがなくなった場所に残るのはなんなのだろうか?
他人の幸せと考えを手当たり次第に否定する「生きづらい人々」だけになった時、Twitterは初めて「X」になれるのだと思う。
tiktokでもyoutubeのショートでもツイッターのおすすめでも、顔の良い男女、セクシーな女のバズった画像や動画が次々に流れてくる。
LGBTだのなんだのと、表向きの世界でどんなに言い訳しようとも、現在の世の中は人類史上最大限に見た目の良さが評価される時代になっている。
インターネット、それもSNSがなかった時代には、見た目の良さだけで有名になれるのは「メディア」と言うフィルターをくぐった芸能人だけだった。
ある意味それは平和な時代で、「画面の向こう側」の人間が見目麗しいことで得をしていても誰もなんとも思わなかった、なぜなら彼らは選ばれた一部の特別な人、別世界の人々だったからだ。
しかしモバイルインターネットが普及して、誰もがインターネットで繋がるようになるとこれが地獄と化した。
本来自分たちと同じであったはずのごく普通の人々が、たまたま見た目が良かったというだけで得をするシーンをそこここで見せつけられるようになり始めた。
勉強ができる人、運動が得意な人、芸術に打ち込む人、その他なんでもいいが、地道な努力の果てに一芸を獲得することが、見た目の良さに圧倒され駆逐されていく。
この世界観における生殖活動では、見た目の良い遺伝子を手に入れることが他の要素を押しのけて最上位の優先事項となる。
見た目以外の才能は、生まれた後にでも磨いてどうにかなるという「希望」がある。
実際にはまだ解明されていないだけで、全て先天的に決まっているのかもしれないが、今のところ努力でどうにかなるという共通認識が残っている。
だが見た目だけはそうはいかない、性格は顔に出るなどと言う通り環境によって多少の変化の余地があることは認めるが、しかしベースとなるものは生まれた時点で定まっている。
そういう要素を世界が最も評価するようになったのだから、人は見た目に劣る遺伝子をわざわざ残そうとはしなくなる。
そうやって最適化すれば、一部の美男美女以外は滅んだ方が良いと結論にしかならない。
政府がどんな働きかけをしようとも、このルッキズム至上主義が続く限り、婚姻率の低下は適応の結果なので変わることはないだろうし、それが日本特有の事象にはとどまらないだろう。
https://twitter.com/iiiaruk3/status/1639897867916808193?s=61&t=JWugil7Sn32ETVePoEjakw
にもあるが、どうも、絵師以外で何かしら物を作ったり表現したりする人々(字書きの人々や、あるいはプログラマ勢など)からは、「絵描きは絵描きとしか繋がりたがらず、それ以外の界隈の人間を下に見る選民思想がある」と思われているフシがあるらしい。
とんでもない!俺は10年選手の同人作家で、一応Twitterとpixivでそれぞれ数万人程度のフォロワーを抱える中堅程度の絵師だが、「俺は絵描きだから絵描きとしか繋がらんぜ」とか一度も思ったことない。
具体的には、フォローやリプやDMくれた相手が絵師でなかったとしても、その人が「若い女の子であれば」どんな界隈の人だろうと無条件にフォロバするしリプもDMも返す。字書きだろうと無産民だろうと、その人が若い女の子という属性を持ってることが分かれば100%好意的な返事を返す。ぶっちゃけ、腹の中で俺と同じこと考えてる絵描きはマジで多いと思う。別に相手が絵師じゃなくとも、相手が繋がるに値する価値を持つ人間だったら繋がるってことだ。それが俺の場合は「若い女の子」ってだけ。
同人イベントや、界隈民限定のオフ会パーティーとかにもしょっちゅう顔を出してるが、その目的は「自分をフォローしてくれてる人の中でリアル若い女の子がいるかどうか漁るため」だ。Twitter垢だけでは男女の判別が判断できない場合も正直多いので、「あなたのファンです!」と言って近づいてくれたフォロワーさんが若い女の子だったら、(当たりを引いたな)と内心思いながらその場でその子のTwitter垢をフォロバする。もちろん、フォロバする子が絵師かどうかなんて一切関係ない。
まあ、そういうことだ。
露悪的すぎるしネタにしか見えないんだが、心の奥底でこういうこと思ってそうな人って案外多そうではある
まず
で書いてある通り、そりゃ小児性愛を見事に定義できて、かつきれいに見分けできるんなら考えてみればいいんちゃうのっていう話ではある 例えばタイムマシンができてテロリストを未然に見つけられるんならそりゃ先にいろいろやるという選択肢もあるだろうし、同様に前提が強すぎる
成り立たない前提で話をしたところで結局前提成り立たないよね以外に意味のある話はない
こういう話を見るたびに思うんだが人の嗜好って0か100かの2択じゃなくて、何かを好きな度合いが0の人とか、10の人とか、50の人とか、100の人とか、連続的に分布しているものやろ
小児性愛にしたって3歳以下しかダメという人もいれば6歳でもいけるとか、10歳ならオッケーとか15歳ならオッケーとか、いろんな人がいる中で社会のルールとして単に18歳以上のみを合法としている
15歳でもこういう人には欲情するけどこういう人には欲情しないとかいろいろあるだろうし、こういう病的な妄想癖を持つ人がやりがちな、「病気のあいつ」と「健全な俺」みたいに綺麗に二分できるものではない
そんな中でどうやって線引きして殺すつもりなんだっていうのははなはだ疑問なんだよな
世の中には社会に絶対に悪影響を及ぼす小児性愛者が存在していて、それは普通の人々と全く異なる異形の怪物で、誰にでも明確に区別できて、殺さないと被害が拡大する、とかならそりゃそーちゃう殺処分でもなんでも考えるべきではって感じなんだが、
新幹線に遅延が起きた。
DaiGoがグリーン車に乗り合わせていて、グリーン車に乗り込んできた人々を非難していた。
今回は乗っていなかったけれど、もし自分がグリーン車に乗っていたらこんな事態だし嫌な感情は起こるが仕方ないと思うだろう。
グリーン車に自由席の人々が流れてくることを非難せずに受けて入れてたはずだ。
戦争時に人々が飢えてたら自分の食べるのを抑え、困った人に食べ物を分け与える。
普通の人々が大変な状況であるとき、ぎゅうぎゅう詰めでいとけと考えていいのだろうか。
自分たちは特権があるからと天上から人々が苦しんでる姿を見過ごしていていいのだろうか。
自由席には子供たちも乗っており、グリーン車に乗ってくる人がいなければ、さらにすごく苦しい思いをしていたはず。
なので彼の考えには賛同できない。
自分はDaiGoのDラボに入っていて彼には好感を持っている。
乗り込んできた人々に避難しているツイートにリプライをしたかったが出来なかった。
人権より猫のときみたいに最近また奢りが滲み出てくるようになった。
極論を振りかざすのは危ない。
彼には叩かれる前に気を付けてもらいたい。