はてなキーワード: 「運命」とは
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昔から有るが、「手法」として確立されたのはワーグナーあたりから。今から200年くらい前。
今だと映像と音楽がはっきりしていてよくわかるんだが、昔からこういうのはある。
クラシック音楽だと主題となるメロディが形を変えて、最高に盛り上がるところで意外な形で登場することがある。
わかりやすいところでは、ベートーヴェンの第五、いわゆる「運命」だな。
最初のあの特徴的な「ででででーん!」が主題。最初はこの重々しい「ででででーん!」が繰り返され、聞く者に悲壮な感情をもたらす。聞いていると鬱々としてくる。しかし、展開していくと、あるときに雰囲気が一変する。それがフレンチホルンの「ぱぱぱぱーん、ぱーんぱーん」だ。聞いてみるとすぐわかる。最初の方で、いきなり雰囲気が明るくなるところだ。このホルンが鳴った後は一転して穏やかに、川が流れるような旋律が続いていく。
この「ででででーん!」と「ぱぱぱぱーん」は同じメロディだ。しかしまるで印象が異なる。聞く人によって解釈は異なるが、俺は「ででででーん!」は人間の苦悩を、「ぱぱぱぱーん」はその人間の苦悩を救う神(でなくてもいいが)の声と解釈している。「運命」とはなかなか上手い名付けだ。他にもこのメロディが随所に登場する。そのたびにハッと気づくことがあるだろう。
クラシック音楽に限らず、音楽にはこういう小技がちりばめられている。
ある登場人物に割り当てられる音はコレ、ヒロインはコレ、で、ラストでその二つの音で和音が作られる、とかね。
昔は映像がない分、音符でキャラやテーマを表現していたんだよ。
ちなみにジャズも似たようなことをやっている。ジャズは即興が命だけど、この即興は単にうまさを見せつけるだけじゃなくて、いかに主題に絡めるか(あるいは逸脱するか)が腕の見せ所だ。音を丁寧に拾っていくと様々な発見がある。ジャズドラマーは打楽器でメロディを奏でる化け物がごろごろしてるぞ。
とにかく、まずはベートーヴェンの第五を聞いてみてくれ。
脳内整理のために書き殴ったメモです。だいぶしっちゃかめっちゃかです。
・戦闘シーンが良かった。
全体的に艦娘固有の艤装が活きていた。
最初の第八艦隊の戦闘とかもう最高。古鷹の腕ってあんな甲冑みたいになってたんだな。普段は名前に隠れてるから全然知らなかった。めちゃくちゃカッコええやんけ。
天龍の刀が活きてたのも良かった。牙突みたいな構えしてたからそういうことすんのかなー、って思ってたら結局普通に発砲する。これがいい。あれは実際に敵を斬るためじゃなくて、印象づけておいてプレッシャーを与えるための武器なんだな。案外クレバーだ。怖いよ天龍ちゃん。
あとは何をおいても大和の発砲シーンですね。超火力・超迫力。やっぱり大和はこうでなくちゃ。まさに最終兵器。
艦娘以外も良かったです。艤装の細かい稼動とか、見ててテンション上がった。
妖精もいい仕事してましたね。戦いの場には似つかわしくないビジュアルだと思ってたけど、それがむしろ張り詰めすぎかねない空気の緩衝材になってて良かった。
妖精の空戦シーンもよかったしね。いっぺん翼を「クイッ」ってやってから旋回するやつとかね。あれめっちゃカッコよかった。
・艦娘の描かれ方が良かった。
全編通じて、「それそれ!それが欲しかった!」って感じ。ポンコツは一人も居ない。ハラショーしか言わない娘とか、終始一人遊びしてる娘とか、男もいないのに行き遅れキャラでいじられる娘とかが居なくて本当に良かった。
個人的には金剛姉妹が良かった。TV版ではほとんどギャグ要員だったけど、今回は軍議の一端を担う重要な役割。金剛はなんだかんだで政治力ありそうだし、気も回りそうなんだよな・・・軍議にもしれっと紅茶出してたし・・・
大淀も良かったです。公式絵からは「スレンダーなお姉さん」という印象を受けるけど、今回の劇場版では完全に中学生体型。身長は軽巡とそんなに変わらないし、頭身・肉のつき方・顔の丸さなんかも中学生のそれ。長門かだれかと並んだときにはそれがますます際立って、もうかわいくて辛抱たまらんかった。
他の艦娘も、TV版のようにやたらキャラが尖っていなくて良かった。ゲーム内のセリフも、無理なく混ぜ込まれていた。
あと艦娘同士の絆の描写もよかった。睦月と如月の関係はもう「睦月、依存しすぎちゃう・・・?」と心配になるくらい痛々しかったけど、それが良かったし、
瑞加賀も良かった。あのお互いを認めあっているものの素直にそれが言えない距離感な。この関係性がフレッシュでよかった。艦これはベタベタな百合だけじゃないんや。
ほかには大和が座るときの描写、あれがなんだか面白かったな。普通体操座りするときって、いったん見苦しい動作が入るんだよね。手を後ろについて支えたり、急にドスンと腰を下ろしたり。でも、大和が座るときはそれがなかった。重心が一定したまま、スッと座る。あり得ない挙動だけど、美しい。あの描き方はアニメではよくある手法なのだろうか?それとも、女の子が完全に理想化された「艦これ」だからここまで徹底したのか?なんにせよ、ちょっとしたこだわりが感じられて嬉しかった。
・流血表現が良かった。
そう。今回の映画、流血表現あったんですよ。流血。艦これで流血。なかなか思い切ったなあと。いや、ストーリーはもっと思い切ったことしてるんですけどね。
最初に鳥海が流血したのを見て「あ、血出るんだ」と軽くショックを受けたけど、彼女を皮切りにそれ以降みんな続々流血。海の色もあいまって絵面の陰惨さがすごい。
でも、なんだか艦娘が血を流してると安心するな。「あ、彼女らも僕らと同じなんだ・・・」って。「赤い血=人間の証明」みたいなのってホントにあるんだなあ。
もちろん絵面に陰惨さを加えるための血も良かった。如月が「なんで消えないの・・・」って言いながら血が出るまで腕をこすってるとことかね。あと睦月が深海棲艦に顔を掴まれて押し倒されるあたりも良かった。ここは血が出てたかどうか覚えてないけど。いや、ともかく今回リョナ心をくすぐるようなシーンがやたら良かったな。おびえ方がいいというか。
これが一番。TV版は何がしたいのかさっぱりわからなかった。「深海棲艦はなぜ存在するのか」「吹雪はなぜ特別なのか」といった謎も投げっぱなしだったし。
しかし、今回の劇場版は、そうしたいくつかの謎をできるだけ解消するという筋が一本通っていたぶん、非常にわかりやすく楽しめた。
「艦娘が戦う理由」みたいなのも良かったよね。護りたいもの云々と大層なことを言っていたけど、結局一緒に戦ってる仲間のためっていう。このへんがちょっとリアルに感じられて。マブラヴかなんかに「前線で戦ってる兵士たちは、国のためとか大義のためじゃなく、結局仲間のために戦っている」みたいな話があったけど(うろ覚え)、そういう感じで。
「轟沈艦を出さないことが将来の勝利につながる」という設定も良かった。将来への希望が見えたし、この戦いにも「将来に繋がる重要な緒戦」という意味が見いだせた。これだけの戦闘で轟沈が出ない理由にもなったし。
深海棲艦まわりの設定について、一部では「公式が世界観を名言しちゃっていいの!?」なんて騒がれてるみたいだけど、公式っつってもメディアミックスの一環だし、まあほとんど二次創作と扱いは変わらないでしょう。
気合の入った二次創作アニメを、1800円で、総集編同人誌より安いくらいの値段で、楽しむことができる。これだけでもだいぶすごいことだと思うけど。
上のような楽しみ方ができるのは、TVアニメ版がひどすぎたおかげなんですけどね。ちょっと卑屈になりすぎてる気もする。
・深海棲艦に迫力がない
う~ん、「深海棲艦は轟沈した艦娘の成れの果て」という設定上、深海棲艦が親しみやすい絵になるのはしょうがないのかもしれないけど、にしても弱々しい。
単体ではかよわそうだし、かといって物量もないし、いまいち脅威に感じられなかったな。結局「僻地の小競り合い」って感じに見える。ゲーム内でも史実でも、そんな生易しいものではなかったはずなんだけど・・・
それくらいか。案外思いつかなかった。あとは下の疑問点が残ったことくらいですかね。
・結局深海棲艦まわりの設定ってどうなってるの?
「深海棲艦は轟沈した艦娘から生まれ、艦娘は轟沈した深海棲艦から生まれる」「深海棲艦は元いた場所に帰りたいと思い進軍を続けている」というのはわかった。
でも大元の「なぜ深海棲艦は発生したのか」というところがおぼろげにしかわからなかった。いや、わかったつもりでいたんだけど、誰も言及してないからだんだん不安になってきた。
「大戦で沈んだ艦が、自らの存在を人々から忘れられないために、自身の闇の感情の記憶である深海棲艦を作り出し、光の感情の記憶である艦娘と戦わせているから」というものなのだろう。
言うならば、この戦いはすべて、実艦が生み出した狂言だったのだ。
深海棲艦と艦娘は無限に輪廻を繰り返し戦い続けることで、人間に軍艦の恐怖/輝かしさを覚えてもらう、思い出してもらう。
その際パワーバランスが偏って戦争が終わってしまわないように、艦娘たちは実艦と同じ場所で沈む運命にある。
しかし、その「運命」のシステムを崩す鍵となったのが吹雪であった。
・・・う~ん、これがぼくの深読みでなければ、ずいぶんエグい設定だなあ。
でも、めちゃくちゃ面白い設定だ。ゲームとも符合する。艦娘が美少女である理由もわかるし、深海棲艦は艦娘にしか倒せない理由もわかるし・・・
この設定を、ファン層が広い「艦これ」の、全国公開劇場版に持ってきた度胸。これが一番劇場版艦これのすごいところだと思う。
これだけでアニメ1クールくらい作れそう。それをなぜTVアニメ版艦これは・・・なぜ・・・
でも、そうすると、
艦が自身を覚えていて貰うために狂言とも言える戦争を創り出しているのだったら、
人間は深海棲艦に被害を受け、艦娘を応援するだけで役割にそぐうはず。
それなのに、わざわざ人間に「提督」というポストを用意してやるのは、いったいなぜなんだろう?
そうすると、具体的な見当はつかないな・・・吹雪を重用するところから、この戦争を終わらせる意思をもったものらしいということはわかるけど・・・
なんとなくTYPE-MOONでいうところの「霊長」とか「アラヤ」みたいなものを想像してしまうな。さすがにこれは妄想だけど。
これが一番よくわからんかった。
闇の感情の記憶と分離してるから・・・みたいな説明がなされてたような覚えがあるけど、それで他の艦娘と何が変わるのか?
TV版の最終話のような、「運命を変える鍵」になりえる理由がそれなのか?
最後の精神世界描写は、結局吹雪が実艦吹雪の闇の記憶を消し去ったということなのだろうか?
なんだか最後の方はほとんど妄想になってしまったけど、感想としては以上です。
塾の先生が大好きだった。
知識豊富で、視野が広くて、感受性が豊かで、面白くて、人としての魅力がたくさんあってその人の傍にいるだけで胸がいっぱいになった。
気にかけて貰えると嬉しくて、認めて貰えると涙が出てきてしまいそうになった。
先生のようになりたくて勉強を頑張った。勉強をしていくうちに学ぶことが楽しくなっていった。
それから様々なものに興味を持つようになり気が付いたら、今まで見向きもしなかったものを好きになっていた。
ものの考え方も、捉え方も良い方向に変わり、人との出会いや一時一時を大切にするようになった。
その時の私は先生が「カラスは白だ」と言えば何の疑問も抱かずに「カラスは白なんだ!!!」だと思ってしまうくらい単純だった。
けれど、この時点で先生に対する気持ちを拗らせていて「尊敬」なのか「愛」なのか自分でもよくわからなかった。
結果、「先生のようになりたいんですがどうしたらいいですか」と言うことしか出来なかった。
これが私の先生に対する精一杯の「好き」だった。
先生は「俺のようになることは出来ないだろうな。お前は結婚をして幸せを感じることが出来る人間だからな」と困ったように笑って言った。
泣きたくなった。
はっきり自分の気持ちを言葉にしなくては伝わらないことをわかっていたが、自分でも把握出来ない拗らせてしまった好意を口にするのは重たすぎて出来なった。
「先生と一緒に働きたい」と言えば良かったのか、「好きだ」と伝えれば良かったのかわかりはしない。
頭が良かったら? 美人だったら? 先生と似たような人間だったら?
どんな人だったら先生に選んでもらえたんだろう。
私の中で先生が一番だったように、先生の中で私が一番になりたかった。
端的に言って、思いのほか面白かったです。
監督の過去の作品から憶測して「どうせまた雰囲気だけの恋愛映画だろう」と思い、
あまり乗り気ではなかったのですが、
実際にはそうではなく、非常にエンターテイメント性に富んでいて、
過去作とは段違いの人気があるのも素直にうなずけましたし、見に行って本当に良かったと思います。
その上で、気になったことが主に二つありました。
それは、恋愛作品としての欠点と、恋愛以外のストーリー上の欠点です。
前半のコミカルな入れ替わり劇から、後半のシリアスな展開へといっきに変える重要な部分であるだけに、
こまかいことではありますが、違和感のようなものが最後まで残ってしまいました。
今が何年かというのは、嫌でも目や耳にする機会はたくさんあるはずですし、
もし何月何日という日付が同じで気づきにくかったとしても、曜日がちがうはずです。
テレビで彗星のことを見て、それを思い出せなかったのはすごく不自然に思えます。
ただし、このことについては、設定上の説明はいちおうされていると思われるので、
「入れ替わってるあいだは、まるで夢の中にいるように、意識や記憶があいまいになる。」
というような説明が何度かあったので、
おそらく、日付のちがいに気づけなかったり、彗星や糸守の惨事のことを思い出せないような、
ただし、この入れ替わりの能力自体が、糸守を惨事から救うためにあるとしたら、
記憶があいまいになるように働く力は、その目的に反したものになってしまうので、
その矛盾を解くために、さらなる説明が必要になる気はしますが・・・。
そういえば、入れ替わった瀧が、朝、制服を着て学校に行こうとして
四葉に「なんで制服着てるの?」と言われるシーンがありましたが、
もしかしたらあれが、「曜日がちがっているけど気づけない」ということを
表現したシーンだったのでしょうか。
さじ加減の難しい部分ではあると思います。
そして、恋愛作品として、はっきり欠点と言えるのがこの部分です。
入れ替わる前までの二人は、せいぜい胸を揉んだり、都会の生活を楽しんでいただけで、
入れ替われなくなり、シリアスな展開になったとたん、
「お前が世界のどこにいても、必ず会いに行く!」などと言い出してしまうほど、
たしかに、急にもう会えないと知って、もういちど会いたいという気持ちが盛り上がるのは、
瀧は三葉のことを好きになっていることを先輩から指摘されていますし、
ということは、入れ替われなくなり、会えなくなる前から、
すでに二人は好き合っていたということになるのですが、
そうなった理由もわからないですし、それらしい描写も何もなかったように思います。
自分一人では行き詰ってしまっていた問題を、入れ替わってる間に相手が献身的に解決してくれたなら、
そうやってお互いの心の深いところまで知るうちに、
相手を大切に思う気持ちが芽生え、それが徐々に好きという気持ちに変わっていって、
ラストシーンでようやくそれが最高潮を迎える、というような展開であったならば、
おそらくもっと納得できたでしょうし、感動できたのではないかと思います。
でも実際には、瀧は自分の感情から机を蹴って意地悪な同級生たちを威嚇してみせただけですし、
三葉は、興味本位から先輩との仲を取り持って余計なお節介を焼いただけでした。
これだけではとても、お互いの心の深いところまで踏み込んだことにはならないと思います。
にもかかわらず、ストーリーの中盤ですでに、二人の恋愛テンションはマックスになってしまう。
これでは、観客は置いてけぼりにされた上にどん引きされてもしかたありません。
結局、この問題は、監督自身の恋愛に対する価値観から生まれているのだと思います。
ささいな出来事でも惹かれ合い、出会ってしまえば恋に落ちるのは当然、ということでしょう。
宮水の神様から与えられ、三葉のご先祖様たちから受け継がれた、
「時を超えた入れ替わり」の能力のことなのだと、いちおうは理解できます。
本人たちの意志とは関係なく無理やり結び付けられた二人というのは、
もし、瀧と三葉がその「運命」によって惹かれ合っていただけなのであれば、
糸守の人々を救うことができた時点で、その必要はもう無くなってしまうことになり、
五年後に再会した時に、お互いを「運命の人」とすぐに認識できた理由が説明できなくなってしまいます。
このように、「運命の人」という言葉自体は、この上なくロマンチックな響きのようではありますが、
実は本来のロマンスとは異なるものだというジレンマを併せ持っています。
だからこそ、その「運命」によって惹かれ合った二人が本当の恋に落ちるための理由、
いわば「運命の人のジレンマ」を埋めるためのプロセスが、本来であれば必要なのです。
また、運命の人かどうかはともかく、
誰かを好きになるために、第三者が納得できるような客観的な理由というのは、
じつはほとんど無いのだろうと思いますし、必要も無いでしょう。
たんなる直感や一目惚れといった、本人だけにしかわからない理由であったとしても、
本人さえ納得していれば、何の問題もありません。
そう考えると、瀧と三葉が恋に落ちた理由も、べつに無くても良いのではないか
と、思えてしまうかもしれません。
ですが、ことフィクション作品においては、それではダメなのです。
監督や脚本家という第三者によって、観客という別の第三者が見るためにつくり出された
ですから、その第三者が納得できるだけの理由が、絶対に必要になります。
もし本当にリアルな、つまり理由の無い恋愛を描いた作品にしたいのであれば、
監督や脚本家がつくり出したものでもなく、観客が見るためのものでもない、
実際に恋愛をしている二人のありのままを撮ったドキュメンタリー作品をつくるべきです。
そうではなく、あくまでフィクション作品をつくりたいのであれば、
たとえ恋をしたことが無い人でもそれが「リアル」だと感じられるような「リアリティ」、
わかりやすく言えば、たとえ「ウソ」でも「リアルっぽい」と思わせる説得力であり、
もしそうでなければ、リアルにおいて「理由の無い恋愛」をしたことのある人にしか、
これは恋愛だけでなく、たとえば、殺人や戦争などの表現に置き換えてみると、
たとえどんなにリアルでも、
実際に殺人や戦争を体験した人でなければ、理解も共感もできないような表現を、
フィクション作品に用いることは悪手なのです。
そもそも、今作のようにオカルトやSFなど、リアルではない世界観を扱っている作品で、
それは一つの作品の中で各要素における「リアリティのレベル」が合っていないことになるでしょう。
恋愛体験の異なる人たちのあいだで論争になっているようですが、
そのこと自体がすでに、恋愛をテーマにしたフィクション作品として、
この作品が大きな欠点を有していることの顕れである、と言えると思います。
恋愛作品としての欠点が、監督自身の恋愛観に因るものであるとすると、
今後の作品において何度でも繰り返されることになってしまうのでしょうか。
今回は、監督のその間違った恋愛観を表現するための設定や伏線の副産物として、
エンターテイメント性の高いストーリーがたまたま生まれてしまっただけだとすると、
今作のヒットは、ただのラッキーパンチだったということになってしまうでしょう。
できれば、そうならないことを願いたいと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20151204005556
まままま~ん(笑)
ま、ま、ま、ま~ん(笑)
まままま まままま ままままん(ままままん)
まままま まままま ままままん(ままままん)
ままままんッッッ!!!(ままままー)
ままままんッッッッッ!!!(ままままんまん)
ままままんッッッッッ!!!ッッッ!!!ッッッ!!!(まーーーー)
ま、ま、ま、ま~ん(笑)
まままま~ん(笑)
ま、ま、ま、ま~ん(笑)
まままま まままま ままままん(ままままん)
まままま まままま ままままん(ままままん)
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ま、ま、ま、ま~ん(笑)
出典
http://www.ceskatelevize.cz/porady/10435049455-dobre-rano/414236100071086/chat/4995-tomas-verner/
訳を推敲しましたがざっくり訳なので間違っていたら申し訳ありません
■Q:ダニエラ・ノヴァーコヴァー:おはようございます!彼女がいるかどうか、恋をしているのか、質問したいのですが。この質問をするために今朝は早起きしました。ありがとう。
A:おはようございます。彼女はまだいなくて、さしあたって探してもいません。数ヶ月これからツアーなので誰とも遠距離関係でいたくない。だけど恋はしています、人生(生活)での恋…
■Q:ルツカ:こんにちは、トマーシュ。あなたにタメ口をきいていいかわかりませんが、Jen počkej, zajíciアイスショーがどうなるか質問したいです。あなたをとても応援しています、ご挨拶とともに。ルツカ
A:すてきなアンサンブルや素晴らしい脚本があって、すてきなショーになります。練習は骨が折れるけど、こういう環境は楽しいです。
■Q:カロリーナ:おはようございます サインをお願いしたいのですが、どうしたらいいですか?
A:僕が演技する場所にきてください、もしくはスポーツインベスト、場合によってはチェコスケート連盟に手紙をください。オストラヴァのサレザスタジアムでも(サインします)。
■Q:ミレナ:おはようございます。私の質問は、予定されているアイスショーとは関係がなくて、10月のジャパンオープンのことです。驚くべきSPを滑った最後の世界選手権の場所に帰れるのをあなたは本当にとても楽しみにしています。あなたの多くのプログラムから今なにを滑るのですか。回答ありがとう、多くの成功を祈ります ミレナ
A:ありがとう。またさいたまスーパーアリーナに帰れるのを小さい少年のように楽しみにしています。僕達のスポーツにおいてはユニークな環境です。フィギュアスケートをやるのに多分一番大きいホールで、スポーツを応援する満員の観客(自国の選手だけを応援するのではない)。ジャパンオープンでは3月にとてもうまく見せられなかった昨年のフリーを滑ります。こんな感じでちょっとしたスポーツの追試です。
■Q:ペトル・コレチュコ:こんにちはトマーシュ。あなたのように成功するには、何歳からスケートを始めないとなりませんか。ありがとう ペトル
A:いつかというなら4歳から7歳の間です。ですが100%成功するわけではありませんし、単なる推奨です。自分は5歳で始めました。
■Q:ニナ・ストゥルヘルコヴァー:おはようございますトマーシュ。私は五輪後からあなたの大ファンで、あなたをもう競技で見られないので母と一緒にとても暗くなっています。去年の世界選手権SP後の私たちの喜びは、言い表せません。私の考えでは、あなたの一番良い滑りでした。このようなスケートの喜びはものすごいです!質問したいのですが、トップスケーターは一日に何時間眠るのですか。:-D回答ありがとう、お元気で。
A:肉体的に一番きついシーズン中はなるべく休むように努めて、昼休憩や全部の時間で一日に10時間は寝ます。昔のシーズンは必要に応じて7~9時間でした。
■Q:マルタ・ノヴァー:おはようございます。狼または兎を演じるのですか?
A:僕は物語の細かい場面の要素をつなぐ人です。脚本では「運命」ということになっていますが、同時に狼や兎としても滑ります。
■Q:DAYD:あなたの一番酷い転倒は?初めてスケートをしたときのことを覚えていますか?
A:初めて氷に立ったのは5歳のときで、初めてちょこちょこ歩いたのをとてもよく覚えています(頭の防具をやめてはずしただけです)。
一番酷い転倒は、くるぶしをケガした4Tの良くない訓練で。
■Q:DAYD:フィギュアスケートのほかのアマチュアスケートスポーツ、スピードスケートやアイスホッケーはやりませんでしたか?
A:スピードスケートは偉大な芸術やすごいしんどい喜びのためにやるスポーツという意見では僕はありません。ホッケーはしますが、それは条件があって、余計なケガをしないでいい適切なチームがあったらという意味でです。
A:エフゲニー・プルシェンコと高橋大輔です。あなたがフィギュアスケートのファンなら、この二人について紹介しなくていいですね。
■Q:モニカ・スヴォボドヴァー:質問したいのですが、男性ファンもほしいですか?
A:こういう質問はされたことがないけれど、男性のファンも会場にはいます。フィギュアスケートはみんなのための何かがあります。きれいな女性、音楽、衣装…
■Q:ラディスラフ:こんにちは。バイクのヤン・ヴェルネル選手は親戚ですか、それとも名前が同じだけですか?
A:残念ながらただ名前が同じだけです。家族にこんなとてもスポーツでいっちゃってる人がいたらいいけど。僕の家族は、兄は僕のようにフィギュアスケートをやっていたのと、妹が新体操のチェコ代表です。僕の家族内ではバイクに熱狂する人は間違ってるようです…
後半は余裕があればやってみます
昼を食べます。
指揮:宮川彬良
うた:彌勒忠史(カウンターテナー)
下がるぞ 下がるぞ
成績下がるぞ 下がるぞ
給料下がるぞ 下がるぞ
あれも下がる これも下がる
下がるぞ 怖い 怖い
下がるぞ
下がるぞ 下がるぞ 下がるぞ 怖いぞ
下がるぞ 下がるぞ たまには 上がるぞ
あれも下がる これも下がる
あれよ あれよという間に どんどん 下がるよ
下がるよ 下がるよ
このまま 下がり続けたら
ジェットコースターに乗ってるよう
下がるぞ 下がるぞ 下がるぞ 下がるぞ
怖い
よくみてみろ
上がるも 下がるも 同じことだよ
そうか 下がったり 上がったり
下がったり 上がったり
下がったり 上がったり
下がったり 上がったりするものなー
ならば 下がろう 下がろう
楽しく 下がろう 下がりましょ
上がったり 下がったり上がったりするなら
下がろう 下がろう
楽しく 下がろう 下がりましょ
下がろう 下がろう 下がろう 下がろう
楽しく 下がろう 下がろう 下がろう
怖くない 怖くない 怖くなーい
それでも 怖いぞ
下がるぞ 下がるぞ 下がるぞ
下がるぞ 下がるぞ 下がるぞ
下がれば上がるぞ 下がれば上がるぞ
落ちていくのも なんだか カイカンよ
あれも下がる これも下がる
落ちていくのも 何だか美しい
下がれば 上がるよ 下がれば 上がるよ 下がれば
上がるぞ 上がりたい 上がりたい 上がりたい
上がりたい 上がりたい たい たい たい たい…!
たい たい たい たい たい たい…!
止まるぞ! 止まる? 止まる?
よく見てみろ! ワーッハッハッハッハッ 上がりゃ 下がる
よく見てみろ! ワーッハッハッハッハッ 上がりゃ 下がる
上がりたーいー 上がーりたい
上がーりたい 上がーってる
寝る 眠る 寝る 寝る
夢で落ちる
寝る hum 寝る hum 寝る hum 寝る
夢でも 夢でも 戻るぞ 夢でも 夢でも 夢でも
下がるぞー!
下がるぞー!
成績下がるぞ 下がるぞ「夢だ」
下がるぞ 下がるぞ「夢だ」
上がるぞ 下がるぞ 上がるぞ 下がるぞ!
怖い! 怖い
けれど 何故か 美しい 22:32
~間奏 約2分~
(今日の解説を思い出してお聴き下さい)
さあ 上がろう 上がろう 上がろう
みんなで 上がろう みんなで でも
下がるの きれい きれい
下がるのも 好き ステーキ
それでは 結論 結論 結論 結論 下がるぞ!
下がるぞ!
下がるぞ 下がるぞ 下がるぞ きれい
下がるぞ 下がるぞ 下がるぞ きれい
それでいい それでいい
それでいいったら いいったら いいったら いいったら いい
おしまい!
http://anond.hatelabo.jp/20130912211917 を書いたものです。
さきほどは感覚のみでソ以降の盛り上がりを書きましたが、今度は理屈でせめて行きます。
さて、まず、「ドーはドーナツーのードー」をドのパート、「レーはレモンのレー」をレのパート、というように、「ドレミファソラシ」のパートに分割します。あまった「さあ歌いましょう」は「仕上げのパート」とでもしておきましょう。
では、まずはドのパートから見てみます。ドのパートのメロディは「ドーレミードミードーミー」ですね。一見してわかるように、「ドレミ」という、隣接する3つの音だけで構成されています。
次に、レのパートを見てみましょう。レのパートのメロディは「レーミファファミレファー」です。これも、「レミファ」という隣接する3つの音で構成されています。ドのパートで使われていた3つの音の「お隣」を使っているわけですね。
さて、ではミのパートを見てみましょう。「ミーファソーミソーミーソー」です。もういいですね、ここでは「ミファソ」という隣接する3つの音で構成されています。さて、ミのパートには、さらに特筆すべき部分があります。実は、この「ミーファソーミソーミーソー」というメロディは、ドのパートを「平行移動」させたものになっています。頭の中でまずドのパートを鍵盤で弾いてみてください。このとき、「ド」は親指で弾きましょう。さて、それでは今度は「ミ」の鍵盤に親指を置いて、ミのパートを弾いてみましょう。指使いが完全に一緒だったことがわかると思います。かんたんに言えば、「ミのパートはドのパートをみっつ上に移動させたもの」なのです。
そしてファのパートです。ファのパートは「ファーソララソファラー」ですね。これはさっきと同様に、レのパートをみっつ上に移動させたものです。
さて、ということは、ドからファまでのパートは、じつは「ドとレのパート」と「ミとファのパート」に分解できることになります。「ドとレのパート」をみっつ上に移動させると「ミとファのパート」が作れるわけですね。
こういうふうに、似たようなメロディーを音の高さやリズムを少し変えて(今回はリズムは変わってませんが)繰り返すことを、「モティーフの展開」などといったりします。「ひとかたまりのフレーズ」のことを「モティーフ」と呼ぶわけですね。モティーフを展開することで作曲を行うことはとても一般的です。すごく有名なところだと、ベートーベンの交響曲第五番(よく運命って呼ばれてるやつ)です。最初の「ジャジャジャジャーーーン」がモティーフです。「同じ高さの音が3回、それに続けてそれよりも低い音が1回」というモティーフですね。「運命」を頭の中でならしてみてください。「ジャジャジャジャーーーン ジャジャジャジャーーーン」。音の高さを変えて展開していますね。そのあと、「たたらた、たたらた、たたらた〜」「たたらた、たたらた、たたたら〜」と曲は展開していくわけですが、よく見てみるとこの「たたらた、たたらた、たたらた〜」の部分、「たたらた」が「同じ高さの音が3回、それに続けてそれよりも低い音が1回」となっています。ここも実は「ジャジャジャジャーーーン」のモティーフ展開だったんですね。音の高さとリズムを変えただけで曲の雰囲気を操る、お手本のようなモティーフ展開になっているのが見て取れるでしょう。
そう、「運命」も「ドレミの歌」も、やってること自体はかわらないのです!!!
さて、ドレミの歌に戻りましょう。「ドとレのパート」(モティーフと呼ぶには少し長過ぎるけど)を展開して、「ミとファのパート」が作られていました。同じ形のメロディを繰り返しているため、とても安定感がある一方、「みっつ上」に持ち上げられることによって、少しずつ緊張感も高まっていますね。ここまでが「だんだん不穏なものを感じはじめる」前半パートです。
さて、問題の「ソ以降」を考えてみましょう。
ソのパートは「ソードレミファソラー」です。今までのパートでは「ドレミ」とか「レミファ」とか、隣接する3つの音しか使われていなかった(=最大でも2つ隣までしか音が飛ばなかった)のに対して、怒濤の「ソからド」への急降下です。と思いや、「ドレミファソラー」と、一気に「ラ」まで駆け上がります。今までのパートでは3つの隣接する音しか使われていなかったのが、急に6つの音が使われています。落差、倍です。しかも今までは狭い範囲をちまちま動いていたメロディーでしたが、今回はその6つの広い範囲を「一気に駆け上がる」というメロディーです。これで盛り上がるなというほうが無理でしょう。
そしてラのパートです。ラのパートは 、ただでさえ盛り上がるソのパートのフレーズを1つ上に展開して畳み掛けます。
シのパートでさらに、ラのパートを1つ上に展開してダメ押しです。
まとめます。ド、レ、ミ、ファのパートは、「隣接する3つの音」だけを使ってメロディーが作られていました。しかし、ソ、ラ、シ、のパートではそのルールを外れ、「隣接する6つの音」を使ってメロディーが作られています。これが、「音域から見たときのソ以降の盛り上がりの秘密」です。
では今度は「パターンから見たソ以降の盛り上がりの秘密」を暴きましょう。前半は、「ドとレ」「ミとファ」のパートをセットにすると、同形のメロディが見えてきました。これは言い方を変えると、「1つのパターンを消費するのに、2パートかかっている」ということです。一方、ソ、ラ、シのパートはパート単体で同形のメロディを成しています。言い方を変えれば、「1つのパターンを1つのパートで消費できる」わけですね。これにより、「短期間に同じパターンが何度もせめて来る!!」みたいな感じになるわけです。これが「パターンから見たソ以降の盛り上がりの秘密」です。
ドレミの歌、丁寧に見てみると、ドからファまでは一定のルールで盛り上がって行き、ソからはそのルールよりもさらに盛り上がるためのルールを新規に採用して一気に盛り上げる仕組みが隠されているのです。そりゃ「ドレミの歌のソ以降の盛り上がりは異常」にもなりますね。
余談ですが、感覚で書けば8行で終わるものが、理屈で書くとこれだけ長くなってしまいます。これは逆に言えば、人間の感覚というのがファジーである一方でものすごい情報量を一気に処理しているとても優れたものであることを示唆してるとも言えるんじゃないかな〜なんてことを考えてしまいそうですね。
あなたは何もわかってない。
http://anond.hatelabo.jp/20130720072435
先日読んだある山月記の評論では、「李徴が虎になったのは虫がよすぎる。人間であった時の所業を反省するなら、それこそ虫けらにでもなるべきだった」とか、「もし袁參ではなく妻子と出会っていても妻子のことより詩業のことを先に気にかけるだろうか」とか、「どうして虎としての最初の体験が兎を食うのでなく人間を食っていた方が衝撃度が大きくて面白いのに」とか無責任に書き放ってあった。
読んでいて面白い発想であるとは思ったが、かなりこいつは歪んでいる、こいつこそハイエナが何かになってしまえなどど思った。
これらの設定は、元にした『人虎伝』を踏襲しているので仕方がないことなのだ。
『人虎伝』にはなくて『山月記』に書き加えられているものである。
一つ目は、依頼の順番が詩の伝録の次に妻子のことという順に入れ換えられていること、二つ目は、李徴が詩人になろうとしていること、三つ目は、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の登場、四つ目は運命論である。
これら書き加えられた部分は、中島敦が『山月記』で書きたかったテーマと密接である。
そして、これらが「李徴の詩が第一流になるのに微妙に欠けている点」「李徴が虎になった理由」を考える糸口になる。
まず、「李徴の詩が第一流になるのに微妙に欠けている点」について考えよう。
妻子の事より自分の詩業を気にかけるような愛情不足や人間性の欠如という考え方がある。
本当に人の深い所から揺り動かすような作品は、作者が全てを犠牲にし命を削ってこそ始めて生まれるものである。
李徴の場合、なまじ妻子のことを気づかっているからこそ第一流の作品にならないのだと私は思う。
「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」とか言っているが、結局は心理と態度の不一致、何やかんやと理由をつけて、詩業に専念しようとしない怠惰が「李徴の詩が第一流になるのに微妙に欠けている点」であると私は思う。
自尊心なら自尊心、羞恥心なら羞恥心を描ききれば、それはそれで第一流の作品になったのではないだろうか。
次に、「李徴が虎になった理由」について考えよう。
李徴は最後に妻子への愛情不足だと言っているが、妻子の為に詩業を諦めて再び役人になろうとしているのだから充分に愛情一本のチオビタお父さん振りを発揮している。
その前に、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」と意味ありげな言葉を弄しているが、授業でも考えたようにこれを自分の詩業に当てはめて語っている部分は理路整然としているようで全く矛盾に満ちていた。
それに、「自尊心」と「羞恥心」、「心理」と「態度」など矛盾するものが同時に存在することこそ、人間が人間である証拠なのである。
それは、先週の『探偵ナイト・スクープ』の越前屋俵太の調査でも明らかである。
その矛盾が飼い太った結果虎になるというのは可笑しい。
李徴は色々考えようとするがどれ一つとして理由になっていない。
とすれば、残ったものは「理由もなく押しつけられ、理由もなく生きている生き物のさだめ」、つまり「運命」としか説明がつかない。
人間は主体的にありたい自分の意志に生きたいと思う気持ちが非常に強いので、「運命」などというものを認めようとせず、あれこれ屁理屈を考え出すのである。
項王のように全て天命のせいにし天命に逆らわずに生きる生き方をする以外、この内部矛盾から解放されることはないのである。
多くの人が気にしていた問題は、その後の李徴は人間に戻れたかという点であった。
この答えは、虎になった理由の延長線上にある。
最後に李徴が袁參に虎になった己の醜悪な姿を見せることによって、李徴は内部矛盾から解放されたありのままの自分になることができた。
もとの「臆病な自尊心」などが復活した時にこそ再び「人間」に身を落とすのである。
賢明な人はもう気がついただろう。
「虎」になることが不幸で「人間」になるのが幸福と考えるのは、思い上がったいかにも「人間」らしい発想なのだ。
「人間」とは矛盾に満ちた不条理な生き物であり、「虎」こそが純粋なありのままの自分でいられる生き物なのである。
また、最後の部分が「再びその姿を見なかった」であって「その姿を見せなかった」ではないことを指摘している人がいたが実にスルドイ。
「見せなかった」の主語は「李徴」であるが、「見なかった」の主語は袁參であり読者である。
そして、『人虎伝』にあったその後の様子を中島敦が書かなかったのも、中島敦にとって問題が解決していたからだろう。
女学校の教師を続けるか作家になるか、文学を取るのか妻子の生活を取るのか、自分の中にある「二つの私」をどう処理するのか、これら中島敦自身の問題が、一応解決した、あるいは再び深い絶望の淵に陥ったのか、いずれにせよもはやこれ以上書くことは必要なかったのだろう。
偉大なる先増田様
を、ふと思い出したわけですよ。アニメでまおゆう9話の例のメイド姉演説聞いて。
これはメイド長の説教で言われていた「虫」というのが一体なんなのか、ということに対する一つの資料だ。
先に言っておくとメイド長の言う「虫」と、メイド姉の言う「虫」には微妙な齟齬があるということを前提にして話したい。あまり重要ではないのだけど、要するに師弟関係にある二人の思想家が言ってることは非常に近い所から非常に近いものを言っているが、そもそも別の話ですよ、程度のエクスキューズだと思って欲しい。
「虫」というのは、そして「人間」というのは、我々現実レイヤーの者にとってもかなり直接的に転写可能な概念である。
現実における彼らとは一体なんなのか。メイド姉の演説を聞いていて、ふと、「まおゆう」批判者よりもむしろ、「まおゆう」信者のほうにこそ「虫」は多いのではないか、と思ったのだ。
「自分の意志を他人に譲り渡して考えることを忘れた者は虫」とメイド姉は言う。
これを素直にとり、また元記事の文脈に即するならば、「自らの努力で自らの生活を改善しない存在は虫」と言うべきなのかもしれない。
だが、しかし、結局、勇者と魔王とメイド長が(あるいは、それに代わる存在が)いなければ農奴姉妹は脱走農奴姉妹でしかなく、メイド姉妹にはなれない。なれるはずがない。メイド長が言うように、乞食姉妹になるくらいが関の山だっただろう。
つまり、彼女は「自らの努力で自らの生活を改善できない存在」だったのだ。彼女はそれを「運命」と呼ぶ。メイド長はそれを「自分でつかめ」と言う。
「自分を、家族を守るため、石を投げることが必要であれば投げるべき。ただし、他人に言われたからという理由で石を投げるなら虫」
これを言い換えるとこうなる。
「自分の力で運命を掴めない存在は虫だと言う他人の言にそのまま乗るなら、そいつは虫」なのだ。
その上で元記事の文脈に乗ると、「人間は自らの努力で社会を(自らの生活を)改善することが出来る」というテーマに耐えられない人々は、だがそれ故に、実は「虫」ではないのである。
彼らが置かれた現実、そのテーマを根底から覆す現実とは、まさに、守らなければならない家族と自分に相当する。守らなければそのまま死ぬだけからだ。メイド姉の該当部分以降を鑑みれば、彼らは、逆説的に虫ではないからだ。
そしてメイド姉が「虫」と呼ぶのは、それにすら、無痛であることを選び、耐え切ってしまう者のことだ。
であれば、「虫」というその名は、まおゆうが示した希望の姿にうっかり感動してしまい、その光を盲目的に信じこんでしまった者にこそ相応しいのだろう。
もちろんまおゆう信者の、ましてやまおゆうを楽しんでいる一般ユーザーの全員がそうだとは言わない。だが、その一部には確実に「虫」がいる。そして彼ら「虫」の姿は、努力主義者、苦行主義者、意識の高い社畜、その他諸々の、現代の一部で積極的に害悪に貢献する立ち位置から発せられる言論とダブる所が無いとは、私にはとても言えない。
それに「耐えられない」と叫び、「ふざけるな」と憤る人々。
その姿は、石を投げる農民達の怒号に重なるのだ。
「私のこと好き?ってきくと
好きだよって答える
その言い方がすっごくふつうで
結婚するとか「先のこと」はともかく、今その時は本当なんだっていう感覚はある。すごく「運命的」な感覚が。
壊せば壊れますけどねあっさりとね。壊れなかったり壊れないようにお互いに立ちまわったりできた例が「運命」なのかもわからんが、でも壊れても壊れなくても運命なんだなあって思わせ続ける程度の強度はある。
でもまあ、結局のところ感覚だから。最初はうっすら「そうかな?」くらいで知覚して始まるので、とりあえず確かめるためにお付き合いを始めてみたりするんだよ。
会ってすぐには一目惚れなくても、しばらく一緒にいろんなことしてるうちに相手のある一面を見て恋に落ちたりするしね。
乙武氏周辺騒動のアレコレを見ていて思ったことを。傍観だけど。ツイッターのアカウントないから。
具体的にはこういうの。
基本的には自分は乙武さん批判派っつうの?きのこ派?っていうのか?探耽求究さんという人がものすごいド正論言ってるように見える派っぽいなという自覚があるんだけどたけのこ派の批判が嫉妬がどうとか努力が足りんとかばっかりで全然クリティカルにキてないのでなんか延々もやもやしていて、
そこでふとこれを見たらちょっといろいろ繋がった。
kyamonohashiというひと?のツイート、
手足が無くても頑張れる、と言う希望を示そうとしている乙武さんだけど、例えば手足の無い他の方がそれを見て「あいつは恵まれてるから」「例外だから」と妬んだり嫉んだりする可能性だったあるにはあるのか。
手足がなくても頑張れる、という希望がおおっぴらに晒された時、「手足がなくて頑張れない」人間はどういう立場に立たされるかっつうと、努力が足らん根性鍛えなさいの精神論教信者に食いつぶされる側にしかなれないんだよね。それか従来の「かわいそうな障害者」枠。
現に乙武さん応援派で非乙武さん的障害者をそこから出してやろうとするやついねーじゃん。むしろみんなそこへ叩き込もうとばっかりしてる。
だから叩き込まれる側は、大人しく叩き込まれるか、「努力が足りない」とかいう問題じゃなくて向こうが恵まれてんだっつうのー!という論を組むぐらいしかなくなる。
「恵まれてる人を妬んで、それで誰が幸せになるの?」とかほざいてるのがいるけど、少なくとも不幸自己責任論の渦中にブチ込まれるのは回避できるよ☆
恵まれてない人は恵まれてる人と違って、誰も助けてくれないという点でサイコーに恵まれてないことがほとんどだと思うんだけど、
誰も助けてくれないのならば自分で自分を助けてやるしかないじゃないか。
っていうのをなんか判ってないしたぶん許さないのですねたけのこ派は。妬みとか言っちゃうんだもんね。
うぜえだろうなあ。
「誰も助けてくれないのなんて当たり前、みんな同じ」「そこで助けてって言ったり、障害を個性にしてネタにするくらいのとっかかりを作ってくれないとこっちも手が出せない」とか言う奴が出てくるよ。出てくるっていうかすでにいるのよこの胸の中に。
一匹ならともかくハエの群れのようにわんわん湧き出てきて声が延々こだまするのよ。
えー話を戻すが「そこで助けてと言えない、ネタにできない」ってとてもデジャヴなフレーズじゃございませんか。
そう、ちょっと前のNHKの三十代無職男性が生保とれないだの餓死するだのっていうあの騒ぎでございますよ。
言えねんだよな。何故か。何故だか。いや何故って他人の負担なんかなりたくないからに決まってんだが。
何なのかな。何なのでしょうかねこのテニスボールをネットのあっちとこっちに分ける何か目に見えないくせに決定的な要素のようなものがある感は。
ジョジョだっけこのボールがどっち側っての。ジョジョでは「運命」だったっけ?
何処ってそりゃボールの落ちどころがどっち側でもいいようなところに決まってるんだけど、それはつまりたとえばこの俺がネットの両側を行き来できる必要があって、最悪俺一人でもラリーをかませるようなことになってないと話にならんのだけど、たとえを外すと要するに「お前助けるのなんか別に負担じゃねーよ」っつって軽々と誰かに手を差し伸べられねばならないってことなんだけど。その手を払いのけられること前提で、手がダメなら他のもの、人脈でも金でも選挙権でもなんでも使ってやらねばならないってことなんだけど。
なんか乙武さんには無理そうですね。手ないし。物理的にもないけど、いじめられっこに関係するツイートがアレじゃ義手つけても厳しい。根っこがアカン。
いやその実俺にもムリだけどね。少なくとも人脈と金と選挙権は厳しい。
ツイッターもミクシーもフェイスブックもやってない真性ぼっちのワープア、しかも都政はあの小心者が担うのを食い止められなかったレベルの一票。
正直に言うと手自体厳しい。ワープアは身体と心が資本なのに手を払いのけられるついでに豆腐メンタルが潰れそうで、いちいち成形しなおすのに他人の手が要るレベル。
でも「誰も助けてくれない」。いやいいけど助けとか。俺の豆腐はまだ平気なんで、誰か他の砕けたガラスハートの欠片を集めて火にかけてまた作り直してやっておくれ。
どうでもいいけど何か昔のディズニーアニメで一人ラリーするウサギいたよね。イソップ寓話アニメ化したやつで『ウサギとカメ』に出てくるウサギで、レースの前座に俺こんな足はえーんだぜーっつってカメに見せつけるためにボールより素早くコートを行き来してた。肝心のレースでは確かカメがクビ伸ばしてゴールインして勝った。
追記:
さらにどうでもいいんだけどツイートまとめ読み返してたらものすごい気持ち悪いのが結構いてマジ引いた。いわゆる「信者」ってやつですかあれは。
いや、むしろ「全肯定」だと思うけど。それまでの人生すべてが集約されていく感じ。どんなにつらいことも恥ずかしいことも嫌なことも我慢したことも我慢しきれなかったことも、何もかも「この日、このときのためにあったんだ」といった感じ。人生なんて行き当たりばったりなのに、まるでストーリーがあったかのような満足感が味わえるよ。「運命」を感じると。たぶん、そんな日が来る人は滅多にいないだろうし、来ないほうが幸せなような気もする(w
そんなあなたに「ドクトルジバコ」。
人生って、そんなに簡単に「運命」なんて言えるほど短くもないよ。
私は大学生のときに付き合ってた彼氏と、25年ぶりに再会した。相手は離婚していた。私は婚姻中だった。1回会ったところで、夫が末期ガンであることが判明し、パニクる私を元彼はメールと電話で励ましてくれた。周りの人間は最後まで笑顔を絶やさず看病を続ける私を見て「よく頑張ったね」と褒めてくれるけど、元彼がいてこそのことだった。
動かないのであれば、まだ時期ではないんだ。次に彼女と会うのは20年後かも知れないが、そのとき「好きだ」と思って初めて「運命」と言えるんじゃないかな。まだまだ、ちょっと、昔が懐かしくなった程度のことだよ。そんなの。
普段はほんとどうでもいいサブカル話をしてキャッキャ言ってるんだけど、
昨日はなんか雰囲気が違う結果になった。
女「私のこと好き?」
俺「好きだよ」
女「ほんとに?」
俺「ほんとだよ」
女「ほんとにほんと?」
俺「どうしたの?何か不安なことでもあるの?」
女「・・・あのねー」
男子に無視されたりとか、酷いこと言われたりして男性不振になったって。
恋愛なんかできないと思ってたから、時々俺が本当に彼女を好きかどうか不安になるんだって。
どうしたらいいのかわかんなくて「大丈夫だよ~」って言って
彼女を抱きしめてあげて、その後はチュッチュしてエッチしたけど、
正直、いきなりトラウマ語りするとか、あり得ないよ・・・。
はぁ、重いなぁ・・・。なんか「運命」でも背負わせようとしたのだろうか?
やめてよ~~。ただ単に大学で知り合った女の中で、
一番交際に持ち込めそうだったからデート誘ったりしただけなのに。
http://anond.hatelabo.jp/20081108194131
もしかしたら気分を害する話かもしれないのだが真剣な悩みなのでできれば聞いて欲しい。
最近気づいたのだが、私はどうやら好きな異性のタイプというものは「外見が自分好みな人」らしい。
(揚げ足を取られる心配よりわかりやすさを優先すれば「外見がカッコイイ人」ということ)
これまでの付き合いでわかったことだが、他の人がギブアップしてきたような男も含めて、私の場合、相手の性格に関しては、かなり酷いところまで許容できる。というか、いくら甲斐性のない性格だろうが暴力的な性格だろうが相手の内面や考え方はだんだん好ましいものに思えてきたりするのだが、外見だけは(ブサイクな場合)頑張っても好ましいものとは思えなかった(たとえその男が床屋から美容院に変えて頑張っているのがわかっても)。
パチンコの出玉の不機嫌などをぶつけられたり競馬で予想屋に振り回されたり裏表含めた借金に気付かされても、私はだいたい泣き崩れたりもせず真剣にお金を用意して受け渡すのだが、そういうときに心に湧き上がっている思いは「こいつのこの性格さえ直ってくれればなー」ではなく、「こいつがもうちょっとカッコ良ければこういうことも苦じゃないのになー」という気持ち。醜い思いかも知れないがそれが正直な感情だった。金策自体には耐えることができた。耐えられなかったのはその外見なんだ。
逆にカッコイイ彼と付き合っていたときは、本当にいくらでもあげられる気持ちだった。上記と同じような目にあっても最初から大盤振る舞いな気持ちでお金を用意することができた(いくらでもハイハイ渡しているうちに金銭感覚がおかしくなったとかではない)。
結局他の女に子供ができて別れるはめになったりするわけだが(涙)。
※かいがいしいだけでは男の子は魅力を感じないよとかいう話は本題ではないのでここでは結構。
外見が一番好きなところだと、真剣に好きなのだと思ってもらえないのだろうか。外見ってそんなにその人の本質とは別物? 私はそうは思えないのだが・・・。
「好きな異性のタイプは外見がカッコイイ人です」なんて言うと程度の低い人間にみられてしまいそうな風潮があるのはなぜだろう。外見最優先で恋愛対象を選ぶことはそんなに薄っぺらいことなのか?外見ってそんなに軽薄な要素?
少なくとも今まで生きてきた中で見掛けて来た会話やインタビュー等で、好みのタイプを(冗談やネタ以外で)外見重視に答えている人はとんと見たことがない。
その理由としては、
のうちのどれなんだろう。
「好きな異性のタイプは外見が自分好みな人です」ということは、本当に程度が低いことなんだろうか。
別に相手の借金の額を見る気がないわけじゃない。借金は返済していけばゼロにできる自信があるのだ。
だから聞きたい。
もしあなたの目の前に、「好きなタイプはカッコイイ人」「好きなタイプはジャニーズ系」というような人が現れたら、バカっぽい?
別に自己陶酔な気持ちで言っているのではなく、それが正直な気持ちだから今後そう言って過ごすべきかと考えているのだが・・・