はてなキーワード: 鉄棒とは
理科の先生が「鉄の特徴は、さびやすいこと」と仰られたときに、私のような前時代の人間は
クズ置き場にある錆びた釘、ポイ捨てされた錆びた缶、錆が見窄らしいお下りの自転車、裏庭の剥げたトタンに覗く赤錆、校庭の鉄棒で茶色く染まる掌、
などをイメージするのだが、果たして其れ等を今現代の子供たちも同様なのか、いましがた気になりし所存。
そのような疑問を思いついた理由としてまず1つ、現代は昔より段違いに「塗装・鍍金」の技術が著しく進化している点がある
あらゆる鉄製品はほとんどが塗装鍍金されてると言っても過言ではない
しかもその技術は昔のそれとは段違い、錆も守るし、剥離もしない
そうなると鉄製品は錆びる前にどっかが壊れてすぐ捨てるということになる
あと、昔は家具とかに釘が使われてたけど、今はクロゾメとかユニクロメッキされたボルトやナットで組み立てる、骨組みも塗装済み、
鉄特有の白銀の光沢がある部分はほぼステンレスなので錆びない、ゆえにインテリアで錆を見たくても見られない、という状況なのだと想像できる
次の理由として、単に「鉄が少ない」
スマホとかアルミ、家電とか外装プラスチック、フライパンとか鍋はテフロン、水回りはステンレス
数少ない「鉄」はみーんな塗装済み
これじゃあ、小学生に「磁石がくっつくものを探そう」ってなったときに
「色がついている金属は磁石がくっつきます」「ピカピカした金属は磁石がくっつきません(ステンレス、アルミ合金等)」
といった、一昔の常識とは真逆の結論が出るということになってしまうかもしれない
でも、学校っていう場所は、物持ちが良いという意味で古くてボロい旧世代の代物がたくさんあるから、この疑問は杞憂なのかもしれない
身から出た錆ってか(?)
なぜか? の答えは明らかではない。元増田は冗談めかして書いているが、なぜ性器を露出してはいけないのかを説明するのは容易ではない。多くの文化で幼児期にプライベートゾーンを隠すように教育させるが、厳密に合理的な説明は大人になってもされない。アメリカのフェミニストは乳首を露出する社会運動をしているという。彼女らが呈した疑義は最もだ。なぜ女性だけが乳首を隠さなければならないのか。どういう意味があってそんな制限を設けているのか。
覗きがなぜ悪いのかも説明は難しい。
鉄棒で遊んでいた女子のパンツを見てしまったと告白する男児に、どう教育すべきか、って話が話題になったことがある。女性はパンツを見られるのをイヤがるとか、パンツを見られてしまうのを失敗だととらえるので見て見ぬ振りをしてやれ、のようなコメントが人気だった。だけど相手が気づいてないならイヤがるも何もないし、バレないように上手くやるようになってしまう懸念もある。見ること自体が悪いなら頭を下げて謝るべきだろう。だがそうはしない。そもそも、そういう面倒くささを抱えた衣服を幼少時から着せているのは性的抑圧の刷り込みではないのか。"恥ずかしさと尊厳"は面白いテーマだと思う。それらは何のために維持され、どのように形成されるのか。
学校って、みんな同じようにさせるの好きすぎ。
なんでも向き不向きがあって、みんなと同じようにできるまでに何倍も時間かかる奴が必ずいる。
それが国数英社理のような基礎学力なら、多少無理してでも一定水準に到達させる価値があると思うけど、そうでないことが多すぎる。
リコーダーとか、みんなと同じ程度のレベルにようやくついていくために、みんなの何倍も練習する必要ある?
例えば藤井聡太二冠がリコーダー苦手だったとして、将棋の時間削ってみんなと同じ程度のレベルに到達するまでリコーダーの練習すべきだと思う?
大体、なんでリコーダー強制なの?音楽に触れ合うならギターやドラムでも良くない?
リコーダーだけじゃなく、鉄棒も跳び箱もポスターも習字も、経験として少し触れてみるのはいいと思うけど、少し触れたら向いてないって分かるのに、なんで人並みになるための何倍もの努力を強要されるの?
今なら、基礎学力の部分以外はもっと多様なことに触れられて、得意なことややりたいと思ったことをがっつりやらせてもらえるような教育も不可能じゃないと思うんだけど。
幼いころからブルマーが大好きで、それは一貫しており今でも変わっていない。
ただし、ブルマーを盗むような真似をしたことはなく、単純にお尻が好きらしい。ブルマー単体にはそこまで興味はない。お尻の部分に色がついていてふとももは素肌のまま、その色の対比に対するフェティシズムだ。
そうしたわけで、競泳水着もレオタードも好きだし、パイロットスーツも色分けされていれば許容範囲だ。バニーガールもかわいい。
逆に、お腹の見えるビキニはそこまで好きではない。おっぱいとお尻を隠すだけの扇情的な姿よりも、上半身にパーカーを羽織ったビキニ姿のほうが興奮する。上半身をしっかりと覆いながらも下半身が露出しているのが好きだ。だから上半身ジャージ下半身ブルマー、いわゆるジャーブルは最高だ。同じ理屈でミニスカートにパンチラ防止のブルマーも素敵だ。もちろん、チアのアンスコも好物だ。ショートパンツ女子もいい。ただ、なぜかストパンにはそこまで食指が動かない。白い下着は紺色のブルマーほど好きではないからだろう。臙脂や緑のブルマーもかわいいが、紺色にはかなわない。でも、陸上女子のレーシングショーツは、ブルマーに似ているからかへそ出しでも興奮する。腹筋もかっこいい。
それはさておき、これには何か原体験があるのだろうか。確かに、YMCAの体操教室で、優しいブルマー姿のお姉さんが、といっても自分は低学年で相手はせいぜい高学年くらいなのだけれど、よく構ってくれたから、そういう好印象があったのかもしれない。それに、跳び箱や鉄棒、平均台やマット運動をするために並んでいると、必然的に後ろからブルマーを見ることになるから、それでお尻が大好きになったのではないか。あるいはプールの授業の女子のスクール水着に何か思うところがあったのか。
そういう風に説明できれば、さぞわかりやすいことだろう。しかし、自分にはそれよりもさかのぼる記憶がある。鉄腕アトムだ。子供のころ、白黒時代のアニメを紹介している番組で見たのが、アトムとのファーストコンタクトだ。
鉄腕アトムは少年の姿をしているが、なぜかパンツ一丁で空を飛ぶ。その姿を、自分はなぜかかっこいいと思っていた。どうしてパンツ一丁がかっこいいと思ったのか、その理屈はわからない。でも、小学校に上る以前に青のパンツ一丁でポーズを決めてみたいという願望があった。持っていたパンツは白だけだったのに。今にして思えば、それは性器と直結する以前の性欲だったのかもしれない。おちんちんよりもお尻のほうがエッチだと思っていた覚えがあるのだが、これはフロイトのいう肛門期性欲なのだろうか。
やがてその原=性欲が対象を少年から女性へと移し、ブルマーフェチに変わっていったのではないか。今でもレオタードも競泳水着も、青や紺が一番かわいいと思っている。
鉄棒で脚を振り上げて後ろ向きに回転することだろ?
鮎之助と別れて、またどしどしと歩き、兵庫の町に着いた鹿之助は、
そこで女を挟んで浪人と大男とが争っているのを見かけて、仲裁に入った。
浪人に話を聞いてみると、彼はこの浮舟という遊女と馴染みになって放蕩したため、
主君の勘気を蒙って流浪の身となり、仕方なく二人で駆け落ちをしてきたところ、
こちらも浮舟に入れ込んでいた大男が怒り、浮舟を渡すか果し合いをするかと追ってきたということらしい。
そのうえ浪人は、刀さえも売り払って竹光を差していたので、果し合いをしようにもできないのだと言う。
そこで鹿之助が刀を貸すと、浪人は喜び勇んであっという間に大男を斬り殺してしまった。
浪人は浮舟に、これから心を入れ替えて精進し、いずれ名をあげたら迎えにいくから、いまは大坂の店に戻れと言い渡した。
また鹿之助には感謝し、家臣になることを申し出た。
鹿之助は承諾し、兵庫の横道で出会ったということで「横道兵庫之助」という名を授けた。
そして兵庫之助に、浮舟を大坂の店まで送っていくよう命じたのだった。
さて、鹿之助はまた旅を続け、早くも播州上月城の尼子義久と面会した。
義久は話を聞いて喜び、すぐさま鹿之助を軍師として遇した。
尼子の家臣たちは、新参の鹿之助を信用していなかったが、あるとき彼が怪物退治をしたことで、たちまち敬服することになった。
この怪物退治については別に申し上げるほどのこともないので省いておく。
また山名配下に菊池音八という者がおり、西国に敵う者なしという剛勇無双、毛利でさえ手を焼くという大豪傑であると聞いて、
鹿之助は一計を案じ、「伯州の腰抜け・菊池音八を討ち取る者は播州尼子の山中鹿之介なり」と高札に大書してあちこちに立てさせた。
音八はもちろん怒り狂い、「舞子の浜にて殺してやるから待っておれ」などといった書状を送りつけてきた。
鹿之助が軽装で出向くと、音八は甲冑に身を固めてやってきた。
鹿之助は笑って「内心、私を恐れているから、大仰な鎧を着てきたのだろう」と挑発した。
腹を立てた音八が鉄棒を振りかざして向かってくるのを、素早くかわした鹿之助は見事に相手の首をはねてみせた。
これにより鹿之助の名は近隣に轟き、容易に尼子を攻めるものもなくなった。
数日後、鹿之助は山名家へ出向いて「毛利家臣、清水三郎である」と名乗り、当主の山名氏資に面会を求めた。
「内容をご確認ください。
大蛸:いつぞハいつぞハとねらいすましてゐたかいがあつて、けふといふけふ、とうとうとらまへたア。てもむつくりとしたいいぼぼだ。いもよりハなをこうぶつだ。サアサア、すつてすつてすいつくして、たんのふさせてから、いつそりうぐうへつれていつてかこつておこうか。
女:アレにくいたこだのう。エエ、いつそ、アレアレ、おくのこつぼのくちをすハれるので、いきがはずんで、アエエモイツク、いぼで、エエウウ、いぼで、アウアウ、そらわれをいろいろと、アレアレ、こりやどうするのだ。ヨウヨウアレアレ、いい、いい。いままでわたしをば人が、アアフフウアアフウ、たこだたこだといったがの、もうもうどふして、どふして、エエ、この、ずずず
大蛸:ぐちやぐちやズウズウ、なんと八ほんのあしのからミあんばいハどうだどうだ。あれあれ、なかがふくれあがつて、ゆのやうないんすいぬらぬらどくどく
女:アアモウくすぐつたくなつて、ぞろぞろとこしにおぼへがなくなつて、きりもさかひもなく、のそのそといきつづけだな。アア、アア
小蛸:おやかたがしまふと、またおれがこのいぼでさねがしらからけもとのあなまでこすつてこすつてきをやらせたうへですいだしてやる
んでその年ごろの(一部の英才教育とかお受験目的とかでない庶民的な)習い事ってのは概ね「小学校に入った時に苦労しない為」のもの。
例えば運動教室なら鉄棒が上手くなって「逆上がり出来なくて体育で恥をかく」なんて事がなくなる。水泳なら泳げるようになって体育のプールで困らない、とかな。
音楽やらせれば音楽の授業で役立つし、英語は英語の勉強を先取りできる。
そういうの習わせる親は別に一生の事まで考えてないよ。逆上がり出来なくてもピアノ弾けなくても大人になったら何の支障もないしな。