はてなキーワード: 大臣とは
某大臣が炎上したのはこういう地方だったり金銭的に豊かとは言えないような層を切り捨てる発言をしたからなんだよな。
そういう格差があるのは厳然たる事実だけどその格差を是正すべく動くのが文科省のわけで、そこの大臣が切り捨てを容認するような発言をしちゃいかんでしょという。
これからも頑張って欲しい。
身の丈にあった生き方をする、これは格言的であり、立派なように思えるが、文科大臣の発言への反応を見るに、教育ということになれば話は違うようである。
私はどのような生き方にも価値があるように思えるし、人生のどのような瞬間にもある種の価値を認めたい。しかし、この考えが危険なのは、アフリカで今まさに死んでいく子供の生命をも肯定してしまう点である。そして、それは自明に間違っており、ここに私の思考は矛盾する。
この矛盾は社会が個人を丸々包摂できないことを原因とする。どのような人生でもその一瞬一瞬意味があるが、主観を離れた社会的な観点から見れば、社会を成立させるために無意味であると捨象しなければいけない要素になってしまう瞬間もあるのだ。
最近まどかマギカを見たのでそれに照らし合わせてみる。キュゥべえは視聴者から毛嫌いされているらしく、それは地球の少女をこの宇宙というプラットフォームを維持するための捨て駒としてしか見ていないからである。
私たちがアフリカの子供の存在を社会問題だと考えることは同様の構造に当てはめられる気がする。アフリカの子供が死んでいくのを肯定でいないのは、社会の根底を人権という概念が支えているからだ。アフリカの子供はそんな概念が存在しないことをあからさまにし、私たちは社会に対する疑念を抱く。いや、抱くべきなのだが、社会という存在なしに生きられない私たちは社会ではなく、アフリカの子供達の存在に疑問を抱く。果たしてそんな命あっていいのか、いいはずがない、と。
アフリカとまどマギがどう一致するのか。まず、結果において、まどマギでは少女は消費させるが、アフリカの場合には救われつつある。一見相反するようにも見えるがそれはyes/no、on/offのどちらかということであって構造は一致している。魔法少女が消費されてしまうのは、宇宙という社会のためであり、キュゥべえが少女を消費することを躊躇わないのは少女の主観に重きを置かないからである。そして、アフリカの子供が救われるのは、ひょっとすれば当人のためというよりは我々の社会のためであり、子供を救うことが完全に肯定されるということは、子供の主観的人生を否定することである。
果たして、上記の文章で構造が一致していると説明できているかも、果たして本当に一致しているのかも不明であるが、ここで一つ加えておきたいのは、アフリカの子供の命を救うことはその子本来の主観的生を否定している、故に子供を救うのはやめろと言いたいのではないし、私の主観ではそのような活動は勇ましいものであると思う。最近netflixで公開されたビルゲイツの映像は面白かった。今年のノーベル経済学賞もそんな感じだったしね。
話をアフリカから比較的平和な日本に移すと、私たちの生活には当たり前に人権が備わっている。まあ虐待されている子供や、台風でも避難所に入れてくれないホームレスの存在はあるが、アフリカとの比較対象ではないだろう。そしてその人権は、政府に私たちを生存させ教育を施すことを要求するわけだが、果たしてそれはどの程度が妥当なのだろうか。
アフリカに関しては上記のように、子供を救うことはその子供の主観的人生を損なわせるものだと私は主張した。社会というものが守られるべきものであるとすれば、個人の主観を損なうことは、少なくとも生命を維持するというレベルでは非難されるべきことではない。しかし、それを推し進めていった人権は私たちにとって幸せなのだろうか。
人権が担保する領域が増えるに従って、我々は主観的な存在の領域を社会的な存在に明け渡す。人権の肥大化が極値に達せば人は単なる社会の歯車であり、キュゥべえが非難されたように、おそらくこれも望ましくはない。
人権を肥大化させる仮説もアフリカの例も極端である。前者は極端に社会的であり、後者は極端に主観的である。
落合陽一が何かで、プラットフォームは個人より優先されるということを言っていた気がする。これはキュゥべえ的発言である。この発言を肯定できるか否かは、各人が、その存在を社会的な領域と主観的な領域にどのような割合で分割しているかによるのではないだろうか。
言うまでもなく皮肉だが、最近の大臣の辞任ドミノは実に良いことだ。
大臣というのは本来、議員の中でも能力のある人間が適材適所で配置されるべきポジションだと思うが、
議員にも派閥があるし、「入閣待機組」なる力学もあるのだろう。
本来の実力通り、身から出た錆で辞任に追い込まれる…という実戦経験を叩き込まれるのは、
実力がないのに自信満々な人間には一番の薬だろう。
そうやってどんどん長期政権に胡座をかいた議員は淘汰されれば良いのだ。
自身の身の丈を思い知り、有能な後継にさっさと席を譲るも良し、一から自分を見直すも良し。
どんな主張をしようとも、左右どちらかから罵声を浴びせられるが故、
政治の世界ではいつまで枝葉末節な言の葉にばかり焦点が当たるのだろうか。
萩生田大臣の「身の丈発言」、最悪なのは間違いないのだが、皮肉を言えば実態をよく形容した言葉だと思う。
その背後にある制度に問題があるから、それを無理に擁護しようとした言葉に問題が生じたという話。
…のはずなんだが、自民党は「言葉足らずで…」などと言い、当の本人は「発言を撤回します」。
違う。撤回するのは発言じゃない。撤回するならその背後にあるものだ。撤回しないなら改善案を出せ。
野党も野党で「大臣にあるまじき発言だ」などと発言そのものや発言者にばかり焦点。
違う。そんな政治プロレスは良いから、そんな暇があるのなら、その背後にある制度の不備を徹底的に追求してくれ。
この問題に限った話じゃないが、時間が惜しい。特に受験生には時間が無い。
河野大臣の雨男発言もそうだが、毎度こんなしょーもない言の葉にばかり焦点を当ててるから、
そんな政治家の背中を見て、失言をしないことばかりに特化した小泉大臣みたいな誰得モンスターが出来上がってしまったんじゃないの?
もっとも、失言でしか議員を評価できないメディアや国民も問題よね。
肝心の中身はろくに議論もされず、枝葉末節の言葉尻ばかりを捕らえた質疑応答が繰り広げられる学会とか、そら地獄にしかならんわ。
自分はあまり賢くない受験生だが、その自分ですら、民間試験といい、新テストといい、永田町の人たちは就職氷河期ならぬ進学氷河期でも起こそうとしているのか、と疑いたくなるほどの出来である。
自分は英検、GTEC、TEAPと受けたが、かなりレベルに差がある。どれがどれとは明言しないが、こんな簡単なのか、というものからセンター試験より難しいものもある。
そんな差がある中で、どうやって共通の成績を出せるのか。一応、CEFRというものがあるらしいが、能力が変わらない自分一人でも試験ごとにズレが生じた。
能力に差がある人が受ければ、自分の実力以上もしくは以下の成績になってしまうだろう。それを「公平」と呼べるわけがない。
そして、首都圏の人たちはまだいい。自分に合った試験もしくは簡単な試験を選択できる。だが、地方の人たちはどうだろうか。地方の人でも受けやすいように受験会場を近くに設置するとあるが、それはすべての団体が同じような場所に設置してくれるのだろうか?
A地方はGTECしか受けられません。とか、B地方はTEAPだけです、とかになればどう考えても地域格差が出るのは目に見えてる。そうでなくとも、首都圏の生徒のように日帰りで受験する事ができない生徒だってでてくるだろう。少なくとも、地域によって格差が生まれるのは明確だ。
折角、地方創生大臣なんて役職作ったのに地方を忌避させるような事をしてどうする。もはや呆れや怒りを通り越して滑稽としかいいようがない。
そして試験の中身もグローバルとは程遠いものが多い。特にスピーキングはガバガバである。
GTECは機械でスピーキングテストを行うが、各問に与えられる解答時間はかなり短い。何回か考えている間に解答時間を過ぎて解答出来なかった。だが、実際の会話で制限時間などあるだろうか?流石に何時間も黙るというのはダメだろうが、流石に十数秒話さないだけで話を聞かなくなる人などおるまい。重要なのは少し時間がかかってもいいから内容をちゃんと伝えられるかが重要であろう。コミュニケーションとはそういうものではないだろうか。
英検とTEAPは試験官とのテストであるが、当たり外れがひどい。英検は受けてから久しいので忘れてしまったが、TEAPは日本人のおばあちゃんだったが上手い下手の前に声が小さくて聞こえなかった。聞こえなければ会話なんてできるわけない。大きくと何回かお願いしてやっとだ。(というかそもそも、日本人同士で英語能力をテストするのに意味はあるのか。グローバルとは何なのか。)
リスニングはICプレイヤーでなくスピーカーである。スピーカーだと座席位置によって聞こえ方が違うし、だれかが咳をしようものなら、耳に入ってくるのは英語ではなく咳の音である。
これを避けるためにセンターではICプレイヤーを導入したが、民間試験が採用する気配はない。なぜわざわざ劣化させようとするのか。
極めつけは、グローバルな人材育成のための導入だと言っているくせに、英語しか選択肢が無いことだ。グローバル化とは、世界中の人たちとコミュニケーションをとる事ではないのか?
であるとしたら、何故、英語以外の外国語の試験が導入されていないのか?
お偉いさん方は、英語さえ話せれば世界中で会話が可能だと思っているのか。そんな訳ない。
英語以外は学習指導要領外だから採用するわけない、という人がいるかもしれないが、この試験に採用されている英検1級やIELTSはどう見ても、高校の指導要領外のレベルである。英語であれば要領外でも許されるかと言われればNOであろう。なおかつセンターでは外国語は選択できる。
私にはグローバル化云々と語る文部科学省のホームページが胡散臭いものに見えてしょうがない。
どんな商品であれ、実験であれ、試行と修正を繰り返して完成するのは自明だろう。試行を一回行っただけで、精度が完璧になる事は奇跡に近い。
だが、もうプレテストは行わないという。それでどうやって精度を向上させるつもりか。まあ、「1~2年は精度向上の期間」と言っているので、来年整った試験ができるのは望み薄だろう。
内容もこれまた酷い。解いてみたが、ほぼほぼ文章を抜粋しろというものだが、小学校と中学校とやってた「~に当てはまる部分を本文中からn字で抜き出しなさい」を思い出させてくれる出来であった。要するに、思考力などほぼいらない。そして、おそらく言っている事は同じでも、言い回しが特殊だという回答も出てくるだろう。それを対応できるかも問題だ。
おおよそ50万人が受験する試験を20日程度で採点しなくてはいけないので、学生バイトを採用するといっていたが、学生バイトに公平かつ適切な採点をしろというのは無理な話だ。
彼らは素人である。たとえ明確な採点基準があったとしても、それと全く同じ言い回しの解答とはいかないだろう。そういったときに彼らの採点は公平と言えないだろう。
また不正や贔屓も横行するのでは、という心配もある。自分の後輩に受かってほしいと思う先輩もいるし、受験する側も大学生にいい点が取れるように「お願い」するだろう。そうなると、もはや公平云々など言っていられない。
数学は単に数式を書き込むので、採点ミスというものは少ないだろうが、それならなぜセンターのままにしないのか甚だ疑問である。
そして大学入試とは本来、独立行政法人の仕事、すなわち利潤追求を目的としない事業ではないのか。何故、事業を請け負っているはずのベネッセに対策講座などという、あからさまに利潤追求を目的としたものがあるのか。
受験者も大学も得をしない、得をするのは一部の企業だけだ。そんなことは既に分かっている。様々なところから不満や怒りの声、中止を求める声が上がっている。(当然だろうが特に高校から)
どうして、この問題の当事者であるはずの学生の声を政府は聞いてくれない?教育は国の繁栄の最重要課題のひとつではないのか。
大学での教育が重要なのは、ご存じだろう。なのに、なぜさらに実力とは違う部分で門戸を狭めようとするのか。
ここまで長々と書いてきたが、詰まるところ、改善なき改革はやめていただきたい。もし、どうしてもというのなら、きちんとした整備された状態になってから、いつに実施するというのを決めてほしい。受験生は数か月で新しいものに対応できるほど万能ではない。中止すると混乱するなどとおっしゃるが、混乱するのは我々高校生ではない。学生をおざなりにしてきたあなた方だけだ。
最後に、
この日記を書いてて、懐かしい言葉を思い出した。子どもを保育園に入園させられなかったお母さんが放った、「保育園落ちた日本死ね!」という言葉だ。
自分たちの努力ではどうしようもできないほどの壁がある、しかもそれが国民の代表であるはずの行政によるものであると感じている今、あのお母さんの言葉が重く響く。
以前は保育。そして今度は教育。
だれからも「入試落ちた日本死ね!」という言葉が出てこない結末を迎えられる事、そしてこの日記がしがない高校生の戯言で終わる事を祈る。