はてなキーワード: 薄っぺらとは
自分の目的を果たすためだけに相手に近づく利己的な行為というイメージがあるし、
「人脈」を得るためにやたらとへりくだったりするのも白々しいなという気がする。
だけど最近分かってきたのは、
無理しなくても時間を共有できる人、会う機会や共通の話題が自然に生まれる人と出会って仲を深めていく過程が、結果的に「人脈づくり」なのかなと思う。
「人脈づくり」じゃなくて、「ノリが合いそうな人との出会い」みたいな言葉の方がしっくりくる。
「人脈」を作ろうとして作った人間関係は薄っぺらくて、何を話していいかもわかんないような無意味なものになりがち。
別に「人脈」が多ければいいってもんじゃないから、いま周りに気になる人がいないなら無理して人脈を作る必要なんてない。
一方で、ノリが合う人ともっと出会うために、自分の環境を変えてみるのは大事なのかもしれない。
今いる場所から見ず知らずの「人脈」を探そうとするんじゃなくて、自分にとって魅力的な人と出会えそうなところに身を置いてみる。
やりたいと思っていたけどできていなかったこと、興味はあるけど何となくそのままにしていたことをやってみるとか。
「人脈づくり」はもうやめて、
そもそも歴史的な話として封建時代の「男系長子相続の社会」みたいなモデルを「男子優遇社会」だと社会学者なんかが判断したのが始まりっしょ。それはそれで間違ってない、なぜならこの社会において女性は財産の相続権がないわけだから。
んで、この社会は「男子優遇社会」なのはそれはそれでいいんだけど、じゃあすべての男子がそうなのかといえば違う。具体的には長子以外の男子は相続権がないし、長子のスペアとして自由やら権利やらが制限されてきた。つまり「男子優遇社会」の中で相対的に弱者だった。これが前近代の封建社会における弱者男性だよ。
上記の話は歴史上の話であって直接的には現代社会には関係ない。のだけど、現代の自由主義社会を作るに当たって、その恋愛観や男女観を形作るときに、騎士道物語的なロマンチック・ラブイデオロギーを利用したってのはある。女性の人権なんざ薄っぺらい封建主義から人道人権が重要な近代主義に移行する仮定で、女性を尊重するに当たっての「物語」として男性は女性を守るべしみたいな価値観が挿入された。
でもそれって「物語」であって「価値観」だから色んなものがごっちゃになって濁って導入するしかなかった。物語って多面的なものだから仕方ない。
「男は女を守るべきだ、それが男の甲斐性なのだ」みたいな価値観。日本で言えば文明開化から戦後昭和に至るまで、そういうのが繰り返されてきた。ジャンプ漫画にだってその影響は強くある。それは細かく精査すれば、男性側の労力的精神力的あるいは財産的な「持ち出し」にあたる行動規範だ。
しかし、前述したように封建的だった時代から男性は女性よりも優遇されてきた。最終的には優遇をなくして同権社会を作ればいいんだけど、一足飛びにそこにはいけない。社会が混乱するし下手したら壊れる。なので、男性優遇社会の優遇分を「再配分」するために、男性側が持ち出して女性を遇するという文化が要請された。
時代が進み現代になっても、この文化はあちこちに根付いている。卑近な話で言えばデート料金をどっちが持つかって話にもなるだろうし、専業主夫にたいする風当たりの問題もあるだろうし。
現代社会においては「男系長子相続」が強要されているわけではない(※日本でも一部田舎の家系ではそういう文化が残っていたりして話を面倒くさくしてるんだが)。だからそういう意味でもう僕らの社会は個人主義自由主義の社会だ。
にもかかわらず、再配分文化の名残で、男性がその男性の能力や財産とは無関係に、何らかの持ち出しを続けなければならないとすれば、それは再配分を超えた搾取であるのだから、弱者搾取ではないか? これが現代の弱者男性でしょ。
別に難しい話じゃないし、明快な話なのに、なんでこんなに混乱してるんだ。
そんなゴミ人間とデートするこの男も、持って生まれた低スペックと努力が報われない環境に長くいたために
魅力のない人間になってしまった奴であることは想像に難くない。
それよりも、優しさの基準が、地域のボランティア活動、寄付、困っている人を助けるってあたりに
男女の優しさの認識の大きな分断を感じる。
こんなの優しさと言うにはあまりに薄っぺらくて、偽善や承認欲求と紙一重の活動なんだよ。
眠くなったらあくびするとか、エロい女を見たら股間がおっきするみたいな、単なる本能でしかない。
弱者男性は、自分自身がそうだから「共感されにくい弱者」という存在を常に意識する。
共感されやすい弱者が優しさを与えられるのを横目に、そのすぐそばで共感されにくい弱者が苦しいままでいることを確信している。
その両者にフェアに救いを与えるのでなければ自己満足でしかないと感じる。
弱者に何かを与えるだけの余裕がないけれど、「共感されにくい弱者」の存在を常に意識している自分は
漫画を例に挙げる。
「鬼滅の刃」「呪術廻戦」「東京卍リベンジャーズ」など、最近は特定の作品が異常な人気を博している。
流行になると様々な場所で名前を聞くようになり、様々な感想や意見などが飛び交うのだが、その中で私がとても気に食わない言い回しがある。
漫画以外に対しても聞く言葉だが、これらのような、あまりにも曖昧で抽象的でそれ単体では何の意味もなさない表現だけを並べて、あたかも真っ当な批判ができてるつもりであろう人間を目にする機会が増えた。
こういうことを言う奴らに、センスとは?中身とは?薄さを判断する基準とは?など質問しても、まともな返答が返ってくることはない。
なぜならこれらの言葉は全て、「私は嫌いです」の一言に置き換えることができるから。
これを言っている本人がセンスも中身(とは?)の有無も薄さ(とは?)の判断もついてない。基準なんて知らない。何も説明できない。そもそもこの世に、漫画におけるセンスとは何かを、明確な根拠をもとに画一的な言葉で説明できる人がいるのか?おそらくいないだろう。
少し突っつくだけですぐに崩壊する根拠も理屈もない、それこそ中身ペラッペラの戯言なのだ。なのになぜこのような言い回しを頻繁に目にするのか?
「何となくセンスとか薄いとか言っとけば、あたかもその作品やコンテンツ全般の性質や特性について理解した上で嫌ってるように振る舞える気がするから」
さしずめこんなところだろう。
ガワだけ取り繕った言葉で一丁前にマウントは取ろうとする魂胆。とにかく気持ち悪い。
嫌いなら嫌いでそれでいい。だからはっきり素直に正直に「感性に合わないから嫌いだ」と言え。