はてなキーワード: 自己肯定感とは
研究ができない院生のはなし http://anond.hatelabo.jp/20130813130159
感性が死んでいる http://anond.hatelabo.jp/20130814020053
自分が犯した最大の失敗は,コミュ力不足を成績で補おうとしたところ http://anond.hatelabo.jp/20130828015430
コミュ力不足を成績で補おうとした学生の話の続き http://anond.hatelabo.jp/20140107004842
1月後半以降,調子が悪くなり,心療内科にて精神疾患と診断された.
就職活動は断念.
夏まで鬱に悩まされるも,治療の甲斐あって少しずつ復調している.
以前留学した時もそうであったが,日本の大学の研究室から離れると調子が良くなる.
ま,それは一時的な話でしばらくすると調子がよくなったり悪くなったりするのだけど.
今日は,これまでのエントリーで吐露してきた苦しみの原因の一端を見つけることができたので書き記しておく.
実績らしい実績は特にない.
そんな自分も,高校・学部生の時は(学内で,だけど)中の上くらいの成績はキープしていた.
正直なところ,自分は大学院入学以前(以下,入院前)の教育方法にはそれなりに良く適応できていたと思っている.
入院前の教育方法では,与えられた問題を,決められた方法と手順で解くことが求められる.
正答率が高ければ優,低ければ可もしくは不可,といった具合に.
自分が長い間苦しんできた答えの一つは,この評価のとらえ方にある.
自分は,学校で下される評価がそのまま自分の価値であると思っていたのである.
つまり,良い成績であればあるほど自分は高い価値を持っており,そうでなければ価値のない人間である,と思っていた.
ここで,一応書いておくが,自分は成績の悪い友人を価値のない人間だと思ったことはない.
成績の如何に関わらず,何かに秀でていたり一風変わったことに興味を示す友人は好きだったし羨ましいとさえ思っていた.
では,なぜ自分は自分の価値を学校の成績と結び付けてしまったのか.
それは,自分の価値観というものを持っていなかったからである.
Wikipedia には,
と書いてあるが,自分の場合は他人からの評価が全てで,自分にとって何が大事でそうでないのか,わかっていなかったのである.
それでもまぁ,入院前はそれで何とかなった.
自分は入院前の教育・評価方法に馴染むことができたし,それなりに良い成績(=それなりに高い自己肯定感)を得ることができたからだ.
結果的には,それがよくなかったのかもしれない.
徹底的に成績が悪ければ,自分はもっと別のことに価値を見出していたのかな.
いや,それはわからないし,なにより話がそれるから深く突っ込むのは止そう.
やがて僕にも,進路を決める日が来た.
僕が進学を選んだ理由は次の通りだ:
1番目の理由は,先に挙げた自信の無さ(他人に依存した価値観)に由来するものだ.
2番目の理由は,別のモノに由来する.即ち,惰性だ.
この惰性も,自分を苦しめている(苦しめていた)原因の一つである.
僕は,大学院がどういう場所で,学部とは何が違うのかまるで考えていなかった.
そのうえ,自分は将来なにをしたいのか,どうなりたいのかさえつかめていなかった.
自信(価値観)の無さに負けず劣らず,惰性での意思決定も非常にまずかった.
僕は一度も大学院に来たことを後悔したことはないが(幸運なことに良い出会いと経験に恵まれたから),
もっとよく考えて進路を決めておけば,就職にせよ進学にせよ今よりずっと充実した生活を送ることができたのだろうな,と思えてならない.
「もしかして俺の方が間違ってる?」
「自分もそうならないように気をつけよう」
それは常にそう思ってるが、俺がそう思ってないと思った根拠はなんなんだ。
それは自己肯定感のあるなしとは関係ないし、俺がしたいのはそういう話ではない。
なんだろう。感情と論理が超密接に絡み合っちゃってるんだろうか。
(当たり前だけどそれらが完全に分離可能だという主張をしているわけではない)
間違ったことを自信満々に主張する人、
「もしかして俺の方が間違ってる?」
とか
「自分もそうならないように気をつけよう」
って俺なら思うけど、
だから、間違ってたり未熟だったりするのに自信満々な人のことは見下してるよ。理解不能(=その思考パターンが適切とは思えない)だから。
そういう人がその矛盾した自己肯定感を持ったまま何故生きていけるのか分からないので、まずはその自己肯定感が育まれた背景を知りたいという話。
横から。
これ混同されがちだけど。違う気がする。オレツエーの後に強い他罰に向かう人は、実は自己肯定感が低いんだよ。
本当に自己肯定感の強い人は、「なんだこりゃ?」ってコメントがついても、「おかしな人もいるなぁ…」とスルー出来る人だと思う。自分が強いから揺らがない人だと。
相手が答えないのは、相手の日本語力が低くて答えられないからに違いない、って思い込んでるけど、それって自己肯定感そのものだと思う。
主語が無い文章を書いて「主語はなんだ?」と質問されて答えられないわけだからなあ。
まあ君の「自己肯定感がある」の定義はどうか分からないけど、俺の言ってる意味ではこんなことは自己肯定感とは関係ない、というだけの話。
そりゃ日本語がまともかどうかは自己肯定感あるかどうかとは全く関係ないんだから当たり前だろ。
それかあれか、多くの人が「日本語をまともに使える」を根拠に自己肯定感持ってるって言いたいのか?
それは俺には信じられない。
ただ、家族とか小さなコミュニティからの肯定感は、必ずしも権威からの肯定では無い気が個人的にはしている。そう思わない人もいるかも知れないけど。
自己肯定感が何もない時の支えになるから超重要で、それが欠けている人はどうしても不安定になりがちだね。不安が勝って、外から見るとおかしな行動をしがちになるし。
自己肯定感が何もない時の支えになるから超重要で、それが欠けている人はどうしても不安定になりがちだね。不安が勝って、外から見るとおかしな行動をしがちになるし。
勿論、それをバネに大きな事をなす人もいるから、一概に悪い訳じゃないけど。悪い方にこじらせると面倒ではある。
順調な時はどうでもいいんだけど、自分の思った通りにならない時に、それが顔を出す。
そうなのか。
なんか世間的には「幼児期に親から十分な愛情を受けると自己肯定感が得られる(そうでなかった人は一生得られない)」みたいな主張が多いから、そういう風に育つとああいう感じで無駄に自信満々な感じになるのかと思ったんだけど。
客観的に見て全然凡人だし大した事無い会社で普通に働いてるだけだったりするのにやたら自信満々で仕事論とか語りだす人結構いるけど、ああいう感じの妙な自己肯定感ってどこから来てるのか気になる。
小中学校時代ずっと顔のことでいじめられていた。だれからも「変な顔w」と笑われていた。ぼくがどんなに努力しても「でも顔は変だよねw」といわれて終わってしまう。小学生時代は走るのが速かった。運動会のリレーの選手だった。でも結局ぼくは「変な顔のやつ」でしかなかった。「ヘンガオ」や「怪物くん」があだ名だった。中学時代も高校時代も学年トップレベルの成績だった。でも「変な顔のやつ」でしかなかった。いったいどうしたらいいのかわからなかった。だれもぼくを認めてくれない。
これはもう東大に行くしかないと思った。でも落ちて、結局地方の旧帝大に行った。そこには絶望しかなく、もうすべてがいやで、むなしくて、かなしかった。
ぼくはなぜか大学時代「イケメン」「ハンサム」「かっこいい」といわれるようになった。まったく意味がわからず、これが社交辞令というやつか、まったく世の中歪んでいるなくらいの認識だったが、それは完全な確信をもってそう思うのだし、ぼくはどう見てもおかしな顔で、いまだに毎朝エレベーターの鏡を見て落ち込むわけなのだ(あとで説明するがぼくはいま障害者向けの作業所に通っている)。
なんども鏡で確認する。どう見ても奇形だ。骨格がおかしく、人間に見えない、なんだろうこれは、ペンギン? それともピスタチオ? 鏡を見るたびに落ち込む。鏡を見てこれはひどいと思ったらもう外には出れない。ひたすら寝込む。引きこもる。そうやって大学5年が終わった(大学にいけなくて1年留年したのだ)。
いつのまにかぼくはメンヘラになっていた。大学1年からその傾向はひどくなったかもしれない。大学5年目は卒論を書くだけだったのでなんとか卒業はしたが、もちろん就職活動などはしていない。じつは大学4年目に就職活動をしたのだが、もうまったく完全に頭が真っ白になってしまって、どうしようもなかった。ぼくはわけのわからないことをくちばしっていただろう。それ以来トラウマで、大学卒業後実家に帰ってきて、就職活動を親に迫られるとぼくはパニックになってしまって(過呼吸になって呼吸困難になる)、身動きできなくなっていった。どうしたら他人に認めてもらえるのかぼくにはまったくわからないのだ。ぼくは「変な顔のやつ」だ。それはもうどうしようもない。どうしようもない状態からいったいどうやってだれかにぼくの価値を認めてもらったらいいんだ。それはまったく完全に究極の難題だった。死について考えてぼくはよく小さなころからパニック状態になっていたが、まさにそれと同じ現象が起きた。考えが及ばない、まったくの未知、理解の範囲外、それは神、神だ! だが神なんかいない! 神の姿なんてぼくらはだれもわからない、というより神に姿があったらそれはおかしいのであって、ぼくにとって、《就職活動=他人に自分の価値を認めさせる》という儀式というものは、まったくの神秘であって、考えの及ばない、彼方の彼方にあるほとんど魔術的な妄想とでもいうべきもので、一般企業で働くということは完全に奇跡のわざでしかなく、それも実現不可能の絵空事、定義の及ばない、ことばの射程の外にある、まったく完全な神秘だった。しかし世間の人間はみんなそれをあたりまえのようにこなしているという事実がぼくに重くのしかかってきて、それは絶望ということばだけでは言い表すことのできない、とてつもない、ある重層的な空虚、陳腐な言葉で言えば、そうだ、まさにそれは「世界の終り」だった。そう、世界は終わってしまったのだ。ぼくには理解できない、おそらく認知すらできないなにごとかがこの世界では行われていて、ぼくはそこに存在するだけの強度をそなえていない、おそらく世界の脆弱性とでもいうべき……、異端! おお! すばらしい! 圧倒的少数にして弱者! 愚者であり賢者! ぼくにはもうこの物質世界は見えていない。文字通り超然としている。だがなんだ、超然としているというのに、ぼくはこの物質=顔にこだわっているではないか。ぼくの精神は完全にこのけがれた体から離脱しているというのに、しかしぼくのトラウマはまだ完全に顔にとらわれていて、むしろ顔こそすべてであって、かわいいは正義であって、ぼくは美少女が好きであって、いまだに勃起するではないか! なんなのだこれは。とらわれている! この世界に! ぼくはこの世界で認められたかったのか、それともこの世界を否定したかったのか、いやちがう、ぼくは自分自身が否定されたことによって、まさに自分自身が否定される世界というものを肯定することによって、ここに自分の存在を確立したかったのであり、だがそれは自虐でしかなく、自滅でしかなく、まさにこの自縄自縛のなかで、どうしようもない破滅的な未来へ向かってぼくは生きてきたのであった。だが、それも考えてみると、結局、死にたいという欲望に突き動かされたものでしかなく、しかしいざ死のうと思うと死ねず、しかし死のうという意志そのものが生きることを肯定するなにかとなっていたのであり、もはやなにがなんだかわからない状態で、結局ぼくは精神科を受診することになった。
精神科というものはまったくわけがわからない。まともに話したのは最初の診察のときだけだ。投薬治療をつづけてきたが、まったく改善は見られない。投薬治療だけでは無理ともちろん医者はわかっていて、カウンセリングも並行してやっているのだが、いや、しかしだね、臨床心理士といっても、しょせんぼくより頭の悪いひとなわけだ。ぼくがひたすらこの世の不正や不正義や不条理について語っていったところで、ぼくの真向かいに坐っている、この美女はなにか理解しているのだろうか。ホメロスやオウィディウスやプラトンについて話していたとき、ホメロスも知らなかったのだが、これは大丈夫なのだろうか。いやしかし美女とお話できたのだからよしとするか、というかそのひとはぼくを捨ててさっさと結婚してしまって、いまはもうカウンセラーやってないっぽいのね。まったくね、なんなのかね、結局口だけというか、そりゃカウンセラーにはカウンセラーの人生があるわけだが、こっちだって人生かけてしゃべりまくっているわけでね。ぼくはいってやったよ。あなたのことが大好きです、幸せになってくださいってね。うん。そうだ。彼女は幸せになったのだからぼくは泣いて喜ぶべきなのだろう。でもなんなのだろうねこのむなしさは! ぼくは結局利己的にすぎないが、自分がしあわせになりたいのだよ。しあわせになりたいよ。しあわせってどういうことなのだろうね。いや、もしかしたらいまの状態もしあわせなのかもしれない。障害基礎年金をもらっていて、医療費には困っていないし、両親はまだ生きているし、むしろあんなに厳しかった父親も……、ぼくは彼に虐待とまではいかないのだろうが、幼少期かなり暴力を振るわれて、ちょっとトラウマになっている。まあだからといってアダルトチルドレンというわけではないのだが。むしろいま父は仕事を退職してかなりやさしい性格になっている。父があんなにぎらぎらしていたのはまったくくだらないあの世界の滓とでもいうべき労働のせいなのだ。まったくこの世は腐っているね。でもとにかく両親はやさしい。ぼくはまったく役立たずで、そりゃ洗いものや掃除くらいはするが、だからといって、妹みたいに金を稼いでこないわけでね。
就労に向けて頑張りましょうという。ぼくは作業所に入った。B型ではなくて就労移行だ。一般企業での就労? それってどんなものなのだろう。ぼくは最低賃金で事務系のアルバイトを体験してみたことがあるが、そこは一日でやめた。そこのババアの指示がまったく理解できなかったため、ここで働くのは無理だと感じたからだ。あれはぼくがおかしかったのだろうか。支援者にはそういわれた。ぼくがおかしかったのだと。おまえに歩み寄りの気持ちが足りないのだと。でもぼくは真剣に真面目に全力で全身全霊を込めてやっていたのだ。しかし、その初日というか、唯一働きに出た日だが、そこをしきっているババアは朝いってもそこにいず、アルバイトの女性スタッフがぼくにいった。こんな感じでこんな感じのを作ってください、とね。いや、ぼくは大学卒業後まったく社会に出てなかったわけで、こんな感じの資料をつくれといわれても、いや、そりゃあね、見本があればぼくだってエクセルくらい使えるから、作れるんだが、その見本がないので、その指示、つまり「見やすいように作ってくれ」の「見やすいように」というのがどういうものなのかがまったくわからないわけだ。それはこちらの頭の中に知識として入っていないわけだから。そしてぼくに職歴がないというのはわかっているはずなのに、そういうことを要求してくる。それなので、ぼくは自分にとって見やすいように作ったのだが、それはちがうという。だったら見本を見せろと返す。見本はないという。なんだそれは。ここの職場はいままで同じような資料を作ったことがあるだろうに、そういったノウハウの蓄積といったものはないのか。ないという。なんだそれは。もう意味がわからない。そしてぼくは悪者にされた。ぼくは積極的に説明を求めた。人と話すのは苦手だし、さらに人に話しかけるなんてことはほとんどもう中学以来したことがなかったというのに、そのぼくが、そうだ、障害枠ということでやっているのに、そのぼくがやっと話しかけたのに、不完全な情報を断片的にしか与えてくれない。なんなのだこれは。この資料をもとに作ってください、といわれる、だが、作っている途中にその資料が不完全だということがわかる、なので、ぼくはこの資料だけではつくれないので、もっと正確な情報をくれという、そうすると、なぜだかわからないが、いやいや出してくる。意味がわからない。というか、最初からちゃんと資料を用意しておいてくれないと、いちいちこっちが催促しないといけないのか。なんなのだ、この非効率な仕事は。指示するなら、完全な指示をしてほしい。こっちは最低賃金でやとわれている、それも障害者枠でやとわれているクズなのだ。そのクズに創造的な仕事をもとめないでもらいたい。わけがわからない。これが社会。これが社会。おそろしい。そもそもなんで入って初日のぼくがそこの常識みたいなものを知ってると思っているんだ? あまりにも想像力がなさすぎないか? なんでぼくがそこの常識、たとえばA班とはどこでなにをやっているどういった人間たちの集まりだということ、そういうものをどうして入って初日のぼくが知っているという前提で話が進んでいるんだ。おかしくないか。どう考えたっておかしい。しかし支援者はぼくにコミュニケーション能力がなかったせいだなどという。それはちがうだろう。ババアのコミュニケーション能力というかもっと大雑把な意味での能力の問題だ。管理し指示を出す側の人間がしっかりしているべきじゃないのか、しかも障害者枠で、職歴なしで、やっとここで社会復帰のためのちょっとした労働をさせてもらいますみたいな人間に対してなぜ的確な指示を出さないのか、ぼくにはまったく意味がわからない。その職場の空気読んでやってねってそんなのわかるわけがないだろう。3ヶ月や半年そこにいればその場の空気やルールというものもわかるだろうが、入って初日に、どうしてそういった超人的な想像力が要求されるのだろう。それは理不尽じゃないのか。そしてそれを理不尽と感じるということがぼくの甘えだと論破される。これはおそろしい。思ったよりも、社会は遠いところにある。いったいどうすればいいのか。社会というものは理不尽だとみんな嬉しそうに言う。腐ってやがる。
作業所に行くと、○○さんは高学歴だし、なんでもできるよね、だからどんどん面接受けようぜみたいなことになっている。たしかにハローワークでGATBというテストをやったところ、一番高い数値は160近くあったし、ほかもおおむね130を超えていた。向いてる仕事というのがそのテストでわかるらしいのだが、困ったことに、ぼくに向いてない仕事はない! なんだそれは。この役立たずが! なんでもできるということはなにもできないということだ。ひとは制限があるから頑張れる。無限にひらかれていては神秘主義者になって終りだ。
なにもぼくは自分が天才だといいたいのではない。東大には受からなかったし、ネットで例のIQテストをやると138しかでない。こんなものは天才でもなんでもない。ちょっと平均より頭の回転が速いだけだ。中途半端、それがぼくに与えられた称号。といいたいのだが、だが、ぼくの顔は中途半端どころではなくどろどろに崩壊していて、もはや人間ではなく、だが、作業所にはダウン症のひとたちもいて、そういうなかにいると、たしかにぼくはそういうひとたちの一部ではいられるのだけど。でも世間はぼくらを人間とはみなしていない。障害者は殺せ! 隔離せよ! という。生きる価値がないという。
ああ、たしかにそうだ。ぼくらには生きる価値なんてない。でもなぜか生きている。みんな死にたいはずだが、でも生きちゃっているものはしょうがないのだから、結局生きている。
さて、どうやってこの顔と向き合っていけばいいのだろう。結局ぼくは自己肯定感をもてずにいるわけだ。結局それなのだ。自分に生きる価値があるとだれかが、家族以外のだれかが認めてくれれば、それだけできっと見える世界は変わってくるのに。見える世界を変えるためには努力しなければいけない。しかし努力の方向性がわからない。ぼくは存在そのものを否定されている。能力についてなら努力でかえられるだろう。性格についてならある程度の矯正は可能だ。しかしぼくの顔は! どうしたらいいのか。そういうわけで、ぼくはしばらく口をすぼめて生活していたことがあった。口をすぼめることによって、見える顔が多少変わるからだ。ぼくはそれによってマシな顔になったと信じていたのだが、まわりのひとたちはおかしいからやめろという。マスクをしていたら、マスクをはずせといわれる。なぜなのか。
露骨な容姿差別は存在する。容姿差別はなぜか問題にならないが、かなり重大な問題なのではないだろうか。ブサイクだとなぜいけないのだろう。奇形だとなぜいけないのだろう。
破壊衝動に身を任せてはだめ、テロなんてやっちゃだめだからね、と医者にいわれている。たしかにそうだ。もちろんぼくはそんなことできないだろう。せいぜい机をぶったたいて自分が骨折するくらいだ。むなしい。でもすべてをぶっこわしてやりたい気持ちはたしかに存在する。
増田に限らず、ネットで結婚や出産や育児がいかに無意味か、いかに損ばかりか、と言うことを顔を真っ赤にして力説してる連中なんてみんなこれと同じだよな。結婚しない、または出来ない、あるいは結婚はしたが子供は持たないという自分が多数派である世の中になって欲しいっていうさ。
多数派になることで、自分の選択や境遇が肯定されたことになる。多数派にならなければ否定された気分になる。結局は承認欲求ゲームが形を変えているだけ。
まあ、結果的に多数派である結婚する派、子供作る派にしたって同じことやってるんだけどな。自己肯定感を賭けて結婚しない派や子供要らない派を全力で潰しに掛かってる。多様化した価値観の中では、自分を肯定されたい人間同士の戦争は避けられないんだろうな。