はてなキーワード: 積極性とは
基本的に性欲の強さと、積極性っていうか愛情表現の強さって比例しない?その上で性欲ほぼないマンがそんな調子だったもんでそういう表現になったけど
まぁ俺がn=1で人間の傾向を断言する頭の悪い人間なのはそうだね
ご指摘痛み入るわ
男性全体で統計を取れば風俗を利用しない人の方が圧倒的に多いのだけど
女はそういう積極性のないザコオスをナチュラルに視界から抹消するので
「男はどいつもこいつも風俗ばっか行きやがって😡」となる
すりゃいいじゃん、って話なんだけど。そうするために必要な行動をする気力もなくなってて、もう呼吸だけして1日が終わるだけで疲れる。
老人か?
疲れたよ、もう。いろいろと。
まず、なんで中退したいのかというと「研究がまったく進まない」からだ。まっさらな白紙のほうが価値がある気がする。おそらくそうだろう。だって綺麗だもん。
(寸劇 はじめ)
一応、1報は。
え、足りなくない?
(寸劇 おわり)
という状態だ。もうやだ、泣きたい、泣いてる。
ぼかして書くけど、学際的なことしてたんだ、修士で。例えば情報科学と生物科学とか、これはバイオインフォマティクスっていわれてる。こんな感じで複数の学問分野をまたいだような研究をね、やってたの。
それで博士課程では修士までとは専門が違う大学院の研究科に進学した。さっきの例を使うと修士(情報科学)→博士(生物科学)となる。軸足を移そうと考えての行動だった。
結果的にいうと、これが大失敗。
もうね、無理。やれると思った、あの自信はどこからきてたんだろう。
最大の原因は能力不足だと認識してるけど、それだけじゃなかった。
1つめ、新型コロナウイルス感染症。(計算したらズレてない? ってなると思うけど、テキトーに補完して)
放置。
そして何もできないまま2ヶ月経った。何もしてねぇ。でも大学へは行けるようになった。とりあえず机を手に入れて、片付けて、PC等の設置や設定などなどして。
始まった新しい大学院での生活。この年は、そんなに順調ではないにしても酷くはなかった。順調ではなかった、主に人間関係が。
授業はリモートがメインになったので人間が研究室に来ない。会話、ほぼなし。たまに学部生とかくるけど、顔も名前もわかんない。あっちもそうだったと思うけど。会話がないと人間って関係が構築されないんだなって思った。
研究とは関係ない部分での衝突があった。細かく書くと愚痴が長くなるから控える(=この件に関しては、相手が悪いと心の中で結論が出ているので議論しない)。
が、これでメンタルの大部分がすり減った。ガラスより脆い。いや、豆腐より脆かったのかもしれない。大学のカウセリング室へ数回ほど通った。その後カウンセラーとも合わず、自力で復帰した。この間も、とくに研究の手が止まることはなかった(なお成果は……)。
これが1年目、2年目と続いた。
コロナの影響は大きかった。修士まではセミナーに参加するのが好きだったが、学内では開催されないこともあり孤立を深めていった。そもそも自分の研究と近いとはいえ別分野に飛び込んだ時点で孤立していた。孤独だった。
誰にも相談できなかった。今もだけど。話す相手がいない。話していると解決できることって何故か多いのだけれど、話す相手もいない。ぬいぐるみでも、用意するべきだったのかもしれない。
とにかく、1人ということに耐えられなくなった。
にもかかわらず精神を摩耗してきた結果、コミュニケーションにたいする積極性を、さらに失った。
もう出てきてるんだけど、ストレスがマッハ。こいつは加速することしか知らないらしい。帰ってくれないか、頼むから。
このストレスってやつは研究が進行しないということだけが起因ではなかった。
家庭環境ってやつもよくない。
うちは父親がアレでアレなもんだから、家には安らぎってもんは少ししかない。アレがいないときは安らぐ。永遠であれ。
しかも自分の問題のくせに、こちらに解決法を考えろ、弁護士とやりとりしろと言ってくる。消えてくれ。
こうしてストレスはとどまることをしらず、重く蓄積していく。
さて。ここまでくれば、中退するのは妥当じゃないか? となるわけである。進捗ないし、精神的疲労が酷いし。じゃあ何故、中退しないのか。
アレが関わってくる。
とにかくうるさい生き物なんだけど、やることなすこと文句を言ってくる傾向にある。中退なんぞすればもうゴジラのほうが静かかもしれない。どっか暖かいところにでも行ってパヤパヤしたいなぁ(現実逃避)。
進捗ないです<「うるせぇ生き物」の鳴き声()
となる。
もう気力がない。呼吸しかしたくない。
いや本当は遊びに出かけたいしゲームしたいし、楽しく生きたい。
どうしよ。
貧しかった学生時代の名残だろうかと思いながら生活してきたが、30代になっても全然変わらない。それどころか使い古されたものの方が好きになってしまった。中古品には誰かの影が残っていて、耳を傾けるとものを言う。昔の何気ない日常を熱心に語る。そういうのを聞くのがすごく好きだ。
車も中古車だし、服も靴も半分は中古だ。椅子は中古のコンテッサ。パナの加湿器もモンベルのテントもクリステルの大鍋も中古。これは蓋が別売りなのだが、それも中古。鏡面仕上げの隅に磨き傷がある。その他に目立った傷はない。気軽にクリームクレンザーか何かでひと拭きしたところで、粒度が粗すぎたことに気づいたのだろう。
フェールセーフは機能したが、蓋を閉めるたびに自分のミスを突きつけられているようで我慢ならなかったのだ。ところが私は他人である。他人の些細なミスを引き受けるのは容易い。その蓋は「本来そういうもの」なのだ。少し奮発してぴかぴかの鍋を買い、うっかりから無用の傷をつけてしまったことにどうしても耐えられなかった。この悔恨の情が彼女の影を色濃くし、おでんを味わい深くする。
オーブントースターは知り合いの厨房のお下がりだ。ボロボロの佇まいが妙に魅力的で、もう使えないというのに無理を押して譲ってもらった。洗い場の棚にあったもので、戦場の罵声と泡まじりの飛沫にさらされ続け、2015年製とは思えない錆び方をしている。引き取るとき「グラタン用だったから...」と口を濁していたのが印象的だったが、電源を入れると漂うチーズの香りで腑に落ちた。私の好きな磯辺焼きがまずくなるため、しばらく使っていたのだが捨ててしまった。
正直にいうと中古の電気シェーバーを買ったこともある。先回りしておくが、いくらなんでも刃は取り替える。一応健康リスクという言葉くらいは知っている。だが日常的に使いこんだ道具には特別な魅力がある。いずれ中古住宅も買うだろう。割れた石畳が並び、炭酸カルシウムのこびりついた亀の子格子がついているといい。長く使われた板の間はゆるやかに窪んでいて、松の木は取り返しのつかないほど枯れているといい。秋めいてきて、私は出どころのわからない隙間風を止めるのに必死になる。これは懐古趣味が行き過ぎていると思う。
食器も中古の方が好きだ。それもできるだけ多くの人の手に渡ったものがいい。骨董屋も好きだが、掘り出し物を探しに行くというよりは単に古い食器を見に行く。欠けたり萎びたりしているもの、古いものほどよい。こういう目線も一つの美観だと思えなくもないが、その一方で品評基準や技術的なことはあまりわからない。開き直ったように、不完全な主観を甘やかしながらものを愛している。貴重性のようなわかりやすいものなら理解できるのだが、知れば物怖じの原因になるだけだ。かといって知らないまま使って台無しにしてしまっては寝覚めが悪い。人並みの道徳心が働く。したがって、ただ古いだけの日用食器が一番よい。器の前に座った昔の人々を想像しながら、手の中でくるくる回して欠けやひびに入った汚れを眺めるのが好きだ。あまり酒は飲まないが、熱い湯を李朝の徳利に移してから注ぐと、300年前の丸い赤ら顔がうっすらと蘇ってくる。底座はすり減っていないがヒビは濃く色づいている。清潔な卓の上で大切に使われていたに違いない。奥の間の文机には美しい硯が置かれていて...
状態が良い中古もまた良い。大切に扱われてきたものには独特の緊張感がある。タグが破れかかるほど繰り返し洗濯されているのに、型崩れもせずきれいに保たれている服。裏返しにしてネットに入れ、丁寧に洗って乾かしてもらっていたんだろう。自分は几帳面な人ではないので、几帳面の染み込んだ服は神々しくさえ見える。隅に手垢がつくほど読み込んであるのに、折り目の一切ない本を見たことがある。それは大正後期の本で、日焼けして小口にはポツポツとカビが生えていたが、中は一昔前のCGみたいに均一だった。人が何度も開いた本は湿気を吸ってごわごわしていくので、それとわかる。奥付に強い朱色で購入年月日が書いてあった。尾の長い達筆だった。日常生活を勝手に楽しまれるのは気味の悪いことかもしれないが、増田に書くぐらいはよかろと思う。
本は好きでも間の悪いことに古典や思想書が好きだ。浅学なので最先端の思想や技術を吟味するような知識はない。開拓された新天地を後から眺め、「おお」とのけ反ることしかできない。だから勧められて読むことはあっても新刊あさりをすることはない。死ぬまで教わる側だろうと思う。買うのは電子書籍を優先しているが、それはスペースが足りないからだ。遠慮なくびっしり引いた傍線や、付箋や、日付入の署名はいつでも恋しい。折り目もないよりはあった方が好みだ。
新しいものというのは、誰にも使われていないものだ。時代の御沙汰を経ていないものだ。自分には後世に残すべきものを見抜く目がない。最大多数の最大幸福というものが、わかるようでまるでわからない。誰かが作ったものに勝手な理屈でうなずき、あるいは名批評の情熱を譲り受け、誰かの生活を勝手に愛することくらいしか幸福に向けた積極性を持っていない。でも世の中の多くのものの価値は、そこにくっついた誰かの影ではないかという気がする。誰かの生活を愛する時間と時間の間に、それらの記憶と記憶の隙間に、ガスのように後の未来からゆっくりと幸福が満ちてくるのではないかという気がする。中古品を買い漁っているとき、この作用に期待しているという自覚がある。それらを構成するのは自分の記憶でなくとも良いのだ。
作った場所から直接やってきたものが、何か恐ろしい未知の存在に見えることがある。そこに何が宿っているのか、自分の目には判断がつかない。それはひとりでに明らかにはならない。誰かが指摘してはじめて、私達は宿るものの姿を見ることができる。ここまであえてこの言葉を使わずに来たが、どうしても気持ちが悪いので書いておく。私はこれが魂だと感じている。私が勝手にものの中に見出し、呼びかければ話し出す誰かの姿。恋人にもらったネクタイに宿ると感じるもの。死んだ犬の首輪に宿るもの。それに触れた子供の指に宿るもの。それを見た私の目に宿るもの。こうして文字にしたことでどこかのあなたの目に宿るもの。言葉と物とが受け継がれる中で、それは形を変えながら宿主を移り、誰かの指摘によって唯一性を獲得しながら無限に増えてゆく。歴史は生活の集合であり、魂の集合であり、決して失われない無限の価値だ。こういう虚構を片手に中古品を愛でている。あと中古品は安い。そこもいい。