まず、この枝では言葉がここ500年で変化したかどうかが議論になっています。ある増田はそんなに変わっていないと言い、ある増田はいや変わっているだろと反論する。
後者の増田は、時間軸だけでなく空間軸でも変化があると論じている。
私はこれらに明確に答えを出せないけれども、二人の言わんとしていることはなんとなくわかる。
これはたしかにその通りで、たとえばwikipediaの「中世日本語」の項目を見ると、「この時期に古代から備わっていた特徴の多くは失われ、現在の日本語にかなり近い形となった。」
とあり、その細かい要件が書かれている。わかりやすい例でいうと、散々古文で苦しめられた「係り結びの法則」が最終的に崩壊するのがこの時期。
私たちが古文で苦しむのは、この時期に古文が古文になったことが関係している。
増田はこの辺りを論点として「変化がない」と主張したのだろう。
ネットで見られる具体的な原典として大英図書館所蔵『天草版平家物語』を見てみよう。
https://dglb01.ninjal.ac.jp/BL_amakusa/show.php?chapter=2&part=1
発音に多少違いはあるのだろうがこれ、令和を生きる私たちも結構読める。
と表題に書いてある。ぜひ原典と対応させて読んでみてほしい。読める。
正長元年ヨリ
ヘカラス
正長元年より先は、神戸四箇郷に負目あるべからず。字の流れ的にはいけなくはない。
前段では意外に室町時代くらいの日本語ならば通じるのではないかという話をしたが、実は通じないかもという話をする。
世話にやはらげたる
のところ。「世話」も「やわらげたる」も現代語でもほぼ通じそうだ。「世話」という言葉は今も使われるし、「やわらげたる」は「やわらげている」とすぐに発想できる。
ただ現代では、直接「世話にやはらげたる」の意味がわからない。
ところが他に「話し言葉、世俗で使う言葉」という意味がある。現代ではほぼ失われた用法だ。
つまりここでは、『平家物語』を(当時の)現代語に和らげて書きましたよ、ということを示している。
つまり、文法は近いけれども、用いられる言葉やその意味が全然異なるのだ。
方言の問題、あるいは発音の差異の問題と絡めて、この点は500年前の人と会話を難しくする要因になる。
二つの異なる意見が、それぞれ正しさを持っていることを見てきた。
見てきた通り、行けそうでもあるし行けなさそうでもある。私は、それでも、いけるんじゃないか、と思っている。
なぜなら日本語には文字がある。それも、平仮名も片仮名も漢字もある。そして、述べてきた通り音もある。
『論語』やそれこそ『平家物語』など、共通の「話題」もたくさん存在する。
これらを駆使して「会話」すれば、互いの言語感覚を調整・修正しながらコミュニケーションを取れるのではないかと思う(そして、当然と言えば当然なんだが平安人より室町人の方が格段に「会話」は簡単だと思う)。
この点は、元増田の「言語的に正しい大河ドラマ」を作ったり私たちが見て楽しめたりできる可能性を肯定する。
字幕入れたり解説入れれば、英語の字幕より近い感覚を持って楽しくドラマを見られるのではないか。
俺は、俺好みの室町の貴族の娘や守護大名、守護代クラスの娘(前髪ぱっつんの「のじゃ」口調の姫(大人っぽくてもロリっぽくても可))が異世界転生して俺の部屋にシュワみたいにやってきた場合に備えて、室町人と対話する準備はできている。
アホかよ。500年前は標準語が成立してないんだから、地域によって話言葉はだいぶ違うだろ?
anond:20200124000832 このあたりの議論が面白かったので横増させていただきます。 論点は標記の通り。素人考えです。 まず、この枝では言葉がここ500年で変化したかどうかが議論になって...
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