はてなキーワード: えびとは
https://anond.hatelabo.jp/20211213182433
上の記事を読んだので、書いてみることにした。
身バレしても困るし(しないだろうけど)、当方、アメリカと日本それぞれの教育機関でそれなりの経験ありとする。
こういうことを書くと出羽守みたいになるから普段はできるだけしないようにしているけど、はてな村の皆様の意見をもう少し聞いてみたいと純粋に思ったので書くことにしました。
以下前提として、アメリカの学校の様子しか知らないので、全てアメリカとだけの比較で語っています。
日本の学校は校則も含めて、アメリカと比べると軍隊みたいだし、北朝鮮的であると私も思います。もちろんアメリカの学校も様々ですが。
じゃあ私が今日本の学校で先生側にいて、校則をどんどんなくそうと声を上げているかというと、上げていません。
私がいた、あるいは見聞きしたアメリカの学校には校則はだいたいありませんでした。私学だと制服があるところもありますが、ごく少数派ではないでしょうか。
高校などでは、ドラッグや銃、刃物といった犯罪系のものはもちろん禁止で、あとはギャングにまつわるもの、ギャングを連想させるようなファッション等は禁止といった程度でした。
服はもちろん自由だし、髪をそめてもよく、ピアスも舌ピや鼻ピも全然オッケーで、タトゥーも全然ありました。というか、例えばオセアニア地域にルーツを持つ生徒だと、タトゥーを入れるのが文化であるので、普通に入れています。ディズニーのモアナの登場人物を思い浮かべてもらえればだいたいあの感じです。
多様さを尊重するのがポリティカリーコレクトですから、そのような生徒のタトゥーを指導するなんて言語道断です。文化を尊重するのが当然です。
髪をレインボーに染めている生徒もいます。これはLGBTQ+を背景とした場合も多いので、当然尊重します。
これらの生徒の容姿を指導するなんてことは、許されるでしょうか?
許されないでしょう。
こうした生徒は、日本の社会において果たしてどれくらい許容されるでしょうか。
駅や、公園や、ファミレスや、分かりませんがそのへんのいろんなところに、タトゥーを入れた生徒や髪をいろんな色に染めた生徒や、ピアスをした生徒やいろんなファッションをした生徒が中高生として歩いているときに、どれくらい日本の今の社会はそれに耐えられるでしょうか。
私はかなり疑問です。
もちろん、上記のような生徒のバックグラウンドがわかる場合には、ちゃんと許容できる人も多いと思います。たとえば、ああ、この生徒はオセアニアにバックグラウンドがあるからあのタトゥーをいれているんだな、ちゃんとしたルーツに基づいたものなんだな、とか、この子はおそらく性的マイノリティだからこういうスタイルなんだ、とちゃんとわかれば、許容できる人も多いでしょう。
しかし、生徒は本当に多様です。そのように、「ちゃんと」わかるような子だけではありません。また、ぱっとみで「ちゃんと」しているように見える子だけではありません。どこまでが、たとえば「ちゃんと」オセアニアにバックグラウンドを持っていると判断できるのか、どこまでが、たとえば「ちゃんと」性的マイノリティの当事者であるといえるのか、そんなクリアな線引きは存在しません。
君のバックグラウンドは「ちゃんと」したものだから、君にはそのスタイルを認めよう、しかし君のバックグラウンドはそれ「ちゃんと」したものじゃないよそれ、自称だろそれ、そんな物言いが許されるでしょうか? 許されるわけがありません。
いや、そんな0か100かの子供じみた極論ではなくて、ケースバイケースで丁寧にやっていけばいいんだという意見もあるかもしれません。しかしそれこそが理想論です。
なぜなら、こっちの生徒は「正統な」理由を持っているのでかくかくしかじかの身なりを認めて、こっちの生徒の理由は「正統」ではないのでその身なりは認めない、こんなことを1から100まで全部やっていられるはずがないのです。そんなことは理路をきちんと通そうと思えば無理です。
いや、実際校則がなくうまくいっている学校も日本にあるじゃないか、という意見もあるかもしれません。しかしよく見てください。全てとは言いません。しかしその多くは、本当に多くは、いわゆる賢い学校なのです。地域でも、あの学校は進学校で難しくてすごい子が集まっている、と認識されている学校がほとんどです。だから、ほとんどの場合、そうした学校の生徒は一線を踏み外すことはありません。地域の人たちから眉をひそめられて、学校を十把一絡げにあの高校は厄介でひどいやつらだと後ろ指さされるほど集団で間違ったことはしません。たとえびっくりするようなファッションをしていても、でもあの子は賢いんだよねと地域の人も思うし、実際その期待を大きくは裏切らない行動の範囲にとどまるものなのです。
校則がなくてうまくいっている学校というのは、校則がなくても「ちゃんと」した行動ができる生徒たちがいる学校なのです。
私も日本で先生をしていますから、なぜこれがだめなんですかと生徒から聞かれることがあります。あるいは直接そういうふうに聞かれなくても、なぜなのかとお互い思いながら生徒指導をしているなと感じる場面はあります。はっきりとブラック校則とまではいえなくても、これはまあ理詰めで生徒から聞かれたら最終的にはなぜダメなのか答えるのは苦しいよなぁと思うことは多々あります。
しかし、じゃあこれをやめましょう、これをやめましょう、というふうに話をもっていくかというと、私はしないです。
なぜか。
そんなことを言い出したら、学校が「このスタイルはだめ」などと言える理由は、理詰めでいけば無いからです。実際、アメリカの上記のような学校ではそんなルールはありません。無理が出るからです。
日本の学校に今ある校則を一つずつ撤廃していった場合、どこかで、ここまでは撤廃だけどここからは残すわ、となります。じゃあ、なぜここまでは撤廃してここからは撤廃しないんですか、ここの線引きには根拠があるんですかと聞かれたら、最終的にはそんな絶対的な根拠はないでしょう。法律に違反でもしていない限り。しかもその、ここまではオッケーでここからはだめでしょという線引きは、人によって違うのです。先生によっても違う、保護者によっても違う、地域の大人によっても十人十色です。万人が合意できる、ここ、というラインは存在しないのです。
ですから、校則を撤廃していくというのは、非常に難しく、また不毛な作業なのです。不毛というのは、議論したところで簡単に結論が出ないのです。
職員会議で話し合うとしても、先生によっても全員そのライン、感覚は違うし、地域の大人、日本の社会に生きる大人たちの感覚を想像しそれを折り込みながら議論すれば、それこそ千差万別すぎてラインはそう簡単に設定できないのです。結論がでません。そういう意味でその議論は不毛なのです。
結果、どうなるか。
校則を変えようという議論は、非常に保守的で、非常に遅々としたものになります。
つまり、これはもう誰がどう見ても、誰がどう考えても時代遅れでおかしくて、撤廃するのが当然だという結論が明らかだろう、地域や社会の誰がみてもまあ撤廃で納得できるだろう、という、一番おかしいものから、やっと撤廃されていくのです。それより先は、上記のような不毛な結論のないところにのみこまれていくことが目に見えているので、先生たちも誰も積極的にどんどん変えていこうとならないのです。そんなことに日常の限られた時間を際限なく費やしていくわけにはいかないのです。
ですから、ブラック校則ということが声高に世間で言われ始めたのはとてもよいことだと思います。
しかし、私はいつもブラック校則という言葉を聞くたびにおもうのです。
それをいうなら、なぜタトゥーはだめなんでしょうか? もちろん、日本には刺青という西洋とは異なる文脈を持った文化があることは承知しています。しかしでは、オセアニアをバックグラウンドにもってルーツに誇りをもって文化としてタトゥーを入れている生徒がでてきたとしたら、それも禁止したり指導したりするんでしょうか?私は当然認めたいと思います。じゃあ、オセアニアにバックグランドがあるんだと主張してタトゥーを入れた生徒がいたとして、それが疑わしい場合、ルーツを証明するようなことを迫るのでしょうか。そんなことは人権的に許されない。オセアニア以外にも様々な理由で、おそらく私たちが思ってもみなかった理由でタトゥーをいれたり、タトゥー以外にもいろんなスタイルを求める人が現れるでしょう。そのどれを認めて、どれをおかしいとするのか。そんなことを最終的に誰が決められるのか。
そんなことを考え出すと、旧態依然とした、すでにある校則でそのままいきつつ、絶対におかしいとなったことについて対応していく、ということしか、なかなかできなくなってしまうのです。
書き忘れましたが、日本でも定時制の高校では制服などはありません。校則が基本的にないところも多いです。これは、働いている生徒も多いし、そもそも制服だのなんだの校則を作ったところで運用が難しいという背景もあります。
しかし、これは非常に問題のある発言になることを承知でいいますが、そうした学校の多くは、地域のある一定の人たちからは、後ろ指さされていたり白眼視されていたりすることが少なくないでしょう。私もそうした高校で勤務していたことがあります。日常的に苦情の電話が入って、現場にいって謝ったり対応したりしていました。一生懸命やっている生徒たちに対して、心無い言葉を投げられたことも何度もありました。生徒たちの容姿のことを言われたこともあります。確かに例えば女生徒がものすごいミニスカートを履いていたりもします。しかし、それが何だというのでしょうか? でもそれは、そのこのことをよく知っている教員だから思うことであって、見知らぬ人からすれば違う見方をしてしまうのも無理のないことだと思います。
そうしたトラブルは、多少しんどい学校であっても校則で制服も含めきっちりおさえてかためているところでは、少ないのも事実なのです。
「本当に混乱したことがある」「国防色では?」ミリタリーオタクの言うカーキ色とアパレル業界のカーキ色は全く違う色なのかもしれない
https://togetter.com/li/1793680
カーキ(英語:Khaki)とは「土埃」を意味する言葉で、主として軍服に用いられる淡い茶系色を指す。
「軍服色」という意味合いで、森林地帯での戦闘を想定して採用された米軍のくすんだ濃緑色(オリーブドラブ) のこともカーキと呼ばれるようになり
と日本語版Wikipediaに記述があるが、英語版の説明では、英連邦諸国(コモンウェルス諸国)においてKhaki green をカーキと略すこともあるらしい。
<追記>
カーキ増田を見つけたので記す。
https://anond.hatelabo.jp/20230613182714
<追記終わり>
鶯色(うぐいすいろ)とは灰色がかった緑褐色を言う。(ウグイス由来)
抹茶色に近い柔らかな黄緑色を連想する人もいる。(メジロ由来)
ホーホケキョという鳴き声のウグイスは警戒心が強くなかなか姿を現さない。
春先に見られる鳥の関係が混同され鳥に由来する名前の色のイメージも変化した。
<追記>
鳥好き増田を見かけたので記す。
https://anond.hatelabo.jp/20220216120312
<追記終わり>
葡萄色(えびいろ)と海老色・蝦色(えびいろ)の色が近いことと葡萄(えび)と海老(えび)と音が通じるため、後に混同された。
緑色 (green) と青色 (blue) とを分節しない語彙を、言語学者はグルー (grue) 呼び、
緑色と青色を明確に切り分けない言語は言語はグルー言語とも呼ばれる。
浅葱色は青緑。
英語では亜麻の種の色のような淡い黄色。転じて明るい金髪の形容。
ドビュッシーの曲「亜麻色の髪の乙女」の元となる詩を書いた詩人ルコント・ド・リールはフランス人だが
フランス語では亜麻色(白)……亜麻の繊維の色のような薄いベージュ色と、
亜麻色(灰)……亜麻の花の色のような薄紫色。
仏詩人の亜麻色という表現は英語からの借用だったのではないかとの研究。
亜麻色の髪とは、淡い栗色ではなかった
花粉症持ちとはいえ、30年生きてきて食べ物は大丈夫だったのになぁ
今日、12時に昼食取って休憩してたら、首というか顎の下辺りがやたら痒くて
乾燥してるのかな?と思ってロッカーからニベア引っ張り出して塗りたくって誤魔化してた
自席に戻ってやっぱ痒いな〜と思いつつ仕事してたら
同僚から「首のとこ虫にでも刺された?」って聞かれて
鏡を見に行ったら真っ赤になってた
そのあと喉の奥も痒くなってきて、なんだか分からないし全然思い当たる原因がなかったけど
とりあえずまあ早退するほどではなかったから一旦私物スマホで首元の写真撮って、仕事に戻って、一応今病院に向かってる
首はまだ赤いけど、痒みは少し収まってきた
ただ本当に食物アレルギーだったら悲しすぎるなぁ
今日食べた物
食パン・コンビニの魚介パスタ・えびマヨおにぎり・Doleのマスカット500ml
どれだろ
僕の好きな食べものはえび(茹でてあるやつ)で、嫌いな食べものはカレー(カレー味含む)
まっとうに真面目なオカンは僕の好き嫌いをなくそうと、カレーを出すたびにえびをつっこんできた
犬や猫の餌に栄養分(その子が苦手な味?)を小さく刻んで混ぜて食べさせる話があるくらいだし、別にそれくらいって普通だとは思う
だがちょっと待ってほしい
好きなのがカレーで、嫌いなのがえびだったら別にいいと思うのだ。だって最悪えび避ければ食べられるんだし
でも僕が好きなのはえびで、嫌いなのがカレーだ。カレーに突っ込まれたえびは最早カレー味のえびでしかない。丸洗いしたところでカレー臭は消えない(何度か母の目を盗んでやったことがあるが食材への冒涜なので普通にやめましょう)
えびとカレー別々の状態で皿に出されて「カレーひとくち食べるごとにえびが一尾(小さいやつ)食べられます」みたいな約束された方がまだ素直にカレーを食えたと思う
それを、カレーにえびをつっこむという最悪の荒業のため大好きなえびの味も失われるしカレーは嫌いだしでいいことが何一つとしてない
そんなわけで嫌いなものに好物をつっこまれたところでカレーに対する憎しみが増すばかりなわけなのだが(この茶色野郎、俺のえびを汚しやがって)母にはそれが分からなかったらしい
僕はカレー以外に嫌いな食べものは無いが、えび以外に好きな食べものもないので、業務センターで買った冷凍ボイルえびを毎日ちまちま焼いて刻んだにんにくとしょうゆで頂いているのだ