はてなキーワード: 第一人者とは
多様性と言ったら「色んな人がいていい」なのに
なぜか現代の多様性では「色んな人がいなきゃいけない」になっている
「色んな人がいなきゃいけない」の正しさの押し付けになっている
その声を聞いて周りに正しさを押し付ける人が一定数居るんだと思う
2.それを広める人
3.正しさを押し付ける人
4.彼らに従う人
5.反発する人
と言う構図がある
こういうの誰しも覚えがあるんじゃないだろうか
昔、某掲示板で二次創作を始めたことがあって、その後それなりのブームになったことがあった
私はちょっとした始祖というか神扱いされて気分が良かったのだが
やがて「増田さんならこう言っていた」「増田さんはこう言うはず」「増田さんはこうだから君は逸脱している」
そのたびに私がもっと自由にやろうと、多様性を確保しようとしたのを覚えている
あるいは某技術系の業界では、有名な人のやり方を当然参考にするムーブメントがあるわけだけど
「彼がこうしていたからこれが正しい」というような人たちが一定数居る
それで後になってその有名人が「あの方法よくないよね」とかちゃぶ台返ししたりする
つまり、神を作り上げて周りに押し付ける人というのが世の中には一定数居るんだと思う
最近になってこの「神を作り上げて周りに押し付ける人」が現れてきて、監視社会のような様相になってきている(主にアメリカで)
たぶんだけどこれはSNSが強く影響していると思う
そうやって「多様性を謳ってるのに多様じゃなくなっている」といった意味不明な状況が生まれているんだと私は考えている
ミリタリー監修はストライクウィッチーズの第一人者を付けたけど、あらすじは変えられないからな
数年前に起きた「大雪りばぁねっと。」事件の岡田という元代表をふと思い出した。当時岩手(内陸だが)に住んでいたので、あの悪人面がテレビで報道される度に「悪そうな奴だなあ…」と思っていた。知らない人は大雪りばぁねっとを調べてみてほしい。相当な悪人面だから。
そんな事件をふと思いだし、「人は見た目によるのか?」という疑問を抱いて調べた。あった。観相学、あるいは人相学というらしい。
『顔だちや表情から、その人の性格・気質、また才能を判定しようとする学問。』(コトバンクより)
一応、観相学自体は古くからヨーロッパや中国でも存在はしていたのだが、「こういう顔の人はこういう傾向だよね」というぼんやりとした情報の集合体からなる、いわゆる「人相占い」の域を超えなかったようだ。
しかしこの観相学の第一人者である、20世紀のドイツの医師クレッチマーさんは、特に体型の方に着目し、人の体型を細長型、肥満型、筋骨型という3つのパターンに分けた。これが現代における観相学の基礎となっていると言われている。
その上で細長型は分裂気質、静か、控えめ、真面目であるとか、肥満型は躁鬱気質、社交的、親切、温厚であるとか、筋骨型は粘着気質、几帳面、熱中しやすい、頑固、興奮しやすいであるとかのように、体型と気質を結びつけた。(ここらへん全部wikiの受け売り)
と、ここまで観相学について述べてきたのだけれど、私は思った。「…これ、ルッキズムとか叫ばれてる現代においてアウトじゃね?」と。
もちろんこの観相学、現在でも本が出版されたりと進化を続けてはいるのだけれど、正直マイナーである(自分が無知なだけかもしれないが)。だから例えば友人と話していて「君の体型は筋骨型だよね、だから頑固なの?」とかいう会話をするような機会はほぼゼロと言ってもいい。会話のレベルとしては血液型で性格を診断するのと同じようなものだ。
だが私が言いたいのは、心理学という学問を盾にすればなんでも許されるのだろうか、という点だ。
「君は太っているよね。太っている人は社交的な人が多い。だから君も社交的ではないだろうか?」と聞いたら昨今の社会では確実にアウトだ。
でもこの後にこの発言者がこう言い足す。「…と、ドイツのクレッチマーが心理学的な観点から提唱しているんだ。」と。
こう言われたら最後、いくらムカついても「心理学的に提唱されている学説だから」という言葉に守られた相手の理論を崩すことは難しくなる。
昔、オードリーの若林さんが心理学者に「あなたは後輩のネタを見下して見ている」と言われて激怒した話があったが、それと同じような気がする。若林さんは身に覚えがないことを言われてムカついたが、心理学を介して言われたためにキツかったらしい。
いくら失礼なことを言っても、「心理学的な視点から考察している」と言えば許されるのだろうか?そうではないだろう。心理学は万能な免罪符などではない。心理学はあくまで統計的なものであって100%の人に当てはまるものではないということを忘れないでほしい。そしてどうか、その心理学的な視点とかいう凝り固まった印象を目の前の誰かに被せないであげてほしい。心理学的に見て99.9%の人は当てはまっても、今あなたの目の前の人は0.1%の当てはまらない人かもしれないのだから。
「いかがでしたか?」問題に「欲しい情報が出ない」問題… Google検索の第一人者が語る、検索で不満が募る“意外な理由”とは | 文春オンライン
https://bunshun.jp/articles/-/56122
Google検索の第一人者って何ぞって思って読んだら、クローラ作成者とか自然言語解析やアルゴリズムの研究者とかではなく、SEO業者だった。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4723202290562822882/comment/blanqui
WEB屋というか技術屋が多かったはずのはてなにおいて、「SEO業者」の一言で唾棄するコメントにスターが集まってるのを見て悲しくなったわ。まぁ「Google検索の第一人者」という言葉が適切かどうかはともかく。
なんではてなって意地でも何かにイチャモンを付けたがる偏屈ジジイの巣窟になっちゃったんだろうな。何も知らんくせに偉そうなことをいう奴だらけ。ヤフコメレベルのネットスラムになってしまって俺は悲しいよ。
ブライアン・イーノはみなさんご存知の通り、ロックバンド「ロキシー・ミュージック」の元メンバーでソロ転向後は、アンビエント・ミュージック(環境音楽)を開拓した第一人者として知られているし、デヴィッド・ボウイのベルリン三部作の制作にも参加しているミュージシャンであり、視覚芸術のインスタレーションも作成しているアーティストだね。マックで女子高生が言っていたから、みんな知ってる。常識。
で、イーノ(マイフレンド)の展示だが、非常に印象的でして。京都信用金庫旧厚生センターという何やら歴史の趣を感じられる建物内に、複数階に渡って設置された音と映像、インスタレーションをじっくり楽しめる。どの展示も室内に椅子やソファが設置されており、寛ぎながら鑑賞することができる。視覚的な変化を楽しむ、という作品が多く、イーノがアンビエントを時間と空間の変化として捉え、変化の一形態としての音や映像といった落とし込みを行ったのかなとか。
音をメインとした展示では、ここのところ純粋に一枚のアルバムを聴くというリスニング行為から、すっかり遠ざかっていたんだな、ということを思わされる。真っ暗な室内に立ちすくんだ後、薄らと見えてきた椅子に座り、周りから聞こえてくるあらゆる音に圧倒されてゆく感覚。この人は、アンビエントミュージックだけの人ではなく、長いキャリアの作曲家であり音楽家なんだな、ということを実感する長尺の演奏曲。
そうして私の心の一部は、喜怒哀楽の隙間、言葉では形容しづらい感情・感覚を呼び起こす原初の音響の中、靴を脱いで展示スペースに上がると言う所作からわずかに思い起こされる、京都という地場の影響を受け、遠く海の向こう、空の向こうにあるかもしれない過去や未来と溶けあっていく……とかなんとか。
思ったよりも楽しめました。まる。
私は統一教会2世として生まれて、成人してから徐々に信仰が薄らいでいまでは信仰は無い。死ぬほど貧乏だったり精神病んだりで色々とツラい思いもした。
だから統一教会とも関わりたくないしたくさん愚痴を言う場所もほしい。
でも、反カルトにも近づきたくない。反カルトの核心に近づけば近づくほど、統一教会信者を暴力的に拉致し監禁してきた「拉致監禁ビジネス」と縁のない者の割合は薄れていく。いまテレビで活躍している弁護士だってかなり怪しい。下の資料は「青春を返せ訴訟」(統一教会を霊感商法関連で訴えた有名な裁判)で原告側代理人だった伊藤弁護士の証言だ。彼が統一教会の信者側に立って証言するのはあまりにも不利益が大きい。それゆえに真実性がある。本当にあの弁護士たちは大丈夫なのか??
http://antihogosettoku.blog111.fc2.com/blog-entry-112.html
相手がいくらカルトであろうと、信者を路上で10人がかりとかで無理やり車に連れ込み、窓やドアも全て南京錠をかけて部屋に閉じ込めて何ヶ月も時には十年以上も監禁するのは、人権侵害以外の何物でもない。
この拉致監禁を直接に実行するのは親族だから、反カルトは「家族との話し合い」などと言うが、近い知り合いに被害者が複数いて内情をよく知っている自分としては、こんなもんは「話し合い」ではなく「拉致監禁強制棄教」としか言いようがない。反カルトの例外的な逸脱でもなく、これが常態化していた。だから、近い知り合いに被害者が複数いるのだ。被害者は数千人に及ぶはずだ。ツイッターでも拉致監禁経験者(統一教会を脱会したから統一教会にも批判的だが拉致監禁にも反対している人達)は探せばいる。
いま話題になっている統一教会関連の学術書を書いている人だって、著書の中で拉致監禁に関与した人物を「脱会カウンセリング」の専門家として紹介している。アカデミアの腐敗もいいところだ。
どうせこの機会に統一教会の闇はたくさん暴かれるからそれはそれでいいのだが、反カルトの闇は放置されるのだろう。
こんな状況じゃ信仰を棄てた2世としては誰も頼れない。正義の味方のふりをしている社会が憎い。
追記1
これは統一教会側の人のブログ記事ではあるけれど裁判資料に基づいているので無視もできない内容。統一教会研究第一人者の櫻井義秀は、「拉致監禁強制棄教」経験者を「自発的脱会者」としてカウントしているという告発。事実なら研究不正。統一教会も関わりたくないが反カルトの欺瞞はもっと気持ち悪い。
http://suotani.com/archives/2198
追記2
拉致監禁されて脱会した人の中には監禁の時のトラウマでずっとPTSDで苦しむ人もたくさんいる。監禁中に脱会説得者(牧師であることが多い)にレイプされたケースもある。餓死寸前に追い込まれた人もいる。自殺した人もいる。人権侵害のてんこ盛りみたいなものだぞ。これじゃどっちがカルトなのかわからない。
「そしてその時ではもう遅いのだ。」 http://www.asyura2.com/sora/bd11/msg/691.html
「右翼、民族派の人たちが統一教会・原理研・国際勝共連合のことをどう思っ
ているか書いて下さい」と『朝日ジャーナル』の記者に言われた時には正直い
って気が進まなかった。
たしかに右翼の連中の中には「反共の同氏だ」と思っている人はいる。また、
「原理はウサン臭くて嫌いだが勝共は仲間だ」と公言する人も多い。警察の公
安や公安調査庁の人間だって反共なんだから仲間だし、日本に共産革命が起き
たときには一緒に決起してくれると信じている<純朴>な人も多いこの業界だ
しかし、少なくともわれわれ民族派、また新右翼といわれる若い人間にはそん
な混同を起こす人間はいない。だから、『朝日ジャーナル』の記者の話を聞い
て、何を今さらと思ったのである。それに、右翼全体なんてどうでもいいとい
う気もあった。多くの右翼が原理・勝共を反共の味方だとおもっているのなら、
それでもいい。何もおせっかいをして、原理・勝共の実態はこうなんですよと
<告げ口>することもあるまいと思っていた。
ところが、筑紫哲也氏の「原理不可解な右翼の沈黙」(本誌一二月十四日号)
を読んで少し考えが変わった。その種の挑発にはやはり乗るべきだと思った。
それに、『世界日報』事件で追放された副島嘉和、井上博明両氏が『文藝春秋』
に書いた内部告発を読んだ時の衝撃も忘れられない。原理とは大学時代からの
原理運動が初めて日本に入って来たのは二十五年ほど前だというが、本格的に
やり始め、世間の耳目を集め出したのは、それからしばらくしてだと思う。原
理運動のことを直接にしったのは、僕が昭和三十八年、早稲田に入ってからだ
それから二,三年して早稲田で全学ストライキがあり、それが全国の学園紛争に
火をつけて全共闘時代の幕開けとなった。それに刺激され対峙する形で民族派
学生運動も出てきたし、一時は全国30大学自治会を握り、「民族派全学連」
を結成しようというところまでいった。その学生運動の嵐が起こる前から、原
理研は駅前で黒板を出して演説したり、個人をオルグをしていたが、大学に入
りこみ、サークルをつくったりして組織的、全国的に活発にやりだしたのはこ
全共闘と民族派と原理。この三つの違った運動があの早稲田の一点から、ほぼ
同時期に生まれ、全国に広がり燃えさかっていった。換言すれば、全共闘に刺
激され、全共闘を反面教師としながら民族派も原理も、己の組織化を急ぎ、全
国的な広がりをつくっていったのである。われわれもそうだったが、原理研が
今やっている大学でのサークル、学内新聞づくり、自治会奪権闘争……などは
完全に全共闘から学んだものである。逆接めくが、今の原理運動も民族派の運
動もある意味では「全共闘の遺産」なのである。全共闘との付き合いについて
はこれまでも書いたことがある。今回はもう一つの原理について書く。
はじめに、「何を今さら」といったが、われわれ、戦後体制打倒をめざす「一
水会」の機関紙『レコンキスタ』(スペイン語で”失地回復”の意味)でも何
度か原理についての批判をしてきたし、原理運動研究家の第一人者である茶本
繁正氏を招いて一水会事務所で勉強会をしたこともある。その時のテーマは「
勝共連合は愛国者なのか」であったし、彼らは民族派の味方ではないこともわ
れわれは明らかにした。
また、われわれの仲間には何人か原理にオルグられたり、「合宿」に誘われて
行ったことのある人間もいる。二年前、そんな一人に「私はこうして”原理研”
が治った」という体験談を話してもらい『レコンキスタ』に載せた。当時は「
こうして新左翼が治った」「べ平連が治った」「アナキストが治った」といっ
た体験シリーズをやっており、それら左翼運動と同次元で原理も考えていた。
さらには、われわれ一水会と連帯している統一戦線義勇軍の機関紙『義勇軍報』
でも原理・勝共との戦いを呼びかけており、事実、一水会や義勇軍は他の民族
派と共闘して彼らとの闘いを展開していた。
小さいながらもこうした反原理・反勝共の闘いをやってきたが、これは右翼全
般からは不評で、「思いつきでやってる」とか「勝共は仲間なのに」「敵を利
する」などと批判された。しかし、大学時代からわれわれは彼らを一度も味方
だと思ったことはないし、民族運動の同志だと思ったこともない。学生の時、
早大で知ってた彼らは決して右翼ではなかったし、反共でもなかった。「天皇
なんて関係ない。文鮮明師がすべてだ」「憲法なんてどうでもいいし、興味は
ない」と、正直にいっていた。われわれとは立場は違うが、宗教団体としては
それも当然だろうと思っていた。ところが最近、急激に「右傾化」した。「天
統一教会・原理研と勝共連合は別だと言う言い訳は通じない。やっている人間
は同じなのだ。なぜ、急に右旋回し、豹変したのか。その右旋回は本物なのか
どうか。すっと疑問に思ってきた。最近の派手な言動に幻惑されて、即「味方
だ」と思ってる右翼に同調できない理由もそこのある。そんな疑問に答えてく
れたのが副島、井上両氏の『文春』のレポート「これが『統一教会』の秘部だ」
だった。そして、『原理講論』をはじめて通読し、両氏の告発が嘘でも誇張で
もないことを知った。
イエスが再臨する「東方の国」は韓国であり、韓国語が祖国語となって世界は
一つになるという。なぜ、「東方の国」が韓国かというと、中国は共産化した
からサタン側の国であり、日本は「代々、天照大神を崇拝してきた国として、
韓国のキリスト教を迫害した国」だから、これも「サタン側の国家」だという。
また、「第二次世界大戦は、民主主義によって結託した米、英、仏の天の側国
家と、全体主義によって結託した独、日、伊のサタン側国家との対戦であった」
という。
これは、『原理講論』にかいてある通りである。そして、韓民族がいかに「サ
タン」の日本によって、侵略され、迫害され てきたかがこれでもか、これでも
かと書かれている。『文春』の告発レポートでは、さらに驚くべき事実が書か
れている。韓民族が選民であり、他民族に優越しており、再臨主とは、すなわ
ち文鮮明氏のことであり、文氏によって世界は統一され、必然的に韓国は世界
の中心となり、韓国語が世界の共通語となる。こう説かれているという。
また、われわれ民族派としては見逃せないこととして「敬礼式」についても『
文春』に書いている。これは文鮮明氏をメシア、王の王とみなす象徴的な儀式
だそうで、本文から引くと…・・。
「統一教会が四代名節と呼ぶ記念日には、早朝五時からの敬礼式があり、そこ
では聖壇に座った『文氏』とその家族に対し、統一教会の主要幹部が三拝の拝
礼を行う。場所はだいたい『文氏』の私邸であるアメリカ・ニューヨーク州の
イーストガーデンである。その際、天皇陛下をはじめ、レーガン大統領、全斗
煥大統領ほか主要国の元首の身代わりを、それぞれの国の教会幹部が担当し、
文教祖一族に拝跪して全世界の主権者が文教祖に拝礼したという儀式を行うの
である。日本の天皇陛下の身代わりを演ずるのは、日本統一教会会長の久保木
氏なのである。何とも奇妙で、そして国民の象徴として天皇を上にいただく日
全くもってひどい話である。文鮮明氏の精神は、信仰の王国ではなく、現世の
王国を夢み、その独裁者たらんとする。これはまるで弓削道鏡だ。「彼らは反
共だから味方ではないか」と言っていた右翼の人々も、これを読んだら、とて
もそんなことはいえないはずだ。実際、「許せない」「こんな反日集団は敵だ」
と激高していた人が多くいた。僕としても前から、その性格は漠然とは知って
いたが、これだけ証拠をつきつけられては改めて愕然とする思いだった。
これを見ても分かるように、原理・勝共は決して右翼、民族派ではない。では、
一体何なのか。
まず第一に、これは裏返しの共産主義である。「原理研が治った」青年も言っ
ていたが、反共を唱えてはいるが、内部の生活はむしろ共産主義だという。人
生について考えている青年や悩んでいる青年をオルグってきては「合宿」につ
れ出し、何日もロクに眠らせずに「洗脳」をする。はじめは「そんな馬鹿な…
・・」と心の中で抵抗していても、しまいには疲れ果てててしまい、批判し抵
抗することも面倒になって全面的に受け入れてしまうという。「思想的強姦」
である。また、洗脳の途中で頭の回路が外れて気が狂ったりした人間も多いと
いう。さらに自由を許されない共同生活、文氏の決める人と結婚する集団結婚
式。本場の共産主義国家、ソ連や中国でも、ここまでは共産主義化していない。
自分たちの内部生活は共産主義で、外部に向かっては反共を唱えている。その
反共も本心かどうかは分からないが、本心だとしても、日本の民族主義とは一
切無縁のものである。さきほど見たように、これはソウルを中心とした反共イ
ンターナショナリズムである。初期の共産主義がモスクワを中心としたインタ
ーナショナリズムだったのと同じ構造である。共産主義と同様に、この原理・
第二に、その「反共」すらもが本当かどうか怪しい。「統一教会・勝共連合の
宗教活動、愛国運動は『文鮮明氏』の野望を実現することを目的とした方便な
世界の王になるためには、ます韓国の王(大統領)にならなくてはならない。
韓国は反共バリバリの国である。文氏は日本の人と金を湯水のように使って、
全世界的規模での反共活動の「実績づくり」をしている。そのための反共であ
り、韓国→世界の王に向けての手段である。反共運動の全部が全部、仮面とは
言えないにしても、原理運動と世界の王になることが第一の目標であり、反共
また、反共活動をいっしょにしている自民党や体制派文化人にたいしては、勝
共連合に入るように勧めるが、統一教会、原理研には入れようとはしない(な
かには一部の例外もあるが)。原理運動をしている人間は想像を絶するストイ
ックな生活をしている。物欲でこり固まった自民党や体制派の人間をストイッ
クに改造はできない。反共という衣をつけて、ハナから利用するためだけに近
寄っているのだ。あるいは、そうした金と物欲に目がくらんだ自民党サイドの
人間に対し、「いつか必ず自分たちの前に拝跪させてやる」と復讐の念を燃や
しているかもしれないが。
第三に、これは全体主義である。茶本氏は「ファシズムへの道」だというが、
その通りだ。文氏は、いわはヒットラーであり、『原理講論』は、さしずめ『
マイン・カンプ』である。『マイン・カンプ』の中には徹底した日本人軽視、黄
禍論があったが、日本語板ではそれを削除し、ヒットラーの力の前に幻惑され
て日本は手を結んだ。それと同じように韓民族が選民であり、世界の中心だと
いうことは、日本語板の『原理講論』では意図的に削除されてきた(最近は居
直って日本語板にも出しているが)。これと同じ過ちを日本の体制側、そして
一部の右翼は再び犯そうとしている。
第四に、この狭量なストイシズムは宗教としては光輝いて見えるが、世俗的権
力の奪取、文王朝の建設を目指すという政治の世界には入るや、必ず悪い結果
になるということだ。ロベスピエール、カルヴィン、松平定信…・・と、その
ツヴァイクの『権力とたたかう良心』によると、宗教改革に成功したカルヴァ
ンは、他人のどんな小さな過ちも許せない狭量、厳格な人間で、徹底した恐怖
政治を敷き、「罪ある者が神の裁きをまぬがれるくらいなら、むしろ罪のない
者が処罰される方がいい」と公然と告白したという。また、カルヴィンやロベ
スピエールはそのいい例だが、「禁欲と苦行のひとというのは、いちばん危険
それをもっと推し進めればカンボジアのポル・ポトになる。古い体制、古い倫理
観の人間は殺して、殺し尽くした。人口の半分も殺したというが、国民の半分
を殺して達成しなければならない革命とは一体何なのか。地獄のカンボジアを
実際に見てきたある新聞記者はこんなことを言っていた。古い体制の人間を殺
す尖兵は、少年たちだったという。その少年兵たちの目は、人間の生死はもと
より、もう何事にも感動を示さないし、 いわば<ゾンビ人間>の目だったとい
う。そして、その目はしょうど原理研の人たちの目に似ていたという。未来を
暗示するようで、何かゾッとする話だ。
第五に、彼らもまた、<狼>だ。これだけでは何のことか分からないだろう。
僕は十年近く前、三一書房から『腹腹時計と<狼>』という本を出したが、そ
の爆弾事件の<狼>とあまりに似ていると思うのである。個人的なまじめさに
おいて、また、日本の戦争に対する贖罪意識の余りの強さにおいて・…。両者に
とっては先の戦争はまさしく原罪である。日本は韓国や中国に侵略し、残虐の
限りを尽くしたひどい国だ、と教えられ、一途に信じ込む。だから、再び、そ
うした国に経済侵略してゆく企業には爆弾を投げるという<狼>。彼らの中に
は「自分の祖父や父は兵隊になって侵略したから自分はその贖罪のために新左
それに対し、侵略した「サタン側の国」(日本)からは、いくら金をしぼり取
り、人間を消耗品のようにつかってもいい、という原理・勝共。朝鮮人参、印
鑑、大理石のツボ、花売り、街頭カンパ等、ありとあらゆる方法で日本から金
をかき集める。詐欺まがいの商法で、ピンク産業以外は何でもやっているとい
う(もっとも統一教会としては、上からの指令はしていないと逃げているが)。
末端の会員ですら月に100万円のノルマを課せられ、日本全国からは月に2
0億円、年に240億円もの金がアメリカの文鮮明氏の元に送金されていると
いう。合法、非合法を問わない強引なやり方で「サタンの国」からは徹底的に
金をしぼりとり、文王朝のために日本人は手足として使い、使い捨てにすれば
いいという考えだ。
会員もそれに甘んじている。これは日本の戦争に対する韓国側の復讐なのかも
しれないが、日本人会員にとってはそうすることによって「侵略戦争」の贖罪
ができると思っている。<狼>クループ同様、屈辱的な贖罪史観、敗戦コンプ
レックスを色濃く引きずっている。
第六に、文王朝建設のために日本人の<献身の美徳>が最大限に利用されてい
る、ということだ。いつの時代にも、他人のため、世界のために体をかけて働
いてみたいと願う正義感の強い青年たちはいる。方向性は違っても、戦前の青
年将校、在野の右翼運動、日本赤軍…・・。そして多分、原理運動に飛び込ん
Twitter上でたびたび話題となる『トレパク』の件について、日々さまざまな立場の意見を目にする。それを追っていく中で、「落とし所を見つけておかなければいけない」と思ったこと、それが本タイトルだ。
※『トレパク』については考えるキッカケに過ぎないため、本文では実例には触れない。
絵柄を真似されたくないという感情。
なぜ『感情』と書いたかというと、ひとの絵柄の真似をすることについて『善悪』で考えたところで、本当に辿り着きたいゴールには辿り着けない(平行線になる)からだ。
そして、一次創作物の著作権(知的財産権)に関わる話とは異なるステージの『悩み』として向き合うべきだとも思う。
「嫌だ」という感情に「合法だ」と言い返しても、もとより「真似されたくない」という感情をもつ人間は煮え切らない思いを抱えるだけだ。
私が思うに、本気で違法行為だと思って喚き立てている人はほとんどいないのではないだろうか。
ただ、嫌な気持ち自体が本物であるが故に、そうさせた相手を悪者だと言うほか、自分を守る方法を知らないのだろうと思う。
絵柄を真似されたくない人って、どうしたらいいんだろう。
真似していることを咎められた時、どうしたらいいんだろう。
絵柄。辞書で意味を調べると、『工芸品・布地などの絵の模様の構図』とあるが、アニメイラストに対してネットで通用されている定義の例としては
・主線の強弱
・人体のデフォルメ度
・影,ハイライトの入れ方
・全体の色彩
さらに細かく
・まつ毛の本数
・瞳の塗り方
・涙袋の有無
・歯列の描き込み etc
・まつ毛のハイライトの有無
・瞳孔のサイズ,形,有無
これ、全部『絵柄』だ。イラストを構成している全ての特徴を『絵柄』の一言で表すことができるわけだ。
それも、辞書に載っているような「絵そのものを指す言葉」ではなく、作者の「描き方の傾向・作風」という概念に対して『絵柄』と呼んでいるのが、恐らくネット(アニメイラストを嗜む者の間)では当たり前の意味合いとなっている。(風景画などの絵画を嗜む方達も同じように使うのだろうか?)
絵柄の類似に関する議論が平行線になりがちなのは、中心の言葉が広義であることが、一因として割と厄介な役割を持っていると思う。
絵柄。改めて考えると実にふわっとした言葉だ。
私は趣味で絵を描いていて、常日頃『絵柄』が安定していないと感じているのだが、時たま「あなたの絵柄が好きだ」と言って頂ける事がある。しかも、稀にかなりの熱弁を受けることもある。
それはそれは嬉しい。もったいない言葉だ。ありがたい。けれど、不思議だ。
自分では自分の絵の特徴が分かっていないのに、他人からはそれが見えているらしい。
もちろん、こだわりを持って描いている部位はあるから、そこを褒められると堪らない気持ちになるのだが、逆に全く意識していなかった部分をGOODと言われたりもするのだ。
私が意識していなくとも、見る人にとってはそこが私の『絵柄』なのだ。
キャラクターが主体のアニメイラストにおいて、見る側が最も注視し、特徴を感じやすいと言われているのは、キャラクターの『顔面』。さらに言うと『目』だとの意見がある。
「目さえ描き込んでおけば、顔の輪郭さえ整えておけば、髪などは多少線が雑でも『作品としてそれっぽく』なる」という話を聞いた事があるだろうか。それほど、目の印象はイラストの印象に大きく関与している事がわかる。
ということは、言ってしまえば『目の描き方の特徴』に他の人との類似性があるだけで、直感的に「『絵柄』が似ている」と判断されやすいのではなかろうか。
逆に言えば、それ以外の部分の類似はあまり気付かれにくいことになる。
そして、この「直感」は普段、ひとの描いたイラストを「どれくらい解剖して観察しているか」によって、それぞれ見えるものが異なってくることは断言して良いだろう。
作者がどんな『絵柄』を好み、どの部分に“意欲的に”取り入れているかは、絵を見た人に全てありありと伝わるものではない。
また、作者の描き方自体、100%が意図されたものとも言えない。
見る人によっては「目」という一つのパーツが、作者にとっては「まぶた」「まつげ」「眼球」「瞳」「瞳孔」「目頭」「目尻」の七つのパーツであったりする。(解剖とはこの事)
私はだんだんと、「絵柄が似ている」という言葉の不安定さが見えてきたようだった。
「絵柄を真似している」の一言だけでは、意見としてあまりに漠然としているのだ。
「同じ時間に、同じ歯磨き粉を使って歯磨きをしている」という意見を「モーニングルーティンを真似している」という大きな言葉で訴えるようなものではないか。
正直、そんな主張はまったく滑稽だと思わざるを得ないところだが、きっとそれでも「嫌だ」と思う人はいるのだろう。
『絵柄』に『流行り』がある以上、その第一人者はいたはずだ。流行りの絵柄というのは数年単位で面白いほど変わる。『流行り』は『真似』で広がる。
その第一人者が「真似されたくなかった」と思っていないとは言い切れない。自分で見つけた絵柄の組み合わせなのに、自分で見つけた表現の仕方なのに、簡単に真似しないで、という感情があったかもしれない。
真似されたくなかったけど、我慢したのかもしれない。
じゃあそれ、実際に言葉にしていたら、『絵柄の流行り』ってどうなっていたんだろう。
どうして第一人者は「真似してほしくないと言わなかった」のだろう。
自分の絵って、何に影響されて、何に感銘を受けて描いているんだろう。
今更だが、この日記は一つの答えを弾き出すものではなく、自分や読まれた方が、この感情を持ったり向けられたりした時にどう対処するのが「自分に合っていて」「ストレスが少ないか」を考える手がかりになればと思って書いた。
その事実を受け止めたとき、何を思うかは自由だが、『ストレスのない考え』を見つけることが、この問題のゴールになるのではないかと思う。
ちなみに、私は知らない世界だが、ネットでは一人の絵柄を1から10まで全てコピーしたかのような模倣をする人もいるらしい。そうなったらいよいよ法の出番かもしれない。
追記。私は好きなイラストの好きだと思った部分は積極的に真似している。仮に「真似しないでほしい」と言われたら、申し訳ないが私の好みが変わるまで待ってほしいと言うだろう。