はてなキーワード: 大友克洋とは
http://anond.hatelabo.jp/20140604175240
思ったより反応がよかったので、うれしくなって2日連続。仕事? いいじゃないですかそんなことは。
5捕 バットマン:キリングジョーク(アラン・ムーア、ブライアン・ボランド)
「気弱な少年が競技ダンスの魅力に取りつかれる話。単行本未収録。友情・努力・勝利という週刊少年ジャンプの三大原則にのっとった、さわやかな余韻が印象的な期待の新星、かと思いきや、ヤングマガジンにおける連載作はエログロ。なにそのふり幅。連載化待っています。あと集英社は一刻も早く『戦下に咲く』と合わせて単行本化してください」
「白昼夢のような短編。正直、いまだに内容が理解できていない。まったく意味がわかりません。それでもつげ義春全集を読んだ後に、どれが一番面白かったか聞くと、皆が口をそろえて『ゲンセンカン主人』と言う。凶悪なクリンナップへとつなぐ技巧派の曲者。いまだご存命とのことですが、水木御大同様この人も妖怪なのでしょうか」
「腰のあたりでつながったまま生まれてきた双子の姉妹の話。20頁弱と短いながら、大正義萩尾望都の代表作として名高い名作。切れ味が鋭すぎて若干トラウマになります」
「ある団地における超能力者たちの戦いの話。不動の四番。本塁打王と打点王の二冠。その圧倒的な迫力と威圧感は、全盛期のカブレラを思わせます。難点は、あまりの体躯のぶ厚さから、ルールに引っかかる恐れがあること」
「バットマンとジョーカーの因縁の話。チーム内唯一の助っ人外人にして捕手。メジャーリーグからきた黒船。シーズン途中まで4割を打って首位打者。『助っ人外人が捕手って、どうなの?』という方もいらっしゃるかと思いますが、だってアラン・ムーアだし、どう考えても一番かしこいから仕方ない。いいときのマウアーが日本球界に来た、と思ってください」
「結婚式を前日に控えた男女の会話劇。期待の巧打者です。クリンナップが重量級のため、肩肘を張らずに読める短編を6番に置きました。合コンでオススメの漫画を聞かれたら、最近面白かった漫画として、これか『俺物語』と答えるのがスマートな大人ではないかと思います。映画で言うと『リトル・ミス・サンシャイン』。電車の中で読んで泣いた、との知人の声多数」
「自動車競技選手の人間模様の話。連作短編『茄子』に収録されています。宮崎駿が認める天才打者。今回はクリンナップが凶悪すぎるのでこの打順だけど、去年までのカープなら中軸です。余談ですが、最初はピッチャーを『連作短編』つながりで組んでいたため、当初は先発として起用していました。チームの都合で野手に転向」
「若いカップルの何気ない日常を特徴的なコマ割で描いた話。今回のひいき枠。大好きなんだから仕方ない。漫画評論家の泉信行氏も『やまむらはじめ非公式ファンサイト』を運営していました。たんたんとしつつも、じんと胸にしみる佳作。短編集『未来のゆくえ』で読めます。粒ぞろいの短編集なので、是非」
「戦闘用ロボットとピアニストのふれあい。長編『PLUTO』の中の一エピソード。『5回までなら完全試合、完投させたら滅多打ち』こと浦沢直樹の最高傑作ではないかと思います。。独立した短編としても読めるだろう、と無理やりねじ込みました。たとえルール違反だとしても、面白いんだから選ばざるをえない」
「人間そっくりなアンドロイドと、彼女を教育する科学者の話。SF短編につづいて連続登板。だって好きなんだから仕方ない。連作短編『アフター0』に収録」
「説明不要の金字塔。もし増田が文部科学大臣に選ばれたら、強権を使って教科書に載せます。連作短編『夕凪の街、桜の国』に収録」
こちらからは以上です。
レコードチャイナ:中国系作家がSFの最高賞を受賞、小説の背景は日本文化―中国紙
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=76500
世界SF大会(ワールドコン)とはどのようなものかはWiki参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%B3%E3%83%B3
世界SF大会とコミケは「はじまりの動機や」「運営方針」はほぼ同じと言っていいのだが、何故か現在のありようは似て非なるものになっている。
どこが違うのかというと、コミケは非常に閉鎖的で、権威的な賞を廃し、またディスカッションの場では無い、コミケがワールドコンと比べて特化させた部分はあくまで同人誌即売会であるという点である。
何故そうなったのか。
Wikiによると、実はコミケの前身となる「日本漫画大会」というものが1970年代にあったという。名前のとおり世界SF大会(ワールドコン)を模したものだったと思われるが、コミケとはそもそも「日本漫画大会」のようなワールドコンの批判から生まれた訳だ。そして勝ち残ったのがコミケだった、という事になる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%BC%AB%E7%94%BB%E5%A4%A7%E4%BC%9A
これ、今だったどうなんだろう、と思うのだが。
今、日本漫画大会のようなワールドコン方式のイベントがあればいいのになあ、なんで無いんだろう、と思ってこの記事を書いている。
グローバル化に向いているのは明らかにワールドコン方式だと思うのだが、と思って調べてみるとやはりアメリカにはコミコンというものがすでにある。
というか世界各地の同人誌即売会はどちらかというと、日本のコミケを模倣しているというよりも、ワールドコンの漫画アニメ版というものが多いと思われる。
大友克洋さんが米国コミックの殿堂入り 日本人で4人目 コミコンで発表 - 10814 - | アニメ!アニメ!
http://animeanime.jp/article/2012/07/15/10814.html
さて、2020年のオリンピックが東京で開催されるそうだが、日本人のスポーツにおける理解というのは素晴らしいなと思う、今やスポーツに対してはほとんどの人が権威がどうとか、順位を付ける是非について言わない、オリンピックというイベントを通して「スポーツとはそういうもの」という最低限必要な共通認識ができている。
つまり、イベントのありようというのは、その文化と非常に関係している。
別にマンガ・アニメ文化でワールドコンのようなものは日本がやらなくても、きっとマンガ・アニメの文化は続いていくのだろうけど、そんで海外のコミコンでたまに日本人が賞を貰って、それをありがたがる。映画のように、アメリカ、フランスとか、もしくは中国や韓国で、そういう授賞式がBSスカパーとかで生中継されるんだろう。
おそらく2020年以降、そうなって行くと思う。
クールジャパンとかについて、ワールドコンのようなイベントを国が援助して作ってほしいとは全然思わない。日本文化を海外に輸出する援助というのも必要ないと思う。
逆で、海外の文化を輸入すべき。ファンサブやワールドコンの文化を日本人はほとんど知らない。それを知って、じゃあ日本はそれらと比べてどういう事をやっていくかという基準ができるから。
具体的にあげるなら、やはり言葉の壁問題が大きい。ファンサブの中には天才的な翻訳家がたくさんいる、そういう人達のほとんどが日本に来たがっている訳だが、そういう人達の来日を援助して、日本のオタクとの交流の場を作る、それも文化の解釈議論や言語翻訳に特化した場として。そんで交流が進んだところで、出版社等が作品の輸出輸入の際の翻訳やマーケティングの人材登用に対して、上手くマッチングできるような窓口となる組織を作る。
クールジャパンの人がやることはそこだと思うんだけど、もしすでにそういう事業があるのなら教えていただきたい。
五大天才漫画家「手塚治虫」「尾田栄一郎」「鳥山明」あと二人は?
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4323316.html
1.質が高い作品を複数、残している。
を条件とした場合、
手塚が入るのは当然として、赤塚は作品自体のクオリティはともかくとして革新性が弱い。
尾田は商業的にはひょっとしたら鳥山よりも成功した漫画家かも知れないが、やはり革新性に劣る。尾田はたとえるなら少年漫画界のマーガレット・ミッチェルみたいなもの。作品の訴求力と当人のクリエイターとしての革新性とは別。
鳥山は天才に当てはまると思う。ギミックを詰め込んだデフォルメされながらもリアリティを持つ画風自体が衝撃的であったのと、アメコミの影響を受けて租借したうえで、日本の漫画の原稿に和風化して落とし込むという表現技法上の革新もあった。「Dr.スランプ」は大友克洋の「AKIRA」よりも早い。言うまでもなくメガヒットを複数出している。大友をして大友的な革新性の代表として天才扱いするならば、大友的な革新性は鳥山の中に抱合することが出来、時系列的にもそれが妥当だと思う。
水木しげるは天才と言うよりはアルチザン。緻密に粘着的に徹底するという程度が他者を凌駕しているのであって、漫画史全体で見れば、それほど重きを置かれるわけではない。これは水木を軽視しているのではない。作品への評価で言えば、私はむしろ水木を手塚を凌駕して評価している。ただ、漫画史的な視点での評価はおのずと作品評価とは異なると言うことだ。田山花袋や横光利一が作品単体では大した作品は残していないにも関わらず、文学史的な革新性において評価されるように、ここで言う天才とは、作品自体の質はもとより、その数、社会的影響力、そして革新性を備えている必要があるということだ。
そういう意味では石ノ森章太郎は、天才何人か分の重要、かつ致命的な影響を漫画史に残している。フォーマットの創始者という点においても、集団ヒーローの群像劇、そのキャラクターの性格づけはもとより、マーチャンダイジングの手法においてもパイオニアと呼ぶべきである。更に重要なのは、いわゆる「オタク的」な要素の萌芽がすべて石ノ森作品の中に顕著にみられることであって、少年サンデー的な、中産階級的な趣味的なマンガすべてが石ノ森マンガに端を発しているという点である。意外と重要なのは、「日本経済入門」のような、それまで非マンガ的な要素とされていたものについてもマンガに取り込んだことで、手塚や水木の中に見られるマンガというイデオロギーを脱して、徹底的に表現手段として分解してみせるという、作家性とは別の次元の理数系的な分析をマンガに持ち込んだのも石ノ森である。
漫画表現の飛躍的な革新を成したという点では24年組(竹宮恵子、萩尾望都、大島弓子、山岸涼子)を挙げなければならないが、その集大成的な立場としては萩尾を挙げるべきだろう。手塚が基本フォーマットを作ったと言われる戦後マンガの基本は、映画表現をいかにして紙の上に再現するかと言う視点から成り立っていた。萩尾らによってマンガは初めて独立した表現手段になったと言ってよい。マンガは文字と絵が同じ一つのコマの中にあり、吹き出しのセリフ、吹き出し抜きの内面のセリフ、そして絵とそれぞれ矛盾した内容を同時に表現できる唯一の表現手段である。たとえばぶっきらぼうな少年が少女に向かって毒づきながら、なおかつ画面上では頬を染めるなどをして、明らかに少女への好意を示しているような表現は文学では難しい。描写ではなく説明になってしまう。更に実はそれも演技だとして、内面は実はこうすれば少女は自分に対してぶっきらぼうな少年に対する好意を増すであろうとの計算があるとすれば、その内心を同時に表現するのはこれは映画等でも不可能なのである。こうしたマンガ独自の表現方法の確立は萩尾望都を代表とするのであり、その表現手段の派生が致命的過ぎてもはやエピゴーネンとも意識されないほどの重大な影響を及ぼしていることを踏まえれば、彼女の存在は、二十年、三十年のスパンではなく、百年、二百年のスパンで見るならば、手塚をもはるかに凌駕する重大かつ致命的な転換点となったのであった。
と5人のうち4人までが選ばれたが、ここは議論の余地がないところである。つまり個々のこのみや評価の違いはあっても、漫画史の視点から言えば、偏見なく選べばこの4人は欠かせないということである。残りの一人は評価と好みの違いになるだろう。私は、
藤子・F・不二雄を挙げる。
[補足]
まあ、みなさんいろいろご意見はおありでしょうが、そもそも5人に絞るのが無理っちゃあ無理とちゃぶ台をひっくり返してみる。
「てめー、あれ読んでねえだろ」「俺はビートルズの武道館ライヴ見に行ったんだぜ」「江夏の21球も実際に見てない奴が投球論を語るな」的な反応はプロレス論の醍醐味で正しいレスポンス。
レスが挙げているような御大たち、高橋留美子、大友克洋、白土三平、水木しげる、赤塚不二夫、永井豪、いしいひさいち、つげ義春、大島弓子、大和和紀、三原順、梶原一騎、吉田秋生あたりは誰が入ってもおかしくない。個人的にはいくえみ綾とかも入れたい気もするが、個人的過ぎるので止めた。
あと、尾田先生が入っているのはつりですか、みたいなことを言う人には、何といっていいものやら。
[補足の補足]
ekken さんがブコメで尾田は外せよみたいなこと言ってたんですが、私もそれはリンクを張っている元記事について言っているんだろうなって思いました。そうじゃなくてもっと直接に私に向かって「尾田先生が入っているのはつりですか」と言っている人がいたんで(消されたみたいですわ。こわっ)、書いたことで批判されるならともかくさすがに言ってもないことで揶揄されるのはやだなあと思って補足しました。ekkenさん、ご迷惑おかけしてごめんなさいね。この点をブコメで指摘してくださった方も、言ってもいないことで私が批判されるみたいな流れになるのをくぎをさしてくださったんだと思います。ありがとうね。
やけに攻撃的にくるなぁ。
どうした?発情期か?
君はhttp://anond.hatelabo.jp/20090607205343の増田なの?
それ前提に書くけど、10代で卒業云々のくだりは別に君に向けてのものじゃないから。まぁ書き方がわかりにくかったとは思ってるよ。
勿論、アニメ独自の演出が好きなんだよな?
君の言う「アニメ独自の演出」に当るかどうかは分からないが、長回しのカットなんかは好きだね。
大友克洋の「大砲の街」とか「気まぐれオレンジロード」のOP(第三期)とかね。最近は少ないけどな。
あと、レイアウトやBGMや台詞の間合いなんかはアニメ独自の演出ではないけど、アニメの演出としては重要な要素だろう。
作画厨や声優厨には瑣末なことかも知れんけど。
イメージを重ねて見ようが、声優本人に直接それを押しつけない限りは楽しみ方の一つとして全然アリだと思うが?
俺的にはナシだな。そういう見方するとイメージが大きく違う役やってる時に、どっちかに凄い違和感感じるんじゃない?それって損だと思うけど。
それにそういう「ファンの声」も役者に伝わっちゃうだろうし。
不細工だから叩くんだよ。審美眼の無い奴には違いが分からんのだろうが。
俺にとってキャラは記号だからな。見分けさえつけばとりあえず許しちゃう。そもそもキャラクターの造形上の美しさは作品の本質とは関係ないじゃん。
とはいえ、作画が安定しているに越したことはないし、微妙なときにはイジるけど。
しかし審美眼とは大きく出たな。
思うところがあったので書いておく。
http://d.hatena.ne.jp/tokigawa/20081215/p3
僕の実感としては、本格的にオタクがライト化というか、オタクじゃなかったオサレな人達がいっぱいオタク文化に参入して来ているんだなと本当に思うようになってきた。
記事では『ユリイカ』の初音ミク特集の記事から濱野智史(id:shamano)やテクノウチの発言を引用し、今までオタク文化に見向きもしなかった「オサレ」な人間たちがライトにオタク文化を消費し始めていると書いてある。この記事だけでなく色々な場所で言われ始めた言説だ。
このように言われていることに一抹の危機感を感じたので本記事を書くことにする。
タイトルで「ぬるオタ」と書いたのは正確には間違っている。要するに「オタク文化も消費するサブカル系の人間」のことだ。しかし、オタク文化にどっぷり浸かっているガチな人間からはそういう人間が「ぬるい」と捉えられるのは事実である。
まず、オタク文化をライトに消費する「オサレ」な層がいきなり現れたかというのは間違っている。急に出現したかのように感じるのは錯覚だ。
このように横断的に消費していく層というのはずっと以前からいる。急に出現したかのように感じるのはやっとそのような層の声がインターネットなどによってオタクにも届くようになっただけであり、または可視化しただけだ。これは「オタクはやめることができない」という勘違いにも言えることだが、今までオタクの歴史を紡いできたのがガチなオタクだけだったために、ライトに見える横断的な層というのが無視されてきたのだ。それによって近年、急に現れたかのように見える。だけど、ずっとずっと前からいたのだ。
例えば、クラブ系イベントを消費する層がオタク文化に流入してきたという風に書かれているが、テクノというのはかねてからオタク文化と親和性が高かった。
それはテクノポップの始祖・YMOの細野晴臣がゼビウスをサンプリングして『ビデオ・ゲーム・ミュージック』を製作したように、特に日本においてはゲームミュージックが源流にある。あの中田ヤスタカだって渋谷系音楽からの影響は否定するがゲームミュージックは素直にリスペクトする。それほど大きな存在であり、ピコピコに魅入られて音楽キャリアがゲームミュージックから始まっている人間は多い。
それゆえ、オタク文化への親和性は高く、90年代初期においてもアニソンやアイドル歌謡をテクノリミックスして遊ぶことは当然のようにあった。
そうでなくてもテクノ界隈の人間は宅録という手法がオタク気質に合っているなどと言われりしてオタク的な人間が多い。日本最大のクラブイベント『WIRE』を主催する石野卓球は根本敬を語りガンダムをネタにしキャシャーンOPのカバーした。テクノ系音楽の輸入に貢献した人間からしてこうなのだから後に続くものは推して知るべしである。
イベントだけをとってもDENPAの前にはコスパが存在するし、ナードコアだって存在した。ニコニコ動画界隈で吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』をリミックスして遊ぶのが流行ったが、その十年も前に『レオパルドン』というアーティストがサンプリングのネタとして使用し『NO DISCO CITY』という楽曲を発表している。クラブでは既に吉幾三を聞いて踊り狂っていたのだ。
ここら辺の歴史が忘れられかけているのもすべて「語る人間の不足」が原因である。
もっと言おう。同じように言われるオタクとDQNが急接近しているというのも間違いである。今でこそまったく違う存在として認識されいてるがその原風景では学校内で異端視されるものとして同じであったし、ずっと親和性は高かった。
「ゲーセンは不良が行くところ」という言葉が参照される際、カツアゲなどがエピソードとして語られることが多いが不良がアーケードゲームに昂じていたことを忘れてはならない。それにオタクと同じように漫画を読み続けていたのも不良だったし、マイナーな洋楽に聞きほれてバンドを始めてしまうのも不良だった。不良はずっとサブカル的なものを消費してきたしオタクとは身体性は違っても嗜好性は近かった。
バンドマンには特撮オタクやアニメオタクが多く甲本ヒロトは大学生になっても特撮を見続けていたし、YBO2は『太陽の王子 ホルスの大冒険』をカバーした。
特にヤンキーというのは語る人間が不足しているので歴史はおろかその生態すら満足に語られていない。現役のヤンキーの言葉を丹念に聞き続けている岩橋健一郎という人間もいるが彼の活動がまともに耳を傾けられたことはない。
漫画だってずっとずっと広い層から読まれ続けていたんだ。大友克洋を代表とする漫画郡が「ニューウェーブ系」と言われてサブカル系の人間も消費していたし、ヤンキーには上條淳士がいたし、ギャルには岡崎京子がいた。
昨今のヤンキーとオタクが急接近であるとか、オタク系文化とクラブ系文化の融合だとかいう話は歴史の蓄積なき忘却のなせる錯覚なのである。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
人様のキャラを使ってオマンコさせるのは、オマージュでもパロディでもなんでも無えよ!
そういや手塚絡みの著作権問題がネット上で盛り上がっていた時、浦沢直樹の「PLUTO」を二次創作と呼んでいるヤツがいて、ぶっ飛んだわ。
「PLUTO」には「オリジナリティがあるから」OKなの?同人のいわゆる「二次創作」には「オリジナリティがないから」NGなの?それともエロネタで下品だからNGなの?じゃあ古典にネタを取った江戸の黄表紙人情本の類はNG?あるいは浦沢直樹はOKでも田中圭一はNG?
そもそも浦沢の初期絵柄なんてあからさまに大友克洋リスペクトな絵柄なわけだけど(まあそんな人は当時山のようにいたけどね)そこは問題じゃない?
……だからね、文化ってそんなに高尚なもんじゃないと思うのよ。歴史的に見れば。模倣もパロディも山のようにあふれかえってて、そんな膨大な、そして下らない作品の中からホンの一握りものすごい輝きを放つ作品が生まれてきたりするわけで、だからといってその「素晴らしい作品」以外を全部無しにしてしまえ、なんて言えるわけじゃないってこと。
それでもまだ人のレベルを云々するなら、自分はどこで線を引くつもりなのか、その線引きは歴史的に見て間違いないと言えるレベルの線引きなのか、感情的にならずきちんと述べて欲しいね。あなたがリアルでどれだけ賢い人か知らないけど、まだここでは「全然違う」以外に何も言ってない。平気で人を貶すなら、せめて自分の賢さの片鱗くらいは見せて欲しいよ。それからついでに言うけど「本『家』取り」じゃない、「本『歌』取り」。変換ミスかと思ったら二回も使ってるから訂正しておくよ。それじゃよろしくね。
僕は押井守の「攻殻機動隊」や「パトレイバー」、大友克洋の「アキラ」や機動戦士ガンダムシリーズが好きなんだ。どれも色んなことを考えさせてくれるいいアニメたちさ。それと、あんまり中身のないアニメは好きじゃなくてね。最近ネット上でやたらとい盛り上がってる萌えアニメみたいなやつさ。あんなののどこがいいっていうだい。キモいオタクたちがハァハァするためにデザインされた目がやたらデカくて、髪の毛の色がパステルカラーの美少女が乱舞してるあれさ。中身がなくて反吐が出るね。あんなゴミみたいなアニメがやってるから、いまだにアニメが一般人からキモいものだって認識がなくならないんだよ。ほんと死ねよ萌えオタ、ファッキン萌えオタ。
そんなゴミのような萌えアニメが氾濫し始めたのはいつのころからだろう。記憶が確かなら僕が中学生だったときあたりから繁栄していたはずだ。僕はこのころから萌えアニメを軽蔑していた。あんな中身のないアニメを楽しんでいる奴等は馬鹿だ。そう思っていた。たしかゲームでも「シスタープリンセス」だの「Kanon」だの、妹が12人いて好かれるだの、目のでかい女の子が頭の悪いしゃべり方するようなのがネット界隈じゃ人気らしくて、こんなのを支持してるやつらはよっぽど頭の中がおかしい連中なんだと思ったね。
ちなみに僕が好きだったゲームはテイルズシリーズだね。アクションRPGのなかでも格別の面白さだな。だからこそ、最近のシリーズの、変に萌えオタクに媚びたようなコンセプトにはがっかりしたね。
まあいい、こんなゴミクズのために貴重な紙を無駄にすることはないんだ。僕は萌えアニメを見てるような奴らはみんな女の子から相手にされていない恨みを美少女キャラにぶつけてるんだ、そう思った。でもその僕の考えは高校で否定されることになったんだ。
僕が入ったのは県内でもそれなりのレベルの共学校。僕は青雲の志を抱いて高校へ行った。そして、僕はここでなら彼女んもできると思っていた。
気づいた時には僕の高校ではギャルゲーや萌えアニメ、萌えマンガが大流行していた。発端は何だったろう。オタクの男子たちがそんな代物を恥ずかしげもなく教室に持ってきて、それを女子たちが興味深げに眺めている。たしか最初はそんな感じだったはずだ。
僕はそれを不快に思っていた。こんなクズがいるから、日本の誇りうるべき文化たるアニメやマンガが誤解されるんだよと。こんな屑萌えアニメなんかよりもすばらしい作品がこの世界にはたくさんあるんだよ、と。
しかし、彼ら萌えオタクどもが布教したのだろうか。女子も含めたクラス中の人たちが、そういった萌えアニメやギャルゲーを楽しむようになっていたんだ!そして、給食時間にはギャルゲーだかの主題歌らしい甘ったるい声の女の歌が流れたと思ったら、クラス中一斉に歓声が流れた。僕は内心こいつら全員死ねと思っていた。
気づいたときに萌えアニメブームに乗らなかったのは僕だけになっていた。僕は誰ともしゃべらなくなっていた。クラスの萌えオタクの男子たちは彼女を作ってデートをしているという情報が毎日耳に入ってきたが、僕は全部ウソに決まっていると言い聞かせた。
受験時代がやってきた。僕の目指すのは京都大学、最低でも旧帝大クラスには入りたいと思っていた。
そんな時、僕の高校ではもえたんとかいう英単語帳が大ブームだった。表紙には萌えオタクどもが喜びそうな目だけでかい萌えキャラが踊り、内容も僕は妹をギュッと抱きしめただのの、萌えオタクの醜い妄想を並べたような代物でヘドがでそうだったね。僕は心底軽蔑した。こんなゴミ単語帳使ってるやつなんてどこの大学にも行けるわけがない、そう思った。
しかし、もえたんを使っている連中は、もえたん発売と同時に英語の成績がぐんぐんと伸びていったんだ。
それだけじゃない。もえたんは男だけじゃなく女の子たちにも愛用されていた。キャラがかわいいんだそうな。絶対に間違ってるよ!
僕はもえたんなんて絶対使わなかった。あんなもの使うぐらいなら死んだほうがましだと思った。
そして、もえたんを使っていた連中のほとんどが東大や京大、早稲田や慶応といったトップクラスの大学に合格していた。あとで合格体験記を見たら、もえたんのおかげで英語の成績が伸びたと言っている奴がいっぱいいたとか。
2年目の受験、そこでも僕はセンター試験で信じられないような悪い成績だった。これではどんな大学も入れやしない。もうこれ以上予備校通いをできるような経済状況でもない。だから、今の僕でも入れるような場所、短大しかなかった。最後の最後で僕は短大に合格した。
短大での2年間もまた、高校のころと変わらない、惨めな生活だった。ここでも、萌えオタクたちが大手を振っていた。文化祭では萌えアニメの主題歌を歌ったバンドが大人気となり、あとで聞いた話では彼らはライブの後、ファンの女の子たちを全部喰ったらしい。
そして、僕は就職活動にも失敗した。萌えオタクたちはみんな成功していたというのに!
派遣先で僕は散々苛め抜かれた。きっかけは僕が、とある萌えアニメについて社員がしゃべってるときに話を振られて「そんな内容のないアニメなんて見る価値あるません!」と言ったところ、連中の逆鱗に触れたらしい。それからは靴に汚物を入れられたり、つなぎを隠されたり、落書きをされたりした。
でも、この苛めはある種僕に誇らしい気持も与えた。そうだ、萌えアニメのファンはこんな残忍なことを平気で出来る人間の屑なんだと。僕のような中味あるアニメを見て育った人間はこんな他人を傷つけるようなことはしないんだと。
それでも僕は度重なるいじめに疲弊していた。そんなとき、僕はインターネットであるサイトを見つけたんだ。それは「第二次惑星開発委員会」
僕はこのサイトを読んで目から鱗が出たね。こんなところに僕と同じ考えを持っていた人がいたなんて!
特に素晴らしかったのは最近萌えオタクの間でブームらしい涼宮ハルヒの憂鬱とかいうアニメの項目で
>この作品が好きなオタク男子たちも、「酸っぱい葡萄」状態にあるんですよ。 本当は
>「等身大の青春」に憧れているんです。でも、残酷な話だけどおそらくはスペック上の
>問題で、それが手に入らない。でも、そんな悔しさを素直に認めたくないんですね
と書かれていたことだ。やっぱり萌えオタクはもてない恨みを美少女キャラにぶつけていたんだ!でも実際にはモテるはずがない!ざまあみろ!どうせ職場の連中もモテないからハルヒとかに入れ込んでるんだろ!その恨みが爆発して僕のような人間のいじめるんだ。萌えオタクは人間の屑だ!
そして、一緒に旧惑星開発委員会も見た、そこは作品レビューが中心のページだったけれど、どれもこれも僕の考えとおんなじだった。Kanonは受け手も送り手も救いようのない作品だとかね。
それに主催の善良な市民さん(宇野常寛)の高校時代の話も面白かった。確かにこういう奴らは僕の高校にもいたと納得した。ただ、ちがっていたのは僕の高校ではギャルゲーマーだった連中にはみんな彼女がいたということだが、このことを思い出すと、市民さんの話が楽しめなくなるので思い出さないことにした。
そして僕は善良な市民さんの言葉に救われた気がした。勇気づけられた。
そうだ、僕はまちがってなんていない。間違っているのは萌えアニメ好きな連中のほうなんだと。やはり中身のあるアニメが一番なんだ・・・。
僕はこんな最低の萌えアニメ信者どもがたむろする職場にはさっさと見切りをつけて、また別の場所へと行こうとした。そして、僕は惑星開発委員会を読み倒し、次の職場では華々しくデビューしてやろうと思ったのだ。
次の職場じゃまたしても内容のないらき☆すたとかいう萌えアニメが大ブームだった。でも僕はこれまでの僕じゃない。惑星開発委員会の力を得たんだ。そして僕はその時やっていたアニメの中で最も大好きだった電脳コイルを薦めたんだ。電脳コイルは素晴らしい。これこそ僕がこれまで待ち望んでいたアニメだといっていい。
「そんなものよりも電脳コイルみようぜ!すごい面白いんだぜ」
僕は声を大きくして叫んだ。はっきりいうがらき☆すたなんていうくだらない萌アニメよりも電脳コイルは数百番倍面白いと断言できる。だからみんなも早く見て目を覚ますんだ。
「電脳コイルぅ??知らないなぁ。」
「ああ、ちょっとだけ聞いたがある。小学校の女の子が見るようなアニメだよね」
「えー加藤君って、小学校の女子が見るようなアニメ見て楽しんでるの?幼稚ぃ??、っていうかロリコン?」
「違う!確かに小学生の女の子向け作品だけど、大人もちゃんと楽しめるんだよぉ!」
「必死なところ図星のようだねぇ」
「違うんだ!一度見てみろよ、面白いから!」
「そもそも加藤君みたいな人間が面白がってるアニメってきっと気持ち悪いマニアックなアニメだよねぇ」
「ふざけるな!それなららき☆すたなんて萌えアニメのほうが気持ち悪いわ!」
・・・この通り僕のデビューは無残に失敗した。そのあともらき☆すたブームはとどまることを知らなかった。それに、みんなの話題はメイド喫茶とかアキバ系の文化の話ばかりだった。
カラオケで、らき☆すたのOPであるもってけ!セーラー服とかいう気持ち悪い歌をみんなで合唱しているのにも入らなかった。そして僕は電脳コイルのOP曲を歌ったが「キモい」と言われた。
もう僕は限界だった。僕が間違ってるはずがない。惑星開発委員会だってそう言っているはずだ。同時に僕は出会い系にはまっていた。彼女は僕の話をやさしく聴いてくれていた。僕が職場の萌えオタクどもへの悪口にも「うんうん」とうなづいてくれていた。彼女こそが僕の思い描いていた理想の人だと思っていた。
そのころ、惑星開発委員会の主催の宇野常寛さんがメールマガジンでコラムを発表していた.その名も“友達からはじめよう”
そうだ僕もそうやって彼女と新しい生活を始めよう。
「友達からはじめよう!」
「キモっ」
彼女は僕の顔を見るなりそう吐き捨てた。
「ずっと思ってたけど、あんたキモいのよ、何?アキバ系はキモいって?あんたのほうがよっぽどキモいわよ。金をもらってたから反論しなかったけどね、アキバにはあんたなんかより百万倍いい男がたくさんいるわよ!私ね、アキバでハルヒダンスしてた男と寝たことあるけどね、本当にすごいテクニックだったんだから。何度も逝かされたわ!あんたなんかには無理よ!メイド喫茶で働いている女の子たちも必死で仕事してるんだからね!あんたなんかに悪口言われる筋合いないわよ!それに萌えアニメのほうがあんたが楽しんでるらしい電脳コイルだのコードギアスだのよりも面白いし人気なの知らないの?もう近寄らないでくれる?」彼女は一気にまくしたてると去って行った。
僕は何もできなかった。でも、心の奥底で激しい憎悪の念が湧きあがってくるのを感じていた。秋葉原にいるような萌えオタクがいるからこんなことになるんだ。アキバにいる萌えオタクどもを皆殺しにしてやる。そうすれば世界は元に戻るんだ。僕のようなちゃんとしたアニメが好きな人間が心地よく生きられる世界ができるんだ。そのためにも地上にいる萌えオタクどもは抹殺しなければならない。手始めに、萌えオタクどもの聖地、秋葉原を崩壊させてやる。これで萌えオタクどもも終わりだ・・・。そう思うと、僕はコンビニでダガーナイフを買いに家を出た・・・。
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この手記を残したのは何を隠そう、秋葉原路上連続殺人事件の容疑者・加藤智大である。加藤はこの手記を書き終えた後に、秋葉原に向かったのである
加藤は「日曜日の夕方に秋葉原にいるということは奴らはコードギアスを見ていないということ、こいつらのせいでギアスが低視聴率なんだ。こんな奴らは殺してしまっても構わない」と供述し、また「もし、1年前だったら、電脳コイルやガンダム00がやってる土曜日の夕方に犯行を決行していた」とも語っている。
しかし、これらの証言と手記は、今回の事件は萌えオタクの犯行にしたくてやまないマスゴミどもの手によって闇に葬り去られている。
また、このような犯罪者を生み出しながらも、のうのうとした顔でデビュー評論「ゼロ年代の想像力」を刊行した宇野常寛はインタビューにてさも自分は関係ないといわんばかりのコメントを残している。
あの絵柄を模倣できた人がほぼいないっていう事実はどうだ。
大友克洋はメチャメチャ絵がうまいけど、大友風の絵柄のマンガはたくさんある。トニーたけざきという鬼っ子も出た。
原哲夫もそうだよね。模倣者をたくさん生んだ。
でも、鳥山風の絵を描くマンガ家ってほとんどいないでしょ。パプワ君はわざとだし。
あとこれはまた抽象的な話になっちゃうけど、鳥山明は空間や立体をとらえて絵にするのがうまい。
モデラーとしての腕前が相当だから(タミヤの模型コンテストに一般人に混じって応募して入賞してる)、三次元をとらえるのがうまいんだと思う。
そうやってとらえた空間を、あのポワポワした絵柄で絵にするんだから、そりゃオリジナリティが出るよ。
五年前に家にある5000冊ぐらいの漫画を500冊ぐらい残して片っ端から処分したけど、その後は限定したものだけ集めようとしてるのにもう1500冊ぐらいに戻ってしまったよ。どうする。
以下メモ。かなり抜けがあると思うがただのメモなので知らない。
多すぎて把握できない
驚くほど読まない。食わず嫌いに近いと思う。
今は無き『鎖縛』は毎号買ってたなあ。あと遊人が最近浦沢キャラの模倣をやってたので驚いた。
試写会で見てきたよ。
舞台挨拶もあったが、蒼井優かわいいのな。やはり女優さんだな。和服よかった。
でも蒼井優もオダギリジョーも大森南朋も、みんな口が重い。というか気が重そう。なんか、あまりハッピーな感じではない。
最初は普段からこんな感じの人たちなんだろうと思っていたが、映画見て考えが変わった。
たぶんこれ、出演者には不本意な作品なんではないか。自信持ててないんじゃないか。
だって素直におもしろくないもん。
評価できるとこは世界観とか、よく出てて、神秘的な感じとかね。ああいうのは好きだった。
見入ってしまうシーンもあったんだけどね。役者の演技もよかったと思う。
でも全体的にだめだめ。試写会終わったときの観客の空気もあれれという感じ。
設定が説明不足な感は否めないので(その割に不要なシーンがある)、そこはマンガを読んでないとだめなのかも。
蒼井優が最初で、理解しようとするのではなく、五感で感じてくださいみたいなことを言っていて、ああなるほどねと思った。
そうとしか言えないかもしれない。