はてなキーワード: 黄表紙とは
オノマトペの「もふもふ」はここ10年位で定着したものだろうが、「もふもふ」はいかにして意味を確立し、市民権を得たのか。これについて考察し、一定の知見が得られたので報告する。
まず、「もふもふ」の初出には諸説あるが、調べた限り最古のものは、筋肉少女帯の「香菜、頭をよくしてあげよう」 という曲である。1994年発売の8cmCDに収録されているこの曲の中で「モフモフ」は、ジャムパンを食べる際の擬音として用いられている。
次に登場する用例は、2001年発売の武井宏之の漫画「シャーマンキング」14巻である。やはりパンを食べる際の擬音として「モフモフ」が登場する。
その後、2004年に高橋弥七郎氏のライトノベル「灼眼のシャナ」に、メロンパンをあらわす擬音として登場する。この用例では、メロンパン上部のクッキー生地を「カリカリ」、中心部のパン生地を「モフモフ」と形容している。
現在書籍などで「もふもふ」の初出とされているのは、概ね上記の3つである。筋肉少女帯のジャムパンを食べる際の擬音が最も古く、また3例ともパンを表す擬音であることが分かる。これらは似た時期に自然発生したものではなく、初出である筋肉少女帯と、それに関連づいた2例であると言えるだろう。
さて、ここで気になるのが、2020年において「もふもふ」は、パンを食べる際の擬音としてはあまり用いられていない点である。肌感覚ではあるが、2010年ごろには、もっぱら動物等の質感や毛並みを表す語として「もふもふ」を使用していたように思う。
2013年にはドコモの「iコンシェル」のキャラクターの羊が「きゅるりんきゅるりんモフモフきゅるりんきゅるりん♪」と歌っていたことが、SNSの投稿などから分かる。少なくとも2013年においての「もふもふ」は、動物の毛並みを表す言葉として一定の市民権を得ていたようだ。
では、いかにしてパンを表す「もふもふ」は毛並みを表すものに変わったのか。
先述の3つの用例のうち、灼眼のシャナでメロンパンを描写した際に使用されていた「カリカリモフモフ」が、「もふもふ」が動物の毛並みを表すに至るターニングポイントになる。
「ルイズコピペ」を覚えているだろうか。2006年に2ちゃんねるのゼロの使い魔スレに投稿されていたもので、ゼロの使い魔の登場人物に対する愛の叫びである。
ルイズ!ルイズ!ルイズ!ルイズぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!!
あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!!ルイズルイズルイズぅううぁわぁああああ!!!
あぁクンカクンカ!クンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん
んはぁっ!ルイズ・フランソワーズたんの桃色ブロンドの髪をクンカクンカしたいお!クンカクンカ!あぁあ!!
間違えた!モフモフしたいお!モフモフ!モフモフ!髪髪モフモフ!カリカリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!!
小説12巻のルイズたんかわいかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!!ふぁぁあああんんっ!!
アニメ2期放送されて良かったねルイズたん!あぁあああああ!かわいい!ルイズたん!かわいい!あっああぁああ!
コミック2巻も発売されて嬉し…いやぁああああああ!!!にゃああああああああん!!ぎゃああああああああ!!
ぐあああああああああああ!!!コミックなんて現実じゃない!!!!あ…小説もアニメもよく考えたら…
ル イ ズ ち ゃ ん は 現実 じ ゃ な い?にゃあああああああああああああん!!うぁああああああああああ!!
そんなぁああああああ!!いやぁぁぁあああああああああ!!はぁああああああん!!ハルケギニアぁああああ!!
この!ちきしょー!やめてやる!!現実なんかやめ…て…え!?見…てる?表紙絵のルイズちゃんが僕を見てる?
表紙絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!ルイズちゃんが僕を見てるぞ!挿絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!!
アニメのルイズちゃんが僕に話しかけてるぞ!!!よかった…世の中まだまだ捨てたモンじゃないんだねっ!
いやっほぉおおおおおおお!!!僕にはルイズちゃんがいる!!やったよケティ!!ひとりでできるもん!!!
あ、コミックのルイズちゃああああああああああああああん!!いやぁあああああああああああああああ!!!!
注目するべきは、「カリカリモフモフ」が転じて「髪髪モフモフ」になっている点だ。駄洒落のようだが、これがパン専用の擬音だった「もふもふ」が、毛並みを表す語として使われた最古の例ではないだろうか。
このコピペや、これを改変したものは大いに流行し、当時2ちゃんで見かけない日はなかった。2ちゃん(というよりはVIP)のまとめブログ等も流行っていた時代であり、このコピペの認知度はそれなりに高かったように思う。
ここから、ふわふわした毛並みのものを「もふもふ」と形容するようになり、近年の猫ブームも手伝って広く定着し、NHKがけしからんモフきゅん番組に「もふもふモフモフ」というタイトルをつけるに至ったのではないだろうか。
長くなったが、ここまでが「もふもふ」がいかにして生まれ、意味を確立したかについての考察である。
他に「もふもふ」の起源や遷移についての知見があれば、ご教示願いたい。もふもふ。
様々な用例や知見が集まり、とても参考になった。挙げられた例や参考資料については、可能な限り後で目を通そうと思う。
「もふもふ」の語源について調べると、ネットやマンガ・ラノベ由来で近年発生した語であると説明されている場合が多いため、新語だと思い込んでいた。中にはシャーマンキングが初出だと言い切るインチキな書籍まである始末だ。
案外毛並みの「もふもふ」の歴史も古いようなので、元々毛並みとパンの2系統存在していた「もふもふ」を、たまたまルイズコピペが結び付けてしまったに過ぎないのかもしれない。
それから、2020年にルイズコピペにこれほどの求心力があるというのも、興味深い事実である。
ブコメで挙げられていた「オノマトペの謎――ピカチュウからモフモフまで」という本を読んだ。シャーマンキングとシャナのパンの描写を挙げ、00年代半ばの2ちゃんねるで「もふもふ」が使われ出したような説明がされており、結局「もふもふ」の初出と遷移について目新しい知見は得られなかった。なぜ本を書く人は筋肉少女帯を無視するのか。
しかし、その本の中で「は」行が柔らかな印象を付加する効果を担っているため、「もこもこ」に無いニュアンスを補完する新たな語として「もふもふ」が定着したと説明されており、それについては合点がいった。
また、女子中高生ケータイ流行語大賞2010に「もふもふ」がノミネートされていたことも、この本で示されていた。2010年の「もふもふ」は、2020年における、「〇〇しか勝たん」のような位置付けの言葉だったというなら、やはり「もふもふ」は新語なのだろうか……
また、このトラバも大変参考になった。
https://anond.hatelabo.jp/20201127104845
ここでは、旧仮名遣いについても言及されているが、国立国会図書館のデジタルコレクションで見ることのできる1784年の黄表紙「もふもふもふ怖噺」が「モウモウモウコワイハナシ」であることから、旧仮名遣いの「もふもふ」は「モウモウ」と読むのが適当かと思う。
次のように考えてみればどうだろう?
そもそも「漫画家」が職業として成立しているのは、歴史的に日本人に「図像を介したコミュニケーションリテラシー」が高かったから。それは、他国にあまり例がない「絵巻物」の隆盛であったり、青表紙赤表紙黄表紙などの絵本・絵入り雑誌文化であったりを見ても分かる。法隆寺金堂にある「大工の落書き」を見ても、昔からの日本人のデフォルメされた図像に対するセンス、絵心は伝わってくるだろう……云々。それは、文化を「内側から発生」ではなく「海外から輸入」することで発展させてきたこの民族が独自に身に付け発達させてきた、異文化間での高度な伝達・学習ツールだったのかもしれない。たとえば、自分たで発明したわけではない地獄や極楽の概念を一般大衆に分かりやすく広めていくために「地獄絵図」の描き方がやたらと進化した、とかそういう意味で。
こう考えれば「漫画家が職業として成立しているからイラストが描ける人が多い」というのは、説明としては順序の逆転した不正確な説明なのではないだろうか? むしろ「漫画家が職業として成立するほど日本人は(古来から)絵心にあふれている」のであって、これはやはり民族的(文化的)特性と言えるのではないだろうか。
未婚も離婚も多く、独身男性が多く暮らす町・江戸だからこそ芽生えた文化というものがある。
自炊をしない独身男が多かったからこそ、世界のどこよりも早く17世紀には外食産業が確立した。
寿司(すし)や天婦羅(てんぷら)、蕎麦(そば)などは、当時は移動式屋台で売られ、今でいうファストフードとして栄えることになる。
食にうるさい江戸の男たちのために、今のグルメ口コミサイトやミシュランに当たる「料理茶屋番付表」なるものも配られていた。
家から一歩も外に出ることなく、必要な食材や料理は「棒手振り(ぼてふり)」という行商から買うことができた。
今でいうデリバリーフードサービスである。江戸の独身者たちは、モノを所有せず、必要な時だけ借りるという消費形態を好んだが、それはまさしく今のシェアリングエコノミーそのものだ。
現代の東京・秋葉原で隆盛を誇るアイドルビジネスやメイドカフェビジネスも、原型は江戸時代にあった。
アイドル写真集とも言うべき浮世絵(美人画)や、マンガに相当する黄表紙という本のジャンルもこの時代に生まれた。
おもしろいw
男オタクが利用者人口の大半を占めるコミュニティに女性として参加すれば女性である利益や不利益は当然ある。女性である利益を存分に享受してる女性もいる。
もちろん、例えばガールズチャンネル等に見られるようにその逆も当然ある。ただことネットにおいては黎明期に理工系のギークを初めとしたインテリやブルジョワの男性達が築いたコミュニティを土台にした文化が連綿と今に至るまで引き継がれている為に、通常用いられる一人称が「俺」や「ワイ」であることが当たり前になっている様に基本的に男性が利用する前提の文化が成熟している。
また、貴女はまるで自分達女性オタクだけが特別の迫害の対象だった様に言っているがそれは私の認識とは違う。
恐らく貴女が迫害の加害側に認定している匿名掲示板においては、ありとあらゆるものが時に加害され、時に賞揚され得るのだから。
例を挙げると5ch、つまり旧2chにはなんでも実況jという掲示板がある。
この掲示板の成り立ちについてここでは説明を避けるが、野球を愛好し、猛虎弁と呼ばれる似非関西弁を用いてレスをする利用者が多数を占めることで有名な掲示板だ。
ここではかつて、貴女のような女性オタクを含めた「オタク」そのものが押し並べて差別されていた歴史がある。
オタク達が立てる声優やアニメのスレッドは嫌悪され迫害の対象だったのである。
しかしなんでも実況jへのオタク達の流入とその活動は止むことがなく、遂には相次ぐオタク迫害の波を退けることに成功し、今ではなんでも実況jにおいてほぼ恒常的に何らかのオタク関連スレが立っているという状況にまで好転せしめたのである。
この事例から得られることは、迫害にあっても折れることなく自己主張を続けることで迫害を退け自らの地位を獲得することが可能になることもある、という教訓である。
貴女は一部の男性オタク達に対して、傍観しているだけだった、と批難しているが、そういう貴女達女性オタクこそ迫害に対して傍観しているだけだったのではないか?
男性オタクに擬態して会話などせず、自らの女性性を存分に主張して活動すれば良かったのではないか?
迫害に屈することを選んだ貴女達女性オタクには何らの責任も存在しないのか?
それとこれは蛇足であるが萌え絵が少女漫画にインスパイアされているという話は、結局手塚やメビウスの話から始まり黄表紙にまで遡ったりするので、そういった起源を主張するのは言うだけ野暮であると思う。
またコミケの起源の話についても同様だが、初期のコミケが女性を主体としたイベントであったことから現在のコミケ文化を男性側の盗用のように批判することは、例えば少年漫画誌における男性読者の女性向け批判の様な水掛け論に回収されるのでやはり言うだけ野暮であると思う。
なにも考えずにただ楽しむだけのなにがいけないのか
そうなんだよね。
「美味礼賛」(辻調理師学校の設立者・辻静男の小説風評伝、海老沢泰久著)の中で、自宅でパーティーを開いた辻静男がお客の質問に対してイラッとするシーンのことを思いだした。
お客の中の一人が、「これは何を使ってるのか」「どういう風につくるのか」と、気を利かせたつもりで質問するのね。それを横の客がたしなめる。「そういう質問はよしなさい」「それを聞いてどうするんですか。知ったところでこれがつくれるわけじゃないでしょう?」と。で、件の客が「おいしいですね」とだけ言う。辻がほっとする、という。冒頭の一シーン。
ただ、これは「好きなものについて語るな」ということではないのね。事実、辻静男自身が、膨大な「料理関係本」コレクターであると同時に、山のようなエッセイを書き残しているから。「楽しむ」という行為に理屈はいらないんだけど、その先まで行くと、そこには創造し表現することが現れてくる。
半可通(はんかつう:中途半端な、自称「通」の人)という言葉は江戸の昔からあって、人間は記号的な存在だから、趣味にのめり込む際にどうしても「本物」より「情報」先行型になってしまうタイプが昔からいるのね。たとえば、江戸の黄表紙本の先駆けである「金金先生栄華夢」は、そういう「半可通」を描いた作品だったりする。「オタク」というのも、本来はそういう側面への批判を含んだ言葉だったんだね。何も生み出さない・生み出すことができないのに、生み出す側の人間であるかのような口ぶりでモノを言うカッコ悪さ。ただ、そういう「オタク」の中から本当の作り手が現れたりしたこともあって、「オタク」という言葉から悪いニュアンスが軽減されていった。
まあ、それはそれで当然かもしれない。誰だって、始めにあるのは「何も考えず楽しむ」段階だと思うしね。つまり、
おおよそ、こういう段階があるんではないか、と。趣味のジャンルにもよるし、趣味に対する個々のスタンスによっても違うんだろうけど、たとえば料理という「作り手と受け手が遠いジャンル」では「Ⅴを目指すのが真の趣味道で、Ⅴを目指せない・目指さないならⅠでよい」という若干窮屈ではある考え方になるのかもしれないし、逆に読書やスポーツのファンなんていう”消費”を基本とした趣味なら、「Ⅴ(作家/スポーツ選手)を目指す」まで進むという人はあんまりいないから、Ⅲあたりの人が偉そうな顔をしてⅠの人がなんだか肩身の狭い思いをさせられるのがデフォとか、まあそんな感じになるのかね。
人様のキャラを使ってオマンコさせるのは、オマージュでもパロディでもなんでも無えよ!
そういや手塚絡みの著作権問題がネット上で盛り上がっていた時、浦沢直樹の「PLUTO」を二次創作と呼んでいるヤツがいて、ぶっ飛んだわ。
「PLUTO」には「オリジナリティがあるから」OKなの?同人のいわゆる「二次創作」には「オリジナリティがないから」NGなの?それともエロネタで下品だからNGなの?じゃあ古典にネタを取った江戸の黄表紙人情本の類はNG?あるいは浦沢直樹はOKでも田中圭一はNG?
そもそも浦沢の初期絵柄なんてあからさまに大友克洋リスペクトな絵柄なわけだけど(まあそんな人は当時山のようにいたけどね)そこは問題じゃない?
……だからね、文化ってそんなに高尚なもんじゃないと思うのよ。歴史的に見れば。模倣もパロディも山のようにあふれかえってて、そんな膨大な、そして下らない作品の中からホンの一握りものすごい輝きを放つ作品が生まれてきたりするわけで、だからといってその「素晴らしい作品」以外を全部無しにしてしまえ、なんて言えるわけじゃないってこと。
それでもまだ人のレベルを云々するなら、自分はどこで線を引くつもりなのか、その線引きは歴史的に見て間違いないと言えるレベルの線引きなのか、感情的にならずきちんと述べて欲しいね。あなたがリアルでどれだけ賢い人か知らないけど、まだここでは「全然違う」以外に何も言ってない。平気で人を貶すなら、せめて自分の賢さの片鱗くらいは見せて欲しいよ。それからついでに言うけど「本『家』取り」じゃない、「本『歌』取り」。変換ミスかと思ったら二回も使ってるから訂正しておくよ。それじゃよろしくね。
http://anond.hatelabo.jp/20071017144742
江戸時代、山東京伝の黄表紙(コメディ)が世間に孔子様のご期待通り礼が浸透した場合の社会が描いている。
江戸時代の戯作黄表紙:作品鑑賞其の弐 孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)
http://kibyou.hp.infoseek.co.jp/sakuhin/sakuhin2.htm
当世は、朱子学と藍染めの格子縞が大流行。礼を好み、金銀を嫌う世の中になった。 乞食が礼を学び、金持ちの商人が金を施そうとして断られる。傾城買いも大金を使うのを色男とされ、女郎は客に金を押しつけようとする。客の息子株は大金を背負い込んだため、朱子学が孝行を勧める通り、勘当を受けようとするが、親は朱子学の通り、子供を許す。 呉服のえびすやは貧乏神屋と屋号を変え、悪い商品をもっと高く売ってくれと客に言われる。そば屋は無料でそばを振る舞い、金をおいて逃げ出した客をそば屋はその客を追いかけ、握り拳でその頭を撫でる。通人は木綿を着、追い剥ぎならぬ追いはがれが出没、大豊作ゆえたくさん年貢を納め、天は米と小判を降らせる。小判に埋もれた人々は何とか助かる。
何時だって理想は現実ではないので気に病むことでもない。