はてなキーワード: 邦画とは
映画でも中国や韓国含めて世界中で大ヒットの洋画が、日本ではそこそこくらいの結果しか出せていないことが多い。
昔はみんな洋画を観ていたのに今の若い人は邦画やアニメ映画の方が人気だ。
それが良いとか悪いとかではなくて、戦後に急激にアメリカや欧米への憧れを強めて文化を取り入れまくった日本が、また文化的な鎖国傾向にあるのが不思議。
海外からの文化で今の日本の若者に影響を与えているのは韓国のアイドルや音楽くらいだと思う。
資料ありがとう。これを見ると確かに明確に洋画が邦画を上回ってるのは1990年~2005年なんだな。
ただ、公開本数は圧倒的に邦画の数が多かった1970年から1985年までの配給収入が邦画と洋画はほぼ変わらないことも留意したい。
とんでもない役者たちが凄まじい演技でしのぎを削ってる
ただここまで遡らないとマトモな映画が出てこないのは暗澹たる気持ちになる
で、70年代に映画がテレビに負けて階段を下りるようにレベルがガクガク下がってく
80年代に入るとアイドル映画やジブリ映画といった演技のえの字もない稚拙な映画に支持が集まるようになる
これに加えてバブル崩壊以降はテレビでたまたま当たったものの劇場版が粗製乱造されだすようになる
この頃に邦画は完全に死んで今も死んだまま、失われた20年じゃなくて失われた30年だな
今も変わってないでしょ?年間興収ランキングはアニメ・アイドル映画・テレビシリーズの劇場版ばかり
ドラマはシラネ
A氏が原作なら分かるけど、そこを劇団名にしてるのは、主語大きくする悪党のやり口
アイデアレベルで許されるなら、今後たくさん出るぞ。そして、「ハリウッドならこんなことはない。邦画界は遅れている!」とか泣き言を言いそう
これ、洋画しか見ないと言うならわざわざ「実写」なんてつけずに「邦画」を見ないと書くだろうから
アニメ映画は見てるって事だよね。
んで散々指摘されてるけど、統計を見ると「日本の男性はアニメ映画を見ている」のであって「日本の男性は映画を見ていない」のではない。
でも敢えて伏せた。そう書けば「アニメ好き男だってただ萌えキャラや声優しか興味なくてストーリーなんかどうでもいい低俗な連中だろ」と突っ込まれるから。
だから、自分とは関係ない「実写邦画が好きな男」を持ち出しつつ映画見る男の多数派であるアニメ好き男の事は伏せて
話を女叩きに持って行った、と。
実際は、増田が盾として用いた「日本の映画を面白くしたい、売れるようにしたい、海外で見てもらいたいとか思ってる、実写邦画が好きな男」
「日本の映画がつまらないのは、ストーリーなんかどうでもいいような低俗な客が多いからと思ってる男」は
アニメ好き男の事も嫌いなんじゃないですかね?
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20180820003713
正直日本の映画って男性支配的で男性が見たい物を作ってるんだと思ってた。
でも逆だったんだね。
この増田をみたら色んな疑問が腑に落ちたり、新たにいろんな疑問が沸いてきた
・日本の女性の観客はアイドル俳優で見る作品を決める傾向にある
・日本の女性向け映画でアジア人ばっかなの見ると人種や宗教などにはわりと保守的?
男性が見るアニメは他人種がわりと出てくる ※まぁハリウッドに比べりゃどんぐりの背比べかもしれないけど
・実写邦画が女性向けになったので男性がアニメに流れたっぽい?
・アイドル俳優を主演にすえるのは国内マーケティング的には正しい
・女性も監督で見る作品きめるよとか言ってる人を見ると実は女性自身もこの状況を認識していない?
・それはつまり無意識に男性的な価値観で物事を決めてるのに気づいていない人がいる。
・アメリカみたいにマイノリティに配慮しようという気運が生まれない理由がわかった。
・このギャップをどう埋めるか?
映画の話が盛り上がっているけど、日本ではゲームの話をすればいいと思う
海外の大資本に対抗するためにニッチで勝負するしかないっていうか
任天堂がMSやソニーに対抗するためにアイディアでどうするかみたいな方向にかじを切ったみたいな話でさ
和サードはスマホでガチャゲーに逃げるみたいな話にも言える事で、自分たちが生き残るためにそうするしかない、まともにやっても勝てないからね
まともにやったら男が好きな映画ってハリウッドには逆立ちしても勝てないわけじゃん?
映画で言うと例外的にやくざ映画みたいなのがVシネなんかでニッチに生き残ってたりするけどさ
邦画関係者はどうするか考えるよね。そして女性客を重視するっていう方向性は当然出てくる戦略だと思うよ、ゲーム産業のようにね
CGぐりぐりな映画とか、社会風刺な映画やっても日本の女性はなかなか動かないよ
アニメもそうで、Vシネのように隙間で盛り上がっていったのが80年代~00年代の話だと思うけど
それもCGが発達して縦横無尽に人物が躍動する映像が作られるようになって、アメコミが映画で盛り上がるようになった
攻殻機動隊みたいなアニメは競争力なくなっていったよね、躍動する映像体感のようなものをCGを使えるようになったハリウッドが奪い始めたわけだ
ロボットものはご存知トランスフォーマー、そしてパシフィックリム。特撮もゴジラなんかの怪獣ものもCGによってハリウッドにとってかわられた
なぜ欧米の男性に受けなきゃいけないのかわからないならそれこそビジネスをわかってないでしょ。
金がないから。
アニメもオタクが見てるだけとか言ってるけど邦画はオタクすらみてないからね。
あんまり言いたくないけど、日本の女性のステレオタイプがもろに表出されてて、日本の映画を面白くしたい、売れるようにしたい、海外で見てもらいたいとか思ってる映画好きの男性は映画好きって言ってる女性をたぶん嫌いになるよ。
とある映画批評家がミソジニーをもろだししてしまった理由が端的にわかる。
イケメン俳優しかみない、ストーリーはどうでもいい、映画館は男性より女性客が多い等々
今の邦画が海外でなぜ受けないのかっていう理由のほぼ全てが映画館の女性客からのアンケートとかで列挙されてるのが見れる。
アメリカだと映画館は若い男性向けが主流で女性のことは全然考えてくれないとかいう嘆きを言ってるんだよね。
でも実は日本だと映画館は女性のもので男性のものではない(これは種々のデータからはっきり出てて、日本の映画館は男性客より女性客のほうが多い)
さらに実写の企画も男性向けは少なくて女性向けがめちゃくちゃ多い。
日本の女性が好むものばかりにすると金をかけるのはイケメン俳優だらけで脚本にまったく気を配らない漫画実写映画ばかりになる(少年漫画はストーリー上若いイケメンばかり出てくるからね)
一時期大量に流行ってたけど。
いまでもやってんのかな。
アベンジャーズが日本で流行らないってTwitterで言ってる人も以前いたけど、これも理由ははっきりしてて、女性に受けないから。
スーパーヒーロー物はアメリカじゃ基本的に若い男性にターゲッティングした映画で若い男性に受けてるから、あれだけ興行収入が図抜けてる。
象徴的なのが名探偵コナンで、あれは若い女性に受けてるのがデータではっきり出てる。
日本の映画界を海外と同じようなスタイルにしたいならまず、若い男性を映画館に引っ張ってこないとだめなんだよね。
出演者でなんか盛り上がっているが、こんな作品を映画化して欲しくなかった
アメリカン・ニューシネマな内容の映画をジャニーズで動員するとか、もうテロじゃん
映画館出る時に憂鬱な気分になる映画とか、ミニシアターくらいでやっていれば良いんだよ。正義を問いかけるなって訳じゃない、金払う客の事を考えろ
こういう作品は周りに多数の娯楽作品があるから成り立つわけで、少女漫画原作の青春映画とアニメじゃ全然薄まらない。結果、邦画は暗くてつまんないって流れになる
まだ空飛ぶタイヤの方が良い。キムタクが出ようが嵐が出ようが、オチが暗いんじゃ駄目なんだよ。最低でも相打ち、出来れば勧善懲悪。弱りきった邦画には王道が必要なんだよ。
「ホンモノの親なら子供を見捨てない」
「ホンモノの親になることに憧れていたんでしょう?」
カンヌで最高の賞(パルムドール)を約20年ぶりに獲得した邦画「万引き家族」では、警察によってこんな言葉が次々と主人公たちに投げかけられる。つまり、主人公たちが身を寄せ合って創り上げた家族は、血縁関係を持たないゆえに“ニセモノ”であり、紐帯の根底に打算的なものを含んでいるから、ちょっとした圧力ですぐに瓦解するのは当然、というわけだ。
杓子定規に主人公たちを攻め立てる警察はとても憎たらしく描かれており、観客は「お前ら警察が一体何を知っているんだ」とイラッとさせられる。だが、一方で我々は日常生活において、“ホンモノの家族”という思い込みに囚われている。
実は、現代のわれわれが当たり前に持つ家族のイメージ像は近代的な産物だ。例えば、E・バダンテールの著作「母性という神話」では、17~18世紀のフランスにおいて、子供の大半が産まれてすぐに里子に出され乳母に育てられる風潮があったことが示され、“母性愛”という概念が人類史において常に家族間に君臨してきたわけではないことが明らかにされる。統計によれば、同時代に毎年パリで洗礼を受ける新生児2万人のうち、約7千人が捨て子であった。日本でも一昔前の農村を思い出せば分かるだろう。子供は「小さな大人」であり、安価な労働力に過ぎなかったのだ。
歴史を遡ると、「血縁関係があるのだから、自分を犠牲にしてでも、親は無償の愛を子供に授けて当然」という考え方は、ここ100~200年特有の理念に過ぎない。ざっくばらんに言ってしまえば、家族という概念が「血の繋がりを契機として、様々な世代が身を寄せ合って互いに助け合うべき存在」から、「血が繋がっている以上は、無償の愛で繋がり合うべき存在」へと変化したのである。
言うまでもなく、現代に生きる以上、誰だって愛のない親より慈愛に満ちた親になりたいし、子供をこき使う親など御免こうむりたい。しかし、「打算抜きで、無償の愛で繋がり合う家族こそがホンモノだ」というとき、我々は家族に対して、実際にはありえそうもない“完璧さ”を要求している。
完璧さを家族に要求する社会は、その基準を満たさない親を徹底的に許さない。さいきん東京・目黒で起きた5歳女児の虐待死に対する、社会のいささかヒステリックじみた反応は、その証左と言えるだろう。もちろん、こうした社会の過剰反応で救われる子供もいるし、未然に防がれる悲劇もある。
しかし、そうした社会は同時に、血縁関係によって成り立っている家族こそを“ホンモノ”とするがゆえに「血の繋がった親が実の子供に愛を抱かないはずがない。なぜなら、親は無条件に子供を愛する存在だからだ」という循環論法的な前提に拠っている。残念ながら、これが近代特有の“神話”であることは、すでに述べたとおりだ。先に挙げた目黒の事件でも、日本特有の親権の強さが問題になったが、「ホンモノの家族」への神聖視と親権の強さは無関係でないはずだ。
「万引き家族」でもやはり、虐待から逃れニセモノの家族の元で幸せな時間を送っていた子供は、最終的に虐待を行っていた実親のもとへと返される。ホンモノの親は、ニセモノの親と違って“愛”を持っているはずだ、という社会の思い込みが、結果として子供を再び悲劇に追いやるのである。
さらに悲劇的なのは、親役を担っていた2人(リリー・フランキー、安藤サクラ)だ。彼らは事あるごとに「血が繋がってないからこそ、逆に絆が強いんだ」と述べるのだが、その実“お父さん”“お母さん”と呼ばれることに固執している。一見すると「ホンモノの家族」という社会通念から自由であるように見えて、やはり彼らもまた近代が家族に与えた役割を引き受けることから逃れられていない。
したがって、リリー・フランキー演じるニセの父親が子供を裏切って逃げようとした理由も、血縁関係が両者の間にないことに求められる。ホンモノの父親なら子供を裏切るはずがないのだから。こうして、彼は「お父さん」と呼ばれることを諦め、単なる「おじさん」であることを自ら認めるに至る。
ニセモノは決してホンモノになれず、ホンモノにはいささかの弱さも認められない。仮にその弱さがどうしようもない貧困に由来するものだとしても、この息苦しい社会において弱さはニセモノの証なのだ。
別に打算的だったっていいじゃない。弱い一面があったっていいじゃない。ホンモノ、ニセモノどっちだっていいじゃない。そこに幸せがあればさ。