はてなキーワード: 花とゆめとは
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某アニメがEテレで再放送されるってんで話題ですが、まあ他にもこれいけるんじゃね?ってのはありますよね。
まああの局昔からいろいろアニメ放映してるんで、そもそもNHK向きってのが何なんだよって話ではありますけど。
んでまあ子供が見てもよさそう、健全そう、っていう作品をいくつかピックアップしてみました。(健全ってなんだ)
これはもう有名すぎるほど有名な競技かるた漫画ですね。NHK的にはCCさくらで有名な浅香守生監督作品でもあります。
いわゆる「スポ根」ものであり、老若男女に自信を持って薦められる傑作です。
マンガのアニメ化としては文句なしといえる出来で、素晴らしいです。
ていうかなんで日テレはこれを全日帯で再放送しないんですかね。金田一の枠にちはやふる放送してくださいよって前から思ってます。
これまた有名すぎるほど有名な少女漫画。そしてこの作品、ものすごいピュアというか、めちゃくちゃ「健全なお付き合い」してる恋愛漫画です。
最近は子供が見れる時間帯での少女漫画アニメが減りましたね。少女向けアニメ自体は元気なんですけどね。基本的に玩具販促モノがメインです。
たぶん商売にならないんでしょうね。そういうときにNHKには頑張ってほしいものです。
他にも「神様はじめました」「暁のヨナ」などの花とゆめ作品とか、少女漫画のアニメ化も最近深夜が多くて、なんだかもったいないなあと思うところ。
一言で表しづらいなんとも難しい作品なんですけど、まあ「心温まる」系の作品といっていいんでしょうかね。
映画の「たまこラブストーリー」はわかりやすいお話なんですけど、こちらはちょっと面白さを説明しづらいですね。
こういう独特の雰囲気を楽しむ感じの作品ってどうにも魅力を伝えづらいところがあるんですが、NHKにも「おじゃる丸」「カスミン」のような独特な雰囲気を持った作品というのがあって、
京アニ作品だったら「日常」よりもこっちの方がNHK向きかなあと思ったりはします。
NHKというか学校の教材として使っても良いレベルの作品です。ただ、重たい話なので、中高生以上向きですかね。
航空自衛隊小松基地を舞台に、航空救難団小松救難隊の活躍を描いた作品で、航空自衛隊が制作協力をしています。
最近某アニメやらなんやらでいろいろと言われがちな題材ではあるんですが、綿密な取材によるリアリティを追求した描写は本当に素晴らしいの一言。
自衛隊アピールするんならこっちをもっと推した方がいいんじゃないかとも思うんですが、まあそれは置いておきまして。
「月姫」「神様のメモ帳」などで悪評が目立つ桜美かつし監督作品なんですが、これを見ているか見ていないかで評価はかなり変わってくるのではないかと思っています。
魔法少女もののようであり、ジュブナイルのようであり、SFのようであり、ガールミーツボーイな作品です。
視聴者の予想を裏切る展開が予測されがちになってしまった「魔法少女モノ」の中で、少女の成長をメインに最後まで真っ直ぐ綺麗に突っ切った作品です。
子供向けというか、子供に見てほしいって思えるような作品ですね。SF的な要素が少々小難しいですが感覚でなんとなく見れるようになっていますし。
ただまあ、大人が子供に見せたいって思うものほど、子供は見たがらないんですよね。
コミュニケーションが苦手な主人公・真田ユキが宇宙人のハルに釣りに誘われたのをきっかけに成長していく作品です。ボーイミーツボーイですね。
主人公のユキ君の成長の描写がとても良いです。釣りに楽しみを見出し、少しずつ仲間を見つけていく過程がとても丁寧。
夏休みとかに放送されたらとてもいいなあ、と思う次第であります。
P.A.WORKSが手掛ける、青春オリジナルものの第3作。少年少女の青春を描いた気持ちの良い群像劇。
「true tears」「花咲くいろは」と比べると爽やかさでは頭ひとつ抜けてます。合唱が題材というのもNHK向きなところ。
京都を舞台に、下鴨家という狸の一家とそれを取り巻く人間やら天狗やらを描いた森見登美彦原作アニメ。
なんとなくスタジオジブリを思い浮かべる人もいるかもしれませんけど、まあ当たらずも遠からずって感じではあります。
「家族もの」なのでアニメオタクというよりファミリー向けの作品なんですよね。
すごい面白いんですけど、深夜アニメビジネスには向かないよなあって作品こそNHKが取り上げるべきものなんじゃないのかとも思うところであります。
これまたニッチなところのチョイスではあるんですが、面白いんですよ。
「女性の社会進出」という観点から見ても面白いんじゃないかと。NHKって朝ドラとかでそういうの好きですしね。
この作品、けっこう時代考証がしっかりしておりまして、大正時代の描写が非常に丁寧です、NHK的にそれ重要。
NHK向きとかそういうんじゃなくて、普通にいずれ放送しそうっていう話。Eテレとかは無理としてもBSとかでね。
とらドラ!とかもあり得そうな感じです。現在セーラームーンとかベルばらとか放送してるんでいつかは深夜アニメもそうなるんだろうなという希望的観測。
「あるジャンルの漫画を世の中から撲滅すべきだ」と主張しているならともかく、「あるジャンルの漫画はうちでは掲載しません」は普通に編集権の範囲だろ。また、潜在的にwebでBL漫画を発表したい層が可視化されたわけで、ビジネスチャンスでもある。
理想的には「ゾーニングのため c○mic○ BL のようなサービスを立ち上げたので、BLモノはこっちへ移住をお願いします」としたほうがベターだったかもしれないが、まずい対応により結果的に既存顧客や潜在顧客を失って商業的に失敗するのだとしてもサービス提供者の自己責任だ。
[追記]
本文に書いた例示で分からない人には何を言っても無駄かなあと思いつつ。
例えば上にも挙げたヤンマガが分かりやすく、キスどころかもっと踏み込んだ性表現もOKとしていると思えるけれど、多分そのものズバリなBL漫画は載らないか載ってもすぐ打ち切られるだろう。ものすごくステレオタイプに言えば、BL漫画というのは主に女性向けであって、ヤンマガの主たる読者層である若い男性に受けないからだ。ヤンマガは例えば Webでタダで読めるからタダマン なるネーミングのサービスをしていて、これを見て眉をしかめるような人を主たる想定読者にしてないことが分かる(これ自体を非難するつもりはないよ)。
BL漫画(これは男性同性愛者向けの漫画とも異なる。例えば今はもう廃刊になったけど薔薇族とかにいわゆるBLが載ったりはしないだろう。)を全面的に歓迎とするのは、ヤンマガが若い男性読者層向けに踏み込んでいるのと同程度には、対称読者を女性読者層向けに踏み込む行為だ。後だしにせよこれを禁止ということにするのは、差別(同性愛表現を世の中から消し去りたい)というよりは、マーケットポジションを男性向け寄りに変えている、と考えるのが普通の社会人のものの見方だと思う。
BLファンから見たらはしごを外された思いだろうし、悔しいのは分からんでもないが、冷静になった方がいいと思うよ。
[/追記]
やっとここまでこれた。
五年前から地道に彼女を調教してきたのだけれど、ようやくここまでこれた。
あの日「うんこ食べろ」と言ったとき、彼女の普段のセックス中には絶対見せない「あきれ顔」をみて、
俺は「よし、こいつに日常的にうんこを食わせる習慣を作ってから結婚しよう」と誓ったのだ。
そう、この話は、俺がようやく(彼女はもう三十路だ)、大学生の頃から付き合ってきた彼女にプロポーズできるという話なのだ。
俺が、なぜ彼女にうんこを食わせるようになったのか、それは大学の頃にインターネットで見つけた調教サークルがキッカケだった。
その調教サークルは大阪で活動していて、インターネットに写真をアップロードしたりしている、ちなみに今でも活動中。
実は最初は調教してもらうつもりで、サークルのチャットに参加したのだが、そこの面々が思いの外軟弱、というか女に対して姿勢が低かった。
(もちろん、今思うと、サド/マゾの関係とチャットのそれは別物であり、彼らは大人としてちゃんとしていた、という話で、俺が子供だった)
昔からイジメる側に回る事が多かった俺は、大学でもその鼻を叩きおられておらず、
「こんなエグいことやってるオッサンもこんなもんか」と完全に舐めきっていた。
そして当然、そんなオッサンの意味わからない命令を聞く女たちのことは、俺の思い通りになって当然だ。
そう感じていた。
俺はその調教サークルのチャットで、ガキながらもぐいぐい参加して、周りを引っ張っていた。(というか、振り回した)
そこではメール調教なんかもやってたんだが、リアリティに欠けるというか、文字を読んでもしょうがねえ、と思っていた。
だから、早くオフ会に参加したかった、けどそんな今思うと空気の読めてないガキを大人の集まりに誘ってくれるわけもなく、
チャットで女やオッサンたちに上から目線で指摘してばかりいた。
「そんなの生温い、俺なら小学校辺りで脱がせる」だの「24時間箱に詰めるだけが何が面白いんだ」だの「時計を飲み込ませる? 意味わからん、どうせ飲ませるなら薬とかにしようぜ」だのだ。
今思うと恥ずかしい。
そうこうしているうちに、気づくと俺は社会人になっていた。
高校の頃から女と半年以上続く事のなかった俺だが、今の彼女とは合コンで知り合って、なんとなくセックスをして
なんとなく付き合うことになり、なんとなく切れることなく続いていた。
それは、ちょうど就活で忙しく、文系特有の過去の引き出しの文章を右左するだけの卒業論文があったりと、まあそれなりに俺らしく他毎に集中していたからかもしれない。
調教サークルの面々とのチャットはすっかり日常的になっており、
その頃には俺の上から目線もなくなってきて、さらに言うとチャットがCGIのそれから、外部に漏れることのないIRCチャットに移行したことで、
逆にそういう「調教」というものに興味を抱かなくなっていった。
そんなある日、調教サークルの面々に、ヤフーブログでやっているある日記を紹介してもらった。
調教ブログ等とは違い、ご主人様は登場せず、その女子高生一人だけの淡々とした日記。
その中でその女子高生は、必死になったうんこを食べようとするのだ。
そんなブログだった。
今思い直しても、本当にそんなブログがあったのだろうか? とわけがわからなくなるのだが、本当にあった。
(釣りかどうかは、よくわからないし、どうでもいい。中身はおっさんだろ? とか当時は言われていたと思う)
ほんの数週間の間更新して、あっというまにヤフーに消されていた。(当たり前だと思う)
だったが、俺はその「自発的」に「うんこ」を「食べる」という行為に、完全に心を奪われていた。
けれど、その女子高生のように「自発的」に「うんこ」を「食べる」というのは、もう完全に俺の思考の外にいた。
なんで命令もされてないし、無理矢理つっこまされたわけでもないのに、うんこを食べるんだ?
バイブだの、露出だの、縄だのじゃない、本物の意味での調教だ。
彼女の価値観を変える、彼女がうんこを食べたいと心の底から思うように改造する。
その一心で、まずは調教サークルのメンバーや、他の調教ブログを読みふけり、色々と研究をした。
結果わかったのは、生まれながらに頭のネジが外れたキチガイみたいな奴が少なからずいて、ブログを更新していた女子高生もおそらくそれだと言う事だ。
つまり俺は、彼女の頭を支えているネジを外してやらないといけなかった。
最初のその結婚を決意させた呆れ顔の日は、無理矢理口を開かせ、口の中に押し込み飲み込ませた。
「ライターであぶられたくなかったら食え」や「針を通されたくなかったら食え」といった、痛みよりはうんこを食べる方がましだと、彼女の頭に思い込ませたかった。
だが、半年たって気づいた。
こうじゃないだろ? と。
この先に待っているのは、ただ暴力におびえて俺の言う事を何でも聞く女だ。
そんなものはこれっぽっちもいらない。
それもあの呆れ顔のままで。
これは彼女にとって幸せなこと(些細なことでいい)があったときは、うんこを食べさせるという方法だった。
本当に些細なことでよかった、彼女は花とゆめという漫画雑誌を買っていたので、毎月5日と20日に雑誌を買って帰ってきたら、うんこを食べさせた。
(この頃はまだ無理矢理だ)
他にも、外食で彼女の好物である鶏皮を食べたときや、彼女の好きなお笑い芸人が爆笑オンエアーバトルを勝ち抜いてオンエアーされた日、
そんな彼女の中の些細な幸せを徹底して、うんこを食べることと結びつけてやった。
やたらとテンションが高い日が続いたと思えば、うっとうしく泣いてばかりいる日が続いたりしていた。
だが、少しでもそうに傾いたら、うんこを食わせた。
そうしていたら、うんこを出さなければ、食べなくてすむと勘違いしたらしく、
身体が便秘症になっていった。
浣腸してやってもよかったのだが、その態度がムカついたので、俺のうんこを食べさせてやったり、
一晩中公衆便所を一緒に回り、うんこの落とし物を見つけて食べさせてやった。
普段の生活の中で、俺に対して厳しくなったのだ。
そう、俺のスイッチが入るタイミングが分かってきたのだろう、そして
「うんこを食べる」ときと「うんこ食べない」ときで、スイッチを意識的に切り替えるようになったのだろう。
俺はそんな彼女の浅ましい態度にムカついた。
とにかく、俺は彼女が「自発的」に「うんこ」を「食べる」人間にしたかったのだ、
うんこ食べるモードに切り替えるのではなく、自発的に自分の力で食べて欲しかった。
幸せうんこサンドイッチ作戦のとき以外、彼女には一切話しかけなかった。
結果としては、これが正解だった。
ある日彼女の方から「今日はお昼の日替わりランチが天津飯だったので、うんこを食べます」と宣言したのだ。
それが、一年前の夏だった。
それ以来、彼女は最低でも月に一回は、自分からそう宣言するようになった。
俺は彼女の中に、うんこを食べることが根付いたことが嬉しかった。
ようやく、結婚できる。
長かった、苦しかった。
でも、すべてが報われたような、晴れ晴れとした気持ちだ。
http://anond.hatelabo.jp/20090629223650の続き
Ⅱ、物語の面白さについて
小説とは、物語を読者に伝えるために文字で書かれた文章だ。書き手が小説を書く動機はおそらく大きく分けて四種類あるだろう。物語の面白さを伝えたいという動機、物語という糖衣に包んで何らかのテーマを伝えたいという動機、物語を伝えるための表現方法の工夫を見てもらいたいという動機、小説を書くことによりカネや名誉を得たいという動機だ。テーマを伝えるためにはそれを包むための物語が必要だし、表現方法を見せるためにも、表現される物語が必要になる。そして、面白い物語でなければカネや名誉を得ることは出来ない。
物語そのものの作り方については、特に語る必要はないだろう。これを読んでいる方の大多数は日本で生まれ育ち、テレビという媒体によって物語の構造を経験的に知っているはずだ。
物語にはどのような面白さがあるかについて見ていこう。
以下の広告文を見て欲しい。これらはダ・ヴィンチの2006年5月号から採取した。
(削除)
これらの広告文から想像できる物語は、結構面白そうだと思えないだろうか。少なくとも、本屋でこういった文面が目に飛び込んできたら、手に取りたくはならないだろうか。むしろ、そういう小説が面白いからこそ、こういう広告文をライタ―は考えるのだ。「暴力や性などのように、人間の生理的なものに根ざしているものが面白いのだ」、とキンチュという学者も1980年に言ったらしい。生理的なものに根ざしているということは、きっと「すごくトイレに行きたい!」というような話も面白い部類にはいるのだろう。それを確かめるためにもとの文献に当たろうと思った。Poeticsという雑誌の9号にその論文が載っているらしいのだが、しょっぱい図書館には7号までしか置いていなかった。だから上の括弧内の言葉は、孫引きだ。本当はやっちゃいけない。
生死や性と言うとハリウッド映画のようなバタバタと煩い小説が思い浮かぶかもしれないが、静かな小説だってこの面白さを持つ。重松清の『舞姫通信』はアクションシ―ンなんて全くない静かな小説だけれども、主人公の周りでは自殺がたくさん起こる。市川拓司の作品群だって恋愛とヒロインの死が物語の主軸となっている。
物語は大体、始まりに主人公にとって悪いことがあって、それが改善されることで終わる。内田の言う〈欠損―補充〉の物語の構造といっても良い。こういった〈欠損―補充〉の構造を持った物語は、主人公の感情を推測しやすかったり後々に読者が内容を思い出しやすかったりするらしい。これについてはいろんな人がいろんなことを言ってる。「物語は葛藤から生まれる」、「物語は欠如から生まれる」、「物語は主人公の目的意識から生まれる」等々。だからこれ以上、このことについては触れない。
どんでん返しと言ったら、『……だと思いこんでいたにもかかわらず、実は……だったぁ!!』という、物語のクライマックスで頻発する奇怪な現象だ。歴史は古く、2300年以上も前に、アリストテレースがこれについてゴチャゴチャ言ってる。
基本的には、『主人公は目的達成に関わるものが或るものだと仮定して行動する。その仮定が正しくなかったことを知るや否や、知る前にとった行動が本来の意味とは別の意味を持ってしまう』というものだ。そうじゃないのも沢山あるけど。
作り方は簡単。
ⅰ)主人公はaという存在(人でも物でも良い)を求めている。ⅱ)aと共通項を持つαを発見し、αに対して何らかのアプロ―チを取る。
ⅲ)αは、あたかもaであるかのような反応を示す。
ⅳ)何らかの要因(約束を守るとか破るとか色々)によってαがaでないことに気づく。
ⅰからⅴのaとかαに好きな言葉を入れれば、即席でどんでん返しを作ることが出来る。
市川拓司の『いま、会いにゆきます』を例にとってみよう。
ⅰ)主人公の巧は、死後の世界からもどって来る妻、澪を待っている。ⅱ)ある日、工場跡で、巧は記憶を失った澪を見つける。彼女に過去の思い出を話したり彼女と愛しあったりする。
ⅲ)澪は、生前の彼女がそうであったように巧のことを愛してくれる。
ⅳ)澪が再び消えた後、彼女が残した手紙によって、巧は澪が蘇ったのではなく過去からタイムスリップしてきたのだと知る。
ⅴ)それによって二人が愛しあったことの意味合いが少々変わってくる。
一見とても複雑で、私のような凡夫には到底思いつくことが出来ない、と思われる人もいるかもしれないが、そんなことはない。「実はタイムスリップだった」というところを思考の出発点にして、「戻ってきたと思ったら、実はタイムスリップだった」、「妻が戻ってきたと思ったら、実はタイムスリップだった」、「死んだ妻が戻ってきたと思ったら、実はタイムスリップだった」とアイディアを広げていき、そしてそのアイディアを盛り込むのに相応しい物語の全体像を考えてやれば良い。
読者の持っている常識または読者の予想からズレのある状況を描くことで、読者の気をひきつけることができる。シャンクの言う「スキ―マに一致する期待を破ったり逸脱する場合」の面白さになるのだろう。
期待を破るという点では、どんでん返しも同じである。どんでん返しはズレの中の一つと僕は考える。
ズレは『……にもかかわらず……』の形で表される。『にもかかわらず』の前の言葉が、読者に或る事象や状況を想像させる。『にもかかわらず』の後の言葉が、想像した事象や状況とはズレた事象や状況を表す。
いくつか例を挙げよう。
①、能力がないにもかかわらず、行為を行なう。例:武器を持っていないにもかかわらず、敵に挑む。
②、立場がふさわしくないにもかかわらず行為を行なう。
③、不本意であるにもかかわらず、止むを得ない理由により或る行為を行なう。
④、以前はpであったにもかかわらず、今はqである。
⑤、本来はpのために存在するにもかかわらず、qとして利用する。
①~③は人物の行動に関連したもの、④、⑤はものの存在に関連したものだ。飽くまで例を挙げただけで、全てのズレを網羅しているわけではない。
ズレで注意しなければいけないのが、あまりにもズレが大きすぎると読者が小説についていけなくなったり、期待を裏切られた衝撃で読むことを止めてしまう危険があることである。読者がそのようなことを起こすことのないよう、ズレが起こる前にある程度読者にズレを予想をさせて、ズレを少なくしなければならない。
①・②のズレを少なくする方法の一つとして、それを行う登場人物に前もって「或る状況に陥ったとき、この行動をとる」と宣言させれば良い。そもそも我々が暮らしている現実世界においても、能力や立場が行動を実行に移す足かせになっても、動機さえあれば動き出すことがある。①・②のズレは、ズレが大きくなりすぎるようなことが少ない。
③のズレを無理なく(読者が拒絶することない程度に)作るには、或る目的を成し遂げるためには無理にでも何かをやらなければならない状況を主人公に与えればよいのではないだろうか。
例えば、三谷幸喜監督の『有頂天ホテル』であれば、主人公が別れた妻に良い恰好をするために自分が受賞したわけでもない賞の受賞コメントをする。
④の場合は、状況が大きく変わるための理由付けをしてやれば良い。その最も簡単な方法は約束をすることである。状況が悪いほうに転じる場合には約束を破れば良いし、逆に好転する場合には、約束を守っていれば良い。
⑤について考える。例えば「aをbに~する」というようなズレのある状況を作りたい。そのときには、
ⅰ)aを元として含む集合Aもしくはbを元として含む集合Bを提示する。もしくは、aは集合Aに元として含まれることやbは集合Bに元として含まれることをこじつける。ⅱ)「Aをbに~する」、「aをBに~する」、「AをBに~する」のいずれかを物語の中で提示する。但し、宣言された行為にはズレはない。
ⅰとⅱを任意の順番で行ったうえで「aをbに~する」というような行為を行えば自然ではないだろうか。
伊坂幸太郎の「アヒルと鴨のコインロッカ―」を例に採ろう。この小説では、終盤でドルジという登場人物がボブ・ディランの曲を流したままのラジカセをコインロッカ―の中に放置するという、常識的にあまり考えられない行動をする。しかしそれは「善いことも悪いことも、やったことは全部自分に戻ってくる」と言うドルジに対してドルジの恋人である琴美が「それならさ、神様には見て見ぬふりをしてもらえばいいって。緊急事態だから。神様にはどこか見えない場所に閉じこもってもらえばさ」と言い、また、別の場面ではドルジの友人の河崎がディランの歌について「あれが神様の声だ」と言ったからだ。
小説の序盤や中盤にあった状況や事象を小説の終盤に再び置くことで読者に一種知的な発見をさせ、はっと驚かせる効果がある。これも、いくつか例を挙げよう。
順境から逆境、または逆境から順境と言ったような状況の大きな変化に用いられる。報いが起こる以前に行われた約束を守っていた(破っていた)ことが原因となって、主人公の立場が大きく変わってしまう。
例えば、綿谷りさの『インスト―ル』であれば、主人公はネット上の文字のやり取りでは「自分をキャラクター化している傾向が強い」ような人は「しょっぱなからH会話をしたら憤慨してしまう」ため、そのような人とはそのような会話をしないように誓うが、結局そのような会話をしてしまい、会話の相手を憤慨させてしまい、窮地に立たされる。④のズレを作るのにも使うことが出来る。
物語の序盤や中盤に立たされた状況に、物語の終盤で再び立たされる。序盤や中盤で採った行動と異なった行動を、終盤で採る。主人公の成長を表すのに使われる。
例えば乙一の『しあわせは子猫のかたち』であれば、主人公は物語の序盤と終盤で同じ一人暮らしという状況に立たされるが、序盤では「陽の光は嫌いなのでカ―テンを閉め」たが、同居することになった雪村サキとのふれあいを通じて終盤では自発的に「カ―テンを開き、窓をあけて風を入れ」るようになる。④のズレを作るのに使うことが出来る。
ある現象・行為に対して意味づけをし、それが物語終盤で再現される。
例えば伊坂幸太郎の『陽気なギャングが地球を回す』では、「人生を楽しんでいる人が寄っていくと赤ん坊が泣き止む」と、登場人物たちが冗談で言う。小説の最後で主人公達が銀行強盗に入ったとき、赤ん坊が泣き止む。⑤のタイプのズレを、⑧の伏線のタイプに含むことが出来るだろう。
物語序盤で現れた事象/状況が物語終盤でリフレインさせることにより、はっと驚かせる。
伊坂幸太郎の『重力ピエロ』は、最初の行と最後の行が「春が二階から落ちてきた。」となっている。
伏線は悲壮感の軽減するのとズレを少なくするために使える。
『しあわせは子猫のかたち』であれば主人公の成長により雪村サキが消えた悲壮感が軽減されるし、伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』であれば、ドルジが辛い過去を語った後でレッサーパンダ盗む子供たちが再び表れ、場面が明るい印象になる。
約束や意味づけはそれ自体がズレのある状況の理由となるため、ズレた状況の蓋然性が増す。
素晴らしい小説に出会えたとき、人はその後の展開を想像し、読み終わった後も空想の中でふわふわと浮かんでいるような感覚を味わえるものだ。もしかすると、逆をとって、そのような小説は素晴らしい小説だといえるんじゃないだろうか(『逆は必ずしも真ならず』ってのは知ってるけれども)。
想像というのは一般に、確定していないことを想像する場合と、すでに確定した状態についての反実仮想とがある。物語の中での前者の確定していないことを想像する場合は、未だ語られていないこと、たとえば登場人物の未来や知られざる過去などを想像する。後者のすでに確定した状態についての反実仮想は、過去において登場人物がとった行動をもしとらなければ物語がどう展開していたかを想像するというものである。
物語における想像の主体は読者と登場人物である。読者が自発的に想像する場合と、登場人物がした想像を読者が受け取る場合とがある。
〈自発―未確定〉〈自発―反実仮想〉
〈受容―未確定〉
〈受容―反実仮想〉
の四つに分けられる。本当は想像を提供するのは登場人物の他にも物語の語り手も含まれるのだが、語り手が読者に意見を押し付けるような小説は最近の主流ではないのでここでは無視する。
読者が自発的にが想像をするときには、ある程度の制約が必要である。たとえば舞台の上に割り箸が一膳転がっていても漠然としていて想像の仕様がないが、舞台袖から現れたコメディアンがそれを拾い上げると、何か芸をするのだと想像ができる。読者が自発的に想像する場合は、制約を使う。物語世界を飛び出して現実世界に想像を膨らませる場合もある。
登場人物の想像を受け取る場合は、制約は必要ない。登場人物が発想したことを、読者が自分の考えとして取り入れたりありえないものとして棄却したりする。すでに読者にとっては確定した内容について、そうとは知らず登場人物が想像を巡らす場合もある。
このパターンの場合の制約は読者の持つ物語の鋳型である。読者の持っている物語の鋳型と今読んでいる小説の文から与えられた情報から、今後の展開を予想するのだ。想像によって複数の物語が出来上がってワクワクする。
一般的に読者は、登場人物が道徳とか願望とか義務とか知識とかの欠損を埋めるという物語の鋳型を持つ。登場人物の悪事は罰せられ、道徳の範囲内で主人公の願望は叶えられるように物語は動き、願望を果たす範囲内で義務は遂行され、ミステリーの場合は犯人は誰であるかという知識の欠落が結末までに必ず解決されるものと予想する。
読書経験によっても物語の鋳型は作られる。連作物の場合、最終回でないにもかかわらず最終的な目的が成就されることは無いし、週刊少年ジャンプに載っている漫画の場合、恋愛が成就するような展開はなかなかありえないだろうし、花とゆめで連載されている漫画の場合であれば逆に恋愛が絡まない話の方が難しいだろう。
主人公に選択肢が与えられたときも、選択肢という制約によって想像が発生する。ただ、物語の鋳型によって実現の可能性がないものとみなされ、想像から棄却されるような選択肢はあまり有効ではない。だが、ありえないとみなされる選択肢は反実仮想としての面白さになるため、選択肢が全くないよりは実現の可能性の少ない選択肢でもあったほうが物語の面白さは高い。
過去において提示された選択肢について、もしあの選択肢を選んでいれば主人公は別の状況に立たされていたのに、という想像を読者は巡らす。面白さに及ぼす効果は⑬と似通っている。ただ⑬とは違い、登場人物がそれについて想像や言及をしない場合である。
O・ヘンリの『賢者の贈り物』を見てみよう。デラは髪の毛を売るか売らないかという選択に立たされる。夫が髪飾りを買ってくれるが、デラは髪を売ってしまったため、その髪飾りを使うことができない。過去における選択肢という制約により、髪の毛を切らなかった状況を読者は想像できるのだ。
登場人物が自分の計画・推測・願望を語り、それが実現するかしないかを読者が想像する。複数の人物が自分の計画・推測・願望を語る場合、それ選択肢の形になり、読者はそのうちの全部か一部を採択するか、どれも採択しないかを選ぶ。⑩の場合との違いは、⑩の場合は読者の能力によって想像の幅が決まるのに対して、⑫の場合であると登場人物の側から想像を提供することである。
アレックス・シアラーの『13ヵ月と13週と13日と満月の夜』の主人公は、友人のメレディスが祖母を虐待しているのではと想像し、読者はそれを信じたり信じなかったりする。
過去において提示された選択肢について、もしあの選択肢を選んでいれば登場人物は別の状況に立たされていたのに、という想像を作中の人物が巡らし、それが読者に採りいれられたり取り入れられなかったりする。
東野圭吾の『手紙』はこの連続だ。主人公の兄が金を盗み取るという行動を採択したために、主人公はメジャーデビューするバンドのボーカルになる機会や逆玉に乗るチャンスを失ってしまう。後々になって、そのことについて主人公の周りの登場人物がそのことについて言及し、現実にならなかった状況を想像する。
登場人物が事実とは異なる想像をすることで、事実と想像のズレを生み出すことが出来る。
森絵都『永遠の出口』では、主人公の母親が主人公の振る舞いについて相談する手紙の内容が、主人公の思惑と全く噛み合わず、面白さを生む。
登場人物が死後の世界についてとか、この世の成り立ちとか、この世界が本当はどうなっているかとかについてを説明し、読者はそれが本当かどうかと空想をめぐらせる。死んだあと人間はア―カブイ星に行くとか、この世の最強の動物はクマであるとか、この世界は三年前に一人の少女によって作られたとかの、登場人物による様々なアイディアを、読者は採択したり棄却したり別のアイディアを考えたりして楽しむ。もし現実に、物語の中の状況に自分が立たされたらと想像する読者もいる。
⑩・⑫は先を予想する面白さ、⑪、⑬、⑭、⑮は今読んでいるペ―ジの面白さと言える。
⑩・⑫は、物語の展開によっては「……と予想していたにもかかわらず、本当は……という展開だった」というズレに使える。週刊少年ジャンプのギャグマンガの登場人物には普通、まともな恋人ができるわけがない。ラブレターを渡されると思ったら茶封筒に入ったただの手紙だったり、恋人になった人が広末涼子に似たとても可愛らしい女性だと思ったら実際はマウンテンゴリラだったりするのがギャグマンガの常だ。そういった鋳型を破壊したとき、読者の予想を裏切った面白さが生まれる。
森絵都の小説の会話が、まさに予想を裏切りによる面白さ(例えば、愛の告白をするのかと思ったら、突然晩御飯のメニューを訊いたりする)を持っていると思うのだが、それはまた別の話。
以上でまとめた面白さはそれぞれ完全に独立したものではなく、複数にタイプに跨って存在している。どんでん返しはズレの範疇に入るし、反実仮想や登場人物による誤った想像もまたズレに入れられる。不安の解消による面白さは、それが成し遂げられる以前(物語の序盤や中盤)では、解消されるという予想として存在する。だが本稿では、それぞれの面白さを二、三の大きな分類に還元することよりも、思考のツールとして使いやすい程度に細分化することを目指した。
以上で述べてきた物語の面白さに関するツールが実際に役に立つかや他にどのようなツールがあるのかを検討するべきなのだろうが、あとは知らないです。ここまで読んだ人は、本当にとてつもなくえらい。えらすぎです。
この書きなぐりの文章を鵜呑みにせずに、否定するべきところは否定して、無視するべきところは無視して(そうすると、この文章に書いたことは何も残らないかもしれない)、自分なりのスタイルを確立してください。
ここに書かれていることは正しいことではなくて、僕が話を書く上で寄りかかっている杖に過ぎません。くじいた足を引きずりながら歩いていたら、運よく見つけた棒が、ここに書かれている方法です。それが、折れやすい棒なのか頑丈な棒なのかは、僕自身にもわかっていません。
「阿呆なことを妄想している暇があるなら原稿千枚書いて来い若造」のような感想を抱く方もいると思います。それは当然のことで、文学者でもない、文学部でもない、当時ただの経済学科生が色々な本を読みながら、自分なりのスタイルを掴むために書いたものです(今現在の自分は、これとは少し違う方法で話を書いています)。
そのような感想を抱くということは、言語化できる根拠があるはずなので、是非、それを文字にしてみんなに見せてください。それが、必ず小説の未来に繋がります。
備忘。
アニメイトとかで、少ないおこずかいを使った。
ともだちがオタクで、金持ちで、二次創作とかのさわりの部分を教えてくれた。
小6で県外に引っ越さなかったら、きっと腐った女子になっていたとおもう。
(引っ越したあと、その友達から自家製(アニメ絵)レターセットでお手紙をもらったりした。)
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中学生のとき、好きだったマンガは「花とゆめ」に連載されていたもの。
「ここはグリーンウッド」とか。
「動物のお医者さん」や「パタリロ」も同時期に連載されていたはず。
良い時代であった。
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「カウボーイビバップ」は熱に浮かされたように、繰り返し見た。
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「鋼の錬金術師」をインターネットで検索していて、二次創作というものを本格的に知る。
遅い春の訪れであった。 開花。
辿り着いた神サイトの文章が好きすぎて、印刷物を通販してしまう。 満開。
(周りに同じ趣味のともだちが居らず、二次創作閲覧が、ひそかな趣味となる。)
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その後、お笑いコンビ「ラーメンズ」の二次創作で、生モノ、という言葉を知る。
サイトの管理者に連絡して、サイトアドレスを教えてもらう「請求式」に慣れ、
知らない人にメールをすることに、抵抗がなくなる。
その感覚の延長で、ヤフープロフィール(?という名前だったか、とにかく出会い系の一種のサービス。 現在は有料化されているはず。)で
(運が良かった。 か、時代がまだ良かった。 男女問わず2,3名だけど、いたって普通の楽しいひとと友達になった。)
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なぜか、あふれる気持ちが抑えられず、二次創作文を書き始めてしまい、掲示板に投稿したりする。
掲示板での反応に気をよくしたり、”なにくそ!”と思ったりするうちに、どっぷりハマる。
半年ほど運営のち、放置することとなる。
(いまでも、熱心な読者のかたからメールが届いたりして申し訳ない気持ちになるが、
書かなければならない(ような気がしてしまう)お返事の数を思うと、
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まあセオリー通りにアニメ化されてるのでもいいと思うけど、ここのところ良くも悪くも白泉社がコンスタントにアニメ化してるのが気になるなぁ。
メディアミックスしすぎとかラノベから流れ込んでるのもあったりして、一口に少女マンガとは定義づけしにくい作品も多いしね。
もうちょっと分け方を考えると、ローティーン向け(なかよし・ちゃおなど)かハイティーン以上向け(花とゆめ・LaLa・Cookieなど)のどちらかに、自分の好みを合わせてターゲットを絞ると良いと思う。
カレカノの名前が挙がってるくらいだから後者指向がいいかな。ブームも落ち着いたことだし「NANA」とかから始めてもいいと思うし。
http://anond.hatelabo.jp/20080908201224
土地勘があるやつはカラネットの前の店じゃねえかwwwって察しがついてるはずだ。
渋谷駅からの距離はさっきと同じくらい。
60分からで330円。30分からじゃないので焦ってことに及ばずともいいかもしれんが短期決戦ならちょっと余分だな。
フルフラットが19席。
ペアシートが5席。
ペアフラットが14??15席だ。
これだけありゃ大抵あいてるだろ。
1200x1650x・・・高さはいいな。
とりあえず横になれる。クッションもあって寝るにはちょうどいい。
っつか、俺が普段使ってんのはここだ。
ナイトパックだと平日なら8h:1890 土日祝日なら8h:1980円だ。
入り口がなんか奥まった感じ。
便所が若干汚いな。野郎はどうでもいいが女の子は気にする・・・か?
一人の女の子を結構見かけるので気にしなくていいかも。
割と静か。ほかのやつがタイピングしてる音はさっきより聞こえない。(扇風機が回ってるからかも)
なんか俺のいる階は少女コミックばっかりだな。嫌いじゃないぜ。花とゆめとか。
60分じゃ焦ることもないかと思い、一条ゆかり(笑)でも・・・
ってそれは朝までコースですね。サーセン。
とてもいい天気。
朝7時くらいに起きだして、外に出て、近くの自動販売機で冷たい紅茶を買った。ぷらぷら歩きながら紅茶を飲む。風が涼しい。乾いても、湿ってもいない風が吹いている。
それから家に帰って洗濯機をまわした。溜まって行く水に手をつけるとひんやりしていて気持ちがいい。
衣替えをするために、ベッドの下にある収納ボックスを空にした。このベッド下収納、ずっと開け閉めするたびにフローリングの床を滑って、奥の方にはいっちゃったりしていたので、道具箱に何故か入ってたゴムを使って滑り止めを作った。そしてベッド下の奥の方から、ヘンなものがいろいろ出てきた。花とゆめの付録?とか。(買った覚えはない。本屋でもらった?)
衣替えは結構大変だった。着ないやつをゴミ袋にいれたら二袋になってしまった。
汗をかいたのでシャワーを浴びた。
朝のうちに作っていたアイスコーヒーを飲みながらネットサーフィン。(←今ここ)
幸せだなあ。
男に生まれたかった。
それでも女に生まれたからには、愉しみ尽くそうと思う。
そうですか。
そういえば、僕の妹はスカートが大嫌いな子でした。小学校ではジャージが制服というイナカでしたが、さすがに中学校の制服はセーラー服でしたので、彼女は嫌々着ているというのが傍から見てても分かるのが、身内としてはちょっとつらかったのを覚えてます。
逆に僕は小さい頃から女々しい性格で、どちらかといえば「花とゆめ」系の少女漫画をたしなむような子でしたので、母親にまで「なんや!その女の腐ったようなナヨナヨぶりは!」と叱られた覚えが何度もありますし、できれば女の子になりたかったなぁという思いは、今でも心のどこかにあります。
まあたとえ女性に生まれてても、今の自分の気の弱さがなんとかならない限りは、チカンや変質者に遭ったり、クラスで陰湿ないじめ被害に遭って、リストカットしたりするような子になってた恐れは、十分にあっただろうなとは想像しますけど。
話を本題に戻しますが、女性が愉しめる一方で男性向けがショボいジャンルといえば、やはり「おしゃれ」でしょう。僕は(体型的にも性別的にも)自分に似合わないファッションを眺めては溜息をつくだけですが、女性は着飾ってナンボという部分はあるとは思うので、生きているうちは悔いの無いように、「女じゃなきゃできない事」をぞんぶんに愉しんでもらえたらいいと思います。