はてなキーワード: 男女の友情とは
意外とM子側の意見多いのね。
自分から見て相手がブスなら抱けないでしょ?美人なら抱きたいでしょ。だから男女の友情!とか言っちゃう女は男に性欲のはけ口にすらされない可哀そうな人なのよ。
M子がずるいだけであって、
その一例をもって、「すべての男女の友情があると言う女はズルイ性格が多い」
というのは言い過ぎでは?
職場では、女子力のたかい女性社員によって手作りや、既製品のチョコレートが配られていた。
私はここで務めてから、初めての2月14日だったので、勝手がわからなかったがこの会社の女子力はたかいのだと思った(近くの席でチョコを持参していない女性社員は2割程度だった)
男女の友情は成立するかについて、
異性経験が乏しいため2人きりで夜食事にいくとなると「おっ?」と思ってしまう自分がいる。
好みでない異性と2人で食事に行くことはしないし、まず異性とここまでの関係になることもそんなにない。
今まで男女の友情は成立しないと思っていたし、2人で食事にいく仲になればそういう目で見ることも必ずあると思っていた。
しかし、最近そうでもない、相手がこちらを完全に恋愛なしで見ているパターンが多くなってきた。
今日の相手(夜2人で飲むのは初めて)は、前から気になっていた存在でもあった。が、今のところ、恋愛対象としては見られていないように思える。
相手の態度を見ていると、男女の友情も良いんじゃないか?と思えてきた。
セックスという快楽抜きで語らえる、寂しさを共有できる友という存在は大切である。性別がどうであろうが。
私にとってセックスは、とても大事だけれども、そのリターンもリスクも高い行為で寂しさを紛らわすことは、失うものも多いのだよなあと改めて思った。
と、わたし(筆者)は思う。腐女子こそ夢小説を書くべき論とかを読んで、うだうだ考えたことと提案。
わたしの夢傾向のせいで、おおむね夢小説のことになるけれど、ある程度夢創作全体に通じると思っている。そして、だれにも押しつけるつもりはない。
女。
夢創作愛好歴はおよそ10年で、ブランクはない。「灰男」からとでも言えば、わかる人にはわかるだろう。
よく読む(積極的に探す)のは好きな原作の二次創作の夢小説。でも、おもしろいと思えば、なんでも読む。主人公の個性がマシマシだろうがナシナシだろうが、性別が同性だろうが異性だろうが、恋愛があろうがなかろうが、その相手が主人公と異性だろうが同性だろうが、ヒトであろうがなかろうが、ものだろうがなんだろうが、おもしろければ読む。じゃあ、どんな夢小説がおもしろいのかとかいう話しにはキリがないので、割愛させてもらう。
「よく読む」と表現はしたけれど、書きもする。むしろ書くのがメイン。
で、わたしには一つ譲れないところがあって、自己投影する。作者がどういう意図をもって主人公を設定したか知らないけれど、その夢小説を読んでいるとき、その主人公は、わたし自身だ。
自己投影とは - 日本語表現辞典 Weblio辞書にはこう書いてある。
(2)目にした状況や呈示された刺激などを理解したり解釈したりする際に、その時の自分の心理状態や人格特性などが反映されること。「自己投影」は俗に、フィクション内のキャラクターなどを自分と同一視し、キャラクターを自分に重ねることを指して用いられることもある。
そのうち後者(フィクション内のキャラクターなどを自分と同一視し、キャラクターを自分に重ねること)が、夢小説における自己投影だと思う。少なくともわたしにとってはそうだ。
「わたしの夢傾向」を読めばわかるだろうけど、主人公自体にこだわりがあるわけではない。わたしは、おもしろければ読む。かれ(かのじょ)が、生き残った魔法使いだろうが、高校生探偵だろうが、半妖だろうが、天使の生まれ変わりだろうが、悪魔に呪われたエクソシストだろうが、マフィアの十代目だろうが、自分自身の子どもだろうが、あらゆる天賦の才能を無効化する天才だろうが、宇宙人に侵略された地球でなんでも屋を営んでいようが、超次元サッカーを嗜んでいようが、メロンパンが好きな紅蓮の異能者だろうが、宇宙に適応した新人類だろうが、幻のシックスマンだろうが、個性を掴みとった無個性だろうが、異世界の侵略から地球を守っている戦士だろうが、壁の中の人類を追い詰める巨人だろうが、六つ子の六分の一だろうが、あるいはCV田村ゆかりでも、桃色の髪でも、透明な肌でも、眼鏡でも、ショートヘアでも、オッドアイでも、幼稚園児でも、おばあちゃんでも、壁でも、掃除機でも、薄汚い中年でも、ノンケでもレズビアンでもゲイでも、もうなんでもかんでも、それはわたしだ。夢小説を読んでいるとき、わたしはその突拍子もなくかけ離れた、ありえない、あるいはありきたりの、場合によっては自分そっくりの、そのものになる。
ところで、これがだれしもに当てはまるとは、思っていない。自己投影にはレベルがあると、わたしは考えている。レベルと表現したからには高低があるが、そこに優劣を見ているわけでないことは言っておく。
ガバガバ。とくにレベル2と3。レベル0と1と4については、説明は不要だと思う。
「無個性」について。文字どおり「個性」が「無」いことだ。その個性について、個性とは - Wiktionary日本語版(日本語カテゴリ) Weblio辞書には、以下のように書いてある。
ある個人を特徴づけている性質・性格。その人固有の特性。パーソナリティー。 「強烈な-をもった作品」 「 -を発揮する」
夢小説においては、主人公に「(自分と)同じ性別」「同じ種(つまりヒトである)」だけが設定されていることだと思う。それに加えて「同じ性愛の向き(同性愛か異性愛か)」「同じ好きなひと(主人公とのかけ算の相手)」が設定されていることもあるだろう。その程度だ。ここまでが、レベル2の「無個性」の範囲だと思う。
レベル3の「ある程度の個性」は、単純なものではない。ここでは「なんでもかんでもは無理」としか説明できないことだと思う。レベル2の無個性に少しだけなら、いやいやヒトならいいよ、擬人化された人外なら、異性でも同性愛者ならいいよ、有機物ならいいよ、基本はヒトがいいけど単眼ならいいよ……などといった具合に。
で、「自己投影」についていろいろ言ったばかりだけど、ぶっちゃけ自己投影しなくてもいい。読み方は自由だ。
二次創作に関して言えば「オリ二次」の一つとして読む人もいるだろう。実際、夢小説の主人公は、原作に存在しない「オリジナルキャラクター」といえることが多い。
二次創作的なものにばかり言及することになるが、原作に明記されていないことを、「こうに違いない」「こうだといいな」と考えたり、あるいは原作の設定を無視して「こうさせてみた」としたりすることがあると思う。あれも、ある種の読み方といえると思う。わたしも二次創作夢小説を、そういう原作の読み方から書いている。こんな(夢小説の)主人公がいたら、原作のあのキャラクターはああするだろう、こうしたらあそこはああなって……とか。
どれもこれも読み方だ。わたしたちはおそらく考えながら読んでいる。そして、考えることは自由だ。だから、どう読むかも、また自由だ。
わたしは、よく二次創作夢小説を書く。そして、この日記でいう自己投影レベルは4で、読者としては主人公に自己投影する。
当然(ではないかもしれないけれど)、わたしの書く夢小説には、わたしの嗜好が大きく表れる。「おもしろさ」の基準を満たそうとするだろうし、自分の書くものだから、ある程度は満たしていると思う。で、嗜好が大きく表れるので、主人公は異性愛者の女性かもしれないけれど、おばあちゃんかもしれないし、ゲイかもしれない。ヒトとも限らない。ボールに入るモンスターかもしれないし、壁の外の巨人かもしれないし、魔神族の王かもしれないし、好きなCPが愛を営むベッドのシーツかもしれないし、だれそれがだれそれをドンする壁かもしれない。
でまあ、書くのも自由だ。ある程度は。書くということは表現で、表現することは、ある程度は自由だ(公共の福祉に反しないかぎりとか、憲法かなにかで言っていたと思う)。二次創作について言うと、著作権どうこうの話しになってしまって、これまたキリのない話しで、わたしには専門的な知識がないので割愛させてもらう。今のところ「非親告罪なので原作者が罪をつきつけないかぎりOK」というスタンスで、つまり原作側になんやかんや言われたら速やかに従いますよってくらい。しか言えない。これはマジで。
ここには夢小説に通じる内容があるよねってやつ。だと思ってる。
大阪の国際的なスタジオのテーマパークの、魔法使いになれるところ。原作、大好きです。原作の主人公が通う学校の生徒になれたらな、入学許可証がきたらなって思った。そして、なんと、大阪のその遊園地に行けば、杖が買えるという(行きたい! 買いたい!)。わたし今()に気持ちを書いたし、魔法使いになれたらなとも思った。んでもって、わりと世のなかには、あの小説や映画や、あるいは遊園地で、わたしと同じようなことを考えたひとがいるんじゃないかと思う。遊園地では魔法使いになった気持ちを味わったひともいると思う。
次いこう。実は東京にはない夢の国。あそこで(遊んでいる間だけでも)夢の国の民だったひとも、やっぱりいると思う。あそこのキャスト(スタッフ)の神対応が、たびたび話題になっているから。
というかだね、幼いころに、日曜朝のヒーローになりたい、ヒーローに守られたい、あるいは戦うヒロインになりたい、楽器から魔法の道具を生み出したいとかって、考えたひとも、やっぱりいると思う。「あんなこといいな できたらいいな あんなこと こんなこと いっぱい あるけど」(だっけ?)とか、二十ウン世紀からきたロボットに会いたいとか。
ボールでモンスターを捕まえるゲームが、リアルマップに対応したよね。わたしたちはスマートフォンさえ持っていれば、GOした先で、疑似的ではあるけれど、まるで本当のトレーナーのように、モンスターをゲットできるようになった。
こういうのは夢小説に通じる考え方だ。二次創作の話しになるけれど、先述の「オリ二次」にも、同様に夢小説に通じるものがあると言える。あのCPの営みを空気になって見ていたいとかもだね。そして、それが形になったものを見たとき、そこに「夢小説」のラベルがなければ、「実質夢小説」として見る。
商業の小説にも、「わたし」視点の、あるいは明らかに作者(のペンネーム)と同じ名前の主人公がいたりする。(それだけとは限らないけれど)そういうところから夢小説のにおいをかぎとったとき、やっぱり実質夢小説として見る。
書いてるうちにだんだんと疲れてきて、かなり文章が雑に、より滅茶苦茶になってきていることを、わたしは自覚している。本当に。
それを夢小説かどうか決めるのは作者だ。言いたいのは、これだけだ。題名にもしたけれど。
夢小説っていうのは、すごくガバガバだと思う。自己投影したりしなかったり、名前を変換したりしなかったり。夢小説は、ある種の表現技法で、考え方だと思う。そこには、かなり「主観」の要素がある。
まず、作者が、それを「夢小説」にする。ここには作者の嗜好が、存分に表れていたりいなかったりする。それが発信されると、だれかの目にとまることがある。このだれかが「読者」だ。この読者にも嗜好があって、もしかしたら、かれ(かのじょ)はそれを「夢小説」と思えなかったかもしれない(これのどこが夢小説だ! オリ二次でやってろ! モブ創作でやってろ! 云々)。そのときは、そう思うにとどめて、「これはわたしには合わなかった」「このひとの作品は読まないようにしよう」などと、読者が避ければよいだけの話しだと思う。読者が「おまえのは夢小説じゃないから夢小説のラベルを剥がせ」などと作者に強要することではないと思う。一人の作者として、わたしは、そう強要されるのは嫌だ。読者に読者の「夢小説」観があるように、作者にも作者の「夢小説」観がある。
これは、なにも「夢小説」だけの特別なことではなくて、いろいろなことに言えると思う。わたしは、実質夢小説だと思いながら、言いながら、けれどそこから「実質」を剥がしはしない。つまり、強要はしないし、直接作者に提案することも、しない。わたしは、されたら嫌だから。考えてもみようよ。男二人の友情を、あるいは女二人の友情を、はたまた男女の友情を書いていたのに、「これ恋愛(BL)(GL)ですよね。友情ものを名のるのやめてくれません?」なんて言われたら、どんな気持ちになる?
とくに、「わたしが不快だから(夢小説の)ラベルを剥がせ」とかいう強要(提案)はやめたほうがよい。これにはキリがない。万人に受け入れられるものは、ない。Twitterにロバの絵の四つの比較みたいなのがあったと思うんだけど、まあ、あんな感じで。不快だから剥がせという強要がまかり通るようになってしまうと、気づいたときには、あなた独りだけが夢小説を書いている……なんてことになりかねない。
つかれた。
じゃあ男女の友情は無いってことじゃん
「男女に友情はあり得ない。なぜなら男は女を恋愛対象としてしか見ないから」と言われると凄い違和感がある。
自分は男で、かつてとても仲の良い女友達がいた。その子とはもう疎遠になって、
彼女が結婚して出産したみたいな話を地元の知人から又聞きする程度の関係にはなってしまったが、
中学時代、同じ趣味友だちだった二人の関係はどう考えても「友情」としか言いようがなかった。
確かに多感な時期だけに、自分たち二人よりも周囲がその関係を恋愛だと勘違いして
囃し立てられたり、あるいは何の権限があるのかクラスで目立つタイプの女子が
関係を問い詰めてくるという面倒事に巻き込まれることはあった。
(後で知ったが、その問い詰めてきた女子は自分のことが気になっていたらしい)
その仲の良い女友達とは、同じに将来の夢を語りあったり、悩みを打ち明け合ったりしていたし、
同性の友人のように固い絆で結ばれていた、と自分は信じている。
ただ、高校の進学先が違ったことと、自分が東京の大学に進学したことから、
必然的に関係は(まだFacebookができる前だから)疎遠になっていったけれど、
それでも少なくとも年に1,2度は会って話をする機会があったし、
彼女に初めて彼氏ができた、と報告されるときは自分のことのように嬉しかったし、
その彼との関係が破綻しかけたときは心の支えになったり、求められたらアドバイスをしたりしていた。
周囲からは「悔しくないの?」と煽られたりしたこともあったけど、
当時は心の底から「いや全然」と思っていた。それは今でも変わらない。
ただ、彼女が自分に対して恋愛感情がなかったのか、と問われれば、
自分には分からないとしか答えようがないが、恐らく全くなかっただろう。
持論。友達はいるが「今の時点では」「自分にとって」セックスするだけの魅力がないから友人ってだけ。セックスしたいなら友人関係にはならない。
後、何らかの理由で倫理的な縛りが強く、禁欲的(主に宗教だな)な男性はこの限りではない。
だから一回やって性的欲求を満たした後に友人になる女はたくさんいる。なぜなら一回やってなんとなく理解できたので、もうどうでもいいかなって思うので。自己勘100パーだけど。
JKをやっている。わたしには小学校から中学高校ずっと一緒な幼なじみがふたりいて、ひとりは女の子(この子は幼稚園からずーっと)、もうひとりは男の子である。女の子とも男の子とも、3人で帰ることが多いけど、どちらか片方が用事あるときとか、登下校とかふたりで普通にする。ときどきふたりでアイスを食べて帰る。少女漫画のように「ただの幼なじみだと思ってたのにドキドキ」とかまったくない。怖いくらいにない。というか男の子という感覚もない。なんというかわたしはまあ、好きな人が男だったり女だったりする人だからかもしれないが、友だちに性別は関係ないし、恋愛感情を持たないフォルダに入れてしまえばもうまったく意識しない親友である。だけどほかのJKはそんなわたしたちが信じられないようで、めちゃくちゃ彼氏に間違われる。ちなみに幼なじみには両方彼氏彼女がいる。わたしだけ独り身である。ちくしょう。いろいろごちゃごちゃするので幼なじみ(男)をa、幼なじみ(女)をbとさせてほしい。aの彼女もわたしがaとふたりでいるとすこし気にしているようである。こちらからしてみればなんだか申し訳ないけど同性同士の友だちと変わりないので、自分とaとしてはこれで離れるのもなんだかなあと思いつつも、aとこっそり話し合っている。やっぱり彼女というのは、彼氏に女の子の友だちがいると気にするのだろうか。割り切れてしまっているわたしにはよくわからないのである。幼なじみも鈍感なのでわかってないようで、こりゃダメだ状態である。
aとふたりで帰っていると、aと同じクラスの子とか、はたまたわたしと同じクラスの子とかが横を通り過ぎてからこそこそ話していたりするし、単刀直入に彼氏?と聞かれたりする。そのたびに違うよと笑っても、じゃあなんでいつも一緒に帰ってんの?の一点張り。友だちと帰ることの何がおかしいのか?男女だからか?その子たちが同性の友だちと当たり前のようにやっている一口交換も抵抗なんてなかったけど、まわりが信じられないような目で見てくるのでいつの間にか3人でいるときもbとしかしなくなった。
もうおかしくてもいいからほっといてほしいというのが本音である。住んでいるところが田舎だからかもしれないが、なぜか目立ってしまう。後ろめたいことはなにもないのに遠慮するのもなんだかいやだし、bはもちろんaも友だちとして大好きだし、ずっと一緒だったから、いまさら離れるのもおかしいし悲しい。男女がふたり=恋人という風潮をなんとかしてほしい。
わたしは男女の友情は成立すると思っているし、なんだったらいまわたしとaに成立している。これからもb含め、ずっと良い親友だと思う。いろいろな人の意見を聞いてみたいなと思ってこれを書いた。ぜひ聞かせてほしい。