はてなキーワード: 平和ボケとは
それがなんかバザールみたいな旗がなびいてて、「ダメだこりゃ(いかりや長介)」感がものすごい。
緊迫感がねーのよ。
考えてみろよおやじが世界を救うために家族を捨てて旅立ったっていう世界を。
世の中への使命感でみんなのために旅立ったんだぞ。
そんな絶望の世界で楽しくすごせるわけねーだろ。町を出ればモンスターだらけだし。
2021年のオクトパストラベラーっぽい風景のほうが100倍良かった。
原作をそのまま持ってきた感じがあった。
今回のはなんか安っぽいソシャゲみたいな風景になってて、なんの原作への理解もない下請けの若造が作ったんだなと。
なんだこりゃとしか。
小池 → 無自覚パワハラ系だと思う。現場に無茶振りしておいて「なんで女性が休めてないんですか?管理職はなにやってるの!」とか言ってそう
蓮舫 → 自覚ありパワハラ系だと思う。ただ自分都合でしか考えてないから、飴と鞭のバランスがぶっ壊れていることに本人だけが気づいてないタイプ
田母神→ 自衛隊出身という時点でお察しだが、その中でもアレなエピソードをチラホラ持っているガチの人
安野 → ロジハラ臭。普段は落ち着いてそうだけどメンタル落ち込んだら「そんなことも分からないんですか?」でガチ詰めしてきそう。
内海 → 反ワクの時点でお察しを通り越した何か。蓮舫の1/10ぐらいの票数を獲得しており都知事選本当にヤバすぎて笑ってしまう。
中松 → 更年期障害で突然怒り出しそう。平和ボケモードのときは孫と間違えてベルタースオリジナルくれそう。
だいたいこんなもんか。
ほぼほぼ駄目っていうか、泡沫の虚無の虚無まで掘り進めない限りは無限に「ゆーてコイツもパワハラしそうだよな」が無限に続く無限パワハラ地層じゃねーか。
それとも昨日まで石丸からパワハラ臭を一切感じ取らなかったのか?
鼻をかめ鼻を
ずっとSNSを使い続けてきた。
2010年代、リーマンショックを契機とした社会不安も手伝って、大学生の間では意識高い系の立ち振る舞いや起業がフワフワとした流行りになっていて、
ご多分に洩れず自分もTwitterのプロフィールには "/"を使ってたくさんのカッコいい(と想っていた)属性を並べていた。
なんだかんだ就職はJTCに入ったけど、社会人になってからも気になったニュースを見つけては感想書いてシェアしたり、充実した日々をアピールするような投稿を繰り返していた。
20代後半以降はさすがにそういう投稿も身を潜めたけど、食った飯だったり趣味のことでは投稿を続けていたし、昔の友人たちともゆるく繋がっていた。
日々の暮らしが充実していないわけではない。むしろ毎日楽しい。結婚して、お金もそこそこ貰って、とっても楽しい。
でもその楽しさを誰かとシェアしたり、昔みたく共感してほしいとは思わない。毎朝起きて仕事行って帰って妻と仲良く談笑してご飯食べて寝る。その幸せは、昔必死になってみんなとシェアしたかった幸せとは何かが決定的に違う。
それに最近のSNSはいつも誰かが怒っている。差別について、平等について、男女について、戦争について、平和ボケについて、金持ちについて、貧困について。正反対の事柄について常に怒りを発している人がいる。頼んでもいない何かしらの文句が無限に流れてくる。
そうだな、今の私の幸せにはそういう怒りとか、昔必死にシェアしていたアレコレのような「熱量」がない。
そして、そのことに対してすら正直どういう感情も湧かない。
政治の話をすると人の本性が見えるのだろうか。伯父と都知事選の候補者について話す機会があった。
元々右寄りの人間であるということは知っていたが、純粋に候補者についての見解を聞きたくて気軽に話を振った。
「百合子蓮舫石丸がトップ3みたいだけど、学歴詐称女と二重国籍女とフェミシンパ市長がトップ3じゃちょっとな、どう思いますかね」という聞き方をしたら「まず桜井、次に田母神」とバッサリ言ってきた。
自分も保守寄りの人間で、在日韓国人に利権があることはおかしいと思っているし、外国人参政権なんてもってのほかだ。碌にルールも作らず移民だ共生だという自民党のやり方はおかしいと思っている。
原発は再稼働するべきだし減税もすべきだし、閣議決定でLGBT増進法を通してしまうのだって絶対におかしい。
でも個人的に桜井誠はやりすぎだ。なにせ政治活動をして逮捕されたことのある人間だ。
「桜井誠は在特会の創設者で、ちょっと極端じゃなかろうか」と言ったその瞬間、伯父は豹変した。「なにが極端なんだ!言ってみろ!法律を守ろうと言ってるだけだ!」激昂して掴みかかってきた。
在特会のことは昔から知っていたが、暴力沙汰を起こして逮捕されたニュースを見て、「この人たちが目指すところとはちょっと違うな、関わるべきではないな」と思った。10年以上前のことだ。でもそんなことは、伯父に激昂された時にはとっくに忘れていた。
法律を守れって言いながら破ってるじゃないかって、忘れてなければ言い返してやりたかったな。
「覚えてません」って答えちゃって勝ち誇ったように「じゃあ極端とか言うな」って言われたの、正直悔しかった。
意見が違うからと手を出した時点で暴力革命を是とする伯父が大嫌いな共産党と同じやり口じゃないか?
「極端かもしれないと思ったからそれが正しいのかどうか話したいのであって、そもそもわたしは自分の視点を常に疑っている。でも桜井誠のやり方で票が集まるのか、この国をよりよく変えていけるのか疑問だと思ってる」って言ったら言い返してこなかった。
自分が正しいと思っていることが本当に正しいのか、どう思うのか、どうしていくべきなのか、どういう人間がリーダーにふさわしいのかという建設的な話がしたかったが、ムリだった。
父とはそういう話ができたから、その父の弟ともできると思ったが、間違っていた。
なんでも相談に乗るよ、というスタンスの叔父だったが正直失望した。人間として見習うところのある人だと思っていたが、軽蔑すらした。
自分の意見や考えていることが絶対に正しくて、そうでない人間には手を出してもいいと思っているのは絶対に間違っている。
例え公安に監視されている共産党だって、思想だけなら自由なのが日本だ。思想を暴力で押し付けることは、この国の在り方そのものを否定することに繋がりかねない。
自分も正しいし相手も正しい、という前提と信頼がないと建設的な会話はできないということを思い知った。身近にこんな人がいたとは正直まったく思わなかった。
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自由民主主義の国のトップに立つ者にはバランス感覚が必要だと思う。親戚同士でだってこんな望まない対立をしてしまうのに、1億人が集まったらみんな考えることなんてバラバラだ。
守るべきものを守り、変えるべきものを変える、民意をまとめるバランス感覚が優れていなければリーダーたりえないと思う(安倍首相は本当にバランスをとるのが上手だったと思う)。
それこそ日本第一党が主張する核武装論などバランスから逸脱してはいないだろうか。もちろん今にも戦争を起こしそうなお隣の野蛮の極み近平ランドを放置しておいていいはずがない。
だけどバランスをとるべきだ。日本人の多数が核武装を望むのであればすればいいが、今はそうじゃない。平和ボケしているだけかもしれないが、国民の多数が望んでいないことは国民に望まれないことで、主張しても支持されないことだ。
近平ランド以外の隣国に対してもそうだ。相手を必要以上に刺激してしまわないだろうか。たとえば隣国がNATOに加盟すると決めたら侵略した国は日本とも隣国だ。日本が核武装したら彼らはどうするのだろうか。それがきっかけで世界の構図が変わりかねなくはないだろうか。戦争の引き金になることや国際関係のバランスを考慮できているのか?
しかしだからといって「9条がある!自衛隊は不要!」などと主張して悪意のある国のされるがままになれば奪われるだけでこれもまたバランス感覚がない。
また、日本人になくて朝鮮人にある権利を否定することと、人種差別をしていいことも当然違う。むしろまったく別問題だ。人種差別をするような政治活動家は一歩間違えればヒトラーだ。
新大久保に集まって「ゴ○ブリ」などと汚い言葉を吐くのは良識のある人間として超えてはいけないラインだろう。
やっぱりわたしの視点からすると桜井誠や在特会は極端だ。バランスがとれているとは全く思わない。
相手がそうだから自分もそうしていいという考え方もあるだろうが、日本は法治国家だ。変えるべきことは暴力ではなく選挙で変えなければならない。
国がそうだということは当然だとして、これは家族という社会の中でもそうだろう。暴力には訴えず、話し合って、皆がよりよく生きていける日本にしないといけない。
日本人として、和を以て尊しとなせるように生きていきたい。そうしていくと誓った。
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今回のことがきっかけで「保守とは永遠の微調整」という言葉を知った。有本氏は「保守というのは極端なものを嫌うものだ」と言っていた。どちらの言葉も非常にしっくりきている。
自分がされたら嫌なことは、逆に相手にする側になったら相手も嫌がること。
自分がされて嬉しいことは、逆の立場になったら相手も嬉しいこと。
TCGをやればこのことがすぐに学べる。
フィニッシュカードを通す直前に出した釣りに相手が反応して、手札を0にしてくれたら凄く嬉しい。
逆に自分が相手にフィニッシュカードを通されそうになったら、その直前に出した大したことがないカード相手に過剰反応せず、手札が1枚以上の状態を温存したほうが、相手に苦しい状態を続けさせられる。
もし相手に1枚でも手札が残っていたら、それが打ち消し呪文だったらと想像するだけで下手な動きが出来なくなる。
だから、終盤に弱いモンスターを引いたときは、それを雑に出すよりも、「手札が1枚ある」という状態を維持するのに使ったほうが、結果的に強くなる。
「もしも自分が相手の立場だったらどう考えるか……」を意識することによって、相手の気持ちを想像する能力が次第に養われていく。
カードゲームやボードゲームをやることでその感覚を養うことが出来る。
俺はそのことを盲信していた。
相手の気持が分かることと、人に対して親切に出来ることがイコールで結ばれると思っていた。
だが違ったんだ。
カードショップには相手の気持ちがわかった上で、「相手が痛くても俺は痛くないから」と考えるサイコパスが大勢潜んでいる。
言葉巧みに初心者を騙してカードを巻き上げるシャークトレーダーや、風呂にも入らず平然と暮らす発酵チー牛共がその代表だ。
彼らはカードゲームを通して他人の気持ちを理解する訓練を続けるうちに「相手の気持ちと自分の気持ちは独立している」という事を学ぶことに成功した。
これは単体で言えば喜ばしいとで、いわゆるサリーアン問題を攻略することを可能にし、人間関係構築において多くの人が躓くポイントを突破していると言える。
だがその先で得た結論が「つまり、相手がどんなに苦しんでいても、それを意に介さなければ、俺は何も損はしないんだ」になってしまえばサイコパスが誕生する。
人の気持ちはわかるが、人が傷つこうが苦しもうが、それは自分とは無関係なのでどうでもいいと考えてしまうようになるのだ。
人の気持ちが分かれば、他人を不当に傷つけない人間になるなんてのは平和ボケした幻想だ。
本当に恐ろしいのは社会不適合者じゃない。