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はてなキーワード: 寄付とは

2024-01-16

anond:20240116003349

元増田の例は金銭が絡むからどちらも選ぶという選択ができない状況が大いにある。

寄付をすべきと常日頃から強く思うわけではないが、助けてあげたいと思わせる材料があるならそれに従う人がいるのは誤りではないとも思う。

募金とは言うけれど、実際金を払うのだから買い物と通ずるものがあるからだ。

ポメを買って黒い犬が売れ残ったとしても、それを気にしていたら仕方ないと思う。

まあ実際は募金から売れ残りとかじゃあないんだけど、全てを選べるわけではないのに選ばなかったものに対しての差を意識するのは傲慢しか……。

それに募金であれば金額の不平等もあるわけで、Aさんは100万やったけどBさんが100円しかやらなかったらBさんの力なんてほぼなかったとも言えると思うし、誰もが公平に助ける力をもっていないからこそ「助けるフリをする」ことくらいは良いんじゃないと思う。

独善的な人がいても許してほしいというか。

anond:20240116003349

寄付他人のためならず、いつかおまえも老人になって堂々と車椅子マークのところに車をとめたり優先席に座る日がくる

anond:20240116003349

あなたの持論について反論する前に、あなたの考えを整理しましょう。あなたの主張は、寄付における選択必然的に何かを助けないという選定を含むこと、そしてこれが不平等を生み出す可能性があるという点に焦点を当てていますあなた個人による感情的寄付ではなく、より公平な再分配は国を通して行われるべきだと考えています

これに対する反論はいくつか考えられます

1. 寄付個人価値観を反映する: 寄付個人が重視する価値や信念を表現する手段です。例えば、環境保護教育支援など、人によって重視する分野は異なります。この多様性社会全体として様々な問題に注意を向けることに貢献します。

2. 完全な公平性は実現困難: あなた提案するような、国による完全に公平な資源の再分配は理想的ですが、実現は非常に困難です。政策優先順位資源限界、そして政治的な影響など、多くの要因が公平性に影響を与えます

3. 小さな寄付の積み重ねの重要性: 個々の寄付が小さくても、多くの人々が行うことで大きな影響をもたらすことがあります。例えば、災害救助や医療支援など、緊急性の高い問題に迅速に対応するためには、政府や大規模な組織だけでなく、個人寄付重要役割を果たします。

4. 寄付公平性の追求: 寄付をする際に、どのような基準選択するかについても考慮することが重要です。たとえば、最も助けを必要としている人々に焦点を当てる、あるいは最も影響を与えることができる分野に寄付するなど、寄付方向性公平性に基づいて決定することも可能です。

5. 個人社会役割バランス: 個人寄付と国による再分配は、互いに補完的な関係にあります個人寄付は、国の政策資源が及ばない領域を補い、社会の多様なニーズ対応する手段となり得ます

最終的に、寄付に関するあなたの考えは個人価値観経験に大きく依存するため、一概に「正しい」か「間違っている」かを決めるのは難しいです。重要なのはあなたが提起している問題に対する意識と、それに基づいて自分自身の行動を決定することです。また、個人寄付と国による再分配のバランスを考えることも、より公平で平等社会を目指す上で重要です。


ChatGPTすげー

anond:20240116102116

いうことが極端だなあ

在るべき論の話なんだから個人寄付に頼るよか政府がきちんと再分配するべきって話くらいは普通にするだろ?

anond:20240116003349

法哲学議論を参照して「愛らしいから」=「他とは区別される特定属性を持っているか寄付する」という考えが正義にもとることは肯定しつつ,寄付するべきではないという考えを批判してみる.

まず,正義は「等しきものを等しく扱う」ことが本質だとしばしば定義される.

かわいそうなポメラニアンと,かわいそうな黒い大型犬はどちらも「かわいそうな犬」という属性で等しく,両者に対して異なる扱いをすることは正義にもとる行為にあたる.

他方,慈悲,あるいは愛は,「等しきものを等しく扱わない」.

個体属性ではなく,今まさに存在する「この個体」を救うことに関心があるからだ.

「かわいそうな犬」だからではなく,「この」かわいそうなポメラニアンからこそ人は憐憫を垂れる.

法哲学者の井上達夫言葉を借りれば,「愛の本質である個体性への関心と配慮正義普遍主義要請対立する」(井上達夫. (1986). 共生作法: 会話としての正義. 創文社. 117.).←たしか近年新版がでている.

では我々は,正義にもとるということを理由に,特定属性を持つ人々のために自発的に寄附を行うべきではないのだろうか.

何が「等しい」のかを民主的手続きに基づいて決定し,一応の正義を認めることができる主体である民主主義国家による再分配に我々の持つ金銭というリソースは委ねられるべきなのだろうか.

そうではない.

なぜならば,民主主義国家によって達成される正義手続的正義にすぎないかである

「正しい手続きを踏んだから,かわいそうなポメラニアンを救済することにし,黒い大型犬放置することにした」.

これは本当に正義だろうか.

何が正義なのか,何が「等しい」のか,やはりその実体に踏み込んで考える必要がある.

この実質的正義と寄附を考える上で注目すべきが,この十年で存在感を増している「効果利他主義である

昨今のオープンAIアルトマン解任騒動で目にしたことがある諸兄もいるかもしれない.

効果利他主義とは,簡単に言ってしまえば「社会全体にとって最も費用対効果の高い良いことをすべき」という考え方である

ここでの費用には,金銭だけではなく,自分時間労働も入る.

かわいそうだから,というある種偶然に基づいて他者のためのリソース投下をするのではなく,コスパという等しい基準を置いてあらゆる利他的活動比較評価し,最もコスパが良いもの投資する.

これが公平であり,正義なのである

この比較には,「リソース投下に対する社会インパクト定量化できる」のが大前提になっている.

社会科学素養がある人間ならばすぐに気がつくように,あらゆるものを同じ基準定量化することは不可能である

例えば,生命という多くの人が合意するであろう基準に関しても,単に生きていれば良いのか,健康寿命なのか,QOLによって測り方が変わる.

定量化の前提は,効果利他主義限界の一つとして指摘できるだろう.


効果利他主義において,個体性への関心はどのように扱われているだろうか.

便益を最大化することにこだわることは,特定目標との個人的な結びつきを否定することになる.例えば,「家族ががんでなくなったからがんの撲滅に情熱を注ぐ」という行動は否定されるべきなのかという批判に対しては,次のように反論している.

たまたま理由だけで一部の人々のニーズを優先していることになり,もっと効果的に手を差し伸べられる人々に対して不公平である,と.(ウィリアム, M.. (千葉敏生訳). (2018). 「効果的な利他主義宣言! : 慈善活動への科学アプローチ. みすず書房. 42-43.)

そろそろ疲れてきてしまったのでまとめよう.

特定属性を持つという偶然を理由として寄附をすることは正義にもとる一方で,民主主義国家を通した再配分には手続き正義に留まるという限界がある.

実質的正義を追求するには,効果利他主義のような一定基準を持った上で,最終的には自分なりの正義を追求して寄附を行うべきなんじゃないだろうか.

なお,筆者自身効果利他主義者ではなく,単におもしろい考えの一つとして注目しているに過ぎないという点を申し添えておく.

anond:20240116003349

全く間違っていない。ただ、やりすぎると社会不安定化するというだけ。

例えば学習障害に対して努力不足だとか、今次の能登地震について「過疎で交通不便地は見捨てろ」という論と同じである

人間社会を振り返ってみると、何度もこういう話は出てくるし、実際その淘汰圧に何度も負けてる。ただ、やりすぎると社会全体が不安定化する。なぜなら黒い犬は見捨てられ野良犬となり繁殖狂犬病を持つようになるかもしれない。学習障害放置すると就職に困難をきたした上で反社会的勢力の食い物やコマになるかもしれない。

そうでなくとも、後天的身体障害就職差別したケース(めちゃくちゃありますね)ではだいたい飲んだくれてたりする。

これらを放置すると社会全体が不安定になるし、そうでなくとも普通の人々自分普通だと思ってる人々)まで「一歩足を踏み外したら地獄だ」という気持ちにさせ、とてもよくない。

なお、これらは国家規模の作業なので、あなた寄付をするという行為自体は、あなた気持ちよくなるという側面が大きい。良いことをした、社会に向上した、という。

なので、寄付に罪悪感を覚えてしまっては本末転倒である

もしも可能ならば、黒い犬にもポメラニアンにも平等にする団体への寄付をするか、両者に50円寄付するとか、あなた気持ちよく安心できる道を選ぼう。社会補助とか公女とかは不幸な人を助けるだけでなく、普通の人々(ないし普通だと思ってる人々)を助けるためにもあるのだから

https://anond.hatelabo.jp/20240116003349

公平性効率性を満たす必要があるね。

かわいいポメラニアンだけを救うと公平性が満たされない。

黒い犬もポメラニアンもどっちも救って、公平性担保するような寄付が望ましいと思うが世の中にはリソースが足りない。

可愛いもの、美しいものには資本が集中して歪みが出る。醜いものにはお金が行き渡りにくい。

なので、寄付を行うもの本来効率性と公平性を満たすような行動が求められる。俺はもっとお金持ちになって、それを実現したいと思ってるよ。ビルゲイツは割とそれを正しく行ってるんじゃないかな?

anond:20240116003349

増田には経済学の「再分配」に関する書籍を読んで感想を聞きたい。ちょうど200年くらいずっと議論されているテーマ。俺は20年くらい前に大学生ときに感動したよ。いまの俺の解釈としては「眼の前の再分配によって生じる不平等不公平さは一時的であり、経済科学が進めば一瞬で解消する。議論を重ねて公平さを追求する時間が勿体ない」という感じかな。個人レベルポメラニアン大型犬のどっちに寄付するかは趣味レベルだけど、政治官僚はそれを真剣に3年くらいかけてやるからね。その間にどっちも死んじゃうツーの。やりやす対象から始めればいいんだよ。カワイイ正義。いずれ可愛くないやつにも落ちてくるから

anond:20240116070547

千万寄付する人が100人いれば1人1万円もらえるんだよ。募金というのはそういう数の暴力でいいことをしようってことだろ

anond:20240116003349

正しくない。当たり前だ。

それが許されるのはリソースが限られていてどちらかを選ばないといけない時だけだ。トリアージと呼び、緊急避難と呼ぶ。

では、苦しんでいるポメラニアンの子犬と苦しんでいる黒い大型犬が並んでいて、それぞれ100円を寄付すれば助けられるという状況において、ポメラニアンにのみ100円を寄付するという行為は正しいのか?

anond:20240116003349

大型犬の方が助けられにくいと思うのなら、大型犬寄付をすればいいだけでは?

anond:20240116003349

マジレスしてみる

個人感情に任せた場合に、大型犬よりポメラニアンの方が寄付が集まりやすいという前提は正しいと思う。

ポイントとなるのは、寄付が集まりやすい順番に救済されていった結果、最終的には大型犬を含むすべての苦しんでいる対象が最低限必要な水準に至るまで救済を充足できると寄付する人間が信じているか、だと思う。

まり「順番に多少の前後はあれど、ポメラニアンが救済されれば次には中型犬大型犬に同情が集まるようになり、結果としてすべての犬が救済されるはず」と信じている人にとっては、とにかく目についた可哀想な犬に寄付を行うのは、(最善ではないにしても)概ね正義にもとる行為ではないと思われる。

一方、諸々の理由により救済が大型犬に行き渡ることはないと考える人ならば、寄付正義にもとる行為だと感じる傾向が強くなるだろう。

救済が大型犬に行き渡らないと感じる要因としては、

・救済に充てられる全体のリソースが明らかに不足していると感じられる場合

・救済されたと見なす水準が高い場合

などが考えられる。

そして、この中でより考え方の違いが出やすいのは後者の「救済されたと見なす水準が高い場合」ではないかと思われる。

救済を急迫した危機からの脱却(必要最低限の状態の確保)のためだと考えている人ならば「とにかく今、危機的状況にある人には手当り次第に支援を行うことで、世の中から危機的状況にある人をゼロにすることができる」というロジック比較的すんなり受け入れられるものだと思うが、救済を可哀想な要因の完全な排除対象状態を世の中の平均水準まで押し上げること)だと考えている人ならば「そんなリソースあるわけ無いじゃん→個人感情で救われるやつを選別するのか?」と感じるのも自然だろう。

anond:20240116003349

間違いというか、それが右派左派の違いというものですよ

左派平等を追求するから、分配も不平等があってはならない

から政府のような単一存在平等考慮して分配することを望む

右派はそうではない

アメリカ調査共和党支持者の方が民主党支持者より寄付ボランティア積極的だという結果が

左派寄付ボランティアより国家などの単一存在税金を納めて再分配することを望む傾向

右派個人主義国家主義者・全体主義者も右派と呼ばれたりするけど)なので

自分寄付したいところに寄付することを望み、単一存在が決定権を持つことを嫌うのです

anond:20240116003349

この話でまず思い浮かぶのは心臓移植募金した前沢擁護した坂上が叩かれた話だろ

はてブでも移植ツーリズム寄付することは批判されていた

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/kaigyou-turezure.hatenablog.jp/entry/2019/07/03/193556

ポメラニアン大型犬比較の極端な例が日本の子供と順番を飛ばされる外国の子供なわけだ

移植に関しては制度の悪さが本質なんだけど、それが炎上するのは募金する人間制度責任を負うべきだって話ともいえる

移植ツーリズムへの募金を叩いた人間が、同じ口で募金自由というのは二枚舌だろう

anond:20240116003349

余裕のある人が、自分より他人選択する、という点で寄付には意味がある。対象は多数の寄付者がある程度ばらつくし、人気がないところには余裕を回してカバーすれば良いから、気にしなくて良いと思う。

anond:20240116003349

目の前に困っている人がいたら分け与える、でいいんじゃないの。

2匹いたら50円ずつ寄付する。やらない善よりやる偽善

1000匹いたら立ち去る。そらま全員は救えないからね。

anond:20240116003349

国はそのような偏りが出ないように注意を払って税を運用すべきであるのは大前提

だけど、現実はそうなっていない。

自民党裏金問題で明らかなように、私利私欲にまみれた政治家法律を定め、行政がそれを執行する限り、

どこかに偏りがあり、見落としが生じる。

国の平等な救済から外れた部分を、個人が見つけて救済してやれば、全体として真の平等が実現する。

ある者は黒い大型犬が可哀そうだと寄付し、別の者はポメラニアンへの救済が不足していると考えてポメラニアン寄付する。

個人価値観多様性を活かすことで、救済の幅を広げるのは悪いことじゃないよ。

もちろん、国の平等な救済をもっと強化すべきだと考えて、積極的納税する考え方も悪くない。

みんながいっぱい寄付したり、納税したりすれば、するほど理想社会に近づくんじゃないかな。

anond:20240116003349

おもしろい。自分寄付をする人間で、存分に選り好みして寄付しているのでその観点から書こうと思う。また自分は犬には寄付しない。ほとんどは被災者である

寄付と善について

自分寄付には差別的要素があると思う。そして、そもそも寄付は究極の善でもないと考えている。

それから自分がやっている寄付は全く善と考えていない。もっと利己的なもの自己満足感を満たすためにやっており、投資や物品購入に近い考え方をしている。

どちらかといえば自分がやっているのは贖宥状購入のような悪徳に基づく行為である

ただしここで「差別的要素があるならすなわち善ではない」と考えると危険であると思う。それは完璧主義的な意見だろうと思う。

これは自分は、世間欺瞞に対する挑発だとも考えている。普段比較「悪」なくせに、そういうときだけ調子のよいことを言う人間がいる。あたかも「自分は善側の人間ですよ」と振る舞っていること・自分が選んだものを助けたことに満足していてその他には一切憐憫の情を向けない「ほかを悪と断罪するための正義」を感じているのもあるのではないか。「やらない善よりやる偽善!」と言って、やらない者を「悪」側に落とす文句もある。

もし多くの人間に対する不信感がある場合、選ばれなかった方に目を向けたくなる。彼彼女らが助からないのなら、それは善といえるのかという話のようにも見える。

自分には、増田は「嫌われている方を助けたい」という考え方があるようにも見えている。ちょうど増田が考えていることはロールズの「無知のヴェール」の話にも通じるのではないか。これは個々の立場を忘れるヴェールを被ってから正義を考えようという概念である。この概念はそこそこ有名だが、それほど一般的ではない。ほとんどの人々は伝統的な倫理観にしたがって寄付などを行っているはずだ(※ べつに揶揄しているわけではない)

平等に誰も救わないことについて

ただし差別うんぬんよりも、もし「すべてを救えないのなら救うべきでない」とすればこの世のほとんどは何も救えないことになる。われわれは有限の資源の中で生きているので、絶えず不足にさらされている。不足している中では選別が必要となる。

このあたりはトリアージ等の動画を見ると非常によくわかる。属性のせいで助けてもらえないというのは悲しいものである。何もないまま助からなかったよりも、助けられそうな資源が目の前にあるのに助けてもらえなかったという絶望はたしかものだ。それが現実である現実理不尽であり不公平であるしかポメラニアンを助けている人も、何も黒い大型犬に思いを全く馳せていないわけではないかもしれない。助けたいが、資源が足りていないために助けられないのだ。

どのように「公平に選別するか」も重要問題である。こうした点がトロッコ問題などで考慮されていた。選別しなければならないのだ。ポメラニアンと黒い大型犬はその「愛らしさ」に焦点をおいているので、その独善的な部分に嫌悪感を感じるのではないか。善という正義の皮をかぶって差別正当化しているように見えるのかもしれない。通常、笑って朗らかな態度で選別してはいない。血涙を流しながら、選べないという自分の無力さ無能愚鈍さとどこかで折り合いをつけて、否応なく選別している。

そして誰も救わない場合、「どうにも俺と同意見の人間が増えたとして世界が良くなるとは思えない」と言っているとおりのようになるだろう。もしそれが現実となったとき、考え方はどうであれ実際に起こるのは「誰も寄付しない世の中」である。つまりどれだけ困窮しようが誰も何も手を差し伸べはしない。それはポメラニアンや黒い大型犬のみならずすべての生き物が平等絶望しなければいけない事態であると思う。

理想現実について

人々から金銭徴収して再分配することはODAなどで一応おこなわれている。

一方で寄付は、自発的自分の所有財産から抜いておこなっているものだ。これは財産権という強固な概念で守られている。

われわれは「自分の持っているもの自分の使いたいように使っていい権利」を持っている。これらをとりあげて自由使用することは、自由権や民主主義否定するものである

たこれは単純に「世界中で増税する」ということに他ならない。国はそれほど信頼できるだろうか。国同士は同意できるだろうか。現在の世の中ではかなり厳しいものとなる。

また、マクロ問題を持ち出して、ミクロ問題のやらないことの根拠に含めてしまうのはズルであろう。個人的寄付をすることと、国家群が寄付を集めて再分配することとは次元が違う問題である

まとめ

結局増田が言っているのは理想論なのではないか。「あるべき理想の姿」があまり現実と違いすぎる。今この瞬間にはどうしようもないことを前提としすぎている。遠い将来にそれが普通になることはあるかもしれない。しかし周りから見ればそれは「ただやっていない」「ただ誰も助けていない」のである

そして実際にその浮いた100円は何に使っているかといえば、個人的実益に対してなのではないか。これはどう言い繕っても「誰かを助けるよりかは、自らの幸福を高めたい」という行動である。この言はずいぶん切れ味の鋭いものだが、それが事実である。われわれは見ず知らずの黒い大型犬の命よりも、見ず知らずのポメラニアンの命よりも、コンビニお菓子の方を選ぶことがある。そちらの方が自分にとって幸福からだ。

増田はもしかすると「誰からも助けてもらえなかった」と感じているかもしれない。だから自分も手を差し伸べはしないのだと。しかし本当は助けられたかったのではないだろうか。助けてもらえない者たちから見れば、この世は邪悪な方が都合がいい。この世が邪悪から助けてもらえないのだと考えられる。それほど邪悪でないのに助けてもらえないなんて諦めがつかない。

寄付だろうがなんだろうが人の行動は利己的なものであり、己のためにするものだと思う。どちらかといえば、寄付することによって自分が救われているのだ。

べつにこれは自分個人意見だが、「全員を助けられないのなら寄付しない」と考えるのならば、あまりもったいないと思う。

誰かを救いたいのなら救えばいいのではないか

実はもっと極めてシンプルな話だとも思う。

少なくとも、正しく誠実に生きたいのであれば、寄付をした方がおそらくいいだろう。無理のない範囲で。

anond:20240116003349

正しく富を分配すれば平等で公正な社会になる、というのは社会主義につながるのだけど

今のところ歴史的社会主義がその社会を実現した例はない、というのが前提。

人間人間である以上、平等は無理で。

国や民間団体個人がそれぞれの切り口でばらばらに、時に共同で活動をすることで、

平均値的な平等と公平に近づけていくのが人間のできるせいぜいの事だと思ってる。

最初の話に戻すと、ポメラニアン大型犬がいたら。

自分は両方に100円を渡すか、責任者用途指定せず100円を渡すかするタイプだけど

からってポメラニアンだけに寄付をした人を責める事はない。

ポメラニアン寄付金が集中したらしたで剰余金大型犬やほかの犬たちに回って名もなき犬たちが救われると信じてる。

anond:20240116003349

二軒並んだラーメン屋AとBがあったとして、Aに入ることは入らなかったBへの差別になると思うのか?ならないだろ?お前が言ってるのは単に寄付という自分がよく知らない行為への理由のない嫌悪感だろ。

anond:20240116003349

偏りをなくすというが、そもそも偏りのない再分配なんて論理的にあり得ない

再分配というのは「ミクロ経済的に正しい分配」から「別の正しさを基準とした分配」への修正であり、何らかの偏りを持った正しさを根拠とするし

民主主義プロセスによるならそれは個人感情の集積だろう

そして人間感情というのはランダムではなく傾向を持って偏っているんだから

再分配の行き先はむしろ直接寄付より偏りが増幅されることすら全く珍しくない

個人寄付によるかいったん納税して分配するかは見かけほど違いはない

もちろん再分配をしなければ偏らないというのも間違いで

ミクロ経済個人感情駆動されているんだからやっぱり偏る

なのに、経済的取引はセーフ、国家による再分配もセーフ、なのに人の直接寄付だと即アウトになるというのは

ラインの引き方が恣意的すぎるのでは?

明らかに論理的に思えるし別の感情理由があるように思えてならないな

なぜあばたがそこにラインを引きたいのか?ということをまずもっと考えたほうがいいんじゃないのかね

anond:20240116011940

国家の再分配の話をしてるのに勝手に俺の話にすり替えるなよ

俺は寄付控除以前に寄付をしないか関係ないけど、金持ち寄付控除を利用して納税額を減らすから国家の再分配を妨げてるだろ

anond:20240116011450

私的寄付を大量に積み増しした組織とそうでない組織とで格差が生じるけど、それによる不平等はどう対処するの?

anond:20240116010922

寄付控除の話にすり替えているけど、君が考えているのは「2匹の犬のどっち助けるかどうか」って次元でしょ?

もっとシンプルかつ小さく考えなよ

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