はてなキーワード: ウヨクとは
権利と権利が衝突して、その相互の調整で最小限の制約が認められるというのが、公共の福祉の内在的制約説。
んだが、そもそも、ウヨクサヨクなんてのは、ただの陣取り合戦。さらに、両方の過激派が「お前はこちら側なんだから、他のこれも賛成だよな」という同調圧力で議論を歪めるためのクソッタレな分類。
で、事の真偽じゃなくて、相手の意見だから嫌がらせする、潰すのが目的になってる。
家で日の丸を掲げるんじゃなくて、小学校で日の丸掲げるように求めるようにね。
女性専用車両もそれに巻き込まれて「それが有意義無意味関係なく、サヨクの意見だからぶっ潰す」の対象になっちゃってるんだろうなぁ。
弱者がガン細胞となるなら取り除かねばならないし、かといってなりえるからといって弱者を排除するわけではない。
積極的に弱者の一部を強者として格上げすることもない、弱者を最低限は必要としているからだ。
しかし、右翼が弱者の味方であるように振舞う、また助ける存在として現れることがあるのはなぜだろうか。
以下に引用する。
左翼系の団体や文化人は一貫して「貧困者を社会の敵にしている」と主張し、同番組の放送中止を求めたが 変容してきたのは右翼・保守系の論調である。 ふだんは、豪邸をあてがわれた生活保護需給家庭がいかに地域住民に迷惑をかけているだの 子供ばかり産む下層女はけしからんだの書いているウヨク新聞『デイリーメイル』紙でさえ 「『Benefits Street』は貧困者のモラルのなさを描いているのではない。彼らを作り出した社会制度がモラルに欠けていたということを示している。」と書いた。
一見して、Benefits Streetという番組を介して、
左翼は事実を隠蔽する弱者の敵として、右翼は真実を明るみにし、弱者を擁護する味方として出てくる。
私は右翼は国家有機体説をとっており、左翼は構造主義をとっていると考えている。
左翼からみても構造を維持するために奔走しているので弱者のためではないのではあるが、右翼から見てもそうなのである。
弱者から見れば右翼による構造主義の批判は、現実問題として弱者すなわち私を生み出している構造である。
そうであるならばその否定は歓迎されるものであり、味方のように見えるだろう。
問題は右翼により新しい構造に作りかえられたとして、弱者にとって改善は見込めないだろうということ。
今回はなぜ味方のようにみえるのかということで、正解とは何か思いつかないが。
「ネトウヨが登場し始めた頃、連中の垂れ流すデマやヘイトスピーチを『あいつらなど放っておけばいい』『荒らしはスルー』と放置した結果、ここまでレイシズムが横行する事態を招いてしまった」…。
こういう言説を、至る所でよく見るようになった。
自分も始めのうちはそういうものかと思っていたが、最近はどうも「そういう言説自体がフェイクなんじゃね?」という気がして仕方がない。
端的に言えば、「後付け結果論」「今の基準や感覚で当時を裁いている」という感じがしてしまうし、表立ってこれに対して「そんなことはない」と反論する声が見られないのも、何か異様だ。
かつて自分の知人に、反戦市民運動系のサイトを運営している人がいた。
当時はイラク戦争の頃だったが、彼のサイトにもよくネトウヨが掲示板を荒らしにきていたようで、彼は「まーたウヨクが荒らしに来ているよ、困ったもんだ」とぼやきながら、かなりきつい調子で1つ1つ反論していた。
また、自分が当時よく読んでいた多くのリベラル・左派系ブログでも、コメント欄を荒らしに来るネトウヨに対して、放置などせず丁寧に逐一反論している管理人が多かった。
(中には放置しているブログもあったが、あくまでも管理人の方針が「賛同的なものも含めてコメントには一切反応しない」というものだったためだと思う)
卑近な例だが、こうしたことを思い出すと、少なくともこの人たちはネトウヨに対して「荒らしはスルー」などせず、きっちり対峙・反論していたわけで、そういう行為を「なかったこと」にしてしまうのは、やはり乱暴な議論なんじゃないか。
そう思うと、「ネトウヨのデマを放置した結果、レイシズムの横行を招いてしまった」と主張している人々は、どうにも主語が曖昧だし、自分からすれば、「で、あなたはその時どうしていたのですか?」と言いたくなる。
先日もあるジャーナリストが、「ネトウヨがここまで広まったのは、左派リベラルが彼らを放置したから」と主張しているのを見かけた。
「ネトウヨがここまで広まったのは、左派リベラルが彼らを放置したから」
という仮説がもし成り立つとすれば、逆に、
「左派リベラルがネトウヨを放置せず適切に対処した結果、ネトウヨの抑え込みに成功した」
というケースがあってもいいはずだが、そんな国はどれほどあるのだろう、と自分は思う。
世界を見渡すと、日本より左派リベラルに力があるとされる国々ですら、デマやヘイトスピーチを平然と言ってのける指導者や政党が勝利したり、日本ほどひどくはないかも知れないがヘイトスピーチやヘイトデモ、ヘイトクライムが横行したり、強弱の差はあれ「抑え込んでいる」とは言いがたい国が多い。
こういう状況を見て、「ネトウヨのヘイトスピーチを放置せず適切に対処していれば、ここまで横行することはなかったろう」と結論づけてしまうのは、どれほど正しいことなのだろうか。
かなり前、「戦争を起こした奴よりも、戦争を止めようとして止められなかった奴の方が、皆に責められ裁かれる時代が来るのかねぇ」と書いたことがあるが、「ネトウヨを放置したせいで…」という言説がここまで広まっている現状を見ると、もうそうなる下地はできているんだな、と思う。
戦争が起こるのは、戦争を止めようとした者が弱すぎて止められないせいなのか?
戦争を起こした者よりも、戦争を止めようとしたが弱すぎて止められなかった者の方が、より厳しく責められなくてはならないのか?
「戦争」を「ヘイトスピーチ」「差別」に置き換えると、完全に同じ問題になる。
そう考えると、「ネトウヨのデマを放置したせいでここまでレイシズムが広まってしまった(?)」ことよりも、「『ネトウヨのデマを放置したせいでここまでレイシズムが広まった』という言説が、多くの反レイシストの間に広まってしまった」という現実の方が、危ないというか後々響くんじゃないか、と思う。
(2020.1.14 加筆修正した)
ウヨクのヘイトスピーチは心の底から自然な差別的感情を垂れ流しただけ、サヨクがそのヘイトスピーチを選んで展示するのは意図的な抗議でありパフォーマンス、ということなので同列に置くのは難しい。ウヨクのヘイトスピーチも政治的主張を通すために敢えてキツい言葉を選んでいるだけ、あるいはサヨクのパフォーマンスはパフォーマンスではなく心の底からの感情を垂れ流しただけ、のどちらかを主張しなければ。たとえば、日本人Aが「朝鮮人Bは日本から出ていけ!」と叫んで問題となったとき、その抗議活動でプラカードに「日本人Aは日本から出ていけ!」と元発言をもじった文言を掲示したとする。それぞれ文脈から切り離して客観的に見れば同等の問題発言だが、実際には前者は否定され後者は許容されるだろう。なぜ許容されるのか考えてみようね。
さて、今回はそんなアメリカの「原爆を日本に落とす計画」に関してのTシャツです。
すみません、もう後ろの方で、ちらちら見えてるからわかるよね。
これね、サンフランシスコのお土産店で、僕が初めてアメリカに行った時に買ったんだけどね。
酷いよね。
「MADE IN USA TESTED IN JAPAN」って書いてあるんだ。
これね、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフっていうところのお土産屋で買ったんだけどね。
師範学校だから学徒動員にもひっかからず、このまま戦争に行かずに済むのかと思ってたら、
最後の最後の年に徴兵されて、広島の方の兵学校に行かされたんだ。20歳くらいだった。兵学校は、
原爆が落ちるような都心部でなくて山の田舎の方だったから、何とかギリギリ助かったという人間なんだよ。
こんな経験をしてる人って、僕だけでなくてすごく多かったんだよね。
僕と同じクラスの子でも、家族の誰かが戦死したり、身体障害者になってたりというのが当たり前だった。
だから、生まれて初めてアメリカに行って、サンフランシスコっていうすごく明るい街の明るいお土産物屋で、
こういうTシャツを堂々と売っているのを見てめちゃくちゃビックリした。
なんかね、ブラックジョークというにしては(笑)、ちょっと酷いなと思ってたんだけどね。
これ着る機会あるかどうかわかんないなぁと思いながらも、一応買ってみたんだよ。
一応買ってみて、SF大会とかに持って行ってみた。
さすがに着るのが怖いから、「こういうTシャツ持ってるんだ」って話したら、やっぱ真面目な人はね、
「やめろよ」とか言うんだよ。
でも、当時、1970年代後半のSF業界というのは、本当にあらゆる価値を相対化することが正しいという
すごく大きな流れがあった。
例えばね。堀晃さんっていうSF作家がいて、この人、書くものはハードSFなんだけど人格は本当に
デタラメという人なんだ。
かんべむさしさんと一緒に2大ちゃらんぽらん大阪SF作家だったんだよね。
ただし、かんべむさしさんの方は書くものはちゃらんぽらんなんだけど、人格は大真面目なんだけど(笑)
で、人格がちゃらんぽらんな堀晃さんは大喜びして、「それどこで売ってるの?」って、欲しがってくれたんだ。
でも、人格はまじめなかんべむさしさんには「そんなもの絶対に着るな!っていうふうに言われてしまった。
小松左京さんはどちらかというと喜んでくれた。
ということで、当時のSF界でも作家ごとに反応が違ってたんだよなぁ。
なぜこんなにSF作家の反応を覚えているのかっていうと、20歳くらいの僕にしてみれば、SF作家というのが、
その人たちがどう感じているのかというのを自分の価値観にしようとしていたんだよね。
今言いながら、めちゃめちゃ恥ずかしいんだけどさ(笑)。
かんべむさしさんが怒っているから、やっぱりいけないのかなとか。
そんなふうに、もうホントに、ワナビー君の恥ずかしい奴だったんだ。
筒井康隆さんにはすごい冷たい目で、「原爆ごときで過激ぶるな!ガキめ!」というような感じで
見られてしまったんだよね。
で、この間、捨てられないTシャツコーナー用に、「Tシャツどんなのがあるかな?」って掘り返したら、
これが出てきたわけ。
やっぱりその頃から30年以上たった今だから、それぞれの人の意見がわかるなぁ。
怒る人の意見もわかる。
そういうのは笑っていいかもしれないけど、人前で笑うもんではないっていう人の意見も分かる。
あと、堀晃さんの「いやそんなもんをTシャツにして売っているっていうアメリカ人の感性が面白いじゃん。」
というのもわかる。
なんかねぇ、いろんな人の意見がわかるようになったなぁって。
でも、逆にわかんなくなったのが、筒井康隆さんの「原爆ごときで過激ぶるな!ガキめ!」
「なんでお前、人のことをそんなに言えるんだよ!」(笑)って。
今に至るまでの筒井康隆の人生で(笑)、「お前そこで怒っちゃいけないんじゃないかな」って思いました。
という思い出のあるTシャツでした。
同じSFファンのポール・アレンによって、今朝、インディアナ・ポリス号が発見されたと報道されたのも
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「岡田斗司夫という時点で読むに値しない」という人もいるだろうし、別に読みたい人だけ読めばいいと思うのだが、
「日本の大半のウヨク(愛国主義)とサヨク(相対主義)は皆インチキだよな」というか
上記の引用で「アメリカ憎し」の感情に飲み込まれたら、またそれも違うと思う
それにサイコパス側面がアメリカの全てとは言えない、感情に流される側面というのも存在するのが現実だ
宮崎駿がアメリカを嫌う理由も分からなくはないし、「この世界の片隅に」がアメリカで上映された意義というのも
非常にあったと思うし(米国人が例え理解出来なくても)、反対に、日本に対する拘束具としての平和憲法に甘えて
自立しようとせずに、こういう目に遭わせたアメリカ自身に守られている立場に甘んじる日本というのも確かにある
あれだな、アメリカで講演する日本人が、上記のTシャツを着ていったら、どういう反応をするか?という社会実験が
見たい気分はあるな