はてなキーワード: 椅子とは
一見無関係な二者なのに驚く程よく衝突してるよな
そもそも、「私達子連れなんだから食べ物屋さんに食べ物以外のサービスまでしてもらって当然よね」みたいな価値観がよーわからん。
お金払った分の「静かに美味しく食べられる環境」を平等に提供してもらう権利は主張してもいいと思うんだけど、
自分の責任で生んだ自分の子の面倒までちょっと負担してくれたっていいじゃんっていうのは違うと思うんだ。
自分の上の子が乳幼児の時のおでかけは、必ず「食器+エプロン+折りたたみ子供椅子」3点セット持参してたし、
子供が飽きた時の為にお気に入りの絵本や、赤ちゃん煎餅も持ってった。だからすごい大荷物。
服とかも奇麗にとか無理。当然行けるのは普通のファミレスor定食屋or居酒屋だけど、
必ず他のお客さんに迷惑にならないように、行く前に電話して子連れおKか訊いたりしてた。
たまに断られることもあった。まあ仕方ないよな、って感じ。
5年経って、
下の子の時は、大抵のお店に上記3点セット以外にも色々用意してあることが多く、
大変身軽になったばかりか、
帰り際の会計時に子供にお菓子をくれる店も多くなった。子供の遊び場がある居酒屋さんも増えた。
親にしてみれば本当にありがたい世の中になった。ちょっと恵まれ過ぎててキモイとすら感じる。
ただ
これが誰かのゴネ得の結果じゃないことを祈りたい。
もし自分が独身だったなら、深夜に居酒屋さんで飲んでる時に子供がキャッキャする声がするっていうのもなんだかなって思う。
あといまの若いパパママ世代がこれくらい当たり前くらいに思っているのはちょっと違和感がある。
あくまで子供は自分の責任で育てるもの、地域が〜、社会が〜、っていうのは
個々人が頑張ればマクロも変化するというゲームではなかろうよ。
とりあえず、その恐怖感は通常の言語的説得では消えないと思うので、有効なんじゃないかと思う方法を書いておく。
EMDR(眼球運動による脱感作および再処理法) http://ja.wikipedia.org/wiki/EMDR
というのを一日に一回何分かずつ、それをしばらく続けてみるのがいいんじゃないか。
男性向け作品では、
「ブスなせいでまともな扱いを受けられずうんこ食わされたり膣に虫入れられたりしてる哀れなAV女優」とか
「キモブサだから美人AV女優との対比を表現するのにうってつけなAV男優」など
視聴者の嘲笑や哀れみの対象としてのブス・ブサメンの出演枠があるけど、
男性向け作品では、「ブサイクであることを自認し、ブサイクなりの扱いを受けることを受け入れたブサイク」には出演枠を与えてやるけど、
女性向け作品は「へりくだってくださらなくて結構です、とにかく出てこないでください」といった感じ。
学生時代も、男子はブスに対してゴミを投げつけたり、椅子や机を隠したりして、積極的に哀れな状態に追い込んでせせら笑っていることが多かったけど、
女子はブサメンを基本的に無視するスタイルでいじめていたし、自分のノートやプリントなどをブサメンに触られてしまったときに
「私の持ち物が○○菌でけがれた!」みたいに大騒ぎするだけで、基本は消極的だった。
男性はブサイクな男女をサンドバッグとして必要としているけど、女性はブサイクな男女を一切必要とせず純粋に消えて欲しがっているように思える。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
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長く離れて暮らしている弟から、「自分は注意欠陥障害で、薬を処方してもらうことになった」という電話がありまして。
兄の自分としては、はあ、でもお前俺よりはずいぶん落ち着きがある子だったよと言いたかった。
授業参観の日に頭を振ったり椅子をガッタンガッタンと揺らしたり、立ち上がったり、授業時間のほとんどの間そんなことをしていた自分をみて、母はえらく恥ずかしかったそうだ。
話を聞いてない疑惑は担任が変わるたびに持ち上がったが、成績自体は悪くなく、聞けばちゃんと答えるので、そのたびに疑惑は晴れていた。
今でも数年に一度は財布をなくすし、ヘルメットを被り忘れてバイクに跨るし、ケータイ電話を圧力鍋にかけてしまったことがある。
弟はどちらかといえば、一点に集中して他が見えないようなところがあった。
いまでも左右を確認せずに道に飛び出そうとする。
その手の病気というのは健常と異常の差は明確じゃなくて、治療の開始は日常に支障が出るかどうかというラインで決まるだろうから、薬を飲むことに関しては口はだすまい。
俺はいままでなんとかなってきたし、これまでも、これからも、ペーパーテストと、技能で居場所を勝ち取っていけばいい。
それはいいんだけどね、
「これは遺伝的な問題だから、一生子供は作らない。兄ちゃんもそうしたほうがいい」
というような旨のことを言われたのです。
俺は、自分自身が発達障害だとか精神病だとかは思っていないが、「子供は作らないほうがいい」ということは薄々感じていた。
なんとなく、なにか欠けてるような気がするのだ。
配慮や空気を読むということが。
相手がどうしたら気持ちいい気分になれるか、全員の幸福量を底上げするにはどうしたらよいか、そんなことを考えてばかりだが、嫌われてばかりだし、嫌われていたことを何年も後に第三者から聞かされるくらいに、表情が読めない。
まだ結婚もしていないし、年齢=彼女いない歴だから悩む以前の問題だ。(弟にはちゃんと恋人がいるし、今の彼女が初めてはない)
とにかく、弟が自分と同じ事を考えていたということにびっくりした。
最近流行らないが、マルクス経済学では、失業者のことを「相対的過剰人口」という用語で表現している。
はじめてこの言葉を知った時、私は、そのあまりにもあけすけなものの言い方に驚愕したものだった。
個々の失業者の心情や真剣度とは別に、失業率という数字は、国全体の中で、職を求める人間のうち、職に就くことのできない者の割合をあらわしている。
ということは、誰かが譲歩してより低い条件で職に就くと、その分、現在職に就いている誰かが首になるわけで、結局のところ、全体を見渡してみれば、誰がどう条件を下げたところで、一定の割合の人間は必ずや職にあぶれることになっている。椅子取りゲームと同じだ。椅子に座れない人間が出るのは、誰かがノロマであったり、座る気持ちを強く持っていないからではない。そもそも椅子の数が足りないからだ。
であるならば、社会全体の取り組みとして、椅子の数をきちんと揃えないといけない。こういう場所で、自己責任などという言葉を使ってはいけない。
派遣労働者が各業界で一般的になったことで、雇用の選択肢が増えて、労働市場がより豊かになったと言っている人たちがいる。
が、働く側にとっては、さして状況は変わっていない。
親戚に不幸があって、約一年ぶりに帰省したんだけどさ、田舎の葬式マジすごい。
なにがって、とにかくデカい。
だいたい、220~250人くらい来てるの。
そういや、昔うちで葬式やったときもこれでもかってくらい人が来たが、そのときは驚きはしなかった。
椅子の数でだいたい人の数がわかるし、故郷を離れてから出席したほかの葬式もセレモニーホールだったんで、それらと比べることが出来るしで。
平日だってのに。
始まる前に腹ごしらえして「気合入れていくぞー!エイエイオー!」じゃないけど、そんな感じのノリでみな戦闘モード。
なんなんだろうな、この壮大なムダは。
最近、「坊主はボリすぎ」って意見がネットで散見されるけど、個人的にはそうは思わない。
むしろ、都会の葬式と同じ料金だったら割りに合わないと思う。
人が多けりゃ焼香の時間も長いし、部屋が大きければ声も上げないといけない。
今回なんか納棺前に「和尚さんどうぞどうぞ」通夜が始まる前に「どうぞどうぞ」終わったあとに「どうぞどうぞ」、葬儀前にry,葬儀後にry
といろんな人にひっぱられ、飲まされ、とまあそんな感じだし。
なにより、200人以上いる前で説法だし。
まあ、それよりお金の問題じゃない。
どうせ故人が生前貯めた金だ。
どう使おうが構わないと思う。
なにが無駄って、平日だってのに、みんなそんなに暇なの?ってとこだ。
「野菜もってけーれ、スーパーだとお金だして買わないとだけど、もってけばタダだべ。コメ用意してやるから、またけーってこい」
おいババァ、葬式の後の会話がそれかよ。
タダってあんた、ガソリン代いくら使ってきてると思ってんだ。
ちなみに、この地域では町内会の草刈りのため息子(といってももうすっかり中年だが)が有給とって東京からやってくる、などということがザラである。
町長、ちっぽけな一人の町人の葬式に出たりしてないで仕事しろよ。平日だろ?
まったくもう、イライラする。
無神論者なんで、故人を偲ぶとかそういうのはどうでもいいけど、どうなんだろうなぁ、このドタバタ感。
でも逆に、忙しいくらいのほうが遺族は悲しみに沈まなくていいのかななんて思ったりする。
それでもなお、やだ。
お願いだから自分の親には、葬式はしないでくれという遺書でも残して欲しい。
250人っていったら、一人と2分ずつ挨拶したって500分だろ?
死ねるわ。
ある平日の京浜東北線の電車に乗り込んだ時、ふっと、堆肥のような臭いがした。
なんとなく口臭(奥歯に詰まったカス臭?)のような気もしたので自分の息が臭わないか確かめてみた。
が、特に臭わない。
そうこうしているうちに次の駅について、座席が空いたので座った。
座席が空いた理由はすぐに分かる事になる…。
座席に座ったら途端に臭いが強くなった。
眉をひそめて周りをキョロキョロと見回している人がいる。
二人連れが怪訝な顔をして「…何?」「…なんか臭くない?」とコソコソ話をしている。
隣の車両に移る人もいる。
右隣の人が立ち上がり、遠くの別の座席に移動していった。
そうしたら臭いがいっそう強くなった。
右側に座っていた人がいなくなったら臭いが強くなったという事は…臭いは右から来ているのか?
ちらっと右を見てみたら一番端に男が座っていた。
ホームレスのような不潔な感じの風貌をしている。
臭いの元はこの男か、あと数駅だしこの程度の匂いならなんとか我慢できるかな。
…と思った瞬間、その男が突然
キエーーーーーーーッ!
と絶叫して頭をかきむしりはじめた。
はげしく咳き込みながらキー!キエーッ!キー!と奇声を上げ続ける男。
時々痰を吐くような音もする。
車内は恐怖に凍りついていた。
もはやみんな男から視線を外して何事もないように振舞おうとしているのが分かった。
顔をひきつらせて泣きそうな若い女性もいる。
男の奇声と奇行はしばらく続いた。
男から遠くにいる何人かは隣の車両に移っていたが、近い人は恐怖のせいで動けない。
俺も男とは近いので動けなかった。
怖がって逃げる事でコイツを刺激したくはない。
皆バタバタと避難するような速度で我先にと出ていった。
隣の車両に移った人も大勢いた。
人が一気にいなくなり周辺の座席がたくさん空いた。
隣の車両は立っている人が結構いるのに、この車両だけは異様なほど空いている。
人がいなくなったせいで伝播力が上がったのか、また臭いが強くなった気がした。
さっきの駅についたどさくさで一つ隣の座席に移動したのみで、男とは依然同じ車両のまま。
自分の心臓の音がバクバク聞こえているほど本気で怖かったが、なんとなく怖いもの見たさでこのまま目的地に着くまでここに座っていようと思った。
「何かのネタになるな」と思った。いや、ネタにしなきゃやってられない。
そう、ネタにしようと思ってしまった。(だからこれを書いた。)
いつのまにか男は奇声を上げるのをやめていた。
相変わらず異臭は漂っている。
知らずにこの車両に乗ってくる人は可哀想だな…誰も乗ってこなければいいのに…と考えていたが
その思いも虚しく、駅につく度に人が乗ってきて空いている座席に座り、次の駅についたら無表情で降りてしまうという予想通りの行動が何度も繰り返されていた。
男は時折大きな音で痰を切る。
奇声を上げている頃に比べたら随分おとなしくはなっていたが、車内の雰囲気はおかしいまま。
ただ異臭がするというだけで車掌を呼ぶわけにもいかないし、一体この男をどうすればいいんだろうという感じだ。
(こういう時本当にどうすればいい?車掌を呼んでもいい案件?)
そしてとうとう俺の降りる駅に着いた。
ようやく異臭と緊張感から解放されると思ったら、その男も立ち上がった。
同じ駅に降りる様子。
ついて来られたら…同じ目的地だったら…と怖くなったが、
降りたらさっさと駅から逃げよう。と気を持ち直した。
癖っ毛で脂ぎったボサボサ髪。
マスクをしている。
薄汚れたシャツ。
中年のような出っ腹。
何かをパンパンに詰め込んだボロいビニール製バッグを3つほど持っている。
その足がなんだかグチャグチャで変な色で、汁のようなものが靴に染みていた。
臭いの元は多分これだ。
そういえばいつか田舎で見た、車に轢かれて放置された動物の死体がこんな臭いを放っていたような気がする。
腐臭だ。
この人の足は腐っている。
臭いはずだよ。
とにかくさっさと駅から出た。
振り向いたら男の姿はどこにもなかった。
ホッとした。
今までに出会った人の中で一番異臭を発している人だったと思う。
鼻に残る臭いを感じながら、
腐った足は痛くないのだろうか?
腐っているので痛みも麻痺しているのだろうか?
咳き込んだのは何かの病気か?
その病気のせいで足が腐ったのか?
末端が腐るといえば糖尿病か?太っていたし…
病院には行かないのか?
金銭的な事情か?
どうしてこんなになるまで放っておいたんだ?
助けになってくれる人はいないのか?
あの男はあんな体でこの先どれだけ生きられるのか?
色々な事が頭を巡った。
俺がどれだけ考えても詮無いことだよなあ…。
主に精神的な暴力に見舞われていた。「キモい」腐るほど聞いた言葉だと思う。
よく「キモい」と言われていた。実際鏡を見ると肌がキモかった。どうしようもないなと小学校2年にして思った。悟ったような心地だった。どうしようもないのでどうしようもないとしか思わなかった。
だが人にいじめられるのは辛かった。
でもそれよりも辛いことがあると知った。
ある時気付いたが、俺は何もしてなくとも、俺の存在がアンタッチャブルになっていると知った。俺の机や椅子が病原菌の発生源扱いされているのだ。『気持ち悪いのが移る』といった、菌が移るとか、放射能が移るとか、そういった扱いだ。
いつのまにか俺自身が罰ゲームの道具と化していた。同級生が遊びで罰ゲームの流れになった時に、罰の度合いによって、俺の椅子を触る、俺の机を触る、俺の頭部を触るというふうに設定されていた。俺と握手をするといったものもあった。俺と握手をすることは、それだけで極めて罰ゲームの対象になるほどの扱いだったらしい。とにかく、俺個人だけが他人と接することは罰に値する行為と設定されていた。
懐かしい話。
小学校給食の時、俺に絶対に配膳をしないで欲しいと頼まれたことがある。私がやるから!と。
同級生の転校見送りで全員と握手。俺だけ飛ばされた。
席替えの時、俺と隣の席になっただけで泣いた女子がいた。俺の席は地雷扱い。とても悲しかったが、俺よりも泣いている女子が被害者扱いされていた。○○ちゃんを泣かすなと言われた。なんだか自分が犯罪でもしたような気持ちになり、謝った。
林間学校。同じく略。
中学に入ると更に悪化した。ニキビが酷い。もうどうしようもないので諦めることにした。
ちゃんと洗顔してるの?などと言われたり、不潔にしてると嫌われるよ?と説教されたりしたが、説明すら面倒なので、他人との関わりは事務的に対処することにした。
小学校の頃は泣くこともあったが、それはなくなった。「キモい奴」の感情は、それがどんなものであっても、須らくキモいと扱われることを学習した。泣いても誰も慰めてくれるわけではないのだ。「うわ、泣いてるよキモーイ」という言葉は飛んでくる。泣いたとき、誰かに慰めてもらい、誰かに甘えることができるのは、泣き顔のかわいい子供だけに与えられた特権だ。かわいいは正義。
高校の時にネットを始め、その時既にあやしいは現役ではなかったが、油日記(復刻版)を発見した。俺の虐められ方とは違ったし、創作だが、同調した。その後2chに行き着き、喪板などを読んだ。わりと面白く、同胞感を得た。
基本的に話したことは「一般人」の世界観に沿って理解されると学習した。
こういった経験がある。
自分は彼女が欲しいなどと他人に表明したことは一度もないのだが、何故か「つまりさあ、彼女欲しいんだろ?それならもう少し清潔な格好をしろよ!それくらいしないのに彼女が欲しいと考えるのは甘えだろ!くどくど・・・」と説教された覚えがある。
意味が分からない。はじめの「つまり」は、何がつまりだったのか今も理解出来ない。
他にも「それオナニーのしすぎでしょ? エロゲ? もう少し運動したほうがいいよ 汗かくと肌の調子良くなるって知ってる?」
皮膚炎が故に面倒なので、オナニーとか殆どしないんだが。下手に汗をかくと悪化するんだが。ちなみにオタ趣味も特にない。
ここまで来るともうどうしようもない。そもそも思ってないことを俺が思ってるかのごとく決めつけて説教してくるわけなので、反論すらできない。反論しても「自分のことを隠すのはよくないぞ!友達が出来ないのは自分から拒絶してるからだよ!」と、ズレた説教をされるので、もはや相互理解不能であるとして諦めることにした。
大学に上がる頃には最早、人と接する場合は出来るだけ機械的事務的に接する癖がついていた。情緒的交流を行うと、キモがられると理解したから。キモいやつが「人間らしく」話しかけるとキモがられるんだ。経験則である。だから機械的事務的な交流に徹していた。もちろん打ち解けたいとかいう欲求はあった。でも、無理だから。ずっとキモがられて拒絶されてたから、諦念。実現不能な欲求は消すに限る。
で、俺は出来るだけ全般的に対人交流では機械的事務的に接していた。その中で事務的な理由で同学年女性と交流する必要が出てきた。それで事務的に交流をしていた。
その後数カ月したある時に女性の友人に話しかけられた。「下心」を持って○○さんに接するなと。嫌がっている。貴方に個人的好意は持ってないし、もっと言えば生理的に気持ち悪い、と。これ以上するならセクハラでもあるから気をつけて欲しい、と。
・・・は?となった。意味が分からない。俺は、出来るだけ、機械的、事務的に、接してたつもりなんだが。当然俺だって人間なので、感情的な部分が透けて見えることもあるだろうが、だが、一連の事務処理の流れの中でのみの対人交流だったはずだ。
弁明はしようと思ったが、「またか」という思いが強く、即諦めた。どうせこのタイプの「勘違い」をされたら、弁明不可能なのだから。そもそも無い下心でも、そんなものは無かったですと言った所で、もっと本心を認めろよ!自分のことを隠すな!とクソ下らない説教をされる経験が頭を過ぎった。
「下心」が見え透いていたらしくて申し訳ないね。自分は下心どころか、ほとんど、誰かに「本心」を表明しようとした覚えすら無かったつもりですが。その「本心」も、「セックスしたい」といった類ではなくて「もういい加減に誰か助けてくれないか」というものなのだけども。
セックス欲求は殆ど無い。ある欲求といえばただ。人並みに人と接し、出来るならむしろ、子供の時に、いじめられてた時に歳相応に人に慰めてもらい、もっと言えば甘えたりしたかった。それくらいである。
大学はやめようと考えたが、既に3年次だったしやめなかった。ここまで事が重なると人間、耐性が付くものだなと思った。
就職は女性との関わりが少ない職場となった。非定型発達的な気質を感じる職場で、その後はいくらか楽だった。今まで俺を容姿で差別してきた人間は主に女性だった。ただ、女性でも自閉症圏に属するような雰囲気を醸し出す個人には差別されなかった。推測だが男性より女性のほうが、特に対人コミュニケーションに長けた女性ほど、生理的に受け付けない人間への嫌悪感が強く、またそれを社会的に排除することに抵抗が無いのではと考えている。男性では女性に対して積極的“女性にやさしい”ほうが露骨に差別的だった。
しかしセクハラとはいうが。懐かしいな。小学校での、あの罰ゲームにそっくりだ。
俺はその時もまた加害者として扱われてたんだろう。だが俺は何の被害によって傷ついているんだろうな。俺の被害は誰も恢復してくれない。被害とすら扱われていないし、俺は常に加害者の地位に押し込まれている。
生理的にムリで申し訳ない。“俺が加害者“で悪かった。キモい、近寄らないで、と思わせてしまったなら謝るよ。
この社会では、人にキモいと思わせる雰囲気があったことが、存在するだけでセクハラでスティグマに値するんだろう。
生まれてきて悪かったね。
いや、生まれた時代が悪かったのか。
人々は、銀行にお金を預けていれば盗まれる心配が無いので、安心している。
しかし、銀行屋は、人々から預かったお金を勝手に横領し、それを他の人々に
高利で貸し付けて儲けている。
「銀行屋も利益が無ければ生活できないので、仕方が無いんじゃないの?」と
私は思っていた。
当然国家も動かす事は出来ない。
世の中が不景気になり、不良債権が増えても最後は公的資金注入という形で、
結局尻を拭くのは一般の人々である。
国というのはつまり我々一人一人の事であり、どちらに転んでも結局は
回りまわって税金という形で我々のお金が銀行屋に搾取され続けているのである。
別に銀行で働いている人達が悪いというのではなく、「利子」という発想が問題なのである。
「キリスト教」や「イスラム教」では、「利子」を取る事を禁止していた。
「利子」を取ると、必ず椅子取りゲームになって、「勝ち組」・「負け組」が発生し、
効率化を追求し過ぎるあまり、環境破壊、戦争へとつながってしまう。
「ユダヤ人以外の他の民族からは「利子」を取ってよい」とされた。
システムを作る思想が間違っていれば、必ず問題が発生する。
ミヒャエル・エンデ作の「モモ」という物語では、灰色の男達が「時間貯蓄銀行」なるもの
を作り出し、人々から心の余裕を奪い、奪った時間を葉巻にし、それを吸って生きていた。
ここで、灰色の男達は、「我々のおこなっている事は絶対人々に知られてはならない。」と
言っていた。今の資本社会システムを作り出した思想が知られてはまずいという事なの
である。
モモは、灰色の男達に対抗するため、マイスター・ホラとカシオペイヤの力を借り、
少しの間だけ時間を止め、(つまりは銀行券(お金)を無効化して)
いきなりお金を紙くず化すれば、世界は大混乱してしまうので、この本の著者が
提言しているように、地域通貨を流通させ、今出回っている銀行券なるものの価値を
徐々に下げていくというのは、理にかなっていると思う。
また、経済を成長型の陽経済(銀行券)と非成長型の陰経済(地域通貨)に分けて
マスコミは大元のスポンサーである銀行にとって都合の悪い事を公開できないからである。
従って、マスコミが垂れ流す新聞やテレビ、ネットからの情報は的外れな事ばかりで、
(たとえ理解しているとしても)的を射た本質的な問題をズバリ指摘したりはしないで
あろう。
今の金融システムは、一部の人間達が「利子」という名目で多くの人々から
巧妙に富を吸い上げ、その富の力によって世界を支配するための手段になって
しまっている。そのために戦争が起きようが、環境破壊が進もうが、
彼らにとっては関係無いのである。しかし、ほとんどの人達にとってこれは
無視できないことである。
逃げ打ってんじゃねぇよwww
内容読んでねぇやつの口からトモちゃんだの、トモプラスだのの単語出てくる訳ねぇだろwww
おかしいだろwww
う そ つ け w w w
これってあれだろ? 赤い椅子と黒い椅子が掛け合い漫才してるやつだろ?
全然方向性が違うじゃねぇかww
あの動画は「僕は友達は少ない」を読んでない事を前提に、あくまでタイトル「だけ」に突っ込みを入れてる(しかもあくまで笑いとして)
内容を推測したり、あらすじを読んだりはしてるけど、別に内容の是非には触れてない。
だけどお前のアレは、本を読んだ上で、内容に批判を入れてる。しかもガチでだww
いろいろと予防線張りまくってるけど、お前が「僕は友達が少ない」の内容に不満を持って書いてあることは明白だwww
いやー、見事な好対照だなwww
あ、思いつきってそういうことか?
「僕は友達が少ない」に対する批判を全く反対方向のアプローチをするっていう・・・
んなわきゃねーなww
僕は友達が少ないへの批判文書いたら、逐一細かく突っ込み入れられたから
「実は俺、はがない読んでないもんねー、あれは俺の空想のはがないに対する批判だもんねー、だから実際のはがないを使って反論しても無効ー、バリアー」
って言って逃げてるだけだろwww
そもそも、空想のはがないに対する内容の批判って意味わかんねぇよwww
これが本当だったらこいつは読んでもいない本の内容を自分で妄想して、それに対して自分で批判するっていう意味不明行為だぞww
何がしてーんだよww
しかも、最後はその「僕の考えた空想のはがない」をけいおんだの、マトリスクだの、君に届けだのと実在の作品と比較までしてやがるwww
本当に何がしてーんだよww
それともこれも空想のけいおん、空想のマトリクス、空想の君に届けと比較してるのかなwww
まさか今度は、本は読んでないけどアニメは見ました、とかいわねーよなww
あ、言えねーか
言っちゃってるもんなww
「空想のはがないについて語ってる」ってwww
顔真っ赤にしながら、それでも華麗にスルーしてるように見せたかったんだろうなwww
残念だと思った2点ってのは、こいつが突っ込まれて痛かった2点だろww
内容に対する批判について突っ込まれたから「空想」って事にして、反論できねぇ様にしやがったww
あまりにもあからさまな、突っ込みどころありまくりな、分かりやすすぎる負け惜しみww
だからこっちから先に突っ込んじまったけど、もう一方もあまりに酷いww
<「視野狭窄」で「自分だけの世界」に籠もってるなんて、キャラとして未熟もいいとこじゃない?>とありますが、あなたと私では価値観が逆転の関係にあるということがわかっているはずですよね。それを踏まえた上で遊ばないと面白く無いですよ。
まず、引用するならちゃんとしようや。
そんでこの反論書いてるやつはこう続けてるぜ
つまり反論してる奴は「イヤ別に、はがないのキャラって取り立てて珍しい状態じゃないよね? こういうキャラが出てくるお話なんてごまんとあるよね?」
って言いたいんだろ。
初登場時でこの程度のキャラ立ちしてる作品なんて、(特にラノベ、漫画じゃ)別に珍しくないのに、なんで僕は友達が少ないだけ、そんなに執拗にこだわってんのか?
って話だろうがよww
実際、夜空とか星奈とか理科とか小鳩とか、割とステレオタイプなキャラだよな。
っていう突っ込みに対して、何も言えないから「価値観」とかの問題にすり替えた訳だwww
正確に言うなら「価値観が違うから反論しても意味ない」と言って反論を放棄した訳だwww
まぁでもこいつも出なおしてこいなんて言っちまってるあたり、相当苛ついたんだろうなwww
自分は言いたい放題人の作品悪しざまに言っといて
それに突っ込まれたら、嘘とすり替えで逃げやがってwww
もし、ここまで読んだやつがいるなら
http://anond.hatelabo.jp/20111119082328を読んでみてくれ
こいつ自分の考えた、妄想ストーリーに突っ込み入れてんだぜwww
ホントに笑えるわwww
もちろん悪い意味でなwww