はてなキーワード: 武士とは
kohakuirono 始まってもいないのにと言うけど公式サイトで「エンタメ大好き」「イケてる人は吉原にいた」とか書いて極めて軽いノリでキラキラ吉原にしてるのはちょっとなあ。そりゃ怒る人も出るだろうて。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4749010497224107936/comment/kohakuirono
porquetevas ほんとにイケてる等のコピーがあったのか疑ってる人がいるけど、あったよ。公式サイトの「みどころ」ページに書かれていた。今はページごとそっくり消えてる
https://b.hatena.ne.jp/entry/4749020844342773120/comment/porquetevas
ということなのでwayback machineから発掘してきた。2/6時点のキャッシュ
元は「見どころ」というページ。トップにはリンク用の文字は残っているがリンクは外されている( https://daiyoshiwara2024.jp/ )。元URLにアクセスしてもNOT FOUNDになる( https://daiyoshiwara2024.jp/highlight.html )。
見どころ
幕府公認の遊廓、江戸の吉原。本展では、他の遊廓とは違い吉原だけに備わっていた公界としての格式と伝統に注目しています。武士であっても刀を預けるしきたりを持ち、洗練された教養や鍛え抜かれた芸事で客をもてなし、夜桜や俄など季節ごとに町をあげて催事を行いました。
約250年続いた江戸吉原は、常に文化発信の中心でもあったのです。3月にだけ桜を植えるなど贅沢に非日常が演出され仕掛けられた虚構の世界だったからこそ、多くの江戸庶民に親しまれ、地方から江戸見物に来た人たちが吉原を訪れました。そうした吉原への期待と驚きは多くの浮世絵師たちによって描かれ、蔦屋重三郎らの出版人、文化人たちが吉原を舞台に活躍しました。
江戸の吉原遊廓は現代では存在せず、今後も出現することはありません。本展では、今や失われた吉原遊廓における江戸の文化と芸術について、ワズワース・アテネウム美術館や大英博物館からの里帰り作品を含む、菱川師宣、英一蝶、喜多川歌麿、鳥文斎栄之、酒井抱一、高橋由一などの、国内外の名品の数々で、歴史的に検証し、その全貌に迫ります。
エンタメ大好き!
夏の野外フェス?!「俄」
wayback machineのURLは↓だけど重いので注意。画像などもキャッシュされている。
https://web.archive.org/web/20240206095007/https://daiyoshiwara2024.jp/highlight.html
増田殿、拙者のお答えに感謝申し上げます。なるほど、江戸時代の武士の収入と現代のサラリーマンの年収を比較すると、意外にも変わりがないことが分かりますね。お米の俵から現金の給料へ、時代は変わっても、人々の生計を支える仕組みは根底にあるようです。
何度も書かんでいいぞ
■これまで2社のブラック企業を経験したんだが共通点が物凄く多くて驚いた(再掲)
そうと知らず有名大学出て入ってしまう新卒が不憫すぎる。言っとくけど、君らの同級生の多くがうちの会社と比較にならないくらいまともな環境で、うちの会社じゃほぼお目にかかれないくらい道徳的にまともな人達に囲まれて働いてるからな。)
ブラックな面に関しては、ネット上ですっかり広まってるような「ブラック企業あるある」では全然挙がらないようなものがかなり多かったのに、俺が経験した2社では色んな点で被ってたから本当に不思議だった。
鬱病休職者が出た時に「うわぁマジかあ……あいつ遂に障害者になっちゃったのかあ!!!」と顔を覆う同僚がいた点。
鬱病休職者が復帰した後、女性社員の一部が『挨拶されたこと』、『(仕事にまつわる)内線がかかってきたこと』を涙を流さんばかりに怖がって周りの同僚たちに慰められているという光景。
社内の常識的にメンタル休職=人の形をしたバケモノの誕生だった。
〇セクハラ
セクハラはブラックあるあるなんだろうけど、具体的な手口まで全く同じセクハラがいくつかあった。
同期飲みのときに、男性陣がニヤニヤしながら大人しいタイプの女同期に遠回しのセクハラ言動を投げかけてチキンレースする遊び。
ターゲットの女同期に対して白子ポン酢をさりげなく食べるよう勧めてその子が実際に口に入れるやいなや一人の男が「アッ‼あっ…ああ……」と射精っぽい声を挙げて他の男性陣が爆笑する、
「あの、ちょっといいですか?〇〇(AVメーカーや有名なAVのシリーズ)って知ってますか?」と他意のない風に問いかけてニヤニヤする、
これら二つのセクハラ手口まで被ってたのを見て自分がデジャブを起こしたのかと衝撃を受けた(もしかしてこれSNSとかで流行ってたのか?)。
言うまでもなく上司から若手女性社員に対するボディタッチとか、えぐいセクハラLINEとか、上司が女性社員たちだけを飲みに誘ってホステス扱いするとかもあった。
〇パワハラ
ポンコツ社員をみんなの前で立たせながら、あるいは別室に移動して1~2時間大説教。
大説教の最中はまるでその場で何事も起こっていないかのように完全に黙り込んで仕事を続けていた周りのみんなが、上司とポンコツ社員が離席したタイミングで爆発したように湧き上がって『ヤベえぞ!!ヤベえぞ!!(笑)』と最高に楽しそうに盛り上がる点、
パワハラといえばあの人!みたいな社員がたくさんいて、彼らが他の社員から顰蹙を買うということはなく、むしろパワハラ被害とは無縁でいられている社員たちが皆「あの人俺にはすげえ優しいんだよな」と誇っている点、
『おめえぶっ殺すぞ!!』とか『てめえの親ここに呼んで来いよおおおおお!!!』とか一発アウトを通り越してるような異常言動が出た時は周りが完全に同じタイミングで「ガーッハッハッハハハwww」と大爆笑することで冗談の体を守り通そうと忖度する点、
これらは共通してた。
とか
「あいつはこうこうこういうミスして何やってももう怒鳴られるようになったんだぞ(笑)」
とかレクチャーして心を掴もうとする連中がたくさんいる。
〇会議
発言を求められた社員が頓珍漢なことを言うというか、10文字くらい発声したタイミングで揚げ足取ったりツッコミ入れたりして発言を完遂させない。
例えば
社員「それに関してですg」
上司「いや、それってなんだよ(笑)どれ?これのこと?これはボールペンだよ?そんなこと聞いてませんよ?(笑)それともこれ?これは手帳ですよ?(笑)」
とかマジでこんな感じ。
凄い強引に笑い物にする。で、周りの社員が「ガーッハッハッハハハwwwwww」と大爆笑して和気あいあい風を演出するまでがワンセット。
(ていうか、全く同じタイミングでそこにいる皆が一斉に大爆笑し始めるのって某巨大新興宗教団体もそうだけど、 あれってマジでなんなんだろ)
嘱託社員に対して「おめえ今日も座りにきたの?」とか「あんた何言ってんのかわかんねえよ」とか課長や次長が率先して喧嘩売りに行ってた。
『パワハラモンスターみたいな先輩社員や上司にどれだけ好かれているか』
が今後の出世のバロメーターになるみたいな地獄みたいな認識が共有されていたので、なるべく目立つようにフロア中に響き渡るような大声出して自分の親と同じくらいの年齢の嘱託社員をめちゃくちゃに罵倒して侮辱するキレ芸に走る奴が何人かいた(恐ろしいことに、こういうことやる若手や中堅が本当に出世していってた。まあ基本的に年功序列だから誤差みたいな違いだけど)。
ウソみたいだけど、これまであげた様々なブラック面、かなり具体性があるのにもかかわらずどっちのブラック企業でも共通している点だった。
2社目に入ってしばらくは「また同じような会社を引き当ててしまうなんて俺はなんて運がないんだ」と愕然としたけど、やがて「こんな都合よく似通うものなのか?これって本当に偶然なのか?」と疑うようになった。
つまり、遺伝子と形質の関係のように、会社を近似のブラック環境たらしめる何かがあるんじゃないかと思うようになったのだ。
それがなんなのか探り当てることはできていないのだが、何かヒントになるものが潜んでいるかもしれないので2社間の細かい共通点を列挙していこうと思う。
こんなブラック企業はごめんだ、絶対に人生で関わり合いたくないという人の参考になれば幸いだ。
・平均年齢45歳(毎年多少の変動はあるけどまあこのくらいだった)
・平均年収800万弱
職場公認のサンドバッグみたいな立場の人だと年収700万で頭打ち。順調に出世すれば50歳くらいで年収950~1000万くらい。
平時だと8時出勤20時退社がデフォで繁忙期だと23時退社。年1回特定の短期間だけ27時退社がデフォになる人はいた。残業代は月30時間までつく。
あくまで平均なので、かなりレベルが低い大学の出身者も結構いた。一方で上振れはあまりなくて早慶以上出身者は少なかった。
・女性社員がナチュラルセクハラ以外ではめちゃくちゃ大事にされている
どんなパワハラ怪物も女性社員には猫なで声でめちゃくちゃ優しく接していたし、産休育休取得は余裕だし、定時退社がデフォだった。
だから寿退社する人はそんないなくて、30~40代(10~20年選手)の女性社員がめちゃくちゃ多い。
(ゆえに女性社員の多くはパワハラ上司がどんなに暴れていようとビビッていなかった。「〇〇ちゃんまた大暴れしてたね~(笑)」とかキャラ化して人間模様を楽しんでる感すらあった)
無論、早出の部分には残業代はつかないし、恐ろしくてつくかどうかを尋ねたことすらない。
多分、実際に訊いたとしたら訊いたという行動自体が罪になって一気に社内カースト最下位になったと思う。
・社員の大半が既婚者
・離職率がめちゃくちゃ低い(平均勤続年数20年軽く超えてた)
・今後50年はまあ潰れない
・「うちの会社ほど悪い人がいない会社はなかなかない」と言い合っている
・「社名 ブラック」とか「社名 パワハラ」とかでググっても全然醜聞が出てこない
・髪型とか身に付けている小物とかを工夫して、外見を意図的に昭和っぽいヤクザに寄せてきてる役職者がポツポツいた。
でも学生時代本当に本職顔負けの武勇伝に溢れてた人が中央法とかに行ってお行儀よく新卒で固い会社に就職して~、みたいな人生行路を歩むはずがないのでゴッコなんだろう。
となると40代、50代にもなってまだ精神性が中高生並みということになってしまう。
【追記】
しかも給料は悪くない会社みたいだから、下手したらこの手のセクハラ・パワハラしている人が、社会的に立派な肩書きを持っていることになって、許容されていると思っちゃうわけだから。
天下に轟く大企業!!とかでは全くないけど、親なんかは「(手堅い、安心という意味で)いい会社に受かったねえ」と安心するし、住宅ローンの審査は超余裕で通るし。
それだけに、中に入ってから異常性が炸裂している様をありありと見せつけられて大ショックだった。あとそこに関して自浄作用が全く働いてなかったのも絶望的だった。
付け加えておくと、社員が100%異常者ってわけじゃ決してなくて、(あくまで俺基準だと)40%くらいまともな範疇に入るような人だった。それこそ人格的に優れていて仕事もできて~みたいな聖人みたいな人は2%くらいいた。
ただ40%くらいいる”まとも”な社員たちも、パワハラには加担しないまでも、目の前で繰り広げられるパワハラを苦笑いで見守り、ひと段落ついた頃にパワハラ加害者に対して「ずいぶん怒ってたね~(笑)」とか調子は合わせるし、まあ傍観者のスタンスでいた。
聖人みたいな人はというと、異常社員もパワハラ被害者もイジメ被害者も分け隔てなく慈しんでいて、全員で仲良くやりたいみたいなタイプだから、パワハラの最中は悲しそうにしていて、終わったあとはタイミング見計らって被害者のとこいって慰める程度にとどまっていた。
従って、自浄作用は働きようがなかった。
で、残り60%の「普通じゃない人」はさぞかしキチガイ極まってると思われるだろう。
確かに彼ら彼女らは間近で行われているパワハラを完全に余興のように楽しんでいたし、時に「あいつ(パワハラ被害者)朝眠い眠い言ってましたよ?ここは一発指導したほうがいいんじゃないっすか?(笑)」とか上司を煽ってパワハラ誘因するときすらあったし(上司のほうも「ほんと~?(笑)じゃあやっとかないとね(笑)」とか冗談めかしてにこやかに返していたのを見るに、マジで当事者はエンタメとして楽しんでたんだと思う)。
ただ、彼らはどっからどう見ても外形的にはまともの中のまともだった。
30歳過ぎても高校や大学時代の仲良しグループたちとBBQ行ったり、家族ぐるみで川に遊びに行ったり、完成した新居に呼んだり呼ばれたり~みたいな、キチガイでは到底築きえないような人間関係の輪を彼らは持ってたし、加えて彼らの多くは良き家庭人・良き父親であった。
マジモンのキチガイや性悪でも友達は作れるけど社会に出ると同時にフェードアウトされるのが普通だと思うし、30歳過ぎてまで家族ぐるみの友人付き合い維持できるなんて人格破綻者ではないことの証明だと思う。
じゃあ、なんで彼らが会社では異常者や異常空間形成の共犯者に化けてしまうのか不思議なところだが、俺は彼らの社会性の高さが原因じゃないかと疑ってる。
武士がお家を守ることにアイデンティティを抱いていたように、彼らは習性として自分が属するコミュニティの様態や安定性を維持することに全力を注ぎ(告発や改革などもってのほか)、結果として”会社共同体ではキチガイなのに非利益共同体では良き隣人”という矛盾を孕むことになったんじゃないかと。
となると、会社という”器”それ自体がキチガイ性や異常性でもって均衡が保たれてるのかって話になるけど、もしかしたらそういうオカルトじみた現象ってあるのかもしれない。
オウフwwwいわゆるストレートな知行質問キタコレですねwww
おっとっとwww拙者『キタコレ』などとついネット用語がwww
まず増田殿にお教えするのは、一万石とか十万石とかいう「石高」とは持っている領土の生産力であって、それが実収入ではないのでござる。言ってみれば、諸経費込みの総売り上げ≒年商に相当するものなのでござるな。なので実は「トヨタ7億石大名説」はあってるのでござる。日本の総石高は天保年間に3千万石チョイ位でござるので、トヨタすごいでござるなぁ・・・
ところが、個人についてみると年収1000万円は途端に一石6万円換算はおかしくなるのでござる。
増田殿が個人事業主で年商1000万円ならば166石取りといってまあおかしくはないでござる。でも増田殿、サラリマンでござろう?
これ即ち、中下級武士クラスでござる。ただし、この階級でも、年収から一部の経費を負担しなければならないのでござる。しかしまあ、サラリマンも額面給与と手取りは違うでござる。その辺は深く考えないで欲しいでござる。
この階級のオサムライサンは、オチンギンの貰い方に2通りあるのでござるよ。
一つは、お殿様からちっちゃい領土を分けて貰って、そこのアカりがオチンギンになるパティーンでござる(知行制)。地方や物成りによってもまちまちでござるが、大体村一つで200~1000石ぐらいになるでござる。石高と人口は大体同じぐらいでござる。今だと田舎にある大字ぐらいが1つ村だと考えてくだされ。
現代で言ってみれば、大会社のシャッチョサンに「お前にこの子会社任すから、そこのアガりで食ってくれ」ということなのでござる。小なりと言えどもシャッチョサンなので、身分的にも良いのでござるよ。
この場合、領土の石高に対する年貢収入が実際の年収になること、賢き増田殿ならお分かりいただけると思うでござる。実際の年貢税率は、これも時代や地方によって違うでござるが、35~50%でござるよ。
ただし、本当にもらった領土を経営するとなるとひじょーにマンドクサなので、江戸時代も進むと「領地を持っていることにはなってるけど、お米は藩からもらう(知行蔵米制)」というスタイルがほとんどになったのでござるなぁ。ほとんど、という言葉を裏返すと最後まで領土経営を続けたところもあったんでござる。
その下のクラスになると、ストレートにお米を給料としてもらえるでござる(蔵米制)。これは藩の領地から取り立てた年貢米で、年に何俵という形で支給されるでござる。俵1つにはお米が0.35石入っているでござる。この0.35という数字、奇しくも領土1石から取れる年貢米と大体同じなのでござる。よって50俵もらえるオサムライサンは、50石の領土を持っているオサムライサンと、大体同じ収入になるでござる。しかしサラリマンは多少高給でもシャッチョサンよりは身分的には見劣りするのでござるなぁ・・・。この辺は拙者共も身分を取るか実入りを取るかで苦労したものでござる。
なので年収1000万円のサラリマンは、お米に直すと166石≒474俵取りのオサムライサンでござる。つまり474石分の領土に収入的には等しくなるでござる。
これは、ニッポンイチカンパニーである江戸幕府では500石超の「大身旗本」というクラスにあとちょっとで手が届くちょっと惜しい感じの家格。役職でいうと、具足奉行(本社のどうでもいい課長)や各地の郡代(出張所長)が大体このぐらい、ちょっと手を伸ばせば勘定吟味役(経理課長補佐)、御小姓(社長秘書)ぐらいのポジションでござる。
その他な藩では、その藩の石高次第ではござろうが、数万石規模の小大名ならば家老職にもなれるぐらいの石高でござるな。逆に大大名クラスの家老職は万石取りでござる。
そう考えると年収1000万円、今も昔もそんなに変わりがない気がするでござろうよ。。。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240123211048
tune2011
個人に根差すべき価値観に上下新旧あると思ってるのがグロいし、
Windowsみたいにどっかから配布されてくるイメージもグロい。
el-condor
el-condorさんへつっ込みたいところが2点ある。
①
あのさあ、俺がここで書いてるのは
「価値観のアップデートという言葉」及びそれを人に向けて使える人間のグロさであって、
「人類社会が何かしら変化し続けること」については何の評価も書いてないわけ。
法規は個々人には根差さねーし、配布されてくるよそれは。
そこは個々人バラバラだったら成り立たないだろ。国内や州内では統一しねえとさ。
もうここまででもすげえというか
ようもここまで話の噛み合わない頓珍漢な反論が書けるよな。
(たぶん「価値観」とか「法規」とかいう抽象概念一つ一つについて
②
いわゆる切捨御免は斬られる側に相当アグレッシブな故意の「無礼」があって、
かつ斬った側が届出の際にそれを証明出来ないと処罰されちゃうんだよね。
幡随院長兵衛みたいな気合の入ったオラつき町奴じゃねえなら
町人が「今日突然無礼討ちで死ぬかも」なんて心配するような制度ではない。
el-condorさんてたぶんだけどそれなりの歳のパイセン、
武士の特権がハチャメチャに誇張された江戸時代像を持ってる人の世代。
「抑圧された民衆」の例として北斗の拳みたいな切捨御免のイメージを振り回す左派の人って昔からいるけど
令和6年にまだやってるのは不勉強の感が拭えない。
価値観はアップデートしなくていいと思うけど、ドヤ顔で突き出すための歴史雑学はちょくちょくアップデートしたほうがよくねえか。
③
法規というのは~、
既に決定した結論を「おめーらこれ守れよ、守らないと処罰!」って配布するものなわけよ。
ビルゲイツ将軍の思惑による変なファイルが勝手に配布されて押し付けられてるわけ。
一方で価値観と言うのは~、
個人に根差すものであって、可能な限り自由が保たれるべきものであるわけよ。
民主主義下では価値観が集まって法規を新たに作ったり変えたりすることはあるけど、
つまりい、
ってこと。
価値観を誰かが配布して従わせちゃったらもう民主主義でも何でもねえだろ。
④
これで少しでも左派とかリベラルのつもりだったらマジどうかしてんだよな。
「間違っても人権とか主張しないでほしい」はこっちのセリフだわ。
価値観を配布して更新させるという幼児じみた傲慢さに違和感もたない人って
そもそも民主主義だの人権だのを尊重以前に理解すら出来てないわけ。
あんたのような人が人権概念の恩恵に浴してるのは本当にたまたまのことで、
その幸運はあんたのような人が社会的地位や影響力を持たないでいてくれたからつうだけなんだよな。
俺はあんたと維新あたりの増上慢どもとの区別がつかないというか、付ける必要性がわからん。
だって維新の連中って「間違って出世してしまったel-condorさん」じゃん。
あいつらも個人が自由に感じたり考えたり抗ったりすることに滅茶苦茶イラついてると思うよ。
気が合うんじゃね?
⑤
el-condorさんからもel-condorさん以外の有志からも再反論は歓迎する。
肉豆腐である。あの「風立ちぬ」で本庄が堀越二郎に向かって「たまには肉豆腐でも食え」と言ってはガツガツと食べていた肉豆腐である。定食で食べてもウマいが居酒屋で酒とともに味わうのもたまらない。そもそも日本人は大豆でタンパク質を取ってきた。平安時代には仏教とともにインドから乳牛や乳製品も入ってきてて貴族たちはチーズやヨーグルトを食べていたと聞くが、武士たちは大豆を食べ続けたという。肉豆腐もその旨さは肉にはない。肉の味が染み込んだ豆腐が旨いのである。豆腐だけではない、一緒に入れたしらたきやえのきに染み込んだ味もたまらない。とにかく肉豆腐がうまくてたまらない。この1ヶ月でもう3回くらい作ってる気がする。
うちではこのクックパッドにあった無水調理のレシピを使わせてもらってる。実際にはこの倍量を一気に作ってるが、好評すぎて翌日にはだいたいなくなってしまう。
https://cookpad.com/recipe/6857584
うまいだけの話ならたまに作ればいいだけである。肉豆腐の有用性は味だけにとどまらない。ホットクックに材料を放り込んで煮ておけば簡単に作れてしまう。大量に作っても保温しておいたり温め直しをしたりして1〜2日平気で食べ続けられる。メインのおかずとしてもすばらしいが酒のツマミとしてもすばらしい。なんならご飯にかけてタマゴでも落とせば肉豆腐丼の完成だ。朝から夜まで肉豆腐で大満足である。つまり土曜に仕込んでおけば日曜日は一切料理しなくても平気ということである。あゝすばらしき完全休養日。
最近ハマってるメスティンで炊き込んで、蒸らし時間に生卵を落としておけば10〜15分後にはいい感じの半熟卵になる。とろりとした黄身にからめて豆腐や肉を食べると、あまりの旨さに朝からテンションが上がる。
うまいからといって毎週のように作っててはさすがに飽きも来る。こういう条件を兼ね備えた料理があと3〜4種類は欲しい。ホットクックが便利すぎるのがいかんのだが、まあ慣れてしまったものは元には戻れない。
労働で搾取されて、男だからって冷遇されて、老後は貧困で飢え死ぬんだよ
だから俺は子供なんて絶対つくらねえし、当然結婚なんかもしねえ
「お前が少子高齢化の原因」だって?それで結構だわ、わざわざ子供作って衰退地獄の責任転嫁したくねえからよ
俺たちに残された道は刹那的に生きて40~50代でキッパリ自殺すること、俺は覚悟してるよ
そうしないと負のスパイラルは止まんねえからな、どこかの世代で高齢化衰退地獄の流れを断ち切らなきゃいけないからな
今のくそ老人共は負のスパイラルの責任を下に押し付けてるだけなんだよ、根性根性言うけど一番根性ねえのはおめえらだからな?老害
はやく腹切って死んでくれ、まあおめえらがやらなくても俺たちがやるわ
その代わり一生俺たちに偉そうな顔すんな老害ども
・加害する前に「お前表出ろ!」的な予告やコミュニケーションがない。武士の「やあやあ我こそは」的なそれが平成不良には全く欠落していた
・不良のなかで、自分らならず者たちの世界と非不良連中との世界との間に境界線がない。
それゆえに平成不良は見ず知らずの女性や子供や老人や障害者や街の小動物さえも当たり前に加害の対象だった
・加害行動が単なるレジャー。
平成不良の加害行動にはある種の人格障害的な突飛さがあった(例えば、青色の靴を履いて駅前を歩いている人間がいたら人気のないところへ連れて行ってタコ殴りにする、など。理由は「青色の靴を履いていたから」で、因縁つけるとき、暴行するときに怒って叫んだりとかは一切しない。)。
彼ら昭和50年代生まれ60年代生まれの平成不良を育成した親世代も人格障害揃いだったとか、あるいは現代基準だと極めて異常な子育てをしていたのではと睨んでる。
応慶の乱
肥前国の平戸には、室町幕府の命令で、南蛮貿易の窓口として、ポルトガル人やスペイン人の宣教師たちが住んでいた。彼らは日本の文化や言葉に興味を持ち、日本人と交流を深めていた。中でも、応慶という名の若い僧侶は、彼らの信仰や知識に魅了され、彼らからキリスト教や西洋の学問を学んでいた。
しかし、応慶の行動は、幕府や寺院の目に留まり、不快に思われるようになった。彼は、外国人の影響を受けて、日本の伝統や仏教を軽視していると非難された。幕府は、応慶を捕らえて、尋問するように命じた。しかし、応慶は、宣教師たちの助けを借りて、平戸から逃げ出した。彼は、肥前国の各地に散らばっていた、キリスト教に改宗した武士や農民たちを集めて、反幕府の勢力を築いた。彼は、自分の名前にちなんで、その勢力を「応慶軍」と名付けた。
幕府は、応慶軍の存在を知り、室町幕府将軍、足利義稙は大内弘興を大将とする討伐軍を肥前国に派遣した。永正5年(1508年)こうして、肥前国で、応慶の乱と呼ばれる戦いが始まった。応慶の乱は、数か月にわたって続き、肥前国は火の海と化した。応慶は、大内軍の軍勢に対抗していたが、大内氏の軍勢は、数や装備で勝っており、応慶軍は次第に劣勢になっていった。永正6年(1509年)最後の決戦は、平戸山で行われた(平戸山合戦)が、早々に大将である応慶が矢に倒れ討死することとなる。
大内軍は、応慶軍の残党を一掃しようとしたが、平戸の宣教師たちが仲介に入った。彼らは、幕府と応慶軍の和睦を提案し、両者の寛容を求めた。当時、大内氏は京において細川氏や畠山氏との権力闘争の火種が残っていたため帰京を急いでおり、宣教師たちの説得に応じて、応慶軍の残党に恩赦を与えた。応慶軍の残党は、幕府の支配に従うことを誓った。こうして、応慶の乱は、和睦によって終わった。
応慶の名前は、肥前国の人々にとって、平和や幸運の象徴となった。彼らは、応慶の名前を「おーけー」と発音し、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使うようになった。この言葉は、平戸の宣教師たちにも伝わり、彼らは、応慶の名前に敬意を表して、その言葉を使うようになった。
宣教師たちは、幕府の追放を受けて、平戸を離れたが、その言葉を忘れなかった。彼らは、自分たちの母国に帰って、その言葉を広めた。彼らは、その言葉が、日本の文化や歴史に関係することを説明し、その言葉を使うことで、日本との友好を示すことができると言った。彼らは、その言葉を、手紙や書物に書いたり、会話や挨拶に使ったりした。
やがて、その言葉は、ポルトガルやスペインだけでなく、他のヨーロッパの国々にも伝わった。その言葉は、様々な言語に翻訳されたり、略されたり、変化したりしたが、その意味は、元の応慶の名前と同じだった。それは、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使う言葉だった。その言葉は、世界中に知られるようになった。それが、「OK」という言葉の起源である。
肥前国の平戸には、勢力を伸ばし大名となっていた松浦隆信の庇護によって、ポルトガル人やスペイン人の宣教師たちが住んでいた。彼らは南蛮貿易を通じて日本にキリスト教を伝えるとともに、日本の銀や刀などの商品を中国やヨーロッパに運んで交易を行っていた。また彼らは日本の文化や言葉に興味を持ち、日本人と交流を深めていた。中でも、応慶という名の若い僧侶は、彼らの信仰や知識に魅了され、彼らからキリスト教や西洋の学問を学んでいた。
しかし、応慶の行動は、幕府や寺院の目に留まり、不快に思われるようになった。彼は、外国人の影響を受けて、日本の伝統や仏教を軽視していると非難された。幕府は、応慶を捕らえて、尋問するように命じた。しかし、応慶は、宣教師たちの助けを借りて、平戸から逃げ出した。彼は、肥前国の各地に散らばっていた、キリスト教に改宗した武士や農民たちを集めて、反幕府の勢力を築いた。その勢力は応慶の名を取り「応慶軍」と呼ばれた。
幕府は、応慶軍の存在を知り、室町幕府将軍・足利義稙は大内弘興を総大将とする討伐軍を肥前国に派遣した。永正5年(1508年)、こうして肥前国で応慶の乱と呼ばれる戦いが始まった。松浦氏は応慶に僅かながら援助していたが、松浦氏は当時、大内氏の配下でもあったため表立って応慶への支援は行えなかった。応慶の軍は、当初は大内軍の軍勢と拮抗していたが、大内氏の軍勢は数や装備で勝っており、次第に劣勢になっていった。永正6年(1509年)、最後の決戦は、平戸城の南西に位置する川内峠で行われた(川内山合戦)。しかし、早々に大将である応慶が矢に倒れ討死することとなり、合戦は数時間で決した。
大内弘興は平戸に残る応慶軍の残党を一掃しようとしたが、平戸松浦氏と縁戚関係のあった宇久氏が仲介に入った。宇久家当主であった宇久盛定は幕府と応慶軍の和睦を提案。当時、大内氏は京において細川氏や畠山氏との権力闘争の火種が残っていたため帰京を急いでおり、宇久盛定の説得に応じて、応慶軍の残党に恩赦を与えた。こうして、応慶の乱は、和睦によって終わった。
応慶の名前は、肥前国の人々にとって、平和や幸運の象徴となった。彼らは、応慶の名前を「おーけー」と発音し、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使うようになった。この言葉は、平戸の宣教師たちにも伝わり、彼らは、応慶の名前に敬意を表して、その言葉を使うようになった。
その後、宣教師たちは平戸を離れたが、その言葉を忘れなかった。彼らは、自分たちの母国に帰って、その言葉を広めた。彼らは、その言葉が日本の文化や歴史に関係することを説明し、その言葉を使うことで日本との友好を示すことができると言った。彼らは、その言葉を手紙や書物に書いたり、会話や挨拶に使ったりした。
やがて、その言葉は、ポルトガルやスペインだけでなく、他のヨーロッパの国々にも伝わった。その言葉は、様々な言語に翻訳されたり、略されたり、変化したりしたが、その意味は、元の応慶の名前と同じだった。それは、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使う言葉だった。その言葉は、世界中に知られるようになった。それが、「OK」という言葉の語源である。
ここでは、和食が飛躍的に発展したと言われている平安時代・江戸時代の人々の食生活について解説します。
まず平安時代ですが、当時は農業の技術がまだ確立しておらず、農作物の生産量が限られていたことから、庶民が白米を口にする機会は滅多にありませんでした。
このため、庶民は麦、アワ、ヒエなどの雑穀を主食としていました。
雑穀がゆ、汁物、おかず3品程度といった「一汁三菜」が基本で、副菜には野菜の和え物や酢漬けなどが並んでいたそうです。
またこの頃、食事は朝と夕方に食事を取る「1日2食」が基本でした。
江戸時代になると、庶民の食事は「ご飯・味噌汁・漬物」という「一汁一菜」が基本になります。
漬物は、たくあん、梅干し、ぬか漬け、らっきょうなど、今でも私たちが食べているものが並んでいたそうです。
また味噌汁には、ワカメや海苔といった海藻類が入っていたそうです。
庶民の中でも比較的裕福な家庭では、一汁一菜に加えて煮豆や納豆などのおかずがつく場合もありました。
また奉公人を抱える町人や下級武士の場合は、ご飯、味噌汁、漬物に加えてイワシなどの魚を食べることもありました。
ちなみに、江戸時代初期までは平安時代と同様「1日2食」が一般的でしたが、江戸時代中期になると朝、昼、夕方に食事を取る「1日3食」が習慣として定着したと言われています。
江戸時代後期になると、裕福な家庭や町人だけでなく、多くの庶民の食卓に「米飯・味噌汁・漬物・おかず1~2品」が並ぶようになります。
特に庶民は白米を中心とした食生活を送っており、時には1日に1人4~5合の白米を食べることもありました。
なお、魚が食卓に並ぶのは、裕福な家庭でも2週間に1回程度だったと言われています。
魚の中でも、比較的手に入りやすいマグロやイワシなどが庶民には好まれていたそうです。
基本的には刺身や膾(なます)にして食べていましたが、江戸時代後期に七輪(しちりん)が登場してからは、焼き魚も食卓に上がるようになったと言われています。