はてなキーワード: 開成とは
俺は生きてきて頑張ったことがない。
だが幸福だ。
「あーまた生まれからして恵まれてるやつのマウント取りか」も思ったかもしれんが、
とりあえず最後まで聞け。清聴せい。
俺は頑張ったことがない。
人生を常に6割くらいの力で生きている。
つまり、これは「できる時にやらない」という、コントロールをしているかという話だ。
ペーパー試験と相性のいい頭をしていたのと、
親が公文式に入れていたせいだろうな。
だが、全国レベルに立つと大したことがないことは小学生の段階でわかっていた。
なので、小学生の時には、すでに大体のライフプランはできていた。
ズバリ、中学は公立、高校からはMARCH程度の一貫校で大学受験をスキップする、というやり方だ。
だから、俺はそこを狙った。
成績的には、正直、どこでもいけた。開成を狙えと周りには言われた。
だが、そのためには俺は頑張らねばならなかった。
だから、MARCHくらいの場所に俺は初めから目的を設定していた。
これは、俺が自主的になにかをしなくても平均より上になれるであろう場所である。
事実、そのとおりになった。俺は高校も大学も頑張ったことがない。常に遊び呆けていた。
だが、常に優秀サイドだった。周りの平均レベルが頑張っていない俺以下だったからだ。
例えば、これが少し欲をかいて早稲田やら慶應にでも行っていたら。
俺は優秀ではない人間になるか、あるいは平均より上の人間になるために頑張る必要があっただろう。
就活も同じだった。
いちばん重要な視座は「俺が俺のままに、努力せず優秀であれる場所」を探すことだった。
無事にそういう場所を見つけた。
中小企業である。ITのことなど何もわからぬ、だが基幹事業は儲かっている。
Excelが多少できるだけで、優秀になれるような場所に無事に入社した。年収は600万かそこらだが、まあ別に問題ない。
「待ってよもっと下の話をしてるんだけど、MARCHとかレベル高くない?」とすら感じた人にこそ、この感覚を知って欲しい。
俺など、世の中にいくらでもいる優秀な人々からすれば、無能サイドなのだ。
例えばGoogleに放り込まれたら馬鹿すぎて話にならない社員になるだろう。
今の会社から、もう少しレベルを上げた会社でも、おそらくそうだ。
咲ける場所で咲け、という話じゃない。もう自分は咲いている、そう見なされる場所に行け、という話だ。
その程度の移動の自由度はまだ残っている。
まず、頑張らないことを目的にするべきで、
ああ、宇宙飛行士選抜試験って、日本で一番難しい就活だったんだなって。
でもノーベル賞を取る人って、キラキラエリートが全然いないよね。
なんなら成り上がり感がある。
Youtuberにしろ、インスタのインフルエンサーにしろ、ツイッターのアルファにしろ、
漫画家や小説家にしろ、そういう人たちも、尖っていて頭がいいけど、キラキラエリートとは全然違う。
これらの人たちはみんな尖っていて屈折があってでも魅力的だ。
今回、学歴不問の宇宙飛行士試験に応募した人は、ノーベル賞受賞者やクリエイター、起業家みたいな人たちを選ぶ試験だと勘違いしていたんじゃないかな。
分かったのは、JAXAはもはや大学のような研究機関のような価値観はなく、JTCや官庁の価値観で運営されている組織だったということ。
男が人生ですべきことは「良い家柄の娘と結婚する」ことと「陛下から勲章を頂く」こと。
高確率で勲章を貰うには、官僚、学者の2点が固い。定年した地方自治体幹部や定年教員も貰えるが「良い家柄の娘と結婚する」が達成できないので官僚か学者。
地方出身の次官や学者は県立や府立高校卒も多いが都内なら筑駒、開成、麻布がほとんど。公立なら日比谷一択。よって中学受験は必須。
俺は中学受験もさせない田舎の家庭に生まれ、田舎の年寄りには評判のよい自称進学校に進み、質問すると怒鳴り返してくる嘱託の数学教員のせいで国立と理系を諦めなければいけなかった。元増田よりはネームバリューのある都内の私文を出て、コンプレックスを引きずり就活に失敗。ハロワで土木と介護を紹介されて鬱になりそうだったが、法曹になって「上方婚」と「陛下から勲章を頂く」を狙うことにした実家住み込み書生ニート。
自分は先天性心疾患だ。人口の1/2000で生まれてくる。自分の病気は幼児のうちに手術しなければ、ほぼ100%死ぬ。手術しても全回復はせず、一生心臓のケアが必要になる。しかし、見た目は健常者にしか見えない。新型コロナウイルスに感染すれば重症化し、死亡確率もぐんと上がる。もう5回、ちゃんとワクチンも打った。心房中隔欠損でも心室中隔欠損でもファロー四徴症でもなく、もっと重いやつ。
我々のように、見た目健常者と同じなのに変な病気を持っている人間に配慮するのが面倒くさいと社会で思われていることはよく知っている。そういう人間が、存在自体「迷惑だ」、「生まれてこなければいいのに」と思われていることもよく知っている。少しでも生きる価値がある人間になりたいと思って、東大理Ⅰに入り、そのまま東大の院に行って、コロナ禍のだいぶ前に修了して就職した。オリ合宿とか進振りとか同クラとか他クラス聴講とかシケ対とか、懐かしい東大用語も知っている。
価値がある人間になれた、コロナ禍前はそう思っていた。他の基礎疾患者と違って、我々は不摂生で基礎疾患者になったわけではない。変な病気を持って生まれて申し訳ないと正しく思っている一方で、本来なら死ぬはずだった自分を手術して直したのも日本社会なので、日本社会で「生きる価値ある」と思ってもらえる東大を出れば、日本社会に「生きる価値がある人間だ」と思ってもらえると信じていた。
3月13日からマスクを外すのが個人の自由になった。俺の前でもマスクを外す奴がたくさん出てくるだろう。もちろん、基礎疾患者であることを伝えれば、マスクを着けてもらえるだろうが、嫌な顔をされるだろう。嫌な顔をするという事は、やはり、「人口の1/2000だか何か知らないが、変な病気を持って生まれてきやがって、東大を出たぐらいで生きる価値があると思いあがるなよ」という風に、内心では思っているという事なのだと思う。人口の1/100は何らかの心疾患を持って生まれてくる。マスクを外して歩けば、普通に心臓病患者とすれ違うことぐらい、ちゃんと義務教育を出ていればわかるはずなのに、マスクを外すという事は、「先天性心臓病患者など生まれてくる価値がない」と思っている差別主義者だという事なのだろう。
少なくとも自分はそう思っている。だから、自分の前でマスクを外した人間を記録しておき、自分が感染・重症化したら、「僕の生きる価値を認めなかった差別主義者リスト」として、Facebookにでも一覧を公開しようと思う。
どのみち、我々先天性心疾患を持って生まれてくる人間は、何をやっても「生まれてこないほうがいいのに」と社会から迷惑に思われており、存在が軽視されているのだから、名前の一覧が公開されようが何だろうが大して問題ないだろう。99%の人間は健常者として生まれてくるのだから、やろうと思えば憲法改正でも何でもやって、そもそも、法的に我々が人間ではないという事にすることも理論的には可能だ。実際、つい80年ほど前は、そういう社会だった。この80年、たまたま運が良く、我々の生きる権利を認めてくれただけで、我々が迷惑な存在であることには変わりないので、ちょっと時間がたてば逆戻りしてもおかしくない。
岸田首相は開成卒で東大3回受験して落ちて早稲田法学部合格だから、東大卒の基礎疾患者の生きる価値は認めなかったという事なのだろう。