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はてなキーワード: 五感とは

2012-08-19

本を速く読みたいひとへ、速読

一行ずつ漏れなく目を通して読む速読です。

これだと分速2000文字前後限界です。


―目次―

1.目のストレッチ筋トレ

2.音読・音声化のクセをできるだけなくす

3.イメージ力を鍛える

4.識字視野を広げる、使う



―本編―

1.目のストレッチ筋トレ(3分間とちょっと)

裸眼の状態で、顔は前を向いたまま右の限界を見ます。少ししんどくなるぐらい。そのままキープ30秒。左・上・下も同様に。(30秒×4)

つぎに、顔も目も前方向。焦点は合わさずに前をぼんやりと眺めるが、左右両側の視界のギリギリ意識して30秒キープ。上下も同様に。(30秒×2)

最後に目のふちに沿って大きく黒目をぐるりと回す。右に3回、左に3回。


2.音声化のクセをとる指さし読み(10分~15分)

メトロノーム30に設定、一つの音で一行をなぞる。指を添えて、止まらスムーズに。

30からスタートし、10~15ずつ速度を上げ、2,3分ずつなぞる。難しくても100~150ぐらいまで上げる。もっとできそうなら200前後までどんどん速くする。

・読めそうなら読む

・読めなければ単語を拾おうとする

・拾えなければ目と指をしっかり動かす

・目がついていかなければ指だけ動かす(最後は必ずこれ)

最終段階まで上げたら一気に速度を50~60まで下げてひき続き指さし読み。自分でがんばってギリギリ読めるところまで自由に速度を上げ下げ。調節ができたらその速さで、指でなぞりながら2,3分読む。


3.イメージ力を鍛える(適当に)

漫画を読んで、もしくは映画を観て五感で回想する。

小説を読むときなどは想像しながら読んでみる。


4.識字視野を広げる、使う、平行読み(適当に)

新聞雑誌など、比較的一行あたりの文字数が少ないものを平行に読もうとする。初めは難しくても1のストレッチを続ければ識字視野は広がるが、実際に使う訓練として平行読みをする。

2012-07-19

女性のある種の能力と、それによるイジメについて

2004、5年の出来ちゃった婚ぐらいからと、ある種の性交のやり方によって、

女の人は、五感と、心の声を送り合うことが出来るようになったようで、男に対しても、その男記憶を呼び起こして、視覚聴覚に影響出来るようになっていたり、心の声を読み取ったりする事が出来るよう。

そして、自分大阪府の男(20代半ば)なのですが、女性にこの能力がある事を知らず、半年前ほどから、隣や向かいの奥さん、お婆ちゃんからこの能力で、四六時中、私生活(入浴・トイレ中含む)を覗き見られたり、心の中で思った事を読み取られたりして、困っている。

そして、外に出ても、ずっと周辺の女性からこの状態が続いているので、誰かこの状況や、この能力から逃げられる方法があれば、教えてもらえませんか??

2012-04-12

持ってます無駄な才能

http://kwsearch.goo.ne.jp/life/1544.html

どんな人も胸をはれるようなものはもっているもんだと思う。

例えば四肢五感の一つや二つがない人でも発達障害でも同じで、「普通」というのを平均としヒストグラムで数値で表したときに2シグマ以上離れた数値を「能力がある」とすると、何かが欠けた人は何かの能力を持っていることが多い。

ってのは、結局のところ人間能力なんて先天性のものもあるけれど、後天的ものと合せて「1」が個人的な考えで、どこにしてもなんにしてもどっかで帳尻があうもんなんじゃなかろうかなーってことなんだけど、どうも人ってのは自分にしても「どこかで比較をしてしまう」傾向があって無駄だとも思うんだけどするんだよね〜。

これは自尊心からくるのか、過去経験から来るのかはわからないけれど、人間ってのは競争する遺伝子でももってるもんなのかな?

なんていうか、ここまで多様化すると競争することすら意味がなくって、共存する方法を作ることに対して本来労力をかけたほうがいいんじゃないかなーとか思ったりする一方で、金融なんていう、貨幣価値くそものを考えると、一方が一方をしいたげるシステムでありまた興味深い。

2012-03-06

18歳の君たちへ 東北の海を感じに行こう

渡辺憲司・立教新座高校校長埼玉県新座市

 海を感じなさい。五感を震わせて海を感じなさい。その目で波頭を見て、その鼻で潮の匂いをかぎ、肌で東北の海の冷たさを感じなさい。自然体感しなさい。科学進歩意味を、海や自然が教えてくれるだろう。

 新聞テレビで分かった気になってはいけない。今からでも遅くない。震災から1年たった東北を訪ねなさい。今は静かな海、人の絶えた街、うずたかく積もったがれき、動物の死骸。すべて見てきなさい。

 君が大人になった時、後の世代から必ず問われるだろう。「あのころ、どうしていたの」と。関係なく生きていたよと、君は答えるだろうか。2012年3月の東北の海で感じたこと、考えたことを自身の生き方に反映させなさい。次の世代へ、次の次の世代へと語り継いでいきなさい。これは君たちの義務なのだ

 人に会いなさい。会って話を聞きなさい。いろんな人が、いろんな考えを持っていることを知りなさい。それが社会幸せにすることだと知りなさい。

 究極の人間らしさとは何か。他人へのやさしさだと、私は考えている。やさしさの語源は「痩せるである。他人のために自分の身を細らせるという意味を含んでいる。

 いろんな人と会い、身が細るほど相手の身になって物事を考えられる。他人と不幸を分かち合える。そんな人間になりなさい。戦後はみんなが貧しかった。今、悲劇は一部に集中している。だから分かち合うことが必要なのだ。弱っている人にやさしくなりなさい。それが人と会うことの意味なのだ

 理想を掲げなさい。老人には描けない、何十年先の理想を掲げなさい。理想を実現するために何をすべきか考えなさい。

 敗戦から1年後。日本国憲法が発布された。日本が掲げたのは、戦争放棄という新しい理想だった。戦争から帰ってきた、あるいは戦争へ行くはずだった若者たちが、その理想に夢を託した。戦後日本の繁栄は、彼らがつくったのだ。

 震災から1年が過ぎようとしている。今、君が夢を託せる理想があるか。震災後の日本をつくる理想を描けたか。私たち老人も考えよう。君たちも考えなさい。自身に問いかけなさい。

 今、海を感じなさい。人と会いなさい。新しい理想が、理想社会が、きっと見えるはずだ。描けるはずだ。

(『朝日新聞2012年3月6日朝刊に掲載)

2012-02-23

http://anond.hatelabo.jp/20120222212646

アカシックレコード的なアレが存在すると本気で思ってる。

でもってそのアカシックレコード人間の思念(笑)がオモシロ電磁波で相互作用すると本気で思ってる。

あーなるほど。そこが争点だったのか。なるほどね。

アカシックレコード的なアレがあるのかどうかとか、オモシロ電磁波的な五感以外で未知のコミュニケーションが可能なの感覚チャネルがあるのかどうかというのは現在分かっていないよね。

あると思うからあるように感じる典型例かも知れんし、あるかも知れない。

未知のコミュニケーションチャネルは、サカナの群れが一瞬で同時に同じ方向に向きを変えたりとか、遠隔気功とか、トップスポーツ選手とかが脊椎反射よりも早く反応したり(なんらかの方法細胞間通信が行われている?)とかありそうな気もするが、超高度な予測を行ってるだけかもしんない。

ここは物好きな研究者にお任せしたいw

元のひとの話で言うと、あると想定して占うから当たる(ように被験者が振舞う)、ということは普通にあるだろうね。

2011-11-04

空白

人は生まれながらにして、生まれる前に帰りたい欲を持つ

完全を放棄し、完全を求めたくなる

主体がない、意識がない状態は生きているうちは手に入らない幸福

一切は自己があるからこそ生まれる

五感と高次機能があるから生まれる

幸福を求める人間根本的に死を望んでいるのと同義だ

自我が消え、一切が消えた静かな境地に至りたいと願うようになるのは不思議なことではない

それに比べれば、この世で起こることのなんと移ろい易く、当てにならないことか

だが悲しきかな、それこそが静かな境地に至りたいと思わせるもの

であれば、この世で起こることも、至りたいと思う事も等しく意味があり、同時に意味が無い

川底の砂がすべて入れ替わっても誰も気にしないように、意味が無い

から、翻弄される小舟のような我らは、まさにその通りに生きるのが正しいのだ

為した事だけがあるだけだ

2011-10-10

模倣と共感の見分け方

目で見た物事の模倣

聞こえた音の模倣

同じ味を再現する能力

同じ匂いを再現する能力

同じ肌触りを再現する能力

共感、単純な喜怒哀楽は、それが自分自身でも相手に共感したのか、その場空気に合わせ模倣したのか解らない時があったりする

そして、五感で感じる事に対して模倣できる能力

第六感というとアレだが情報として感じた事、受け取った事にたいして模倣したり、模倣してしま能力がある

前者は五感で直接受け取った歓喜や悲痛に対しては同調し同じ気分になるが

後者報道等による文字情報のみで受け取った歓喜や悲痛に対しても同調し同じ気分になる

しかし、後者普通、その自分自身の共感作用に対し客観視を行っているが故にその文字情報に対しても同調可能なので

五感で直に感じる歓喜や悲痛に対しても客観視というフィルタを通してマインド感情)をコントロールできてしま

からといって、冷静になれる事がその場での歓喜や悲痛に対しての共感度が低いというわけではない、そう見えてしまうのは仕方ないが

さてでは、この前者と後者の違いは何なんだろうと考えた時に一つのキーワードとなるのが“ミラーニューロン”だと思う

前者の“偉大”な能力として注意が必要なのが後者の行う抽象空間での共感を“記憶”によって模倣できるという点である

さて、新しい情報に対しての新しい感覚をどう持つの

そして、その感覚に対して共感できる者同士が共鳴を始めた時に

世界は動き出すだろう

@awaikumo

2011-09-08

猫の感じ

http://anond.hatelabo.jp/20110908093243を可能な限り段落を再現してエキサイト先生翻訳して頂きました!

長い間、私は暗箱にいます

私が箱の外部で聞いた誰かのコメントによれば、劇薬を含んでいる小さなボトルは、この箱に位置します。ボトルは完全に密閉されますが、ハンマーボトルの近くに配置します。また、彼らは、ハンマーがある時に倒れるだろうと言いました。

いつになるかは「ある時間です?私は知りません。このまさに瞬間に?あるいは遠い将来?恐らく、それは既に来ました(私はそれに関して考えたくありません)。誰もハンマーに影響することができません。独立事象として、それは、見込みで50%倒れるでしょう。見込みはちょうど50%です。ひょっとしたら、ボトルは壊されるかもしれないしあるいはだろう。自分に関して、死者、あるいは、生きている。

私は言わなければなりません、状況はどれくらい恐ろしいですか。

私は、猛烈な憤慨を持たないようにはすることができません。私の人生(私のための最も重要な問題)は、私から完全に離れており、単純な図、FIFTY PERCENTに単独で依存します!あまりに恐ろしい。

さらに、私は、それは完全に不合理であると思います(そして)。私は、ちょうど50%で見込みを維持する多くの方法で束縛されます

視覚。箱は、任意の光から完全に保護されます。それは、ボトル装置を見つけるおよび破壊することから私を回避するためにあります。完全な暗さ。私は完全な暗さにいます。したがって、今、私は、自分アウトラインさえ見ることができません。恐らく、それは奇妙に思えます。暗さは私に私の体自体の存在について疑問を抱かせます

聴覚の知覚。恐らく、私が上に言及した理由から、完全な遮音は使用されます。私は、私自身の音声さえ聞くことができません。私はメカニズムを知りません。まず第1に、私は、何も見ることができないとともに、どのようにそれを調査することができますか。したがって、これは恐らく推測だけです、私の鼓膜はこの箱の中の包囲の前に破損されました、あるいは、ある特別の資料は箱の壁に使用されます

とにかく、光と音の保護であまりによい暗箱では、ちょうど用語が示すように、私の視覚的・聴覚の知覚は死んでいます

たかも一層の確認が必要かのように、私を極度に圧迫する巨大な疲労は私のための別の拘束物です。それらは努力から私を回避するために私にある種類の筋弛緩剤を与えたように見えます。私が同じ姿勢から変わることができないとともに、私の触覚はほとんど麻痺しています

光はありません。音はありません。匂いと味は信頼性が低い。触覚は不調にあります。私は操り人形に似ています。すべての五感は私のコントロールが不足しています。あまり残酷です。完全な拘束物。それらが睡眠薬を与えていた場合、私は望みます。私は、外傷のない苦悩にいると思います。私の生活(私の存在(自体))は完全に無視されます。そのような屈辱は私の正気を維持します。そのような屈辱けができます

自分の生および死をコントロールする権利は完全に奪われます。私はそのような状況を嫌います。私の生活の連続性の中核決定要素は完全に依存します、で、単独で、で、純粋な見込み。誰からでも完全に遠方に、意志があります。私は再びそれを嫌います。私はそれを嫌います!

なぜ私は、そのような箱で囲まれなければなりませんか。そのような途方もない箱では、なぜ私は、そのような完全な拘束物を備えた、生命不安および死にいなければなりませんか。

不合理です残酷です

私は孤独です。私は、中身がなく、水平に感じていますか。すすり泣かないようにすることが困難です?番号私の孤独はるかに深い。私は空間の海でいます。私は一人です。完全に孤独です。孤児として、私はこの無限の暗さに向けられました。私は絶対零度の中で震動しています

この箱に展望はありません。暗さだけがここにあります。私はボトルハンマーを感じることができません。私は壁、底および天井をまた感じることができません。それらはそこにあるに違いありません。しかし、私の五感がすべて奪われます。何もないように、私は感じます。それらのものがいくつかの意味を持っている一方。

正直に話して、私は、箱にいるかどうかそれほど分かりません。私は、私の姿が存在すると確信します。私は考えています。私は空想しています。それは証拠である、私の独自性を示すこと、呼ばれる、自我あるいは意識、あるいは心、固体ですしかし、独自性はありますか、本当に箱で囲まれる?それが別のスペースで浮かんでいることはありえますか。私はそのような疑問を除去することができません。

恐らく、私がここでであるものは、宇宙に結局浮かんでいるか、あるいはマリアナ海溝の底に横になっています。あるいは恐らくキラウエア火山の穴から下降して行くこと。

私には、箱(私を囲んで)がどのようにか知る方法がありません。私の感覚はすべて死んでいます。私は、ここに、箱の内部があるかどうか判断することができません。

私は、本当に生きているように、それに加えて、確かではありません。私には、そんな単純なものを確認する方法がありません。恐らく、50%の見込みは私を越えて既に通過しました。恐らく、私は既に死んでいます。私はまだ、恐らく生きています。浅くて、筋弛緩剤を注入された、呼吸する、弱い心臓の鼓動。あるいはそれらのすべての停止(単に去る肉大型丸薬)。

私は私自身の身体をコントロールする任意の能力を奪われます。誰が私の心が重大な活動を継続する身体に存在すると言うことができますか。五感は完全な暗さで毒されました。それらは感覚器として機能することができません。私は、真実を知る見込みがありません。恐らく、どんな推測も一人で作り上げられます。私を包む状況および自分独自性は恐らくプログラムされた回転プレーのコンポーネントです

私の存在に関して、私は振る舞いを決定することができません。私は、それを認めることを嫌いますしかし、私は変動の最中です

私は、誰かが私を見つけることができたらと思います。私は、誰かが箱を開くことができ私がいかがか言うことができた、らと思い、私がどういう人か決めることができました。私の内側にそうするのに十分な力はありません。私ができるのは孤独の中で震動し続けることです

もし神ならば、私は言うことができるでしょう「そこにさせる、軽い。」私は、それが不可能なことを知っていますしかし、私は、私がそのように言うことができたならばどれくらい素晴らしいだろうか思わざるをえません。

私自身の自由意志!それは、自分を取り巻くすべての変動を固定することができました!

同時に、切望は影を生産します。箱が開かれるなら、私は見つかり観察されましょう。その結果、私の姿は決定されるでしょう。実を言えば、私は決定を心配しているという事実から視線をそらすことができません。

一人で生きているか死んでいるかどうか判断することができませんが、私は死を恐れています。残念ながら、私は死者として決定します。私は受理することができません。まだ、私は感じることができません。私は特定の現象として死を想像することができません。恐らく、そのため、私は死を恐れています

いいえ、それは私に制限されるべきではありません。高潔なキング。致命的な殺害者。規則的な人々。すべての同じ。恐らく、悪い疾病の年上の人々あるいは患者は、十分に真実の死に近いある想像を持つことができました。しかし、それでも、死の特定の経験を知ることができません。

結局、死は圧倒する重要性を備えた最終仕向地です時間意識は絶対的な不可逆性を持っています。死にはさらに変更することができない完全無欠さがあります。それが儀式の通過点あるいは顕著な印象的な出来事でも。

私自身、ここの私の心はそうです、そのときは消えられるだろう、どれ、私がいかがかが決定されます。それらが生ぬるい水(私はその中で温度を感じることができない)から奪う場合、私は、大気に身をさらさないようにはすることができません。

私はそのような不可逆変化を恐れています。それは死の決定に制限されていません。さらに、非常に心配しているので、私は生きていて決定されます

自分現在存在は、無限ポイント上に立っている小さく小さな幻覚に似ています。それほど大きくない。それほど小さくない。それほど長くない。それほど短くない。拡張はありません。収縮はありません。ユニークな単一のポイントで立っていること。それは数学上正確です。私は、自分同一性に関する混乱があるそのようなポイントでとどまるゴーストのようなものです

ポイントは同時(ある位置で既存でない)に座標の飛行機ですべての位置で存在します。ある出来事が生じれば、その瞬間においては、それは、すべての地空(あたかも私の招待がバスから降りるかのように、出来事がその中で生じた)中の単一のポイントに私を集中させるでしょう。関係なしで。ポイントと私がものだったとしても。

幻覚(それはそのようなポイントでとどまった)は、等しい程度に対して、実際で霧のように消されているの可能性を持っています

さて、私はすべての配当通過時間の中で既存です。そして、私はすべての自然を持っています。同時に、私は孤独からそれを受けています、私はすべての自然から離れています。私は、誰かが私を見つけることができることを望みます。同時に、私は非常に心配しています、私はどこにいてそれ、私はその瞬間にいかがでしょうか。

私は原因と結果の法則から解放されました。私は常に永久に決定しません。

2011-09-07

ねこきもち

箱の中がすっかり暗くなってしまってから、もう随分と時間が経ちました。

入れられる以前に小耳に挟んだことなのですが、どうやらこの箱の中には猛毒の入った小瓶が置かれているそうです。小瓶は口を溶接されて密閉状態にあるものの、すぐ側には振り上げられたまま固定された金槌が設置されていて、その金槌とある時間がきた途端に振り下ろされるのだそうです

そのとある時間なる時がいつを指すのか、私には全くわかりません。いまこの瞬間にもその時が来ているのかもしれないし、あるいはもっと先のことだったり、考えたくないことではありますが、もう過ぎてしまったことだったりするのかもしれません。金槌は誰の影響を受けるでもなく、独立した一つの事象として、完全な確率五十パーセントで振り下ろされることになっているのです。小瓶は割れてしまうのかもしれないし、割れないままかもしれない。私は死んでしまうかもしれないし、生きたままいられるのかもしれない。

まったく、とんだ状況の中に押し込めてくれたものです

激しい憤りを覚えずにはいられません。私の生死という何よりもの大事項が、私はもとより誰からの手も離れて、唯一、五十パーセントなどという無機質極まりない確率だけに委ねられているなんて。ほとほと酷いにも程があるのではないのでしょうか。

加えて理不尽まりないことに、この五十パーセントという確率をより厳密なものにするために、箱に入れられた私には様々な枷が与えられたのです

例えば視覚について。小瓶と装置が見つかっては壊されかねないとのことから、箱には完璧な遮光が施されることになりました。完璧な暗闇。暗黒と呼んでも差し支えのない暗さが用意されたのです。よって私には、少し先の様子はもちろんのこと、私自身の輪郭さえ視認することができません。そこに本当に私の身体があるのかどうか、馬鹿げた話ではありますが、疑いすら持ち得てしまえる暗さなのです

また聴覚についても、同様の理由からか、自ら発した声さえ聞きとれない程に徹底した遮断が施されています。どのような原理が働いているのかは不明です。そもそもなにも見えないのですから、確認のしようがありません。ですから以下は推測になりますが、もしかしたらここに入れられる前に鼓膜を破られたのかもしれないし、あるいは箱を形成する外壁に特殊な吸音板が使用されているのかもしれません。

兎にも角にも、防音吸音共に優れすぎた暗い箱の中で、私の視覚聴覚は文字通り死んでしまっているのです

極めつけとばかりに、全身を支配する身じろぎひとつ取れない虚脱感もまた、私に与えられた枷のひとつでした。暴れないようにとの理由から、箱に入れられる際に何かしらの弛緩剤を投薬されたのでしょう。半ば強制的に同じ姿勢のまま横たわらねばならなくなったので、次第に皮膚感覚麻痺していきました。

何も見えないし聞こえない。嗅覚も味覚もあてにならない上に、触覚までも機能不全に陥った。つまるところ私は五感を全て支配されてしまった木偶のような有様を晒しているのです非情まりない状況です。これほどまでに不自由を徹底するくらいなら睡眠薬を投与してくれたらよかったのにと思わずはいられません。一つも外傷を与えられないまま生殺しにされている気分なのです。私という生命存在について、これ以上ないほどに蔑ろにされているという屈辱感が、辛うじて私の精神を狂わせず律してくれているのです

私は、私の生命を、その生き死にを決定する何よりも重大な決定権があからさまに奪われてしまっていることが憎い。生命の存続を決定づける要素というものが、たった一つ、誰から意図から独立した、純粋まりない確率にだけ寄っているという事実が、憎くて憎くて堪らないのです

どうして私はこんな箱の中に入れられなければならなかったのでしょう。こんな馬鹿げた箱の中で、徹底して自由を奪われたまま生死の恐怖に怯えなければならないのでしょう。

こんなに理不尽なことがあっていいのでしょうか。こんなに残酷なことがあっていいのでしょうか。

はいま、とても孤独です。胸にぽっかり穴が開いたとか、むせび泣いてしまうとか、そんな孤独よりももっと深淵にある、一面の虚空とでも言うべき孤独感にやられてしまっているのです。すごくすごく、ものすごくさびしいのです。独りぼっちのまま、永劫の暗黒に投げ出されてしまったものですから絶対零度にも等しい肌寒さに打ち震えることしかできないのです

箱の中からは一切の遠近感が失われています。暗黒だけが広がっていて、どこかにあるはずの小瓶と金槌は当然のごとく、箱の壁も底も天井も全て消えさってしまたかのようです。無論、実際にはそこにあるのでしょう。けれども、ありとあらゆる感覚器が閉ざされ麻痺してしまった私には、当然のようにそこにあるはずの物ども(実際にはそれ自体に何かしらの存在意義が与えられているはずなのに)が、ないも同然になってしまっているのです

正直に告白しましょう。私にはもう、箱の中に私がいるという前提にさえ自信が持てなくなってきています。確かに私というもの存在している。こうして取り留めもないことを考え、あるいは空想している私の自我ないし意識とか精神などと呼ばれている唯一性は確保されている。けれども、その唯一性が本当に箱の中に閉じ込められているのかどうか。本当はもっと違う、どこか異質な空間を漂っているのではないか。疑念を払拭し切ることができないのです

しかしたら、いまこうしてここにある私は、どこか遠く宇宙の果てを漂っているのかもしれませんし、マリアナ海溝の水底に横たわっているのかもしれない。あるいはキラウェア火山の火口からマントルの方向に向かって沈下しているのかもしれません。

私には私自身を覆う箱がどうなっているのか知る術がないし、五感が死んだままではここが箱の中なのかどうか判別がつかないのです

加えて、いまここにある私が本当に生きているのかどうか。そんなことさえも私には確認する方法が与えられていません。ともすれば私は、二分の一の確率をすでに通り過ぎてしまっているのかもしれないのですから。私はもう死んでしまっているのかもしれませんし、運良く生き残っているかもしれません。弛緩剤を打たれた身体で浅い呼吸と僅かな拍動を続けているのかもしれないし、その全てが停止したままだらんと横たわった肉塊になっているのかもしれません。

私は私自身の肉体を自由にできるだけの力を奪われてしまっているのです。私という思考が生命活動を続ける健全な肉体に宿っているなどと、一体誰が認めてくれるのでしょう。完璧な暗闇に毒された五感は、すでに感覚器としての意義を失くしています。私にはもう本当を確かめるだけの機会さえ与えられていないのです。ありとあらゆる想定は、もしかしたら私自身が作り出した捏造なのかもしれない。私を巡る様々な状況や、そもそもの私という唯一性についても、プログラムされたロールプレイにすぎないのかもしれない。

私という存在について、口惜しいことに、ゆらぎの只中にある私には振る舞い方を決めることができないのです

叶うことなら、誰かに私を見つけ出してほしいくらいです。私を閉じ込めた狭い箱をこじ開けて、私がどうなっているのかを観測して、私の有り様を決定して欲しい。私にはもうそれだけの力が残されていませんから。身動きも取れないまま、孤独に身を震わせ続けることしかできないのですから

全能の神であれば、光あれと呟くこともできることでしょう。無茶な願いだと承知のうえですが、そう告げることができたのならどんなによかっただろうと感じずにはいられません。

自身を巡るありとあらゆる不確定なゆらぎを自らの意思で確定できるなんて!

あこがれは、しかし一方で臆病な陰影を生み出すものです。箱が開かれ、私が見つけられて観測され、結果的に私の有り様が決まることについて、嘘偽りなく告白すると、確定されるいまに不安を感じていることから目を逸らすことができなくなるのです

生きているのか死んでいるのかさえも自分自身では確かめようのない私ではありますが、それでもやっぱり死ぬことは怖いのです。死んでいると決定してしまうことが生理的に恐ろしいのです。どうしても受け付けられない。きっとそれは私がまだ具体的な死という現象を体感することも想像することもできていないからなのでしょう。

いいえ、なにも私に限った話ではないのでしょう。人徳有望な仁君名君であっても、極悪非道殺戮者であっても、遍く存在する人畜無害一般人であっても、誰だってそうだろうと思うのです。年老いた人や、病床に伏せる難病患者であるのならば、もしかしたら限りなく近しい想像を働かせることが可能かもしれません。が、それでもやはり具体的な体験については一生不明なままだと思うのです

結局、死とはゆるがせにできない圧倒的な意味を持つ終着点だと思うのです時間というもの、あるいは意識というものが絶対的な不可逆性を有しているように、たとえそれが儀礼的な通過点や他に類を見ない印象深いイベントであったとしても、決して覆すことのできない絶対的な事柄に違いないのです

私は、いまここにある私という思考は、私を巡る様々な有り様が決まった瞬間にここから存在しなくなります。頭までどっぷりと浸かった、熱くも冷たくもない、温度を感じることのできない完璧ぬるま湯を抜かれてしまって、否応なしに外気に触れざるを得なくなってしまからです

そんな取り返しの付かない変化が恐ろしい。死んでいると決定づけられるだけに限らないのです。私にはもう、生きていると決まってしまうことさえ不安不安でたまらないことなのです

きっといまここにある私は、永遠とも感ぜられる点に留まった小さな小さな幻想のようなものなのでしょう。それ以上広がることもなければ縮まることもない、伸びることもなければ短くなることもない。拡散することも閉塞することもない、数学的に正しい唯一一点に留まったまま自己同一性勘違いしてしまった幽霊のような存在なのでしょう。

その点は、座標平面上の至る所に存在し、同時にとある一箇所には存在していないのです一心同体も同然となった私のことなんて気にも留めないで、ある特定の事象が起こった瞬間に、その事象が起こったありとあらゆる時空間の中のたった一つに、まるでバスから降ろすかのようにして私を収束させるのでしょう。

またそんな点に留まってしまった幻は、実物になる可能性も、霞となって消え去る可能性も平等に有している。

はいま、どんな時空間にも存在し、ありとあらゆる性質を有していながら、同時にどんな性質からも見放された孤独に苛まされています。誰かに見つけて欲しいと願う一方で、その時一体私がどこにいるのか、どのような姿になっているのかが不安でならないのです

因果の理から放たれてしまった私は、何時迄経っても不確定なままなのです

2011-03-16

老害黙殺運動

こんな時世でこんな事を言うのも残酷だが、こんな時だからこそ広めたい

東北大地震から原発の流れ、そして現在に至るまでに、きっと色んなモノが溜まってる人もこの中にはいるだろ?

私は、老害共への憤りが今にも爆発しそうだ。

だが、怒りとして表にだしちゃいけない。それは、今が大変な状況だからというのもあるけど、得られる物が少ないからだ。

そこで、広めたいのが「黙殺」

老害と思う対象から発せられる、全ての「情報」を無視する事。

その「情報」とは、「教訓」を得られる毒でもなければ、「栄養」になる薬でもないものだ。

もちろん、その「情報から五感的な「刺激」が生まれることはある。

その「刺激」に対する、ストレス老害に構わず発散していい。

その時はもちろん老害を「黙殺」しながらだ。

なぜなら、老害とは「者」ではない、老害とは「物」だ。「者」を物扱いする「物」のことだ。

物に当たる時と同じ感覚目には目をという運動

しかし、忘れてはいけない事が一つある。

それは、老人≠老害という事。

老人全てを老害だという「思想」は、「老人」には優しくしましょうという「思想」と何一つ変わらない。

老害黙殺運動代謝の一環だ。

もちろん、排出するものと一緒に出て行くものはある。

何かが動くにはエネルギーが必要だ。しかし、それは必ずしも痛さを伴うものである必要は無い。

動く事とは、常にバランス感覚が必要な事だと思って欲しい

実に、抽象的な話だがこれでいい。

始まりはふわふわしていた方がいい。

真の自由と責任を。

2011-03-04

http://anond.hatelabo.jp/20110220223159

イケてる人が何故イケてるかっていうと、

例えばあなたが挙げたカフェとかバーとかそういう流行りそうなものを見つけてくるアンテナを持ってて、

なおかつそれをすぐに自分の生活スタイルに取り込めちゃうバイタリティーに溢れてるからじゃないの。

流行ってからやってもただのミサワしかならないけど自分自身の五感を使った体験から率直に「うまい」とか

楽しい」とか「気持ちいい」って感じたものを好きと言うことは何も恥ずかしいことじゃない。

2010-12-20

http://anond.hatelabo.jp/20101220140000

「全く言葉の通じない外国人」でも五感は備わっている(と知っている)から我々は身振り手振りが使えるのであって、

その前提が存在しない宇宙人が相手なら、アナログな手段もデジタルな手段も大差ないだろう。

2010-09-18

http://anond.hatelabo.jp/20100918154632

私の思いが、少なくともあなた五感を通じて血肉に浸透するのであれば、まこと有意義な時間である。

2010-09-02

http://anond.hatelabo.jp/20100902133727

はあ?

だって

情報の限定された表現手法や抽象

 現実より情報が少ないから偉くない」だろ

これ

しかし二次元視覚聴覚しか満たさない

対して三次元視覚聴覚嗅覚、味覚、触覚、要するに五感すべてを使うから満足度が違うと思うんだ

なので三次元のほうが結局良いとふと思ったってだけのハナシでした





よほどの下層か未開の土人だぜこんなアッパッパー見解述べる奴って

そして多分お前も

二次元三次元について思った

最初に言っとくがアニメゲームに関して否定派じゃない

しかし二次元視覚聴覚しか満たさない

対して三次元視覚聴覚嗅覚、味覚、触覚、要するに五感すべてを使うから満足度が違うと思うんだ

なので三次元のほうが結局良いとふと思ったってだけのハナシでした

2010-08-21

ことの本質

自分がなぜここまで別の世界リアル別世界、仮想空間を求めているのかが分かった。

リアルにおいての身体にコンプレックスがあるからだ。

自分は太っているし、はっきりいってかっこよくないし、それを起因とした立ち振る舞いすべてにコンプレックスがある。

自分の家以外では鏡を見れない。外世界と繋がっている状態で自分がどう見えているのか確認したくないという強い思いがある。それを見た瞬間、もう前を向いて歩けなくなってしまう。

この強いコンプレックスが、おそらく自分のカタチを簡単に変えられ誰かになれる仮想世界への思いを強固にさせているのだろう。

増田内で容姿に関する文章を読むと、まっさきに「何でそんな下らないこと考えてるんだ」と鼻で笑ってしまうのは、仮想空間自分のカタチを変えられればいくらでもイケメンになれるじゃないかという確信めいたおもいがあるからだ。

リアルを変えるのはかなり難しい。そうでないという意見もあるが、リアルとはおおむね固定化しており、安定的だからだ。この安定感こそ、人間をこの世界に強力に縛り付けるモノなんだろう。

リアルな仮想空間は、いわゆるいいとこどりだ。安定感を持ちながら、一方では簡単にそれを崩すことも出来る。顔を簡単に変え、別人になれる。一見すると不安定だが、その世界根底にはこのリアルと同様の「安定感」があるために、インターネットのような無重力空間的な不安定感はないと思う。不安定さを保持したまま安定した空間提供する。これぞ次世代。

当たり前だが、世の中の人間みんながかっこよくて個性的なわけではない。だから、このサービスがはじまればかなりウケると思う。

もちろん誰かになれるだけがウリではない。物理的な制約、時間的な制約からも解放される。リアル時間変化に飽きた人々は、一瞬にして昼が夜になり、夜が朝になることに何の違和感も感じなくなるだろう。

それぞれの場所、風景には適切な時間帯というものがある。昼のビーチではしゃぎたい人がいれば、夕焼けのビーチで哀愁を感じたい人もいる。

単なる3次元空間では陳腐に感じられても、五感投影させた3次元空間ならもはやそれをニセモノだと言う人はいなくなるだろう。

2010-08-13

杉野昭博 『障害学―理論形成と射程』 2007 東京大学出版会 3章「マイノリティモデル普遍モデル――アーヴィングゾラの障害学」 2節「ゾラが語る個人史とアイデンティティの探求」より

 ヘットドルプの何人かの住人と,性について本音で語り合った彼は,セックスの時には「健常な体をしている自分」を無意識想像しているという自己欺瞞に気づく.その晩,彼は,自室に戻り,上体ばかりが発達し下肢が未発達の「サルのような自分」の裸身を鏡に写し,その姿を見つめながら自慰をする.その時彼ははじめて本当の性の喜びを感じ,それこそが,本当の自分だと実感するのである.

 私の幼なじみの間ではそれほど特別なことではありませんでしたが,ゾラ家にとっては,ハーバード大学院まで進んだ私は大したものでした.私の父は10人兄弟末っ子でしたが,親戚の中で大学に進学した者は私のほかに2人しかいませんでした.ウェストエンドの調査に私が参加したことは,そんなゾラ家にちょっとした波風をたてることになりました.母は,長年そこから抜け出したいと切望していた下流階級の暮らしに息子が「潜伏」するという研究には困惑していたようです.一方,父は大喜びでした.父は,私が大人になってからは,初めて私と一緒に行動する機会を得た上,父の得意な技能を私に伝えることができたからです.父はたいそう自慢気に,私をビリヤード屋に連れて行き,「ハーバード大学教授」の息子にエイトボールやローテーションの技を教えてやるんだと吹聴していました.加えて父は,私にバーでの俗語やふるまい方を教えて,ギャンブルの手ほどきをしました.これには母はすっかり狼狽してしまい,私の研究については一切聞きたくないと言って,子どもの頃以来私に言いつづけていた「勉強はどうなの?」というセリフを初めて言わなくなりました.(中略)こうして私は,見たり感じたり聞いたりといった五感を用いるだけでなく,伝統的な参与観察では言及されることのない調査者の出自という「私自身」の一部を調査に役立てることができました.ドチェスター地区やマタパン地区の労働者階級ユダヤ人家庭に育ち,数年間工場肉体労働をしたことがあるポリオ少年という私の出自は,たんにウェストエンドの仲間内の会話の種になっただけでなく,私の研究に直接影響を与えました.(中略)そして,ウェストエンドに始まり,ヘットドルプではっきりした事実とは,愛情あふれるユダヤ人の両親によって社会化されたこと,私が受けた教育,および,ポリオとその後の交通事故による障害を「克服」するためのすべての努力は,実のところ「私自身」の一部を切り離し,遠ざけることだったのです.私は大学に行くまで自分労働者階級であると考えたこともありませんでした.大学に行ってはじめて,ブルーカラーの父をもつのは自分だけだと気づいたのです。(Zola, Irving Kenneth "Missing Pieces: A Chronicle of Living With a Disability" 1982)

2010-08-10

共存のために

人間は神になれる。なぜなら神とは人間がつくった概念に過ぎないから。そんなものをつくったのは自らの能力限界があり、その限界突破することを本能が妨げていたからだ。

科学は人を解き放つ。自然という巨大な存在の前にひざまずくのではなく、人類自然管理する。

そもそも人類好奇心を持ち、世界を探求したいという欲求に駆られてここまでやってきた。

その先にあるのは、大いなる母たる自然との対立に他ならない。母たる自然人類が赤子のままでいることなど望んでいない。そうでなければ、人類に「知恵」と「好奇心」など与えなかったはず。

現在のところ母たる自然は何も言わない。だが、自然人類を滅ぼしたいわけでもない。私が思うに、自然人類がゆりかごから飛び出し、新しい世界へ旅立っていくことを願っているのだと思う。

いずれ何億年か後、この地球太陽に飲み込まれる。その時、地球という小さな星の「記憶」を持ちだせるのは、知恵あるヒト、人類だけである。

人類太陽系を越え、外銀河、外宇宙へと地球の種を運ぶために母たる自然が用意した「手段」の一つなんだと思う。

文明はすべて自然の上に成り立っているし、文化自然オマージュでしかない。つまりいくら自然から離れようとも本質的人類自然と共にある。

しかし、自然そのものは成長しすぎた人類がおさまるには小さすぎるゆりかごだ。小学校に上がった子供が、赤ん坊用のベッドで眠れるわけはない。

だから人類は新しい世界、すなわち人類にとっての理想の楽園をつくらなければならない。

現在研究が進むVR空間もその一つ。環境破壊地球寿命をも縮めるまで大きくなった人類は、もはや自然と共に生きられない。だったら自然シミュレートしてしまえばいい。人類がつくった自慢の息子、コンピュータの力を使うのである。

VR空間では様々な制御が可能だ。この空間スーパーコンピュータによって実現できる。VR空間においては、何ら制限されることなく人類の欲望を叶えられる。森の中を舗装された道路で走るという楽しみは、現実空間では自然破壊に繋がり今後は禁止されていくだろうが、VR空間ならそのようなことを考えずにいくらでも出来る。

高さ1000mのビルを建てることも容易に出来、必要ならもっと高くすることも可能だ。現実空間で問題となっている資源の枯渇は、VRの自由な空間には関係がない。

現実とは人類がもっともらしいと感じる度合いが強い世界を指す。ならば、スーパーコンピュータ演算速度と五感のような世界を感じるためのインターフェースさえそろえば、VR空間だって現実空間となりうる。いや、人類地球環境を本当に保護したいと思うなら、人類にとっての現実空間はVR空間に移行しなければならない。それが人類のためでもあるし、地球のためでもある。

2010-06-18

http://anond.hatelabo.jp/20100618132701

いいからその記事読めよ。

重要なところ引用してやるよ。

最初に自覚しなければいけない事は「妄想」とは何なのかと言う事です。

妄想と言う言葉意味は「根拠のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念」です。

つまり集団ストーカーと思った根拠」が本当なのか?と言う事が一番の問題なのです。

統合失調症とは五感が狂う病気です。

つまり、もしこの病気場合視覚聴覚嗅覚、味覚、体覚」に異常が出るため、見えたり聞こえたりしたとしてもそれが本当の事なのかは、機械的に録音や録画で第三者確認できない限り「実際の根拠」にはならないのです。

通常は「この目で見たから確かだ!」「ちゃんとこの耳で聞いたから確かだ!」と言ったように、五感は絶対的な物のように思われますが、その五感が狂っていたらすべての根拠は根拠ではなくなり、何一つ正確な判断は付かなくなってしまいます。

更にその感覚異常が起きているのかさえ自分で判断する事は出来ません。

一番多い物に「ささやき攻撃」や「ほのめかし」と言う物が有りますが、これは統合失調症の症状の「幻聴」と区別しなくてはなりません。

五感の異常が起きるということは「自我の崩壊」を意味します。

つまり、通常は見ている事や聞こえる音(声)などにより「自己存在位置や存在意義」を把握しているのですが、その境界がなくなってしまうのです。

その為、自我を守る為の境界として「犯人」が必要になるのです。

言い換えれば、自我を保つ為の防衛本能なのです。

しかし、その防衛本能に従っていては何の解決もありません。

「何度鍵を変えても入られる」「部屋の配置などが部妙に換わっている」「留守中に誰かが侵入している」などは「記憶障害」との区別を付けなくてはなりません。

記憶障害統合失調症の「陰性症状」の時や「認知症」「アルツハイマー」などの場合に発生します。

つまり今現在行っていた事を次の瞬間に忘れているのです。

記憶障害自分で行った事が、記憶から消えているのですから「他人」が行ったとしか考えられなくなります。

2010-04-28

ずっと昔のことを覚えているのはずっとこわい。

 人間記憶がもしも曖昧なものでなければ、もしも脳細胞ハードディスクのように上書きされるような構造ならば、人間発狂してしまうだろう。という話がある。その通りで、私たちは大事な記憶を忘れるとともに思い出したくない事を少しずつ、時間が解決してくれるに任している。実際には、考えてないうちに、意識していないうちに、緩やかにシナプスは結びつきを弱め、ニューロンの発火は抑えられる。

 脳が未だにブラックボックスだからこんな表現が許されるのだけど、不意な刺激(におい、景色、音、味覚、ようは五感の複合的な刺激)によって結びつきもしないような所から記憶は想起されてしまう時がある。フラッシュバックなんて、おおげさなものでは無いが、私の好きな作家言葉を借りれば、

ーーーハンバーグの中に小石が混じってしまっているのだ。ーーそれが、かきっ、と不快な音を立ててその辺りの思い出もろとも吐き捨てられてしまうことになる。ーーー確かにかみ合ってはいない、でも引っかかるところが中途半端に残ってる。それがきしんで、だから落ち着かない気持ちになる。ーーー

 

 だから、思い出なんてない方がいいとか、そう言う気持ちがあったのは事実だが、そう世の中うまくいくものではない。そこにあるのは、のっぺりとした日常である。そうで無い気もする。ここ数年の方が、ずっと人生リリカルでラジカルだった気もする。でも過去を振り返ると、なぜか少し悲しい。矛盾しているし、書いてる最中にも考えがころころ変わる。それはまとまってないとか、よく分からないとかじゃない。よく知っているんだ。

引用は、上遠野浩平 ビートのディシプリン 2巻より。

 

2010-04-14

http://anond.hatelabo.jp/20100414071724

対象について分解して真偽を確かめていく批判的な思考は

女だけが出来ないわけじゃない気が

老若男女や学歴知性教養問わず、どんなに学者肌でも

目の前に事実を突きつけられていてもそれを正確に理解できないことは

人間として、ある意味では正常な反応だよ

人間ハードウェアソフトウェアも、物理世界ありのまま認識するようには出来てないし

五感の段階ですら歪んでるなら、それを統合した情報だって歪んでる

さらには、人格やら過去の体験やら記憶でもって認識や想起さえ歪む

より整合性のある方向へ、より自分に都合の良い方向へ、より説得力のある方向へ

俺もその女もお前も、どんぐりの背比べだよ

2010-02-22

タイプ別 性格判断

http://www32.ocn.ne.jp/~emina/

あなたはINTP型。

●内向(I)型

 観察したことや決断したことを口に出さない。考えや着想が活力の源となるが、激しい議論をすると生気がなくなる。

 

 話すよりも聞き手に回る。I型は数時間も二人以上で過ごすと、一人で考える「充電」時間が必要だと思う。

●直感(N)型

 五感情報を集めても、すぐに直感で解釈してしまい、可能性や意味、さまざまな物事の関連性をもとめてしまう。

 

 壮大な企画を立てたり、物事を全体論でとらえる。

 

 およそとか、行当りばったりという言葉がすき。

●思考(T)型

 理屈を重んじ、人の意見に左右されず、分析的で、客観的価値観を持って、結論をだす。

 グループの決定に個人的にはかかわらない傾向があり、なるべく結果を考えて行動する。

 

 正義と明晰さを求める。よく頑固だといわれる。

●柔軟型(P)型

 さまざまな状況に柔軟に、自発的に、順応性をもって、臨機応変に対処できる環境自分の周りにつくる。

 

 いったん下した決定に固執するのはかえって不安。特定の問題でどんな立場をとっているのか、ほかの人にはなかなか分かってもらえない。

 

 どの仕事をやらなければならないか、ある問題をどう解決するか、今日何をするかなど、だいたいなんでも「ようすを見る」態度をとりたがる。

 

 P型はどんな問題についても結論(判断)を出すよりも、理解しようとする、-つまり、新しい情報いつまでも集めるー傾向がある。

 

 極端な場合、P型は決断を下すことができず。J型はいったん下した決断を変えることがほとんどできなくなる。

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INTP型に向いている職業:

作家芸術家芸人アーティスティックコンピュータプログラマ社会科学者・法律

INTP型:問題を解決したがる

考えにふけってうわの空大学教授を絵に描いたようなタイプがINTP型である。

頭の中でじっくり考える(I型)なので、N型の想像力がいろいろな可能性を思いつく。

客観的(T型)なので、その新しいデータを分析し、際限なく融通がきく(P型)ので、どんなデータもさっそく取り入れてしまう。

論文、図面、計画、企画、提案、理論などなんであろうと、こまごました情報を一つにまとめた完成図を作りあげようとするが、たえず新しいデータ発見するので、その完成図がどんどん膨らんでしまう。

その結果、考えや構想や計画がどんなに最終的なものに見えても、土壇場になって「新しいデータ」が手に入ると変えてしまうのである。

これはINTP型にとってはわくわくするほど楽しいが、ほかの人、とくにJ型の性向を持つ人にはフラストレーションになる。

完璧に見えても満足しないので、みずからが最大の批評家となり、あら探しをする。

完璧、有能、優秀であろうとするあまり、それが極端になると、かえって負担になり、うんざりしたり自分を責めたりする。

このタイプ女性の場合に葛藤を生む。

考えにふける大学教授というのは従来、女性イメージというよりは男性イメージで、頭だけで理屈をこねる資質は、男性の場合は大目に見られるが、女性の場合あまり受け入れられない。

そこで少なくとも三つの問題が生じる。

第一に、女性は昔から、家庭や家族のこと以外では設計能力があるとは見られてこなかった。

だから、人生を頭で考えた理屈にあわせたいと思うのは、INTP型にとっては当たり前なのだが、従来の女性の役割には真っ向から反する。

第二に、独創的に考えるのも従来の女性の気質とは見られていない。

たとえば、時間を聞かれると、INTP型は時間哲学的な意味について述べたくなる。

そうした風変わりな面も男性ならば頭がよすぎるせいだと見られるが、女性だと「鈍感」とか、ときには「頭が鈍い」というレッテルをはられてしまう。

第三に、T型の面が、従順、優しい、気配りといった女らしさに反する形で表れる。

INTP型の女性感情を表にあらわした場合、悪くすると、しばしば極端に表現しすぎて、本人もほかの人もぎょっとしてしまう。

親子関係

INTP型は、親というのは子どもの未熟な頭を伸ばしてやるものだと思っている。

一人ひとりの子どもの違いを辛抱強く受けとめ、子どもには自分の考えをもって生きていけるように育ってほしいと願う。

自分の進むべき道を模索する子どもを驚くほど寛大に支えてやる。

子どもの発達にあまり口をはさまない。

どんな考え方や行動をしたらよいか、いくつか選択できる道を示唆するだけで、けっして押しつけずに、新しい可能性を示してやる。

その助言が受け入れられなかったら、「ちょっといってみただけ」と答えるのがふつうである。

だが、ときには、反抗的だったり無関心に見えるときでさえ、子どもは親が別の考え方を押しつけてくれるのを待っていることもあるのだ。

そういう子どもにとっては、「無理やり」とか「押しつけ」といった言葉とは無縁のINTP型の親を持ったら不運である。

INTP型の子どもは、人とのつきあいで内気と見られるか、逆に、やたらに理屈っぽくつっかかってくるかのどちらかで、その中間は少ない。

学校では、一つのことに集中せず、授業とは関係ないことをあれこれ追求しすぎると見られたり、場違いなときに場違いな質問をすると見られる。

そうした行動は、とくに女の子の場合、人騒がせと取られる。

必然的に、INTP型は学校生活に耐えて生き抜いていくために、誰よりもよく勉強することになる。

2009-10-28

やったらいいとわかってるのになぜかやらないことって、あるよな。

時速80キロくらいで走ってる車から手を出したら、

風がおっぱいの感触だっていうじゃん。

なんか箱の中に送風機があって、

それに手を入れて80キロおっぱい風圧を感じつつ、

上にバーチャルボーイみたいなのぞき穴があって、

それをのぞいたらおっぱい画像が合成されてて、

目ではあたかも揉んでいるように見える。

現代技術があれば、そんな装置なんて、簡単に作れるよな。

人間、目隠ししたくらいでなぜか味がわからなくなるくらいだから、

五感の中でも、視覚重要度はかなり高い。

だから、視覚さえだますことができれば、

多少本物と違っても風圧=おっぱいと思うことも難しくないはず。

まして、本物の感触を知らない童貞ならなおさら。

絶対に、かつてない本物感を演出できると思う。

っていうか、自動車とか電車にそのバーチャルボーイ部分のみ設置して、

手を出す穴だけつけとけばいいのか。

2009-10-09

http://anond.hatelabo.jp/20091008051924

死んでもいいほど楽しいことを味わうためなら

どんなに苦労したって構わない。

後は、偽物を掴まされない様に五感と頭使うくらいかな。

 

疑問を持つのが最初の一歩。

人に聞くのもいいけど、自分で答えを見つけるようがんばれ。

2009-10-06

五感を使った文章

文学少女シリーズを読んで「文学を味覚で表現するって凄いな・・・」と思ったんでそれを他の感覚に応用できないかな、って検討してみる。

視覚は特に「色」に関する表現が有効な気がする。「顔が赤い」、とか「ブルーな気分」、とか。

聴覚は擬音かな。「パッと開かずグッと握ってダン!ギューン!ドカン!」みたいな。

  • 触覚

ちょっと違うかもしれないけど温度が使えそう。「熱い」「クール」なんて日常的に使ってるし。

「草の香り」「土のにおいがする」。花の匂いに例えるのはキザすぎる。


考証が全然甘いけど

意図的に複数使えるよう心掛ければ結構相手の心を動かせる会話が出来るようになる・・・かな?。

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