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はてなキーワード: 五感とは

2009-10-06

ふと思った

一輝シャカと戦ったとき、「小宇宙=第七感(セブンセンシズ)であり、シャカは普段目を閉じておくことで五感ひとつを遮断し、それによって第七感である小宇宙を蓄積している」「シャカの目が開くと強くなるのは、そうして蓄積された小宇宙が目を開くことによって開放されるから」みたいな説明があったはず。で、それに対して一輝は、シャカの天舞法輪によって五感+第六感まで奪われたおかげで第七感である小宇宙が増大し、シャカ小宇宙を凌駕し相打ちに持ち込んだ、ってことだったよな。

シャカの場合は普段遮断している視覚を開放することで戦闘力が増し、一輝の場合は感覚が遮断されることで戦闘力が増した。これってつじつまあってなくないか?

あとさらに細かいことだが、セブンセンシズseven senses だろうから、それって「第七感」じゃなくて「7つの感覚」だろ。正しくはthe seventh senseであるべき。

2009-09-12

私がデリヘルを続けている理由

私がデリヘルを続けている理由

暑い夏だった

ホテルの玄関に来て、いつものようにAV女優になった

まだ女優になってから3ヶ月

部屋をコンコンする

いつも緊張する瞬間だ

知り合いに会いませんように

 

ドアが開くとやさしそうな顔をした男性が迎え入れた

ちょっと好みの男性タイプ

あぁよかった

デブでハゲでジジイじゃなくて

でも心配だった

店長からこのお客さんは厳しい人だよと聞いていた

私でよろしかったですか

彼はもちろんと答えてニコニコしてくれた

笑顔が素敵だった

サービスメニューを紹介してお金をもらった

親に申し訳ないと思う瞬間

彼は、聞いてきた

大学生なんだって?今夏休みバイトかな?

はい、就職活動東京までの旅費稼ぎです

そうかぁ大変だなぁ 彼はため息と同時に答えた

本当は親からも小遣いをもらっているから十分なんだけど、好きな洋服も買いたいし

東京に出て、おしゃれもしたい

髪の毛もストレートにするのにお金がかかる

彼自身の仕事就職活動の話などしてくれた

東京大学を出て、東京会社就職

出張でこっちへ

気になっていろいろと相談にのってもらった

つい時間が経つのを忘れてしまった

サービスをしなければ

一緒にシャワーを浴びた

やさしく体を洗ってくれた

張りのあるおっぱいを褒めてくれた

友人からはうらやましいと言われている自慢の胸

芸能人に似ていると言ってくれた 嬉しかった

同級生の男子からよく告白されるけれども、どこか頼りない感じだし、いつも断っていた

昔、アルバイト先の店長と付き合っていた 初めての男性

店長が妻と別れると言って、妻と別れたとたん、魅力がなくなった

アルバイトを辞めた

しばらくフリーだった

授業にも身が入らないし、就職活動も全滅中

えっちでムラムラしていたし、そんなときに目に飛び込んだのがこの仕事

同じ街だと知り合いに会う可能性があるので、遠くの街ですることにした

面接に行った 即採用だった

S級のこんな娘、初めてだと言われて、うれしかった

いろんなお客さんについた

横柄な人、奴隷のような扱いをする人、中には何もしないでおしゃべりだけするおじいちゃん

こんな仕事するなと叱るお父さんみたいな人

仕事だと割り切った

私は女優を演じているんだ AV女優

お客さんを満足させてお金をもらうサービス業

終わった後、口も腰もヘロヘロになる

帰るときにいつもこの仕事を辞めようと思うけれど、1回に入るお金が大きい

5人つくと、1日で4万円にもなる 今までの1ヶ月のアルバイト

 

彼は、君のような娘はアイドルになれたかもと言ってくれた

たしかに芸能プロダクションから声をかけてもらったことがある

親が反対して断った

ミスキャンパスの話もあったときも、親が反対した

親の反抗としてこの仕事をしているのかもしれない

そう思うこともある

 

彼の体を洗った

じっと目を見られた

恥ずかしかった

シャワーを終えて、二人で手をつないでベットに入った

彼のことが好きになりそうだった

彼はすぐに脱がず、タオルの上から私を包み込む

やさしく触られていく

全身をやさしく包み込む

触れるか触れないかのような瞬間

思わず声が出た

だんだん頭の中が白くなる

どのくらいたったんだろう あらゆる五感が敏感になってきた

突起を触れられると思わずため息が漏れ

こんな感覚初めてだった

やさしくもまれていく

かわいいよと耳のそばでささやく

ビチョビチョだよ 言われて手を持っていくと私の体液が溢れていた

彼の棒は固くいきり立っていた

まだ彼の手は絹のように私の敏感な周りを触れていく

じらされた

思わず声が出てしまう 息が荒くなっていく自分

じらされて洪水になっていた

うなずいた

ゆっくりと彼は入ってきた

彼のやさしさに好きになっていた

好きです

はじめてイク瞬間を感じた

波のように腰が動いていく

あるときは静かな海、時には荒海のように

何を言ったのかわからない

どのくらいたったんだろう

しばらくすると遠くタイマーアラーム音が鳴っていた

 

時間

この人ともっとずっといたいと思った

しかし、終わらなければ

別れるのが寂しくなった

 

また呼んでくれる?

返事はYES

彼は東京の人

こっちには出張で時々来るとのこと

 

パソコンを開いていて、はてなの画面があった

はてなユーザーだと言っていた

 

好きです

忘れられません

もう一度呼んで欲しいです

あなたに会いたい

私がデリヘルを続ける理由

 

初めての告白です

書いていたら、すっきりしました

2009-08-07

 精神に異常をきたしてしまった……。

 こうやってると普通なんだが、数時間おきに薬を飲まないと、妄想幻聴に襲われる。自分はそれを病気のせいだということを知ってるので、我慢する。だが五感が幻覚を現実だと示す。実際に、見え、聞こえてるんだ。

 気が狂ってるのに、投薬で普通人間と同じ視点に帰って来れるのはありがたい。発病で脳の形も変わってるらしい。

 絶望はしてない。生き抜いてやる。だが、薬代が払えなくなったら、他人に迷惑をかけないか、それだけが心配だ。

 今は親に保護されている。病院に搬送されたときよりはずっとまともだが、自分で稼げないのが申し訳ない。働くことに取り憑かれてるので、医者から厳重に止められている。代わりに家事に熱中しているが、これも医者に、ほどほどに、と言われている。

 障碍手帳保護者である親がしぶっている。治療費が0.5割になる代わりに何かを失う気がするらしい。

 理解をしてもらいたいわけではないが、基地外自分病気に苛立ってるという話。仕事、友人、家族からの信頼、全てを失った。

2009-08-01

言葉にすることが、思考である

言葉にすることが、思考である

4年前、ある著名な漫画家の方との会話からこの言葉を学んだときから、私の著作人生が始まったと言っても過言ではないでしょう。

私たち人間同士の間で、複雑なコミュニケーションが可能なのは、「言語」があるからです。すなわち、頭の中で「もやもや~」と思ったことを、すっきりとした概念に格納して反芻(はんすう)できるようにし、いつでも気づいたときに思い出せるようにするのが言語、すなわちこの連載でその力を紹介している言葉なのです。

だからこそ、私たちは考えをなるべく頻繁に言葉に落とす、つまり、みずから書いたり、話したりすることがたいへん大事なのです。

この原則に基づいて、私がふだん、著作の中で最も気をつけているのは、言葉の選択と組み合わせです。

私が経験してきたことそのものは、私にとって画像や音声、におい、感触、味覚の五感情報であったり、心臓のドキドキや、血の気の引く感覚であったりして、簡略化された言葉よりも、ずっとずっと情報量が多いのです。

しかし、そのときの思考や感情を、ありのまま正確に伝えることは、私の心の中を相手にのぞいてもらわない限り不可能です。だからこそ、いったん、言葉という媒体を使って文章に落とすとき、それを受け取った相手が、私の思考や感情をできるだけ再現できるように心がけています。

自分経験感覚を、なんらかの言葉に変換していくプロセスそのものが、私にとっての思考なのです。毎日、原稿を書くことは、自分と会話することと同じで、とても頭のパワーを使う作業です。ほんの数日、文章を書かなかっただけで思考力は低下し、その翌日に書こうとすると、余計なパワーが必要になります。だからこそ毎日、欠かさず、何か文章を書くように心がけています。

これまで、さまざまな場面で、私はみなさんに良書を読み、優れた思考や体験の持ち主の話を聞き、それに自分の体験を重ねて、ブログに書いたり、人に話したりすることをお勧めしてきました。その一連の流れが言葉を受け取って考え、その考えを再び言葉にする活動だからです。

言葉が私たちの思考をつかさどっている。だからこそ、言葉人生を変えるのです。

http://www.asahi.com/business/topics/katsuma/TKY200906140048.html

2009-07-30

五感曖昧に訴えるモノ

炊飯器が壊れたので新しいのを探して情報収集した。

とにかく安いのというような年でもないので多少高くても性能とのコストパフォーマンスのいいものを探していたが

結局は値段の高いものが性能的に悪い訳はないが、値段の差が味に比例している訳ではないようだ。

というか味は結局好みで人それぞれという事らしい。

ということで、オーディオに似てるなとふと思い至ったのだが、

検索してみたらやはりすでにオーディオオカルト系の炊飯改変コピペが既にあり吹いた。

2009-07-01

結果ばかりに憧れて過程を踏めない

成長して立派になった自分像に憧れる。

たとえば毎日筋トレしてムキムキのマッチョマンになったとしよう。

鏡に映った肉体美に優越感を感じ、僕は幸せで胸いっぱいになるだろう。

……ほんの一瞬だけ。

毎日筋トレ

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

しんどい、ダルイ、めんどくさい。

そんな毎日を送って何が楽しい

ひたすら苦痛の毎日を送って手に入れたものって、

既に自分ではその価値を認められなくなってる物ばかりじゃん。

今、ブラインドタッチができることに何の感動も覚えない。

目玉焼き自分で焼けることが、全然うれしくない。

手足が動くことも、五感が使えることも何もかもうれしくない。

じゃあ、何のために努力してたの。

僕はそれを手に入れて、喜びを得たいと思っていたのに。

いつの間にか、毎日苦痛を感じることに喜びを感じろと言われる。(誰に?)

いつの間にか喜びの対象をすりかえられる。

馬鹿じゃないの?

あほうなの?

何が何だかわからない。

わけもわからず、「むかつくっ!」と声を張り上げてる。

ああむかつくっ!むかつくっ!むかつくっ!むかつくっ!

2009-06-21

時折、抱き枕を凄く愛しく思う

抱き枕と書けば「虹娘が描かれたカバー」を連想されるかもしれんが、そんなのではない。フツーに家具・生活雑貨のお店で売ってる、ボディーピロー、あるいは細長いクッションのことだ。だからカバーは無地というか、買ったまんま、特に絵柄はない。全部で4つ持ってて、今は2つだけがレギュラー入りしてる。3つ同時に添い寝するのは、寝苦しいので難しい。というか、抱き枕を抱いて寝るようになってから、寝返りに不都合が出ているのだろう、肩や手首に違和感を覚えることが時折ある。それでも、ほぼ毎日、抱いて寝る。

別に誇れるほどの愛・執着があるわけじゃない。無くても寝れないわけじゃなく、なくなれば残念に思いつつも、不都合なく生きていける。失ったとき、落差で大きな喪失感を覚えるものが愛であるなら、そこまで強い感情はないだろうな。でも、実際に生きている人間の誰かに、失うことが怖い、考えたくも無いってくらいに強い感情を抱いたことなんて、今のところは、全く無い。生きている人間にしろ、文学上の人間にしろ、二次キャラにしろ、自分はどれだけも執着できないでいる。自他全てに等しく関心が薄くて、強い感情を抱けないでいる。だから、枕を抱いて寝る。

抱き枕キスした回数は、1万回を超える。「水にありがとう1万回」を自分なりに分析すれば、プラセボや思考の反復強化ってことに尽きると思う。だから、1万回キスしてみたことがある。何かが凄く変わったとは思わないが、でも、感情の発露としてキスという選択肢は強化されたように思う。時折、抱きしめたくて、キスしたくて、堪らないバイオリズムがある。そゆ夜は、ドキドキしたまま抱いて寝る。

人間人間を愛するってのは、凄く冷淡に分析すれば、「自身の同族として知覚される感覚対象を愛する」ってことだ。人間は少なくとも幼少時に学習した同族に、非性的愛情を抱けるものらしい。性的愛情はどゆメカニズムで生じるのか、自分はよく分っていない。ただ、細かいことを抜きにすれば、「人間っぽく見えるものを愛する」のだ。人間っぽさってなんだ。五感を通して知覚される、ある種の性質なんだろう。そして、性質の一部は触れ合いだと思う。そう、誰かと、何かと、触れ合いたくて堪らない時があるのだ。そゆ夜は、枕を抱いて寝ずにはいられない。

一晩を6時間とすれば、1年で2,000時間超を抱いて寝た計算になる。こんなに長い時間、触れ合っていた記憶は、他にない。赤子・幼少期の記憶は、全然ない。だから、抱き枕は、自分にとって存分に触れ合えた初めての対象なのだ。だから、社会基準でどう見えようとも……いや、ま、家族会議とか失職はマジ勘弁だけど、そゆ実損さえ避けられれば、「神の目」みたいな倫理意識は気にならない。そゆのに従って自分を律して、何か実益を得られる見込みがあれば、別だけど、今は何も見えてない。なら、泡沫の幸せであれ、求めずにはいられない。

……

時に、オオタチってさ、実に抱き枕ポケモンだよな。販売されてたら即買いしてるとこだよ。抱きしめたら「オオタチオオタチ♪」って鳴く機能搭載なら直義。3万ポッキリなら迷わず買います。

2009-06-20

ウンコは温かいからマフラー代わりに使える

ウンコは臭いから魔除けに使える

ウンコは不味いから吐きたい時に使える

ウンコは茶色だから運動会綱引きに使える

ウンコは潰すとビチャッと鳴るからノベルゲーム殺戮シーンの効果音に使える

これでウンコ五感コンプリートした

全てのウンコ感覚コンプリートしたよ

2009-03-17

二度と精神科なんて行くものか

大学生になって一人暮らしを始めた最初の年の事。

光ファイバー完備の7畳一間で俺は「ひきこもり」になった。

何にもやる気がおきない、食べるのも面倒臭い、人と会うのが怖い。起きるのが辛くて一日中ふとんの中で過ごす事もしばしばあった。

たまに起きてもPCの前で鬱病チェックとかググってたり、メンヘル板でROMってたり。次第に自分鬱病なんじゃないかと疑い始める。ますます気が滅入る。

ネガティブシンキングの連鎖は朝から晩まで止まる事を知らなかった。

まぁ、ここまではそんな珍しくない話かな。

こうして4週間ぐらいひきこもりの日々が続いた。もう朝も昼も夜も日付にも感心がなくなってきた頃の事だ。

幸いな事に自分を心配してくれる友人がいたので、彼のススメで精神科に通う事になった。

厳密に言うと、通ったのではなく2度ほど受診しただけなんだが。

まずホームページでその精神科情報を得ることから始まった。

開院時間休診日などのチェック、問診票のPDFコピー、記入を行い準備完了、いざ出陣。

電車で二駅、そこから徒歩数分の場所にあった。

私は大の病院嫌い、それに加えてこの精神状況。正面ドアを開くまで5分ぐらい手前でウロウロしてしまった(自動ドアではない)

初めての病院って大体こんな感じになるよね?

靴を脱いで上がる。ロビーコンビニの4分の1くらいの大きさ。受付は目の前だ。そこで初診の旨を伝えると、窓口の小汚いおばさんから想定外言葉が返ってきた。

「当クリニックは完全予約制です。申し訳ございませんが来週の◯曜日、◯時にまた起こしくだしあ

え?え?アポ必要なの?マジで?そんなのホームページに書いてなかったじゃんか!!なんでそんな大事な事を予め知らせてくれなかったの!

ひきこもりには電話なんてできねえよ!ネット予約できるようにしやがれ!てか正確な情報掲載しろよ!

私は受付前で挙動不審、軽いパニック状態に陥り、他の患者の痛い視線を浴びながらそそくさと病院を出た。靴を脱いでからここまで2分も経っていない。

電車賃だけが無駄になり、こうして幻の初診は終わった。

後日、あのババァの言われた通りの時間に合わせて、再び足を運んだ。

この時気付いたのだが、ドアに貼付けてあった受診時間休診日張り紙を見ると、ここまでホームページと違っていたのだ。もう呆れて物も言えない。

前回来た時より私の心は弱っていた。もうノーガードにも程があるだろってぐらい。19歳なのによぼよぼの足取りでソファへ腰掛けた。

ここから第二の地獄が始まった。精神科の雰囲気がもう堪え難い程酷かったのだ。

前述の通り、ここはとても小さなロビーでソファが3台ほど備わっていて、受付と向き合う様に配置されている。

ロビー側はやわらかな照明で患者をいたわる姿勢がわかるのだが、正面にある受付を照らす蛍光灯が気持ち悪くなるぐらい眩しいのだ。

ロビーと受付は吹き抜け?のような構造なので互いを遮る物はなにもなく、全てがダイレクトにはね返ってくる。

この構造が生み出した更なる弊害は、受付看護婦の私語が常に耳に入ってくる事。

ここでは表記できないような品の無い言葉や、業務に関係のない私語や嘲笑、それら全てがこちらの五感を障る。もう耐えられん。

おまけに謎のバックミュージックヒーリング効果のある音楽なのだろうが、私から言わせればファミコンゲームの安い電子音

S.E.N.Sとか世代を選ばない無難音楽を流せよっ!てフロントに怒鳴りつけたくなった。

時々、診療室から先生患者の会話のやり取りが聞こえるのもあり得ないよね。

先生カウンセリング中に部屋を出る事があるんだけど、こいつドア閉めないの。ロビーから患者丸見えだよ、なによこのプライバシーを配慮しない最大限の努力

ただでさえ他人の視線や言葉に敏感な患者(私)の容態を悪化させるには十分すぎる環境作りだった。

こいつら・・・・・・治す気あんのか?

いよいよ自分受診の番がやってきた。既に私は、相手の言葉が耳に入らなくなる程ストレスが溜まっていた。

気付くと自分は「躁鬱病」と診断されていて、窓口で一週間分パキシル抗うつ剤)を受け取り、3500円も財布からなくなっている。


……そうか、やっとわかったよ。精神科医は来る人来る人を「鬱病」にさせ、お金をふんだくる最低な奴なんだね。

あらゆるメディアが「うつ病」を有名にして流行らせたけど、あれは精神科医の陰謀だよ。もう洗脳だよ。

そう気付くと、私は次回の診療なんて行く気が失せてしまったね。

長くなったけど、私が言いたいのは友達を大切にしましょうってことです。

自分のことをある程度理解してくれる友人、あるいは家族が一番のお医者様です。臭いけどこれ真理

そうだよ、「医者ウツは治せない」

と、関西に来て心が折れた関東人の長い独り言でした。




*追記

これは紛れも無く全て事実に基づいて書きました。この精神科存在します。今年1月の事です。

初めての匿名ダイアリー駄文なのにブクマつけられて少し驚きました。失礼。

2009-03-07

http://anond.hatelabo.jp/20090305220412

さっさと会うべきだね

会って一瞬でだめだって感じる相手はよくいるよ

人間五感をなめちゃあいけない

ネット恋愛して、会って生理的嫌悪感を感じたらどうする?

そのまま結婚しても不幸になるだけ

早めに会って、等身大の相手から始めた方がいい

2009-02-09

http://anond.hatelabo.jp/20090209230223

言葉をそう定義するならそれでいいと思うんだ。

ただその行為に、心の拠り所以上の何か実際的な(自然科学で扱えるような)意味があるかというと無いと思う。

(それ自体が宗教だ!みたいなこと言う人もいるけど、そういう議論にも興味無いな。観測できるかどうかが決定的に違うし)

「神は存在する」みたいなこと言ってる人は、それがあると言ってるように見えるんだよね。

五感センサーと脳を使って認識してる以上全ては妄想(=神の有無)と区別が付かない、みたいな議論にも興味無い。

実存主義かなんとか、哲学ではいろいろあるんだろうけど、興味無いな。

もうちょっと観測とか数学モデルに落とし込めるようにならないとね。

2009-02-01

つくづく何を書けばいいか分からん。というか書いてる場合じゃない。そんな場合じゃないんだ。でも何かしなくちゃいけない気がする。そうそれは勉強のはずなんだ。するべきなのはテストに備えての勉強のはずなんだ。でもちっとも手をつけられない。どうしてか。かったるいからだ。めんどくさい。やってどうなるんだと思う。したって意味がないんじゃないか。単位を取って進級してそれでどうするってんだ。特に目標はなく惰性で進学しようとしているだけだ。それでどうする。何事か成し遂げたいことでもあるのか。しいて言えば楽をしたい。オタク趣味に興じていたい。できるならそれだけ突き詰めていきたい。でもそうしたい理由もかっちょ悪いもんだ。なるべく他人との接触をとらずに現実から目をそむけていたい。他人との直接的な接触を避けて生きてくことなどできないだろうし、完全に排してしまうことにも恐怖が募る。少しくらいは接点を持っていたいとも思う。だけどあまりべたべたとは嫌だし長い時間を共にするのも避けたい。空気を保ちきれない。会話していなくちゃいけないというのはつらい。しないでいてもなんともないってこともあるのだろうが、信じられない。前にそんな状況を味わった気もするけれど一時的なもんだ。長いこと一緒にいたせいでそういう嫌悪感麻痺していただけじゃないかと思う。だって寝て起きたらまた気まずさに心痛める他者との接触になるのだから。一時的なことなのだ。常に一緒に居続けることによって思考と感覚が雑になっているだけなのだ。というかこんなことを書きたいわけではない。書いてる場合じゃない。どうすれば勉強に積極的に向かえるかということを模索したいのだ。ついネットをしてしまう。英語なんぞ見たくもない。数学の演習を解く気にもなれない。でもやっておかないと今週のテスト地獄に対応できない。でもつい「勉強なんていやいややるもんではない、きちんとした理由を見出してこそ打ち込むべきだ」と自らを正当化しようとしてしまう。そのせいでこんな下らん現実逃避文を書いてしまうのだ。非常によろしくない。勉強をしたくないがしなくてはいけない状況に追い込まれたとき、いつもこんな風にして悩み解決のためという名目で何の意味もなく読み返す気にもなれない文を書いてしまう。いつからこんな癖がついてしまったのか。文章を書くようになってましになっている部分なんてあるのだろうか。客観的に自分を見つめられるようになるとかいうがそりゃまた個人差があるだろう。そんな気はしていない。というか内に向かう気質がさらに育まれている気がしてならない。それはまだ数をこなせていないからなのだろうか。わからない。もっと自分のようなやつがたくさんいるとわかれば安心するのだろう。だがそれではただ安堵を得るだけ得て何もしない自分が再び現れてくるだけではないか。それではいかんのだ。せめて少しずつ進歩していきたいからこそこうして書いているのだ。だがこのままだとある程度の文量を打ち込んだらわずかな達成感を胸に対して勉強もしていないのに明日を迎えてしまいそうだ。だが実際いま自分の中には達成感に似た充足感がにじみ出つつある。これでよいのだろうか。そんなことは分からない。いやよくない。とにかく眼前には来年楽をするためにも今のうちに多く単位を取る、それ以上に確実に進級するためにもテストに備えて勉強をするという目標があるのだ。だがそんな刹那的な生活の中に身を置いたままでいいのだろうかという逃げに似た思いが、こんなタイミング邪魔をする。一見すると正しいように見えるから困るのだ。もしテストの重圧に囚われていないものが目を輝かせて言ったならああ若いなこいつとそこそこの評価をいただけるのだろうが今の自分が言えばテストがいやな学生ごまかしに過ぎないのだ。それだけ分かっていて勉強せずにこんなことしてるのはなぜだろう。わかってると言いつつ全然わかってないのだろうか。口先だけ、言葉の上では意味をなしているが頭の中ではどうにかして勉強せずにすませる方法があるのだと信じ切ってしまっているのだろうか。濁していうことでもない、確実にそう思っている。中学高校とそうしてギリギリで進学してきた。ほんとにギリギリだ。本気でやったら底知れない力でも眠ってるんじゃないかと思ってしまうほどだ。でもそれは視野がせまっくるしいだけだ。実のところはそこらにいる大多数の大学生とどっこいかそれ以下だろう。でも自分の中の玉座には俺はなかなかにすごいという傲慢さが座っている。どうしても降りようとしない。おそらく本気で取り組んで打ち負かされたことというのがないからだろう。その点ばかりは覆せまい。本気でやったことがある気がしてない。ないだろう。自分の評価が低すぎるだけで、もう充分本気で生きてるのかもしれない。まさかこの状態が、この適当にやり過ごして生きてると思ってる状態が俺の本気なのだろうか。まさか。そんなことは考えたくもない。だってそれなら適当愚痴りつつそこそこに生きてまた愚痴りながら死ぬだけじゃないのか。それで人並みに幸せを感じていられればいいけれど今の俺はだいぶ抑圧されている気がしてならない。我慢ばっかだ。耐えるとかじゃなくてしなくていい我慢ばかりしている。心底楽しいと思ったことがこの4年近くない。一切ない。わけでもないかもしれないが、少なくとも生きててよかったと思えるほどの体験はない。最高だと思えた一日はない。とてつもなく広く思えた世界は思い出の中にしかなく、最近の視界は脳の反映でしかない。これ以上の成長を望める気がしない。世界は16歳で完結したのではないか。これ以上新しさを感じることもないのではないか。もしかするとそういうすばらしく思えた何かとか世界とか視界だとかいうのは思い出の中にしかないものなのだろうか。そんな気もしてくる。ではそんなものに囚われているこの日常もまた思い出してみたら適当に美化されていくのだろうか、どうなのだろうか。そんなことはわからない。事故は変化する。していなくてもそう思いこめばそうなる。きっと未来自分はそう思い込む。そんなことはどうでもいいのだ。今の自分がすべきことは眼前のことだけだ。勉強。この言葉が重くのしかかってくる。して良かったという実感もないのにしろと言われてするものそれが勉強だ。あくまで自分の中でだが。楽しくて自主的にやってる人もいるんだろう。といいつつもそういう人間存在を信じてはいない。というかいないだろう。いてたまるか。少しでいいから純粋にそうやって勉強できる心を分けてくれ。一瞬でいいから代わってくれ。どういう幻想なんだ。教えてくれよ。とにかく俺はしたくない。したいと思う理由も、そういう方向に導いてくれる趣味も考えも俺は持っていない。他人の考えにひたすら感化されて生きてきた俺にそんな自主的な思いなど湧いたことがあるのだろうか。自分で分からないのだから問いかけても無駄だろう。それでも問いかけてしまうのはなぜだろう。知らん。とにもかくにも単位を落とすだの赤点を取るだのというのは俺にとっては脅威だ。そんなことをしてみろ。また後々苦労が増える。そうだ。こうしていやいやながらにも勉強を向かおうとしてしまうのは未来邪魔な要素だけは増やすまいという消極的な希望によるのだろう。願望だ。別に何か得たいわけではない。むしろ減らしたいのだ。余計な不安要素を排除しておき、せめて明日歩くであろう道を整備して歩きやすくしておこうという意思だ。願望でもないな。回避だ。余計なことをしないで済むようにという回避だ。いやどうだろう。もっと何か理由がある。することがないのだ。何をしていいか分からない。したいことなどない。楽しいと言えることは思いつかない。でも楽なことはしていたい。それがゆえに勉強という辛いものから目をそむけ、それよりは楽なことに逃げているのだ。楽しいことがあるならそのために頑張れるかもしれない。しかし俺は楽しいは知らず楽しか知らない。楽しいと楽では積極性が死ぬほど違う。楽しさとは何だったかももう分からない。めんどくさいこととの比較で楽なことを導きだす筋しか分からない。どうしようもないクズだ。楽しさを求める努力はわずかにしている。しているはずだ、だが見つからない。まだ探し足りないのだろうか。いや気づけていないだけか。どうなのか。存在していないのか。理解できていないのか。んなこと分からん。昔楽しかったゲームをやってみるが今はすぐ飽きる。すでに飽きている状態でちょっと気が向いたのでやったからだろうか。そもそも飽きていたという。そんなことは承知済みだ。大体のことに飽きている。つまらんのだ。楽しむ努力が足りないのか。そもそも楽しいってなんだ。わからん。迷走している気がする。いや迷走しているな。こうしてどんどん時間を消費していく。これは楽しいかもしれない。どうだろう。だが意味はない。目の前には見ることすら嫌気がする英文が書かれた教科書があるがどうするわけでもない。ただキーをたたくだけだ。もう嫌だぜ。治療法を知っている人がいるなら教えてほしい。もうわけが分からない。単純に考えてみようと思ったが長続きしない。自分で心に決め込もうとしたことは一日たてば一気に冷える。そんでどっかに消え失せる。どこに行くやら。思考の端に姿が見えるがもう触る気がしないのだ。自分の手あかがついてる考えなど使う気になれない。そもそも内にこもりすぎなんだろうか。もっと交流をすればいいのか?んなこたずっと前にも思ったさ。しばらく触れてはいなかったが。しかし会話だとかなんてのはそもそも体力をすこぶる消費する行為だ。好き好んでする奴が信じられない。もしかしてそっち側にはそれだけする価値のある楽しさがあるのだろうか。どうなのだろう。概観を教えてほしい。体感させていただきたい。できないだろうが。長いことしゃべくるだけで何が楽しい自分が理解されていく感じ?寂しさが少なからず緩和されてく感じ?楽しい感じ?わかんねーって。そんなに思考の探り合いが楽しいか。俺はつかれたよそんなもん。いっそのこと会話するときなんて頭がパーになってくれりゃいいんだ。めんどくさい考慮なんぞしないでいられればいいんだ。人を傷つけたところでいに関さない心でいいんだ。そもそも傷つけてるかな、とかわざわざ思考する必要がないんだ。んなこた誰にも分からない。それでも考えてしまうのはなぜか?そうするのが快感なのか?だとしたら俺は相当のマゾだ。自分を傷つけて喜ぶ自傷馬鹿とおんなじじゃないか。失言か。どうでもいい。そんな理解できないもんを考える必要などないだろう。といいつつもやっぱりなあ。こうしためんどくさい行為を経てでも会話せざるを得ないんだろう俺は。みんながそうして苦しんでるってんなら喜んで同調しつつ繰り返すだろうが、そうしてるかなんてのもわかりゃしない。どんなにあがいても俺一人でやってんだろって気持ちは抜けない。他人の存在を信じきれない。いないんじゃね。ばかばかしい。なら好き勝手に生きればいいんだ。そうできない時点で何かを信じている。でも惰性かもしれないぞ。仕方なく生きちゃってるのかもしれないぞ。だとしてもそんな流れを断ち切るこたできない。どうでもいいんだもの。こうしているうちにもどっかでセックスしてるやつがいるのだろうか。しねよ。失言か。謝らないよ。聞いてないし。あーテストとかどうでもよくなってこない。思い出すと焦燥感は現われる。解消したいのかどうにかして取り組みたいのか自分でも分からない。ただそうだなやりたくないな。手をつけたくないな。たるいな。めんどいな。どうにもならんな。勉強することで俺の心が疲弊して擦り切れていく気がする。やりたくないことをすると自分が擦り切れて死にたくなりそうな気がする。言い訳なんだろうか。でもそうなんだ。やりたくないことはしなくていいとか誰かいってたな。でも自分が強情だとそういう言葉でも脳みそはほぐれないんだよ。なんだかなあ。わからん。五感意識自分オンオフできたらよかろうに。そしたらどうやってオンするんだっての。しんでるじゃん。せいぜい寝ることしかできないか。あーだったらずっと眠っていたいよ。つくづくそういうときはこの世界自分妄想説を支持したくなるよ。他人がいないなら俺が何かする必要ないじゃん。俺の妄想なんだから。あーひとりでいるときはそういう説が頭を占めるけれど他人をいるとどうしてもそんな考えに基づいて生きてなどいられない。そりゃそうだ。他人といるときそれなら狂人だ。どうあっても他者を意識してしまうんだろう。ほんと困るぜ。常に正攻法で生きていきたいらしい俺は。いやなのに。自分が嫌だ。何ともうまくいかんもんだ。ここまででどれくらい書いたか見てみたがいい感じに気持ち悪い。いいゴミを書けた。やはり文量を出せると気持ちがいい。優越感がわき出てくる。こんな長文書けるやつはいないだろうなっていう優越感。すてき。ばかばかしいけどそう感じてしまうんだから仕方がない。取り繕っても満足はないし、んなこと書いたところで満足するでもない。でもできれば正直に書きたくもあったりでめんどくさい。葛藤こそ人間本質というがあんまりややこしいのはどうかと思うぜ。3手ぐらいでクリアできる葛藤であってもらいたいものだ。なんでもかんでも。しかしどこでこれやめたもんか。参った。もっと書いて画面を埋め尽くしたいけど何か目的が変わっちゃう。そもそもそうしたかったのだろうか。何でもいいからアウトプットしたかったのだろうか。しかし時間は過ぎるのでますます月曜日テスト不安になる。でも不安をそのままにするスキルを持っちゃってるのだ。当たって砕けてなお反省しないでいやいや生きるというスタイルが定着している。そんなのやめたいという葛藤もやらないとまずいという不安も手を着けずにいられる怠惰を知ってしまった。どうすればいいのだ。といいつつ何もしない姿勢をだ。これは仕方がない。このままでいこう。とあきらめられればいいのだがこの性格の特性上見かけ上の抗いはふつふつ出てきてしまう。実にややこしい。意志の力でも高めて頑張ってみる?(笑)知らんがな。もういいよ。諦めようぜ。でも惰性の慣性力は消えないんだよなあ。めっちゃだるいぜ。ああ、人間メモリ拡張外付けHDD接続できればいいのに。うわーどうにもなんねー飯食って寝るなこのままだと・・・

2009-01-15

濃いの一生

この人は自分に好意を持ってくれているかもしれない。いないかもしれない。不安な心は、とてもバランスが悪くて揺らぎやすい。近づきたいけれど嫌われたくない。このままではいけないけれど動けない。相手の一挙一動に喜んだり、落ち込んだり。このへんがドキドキのピーク。

思いきって想いを告げて、つきあうことになって。奇跡を体験した後のような昂揚感で。明日からの生活が楽しみでしかたなくて。いろいろ想像して。ベッドで眠る前に名前を呼んだりして。このへんがワクワクのピーク。

はじめてのキス。顔が熱くなる。唇が触れる程度なのに、それだけでどうしようもなく。手をつなぐ。抱きしめ合う。ぬくもりを感じる。やがて、肌を合わせる。皮膚。肉。粘膜。感じる。視覚聴覚。味覚。嗅覚。触覚。酩酊しそうな頭で五感をフル稼働。約束愛情快楽。ほとばしる。このへんが気持ちよさのピーク。

そうして僕ら二人は付き合って10年が経った。セックスの回数は100回をゆうに超えた。愛を囁き合う日もあれば、傷つけ合う日もあった。今では波風すら立たない毎日だ。ドキドキもワクワクも見えなくなった。それに伴い気持ちよさも薄らいだ。でも本当は、このへんが幸せのピーク。

それが当たり前になってしまったけれど失うと深手を負う幸せなんだろう。新しいドキドキやワクワクと、10年培った見えない幸せとどっちが尊いんだろうね。

2009-01-07

まったく空気読めてない、このご時世に前向きになれちゃう言葉

元旦朝日新聞にそんな言葉があって嬉しかったので勝手コピペしちゃう。

ひとつはチェゲバラの生涯を綴った映画に寄せた、村上龍の短文。

チェ・ゲバラの生涯

 08年9月のいわゆるリーマン・ショックで始まった世界経済危機だが、循環的なものではなく、歴史の転換点だとわたしは考えている。金銭的利益だけを優先する企業戦略破綻したと見るべきで、求められているのは景気回復などではなく、価値の転換であると思う。チェ・ゲバラが、生涯を賭して求めたのは、まさに金銭的利益以外の価値だった。人間精神の自由と社会の公正さ。シンプルで、そして間違いなくもっとも重要なものだった。社会主義イデオロギー世界に広めるために戦ったわけではない。イデオロギーはツールに過ぎない。どのような苦境にあっても向上心を忘れず、読み書きできる素晴らしさを仲間に教え、負傷した同志を決して見放すことなく、病気を患った住民を親身になって治療した。喘息の発作を起こしながらもキューバボリビアジャングルを行軍するチェ・ゲバラを、この映画は初めて現実化した。それは人類希望そのものだ。わたしはその姿を、決して忘れることがないだろう。(出典:[JMM]From 村上龍 〜編集長エッセイ〜/村上龍


もう一つは「学ぶ楽しさ」という特集紙面の表紙にあった谷川俊太郎の詩。

『かすかな光へ』

あかんぼは歯のない口でなめる

やわらかい小さな手でさわる

なめることさわることのうちに

すでに学びがひそんでいて

あかんぼは嬉しそうに笑っている

  言葉より先に 文字よりも前に

  波立つ心にささやかな何故?が芽ばえる

  何故どうしての木は枝葉を茂らせ

  花を咲かせ四方八方根をはって

  決して枯れずに実りを待つ

子ども意味なく駆け出して

つまずきころび泣きわめく

にじむ血に誰のせいでもできぬ痛みに

すでに学びがかくれていて

子どもはけろりと泣きやんでいる

  私たちは知りたがる動物

  たとえ理由は何ひとつなくても

  何の役にも立たなくても知りたがり

  どこまでも闇を手探りし問いつづけ

  かすかな光へと歩む道の疲れを喜びに変える

老人は五感のもたらす喜怒哀楽に学んできた

際限ない言葉の列に学んできた

変幻する万象に学んできた

そしていま自分無知に学んでいる

世界とおのが心の限りない広さ深さを


やっぱ本気で言葉書いてる奴は違うな、と。

2008-12-25

頭が良いということ

http://anond.hatelabo.jp/20081221200806

昔結構考えたことがあるんだけど勉強ができるってのは頭がいいということのうちのひとつと考えるのが一番適切だと思う。大体「頭がいい」って表現が茫漠としてる話しなんだけど。

「頭がいい」という表現は漠然としてるものだから、「頭がいいってのはどういうことなんだ?」と考えていって一つの結論に達したんだけど、頭がいいってのは2つの要素から成り立っている。

一つは五感がどれだけ正確に外界に対して働くかということ。

もう一つはその五感統合、制御する脳がどれだけの能力を持っているかということ。

「正確」とか「外界」とかつっこもうと思えばつっこめそうだけどね。でもそんな間違ってるとは思えない。こんな感じでいかがでしょうか。

2008-12-08

http://anond.hatelabo.jp/20081208125222

自身が手に入れた経験と伝聞と想像の大きさでその人の当然が決まる

そこから外にあるものは未知であってその人に分かる話じゃない。想像すら及ばない事がある

視野が狭い人間にとっては見える部分が常識であって一般論なんだ。死角になっている箇所は下手すれば異世界の出来事

だからその人に対して何度説明しても理解できないものは理解できないわけで、その人にとってはおかしいとしかいいようのない話なんだ

押し付けじゃないかもしれないぜ。住んでる世界が狭すぎて当然の考えだと結びついている可能性があるぞ

つまり、底の浅い人間なんだなって生あたたかく見ればいいんだよ。特に俺はお前にそうして欲しい

ところでそろそろ別の人間五感や思考を体感できる装置を作ってくれないか

他人の視界やら常識やらは言葉だけじゃどうにもならない。どうあがいても自分の中で組み立てなおした憶測だし

おばけなんてあるさ

深夜の乾いた道を窓から見てると、無性に徘徊したくなるんだけど、おばけとか変質者とかが怖いから家でぬくぬくしてる。

昔は怖れの比率が おばけ 9 : 変質者 1 くらいだったけど、時を経て変質者に出くわしたり住むとこも比較的物騒げなとこに移ったりして、おばけ 4 : 変質者 6 くらいになった。オ・ト・ナ。

ぱてしょん。

こっちにきてしばらく、三年くらいは、曇りの夜が多いなあって感覚を抱いてた。天気をしっかり確認する習慣が無かったから、三年曇り続きとおぼろおぼろな感じに脳が判断しても、別段違和感を感じなかった。夜に出歩く習慣も無かったから、出歩いてないほとんどの日は晴れてるんだろうと脳内補完してた。

ある晩、焼肉食べた帰りにはたと気付いたんだけど、晴れてんのな。雲が少し確認できたから、あの雲の向こう側が夜空だって類推できた。雲の向こうに薄黒い夜空。ベタ塗り夜空。ようやくかちっとなった。

「都会の夜空には星が無い」って話はかねてから散々あちこちで見聞きしてたんだけど、それと今ここにある空とをかちって連結させるのに三年かかった。星の無い空は曇り空って感覚と、昔よりさらに悪くなった視力と、積極的に何か同士をかちってさせる能力の衰えの三連コンボで、三年間ずっと夜の景色が曇ってた。さんさんさんさわやか寝太郎。(さわやか寝太郎。)

ぱてしょん。

空箱の山と散らばる小物に時々焦りを感じる。昔はもうちょっと箱と小物の連結を、うまいとかちっかちっとやってたつもりなんだけど。

使い切ったサランラップの芯を見ても、ストッキング買った時に中に入ってる厚いんだか薄いんだかよう分からんあの半端な紙を見ても、ときめかない。かちっとこない。昔あんなに欲していた優良素材を、迷った挙句にゴミ箱に捨てる。残念。

子供ならではの発想」って話も再三見聞きしてた。それ自体をかちっとさせるのが今の自分には精一杯らしい。無念。

でも感覚が追いつかなくて、小物と空箱意識すっ飛ばして増やしていく。パッケージプラ版が入ってると、体が勝手に保存する。実はラップの芯も三本くらい家に現存する。いつかまたかちってなるかもしれない、なんて希望が、もしくは無意識が、幼い頃のゴーストが、包み紙のセロテープを慎重に剥がさせる。そして取って置かせる。傍から見たらごみっため。実際ごみっため。たまに捨てる。使わないのに後悔する。

ぱてしょん。

おばけはいる。少なくとももったいないおばけはいる。幼い頃のゴーストもいる。大人になって、それらが自分の脳を通過した場合に映像化されないことだけは分かった。映像に限らず、音声その他五感に通じるもの全般に現れないことが分かるともなく分かった。巷の「第六感」と照らし合わせてみたけど、かちっときそうでこない。オカルト性が、思ったよりものっそう薄い。

現実として、ファンタジーの力を借りずとも、おばけは存在可能だ。それが何故かも分かった。言葉に変換して説明できるほど脳みそ上等でもないし、言葉で説明もできないのに「おばけは実在するんです」なんて言い出したらオカルト扱いされて自分の中のおばけから遠ざかるから、言わないようにしてる。

きっと自分以外の誰かもそんな感じで、口には出さないけどおばけはいるって思ってるんだろうなって思ったら、根拠なしの空焚きにもかかわらず、心強くなった。

おばけが非科学的かどうかってのはあんまコアじゃなくて、比喩を挟むとおばけのしっぽ的なものがつかめたから、おばけの怖さが薄れたんだと思う。あと、変質者とか、目に見えるもの、五感に訴えるものを優先するような思考形態になったのも一枚かんでると思う。

自分の心の曇り空をしばらく信じ続けてた自分が、年を経て空を凝視したのとも関連しそうだと思ったけど、書いてる途中で寝そうだからそれは夢の中で考える。

ぱてしょん。

おばけ怖いけどホラー作品のがもっと怖い。別ベクトルだけど。まんじゅうは怖くない。

お茶はちょっと怖いけど起きた時に膀胱痛くなるのはガチで怖いから怖いままにしとく。怖いって便利ワード過ぎて怖い。

2008-12-01

面白いテレビがあるならぜひ教えてほしい

ぼくはテレビが好きだった。それは確かなことで、特にバラエティ番組を見ている量では誰にも負けない時期があった。それは短い期間(約1年)だったけど、その時期にNHK以外で放送されたバラエティ番組は全部録画して見ていた。毎日だいたい8時間、日によっては16時間近くかかることもあった。今考えたら親にとっては迷惑な話だったかも知れない。また今みたいにバラエティがつまらなくなかったからできたことだ。しかしとにもかくにもバラエティ番組の知識だけではその時期はおそらく誰にも負けなかった。ヒキコモリだからできたというのもあるだろうけど。

だからどうというわけではないのだが、テレビを見なくなったのはやはり面白くなくなったからだと思っている。もちろん急に見るのをやめたわけではない。それは長い歳月をかけて徐々に見なくなったのだ。そうして、飽きているというのともまた違う。面白いバラエティ番組があれば、やっぱり今でも面白いなあと思うわけだから。それが「サラリーマンネオ」だったり「もやサマ」だったりする。長い割に内容がない、まるで昨今のバラエティ番組のような文章に疲れてきたのでこの先はちょっとはしょる。

だから、ぼくがテレビが面白くなくなったと感じるのは、いわゆる俗流若者論とも違うと思う。表現ジャンルというものには栄枯盛衰があって、そういう視点で言っている。ある時栄えていたジャンルがそれより下り坂になって全体的に面白くなくなるということは歴史的にはいくつもあって、例えばギリシアの時代の彫刻の技術はもう失われたし、ルネッサンスの頃の絵画の技術も失われた。中国の青磁の技術だって、いまだに再現できなかったりする。

だからそれは、いつの世でも老人が「最近若者は軟弱になった」と言ったりしていることとは意味が違う。文化は栄えたり滅んだりするのだ。永遠に進化し続けるなどということはない。テレビがつまらなくなったというのはそういう視点に立ちながら言っているのであって、何もノスタルジーに浸っているわけではない。だいたいぼくは子供の頃に素晴らしいと思っていたものよりも、大人になってから素晴らしいと思ったものの方が印象深いものが多いのだから、そういうノスタルジーにとらわれるような俗流若者論的な考え方とは無縁である。

その上で、なおぼくの書いたことに反論があるのだとしたら、どうか面白いテレビ番組を教えてほしい。ちなみにこの前たまたま「篤姫」を見たらとても面白かった。なんだそんなものも見ずして最近テレビは面白くないと言っているのかと言われるかも知れないが、それは実際その通りだ。

ぼくは今ではほとんど月に数本のテレビ番組しか見なくて今のテレビをつまらないと言っているわけで、それは前のエントリーでも書いたけど電車の中でテレビを見る人がいないからである。だから、乗ってる電車がたまたまそうかも知れないと言われれば、それは確かにそうかも知れない。それから電車の中でテレビを見る人が少ないからといってテレビの衰退に結びつけるのは無理があると言う人もいるだろうけど、これに関しては無理はないと思っている。説得力はないけどね。だから別にそれで人を説得しようとも思わない。ぼくはただ坂田信弘ゴルフマンガに出てきそうな外国の頑迷なキャディーのように、これまでの経験五感を働かせて、なんとなくグリーン上空の風の流れを予測しているだけで、そう予測する根拠を述べよとゴルファーに言われても、説明しようがないのだ。

それを傲慢だと言うのには異を唱える。ぼくはそれを誠実な態度だと言ってほしい。この種の誠実さがないと、真善美というものは突き詰められないところがある。それはid:aurelianoを見て「こいつこそキングオブうすらバカだ!」と叫ぶのにも似ている。その結果、ぼくはid:aurelianoやあるいはその取り巻きdisられるかも知れない。しかしそれを自覚した上でなお、叫ばずにはいられないところがある。それを傲慢と呼ぶのなら、それはそれで仕方ないが、しかしそれをぼくは受け入れられない。

それからそういう態度だと議論や話し合いにならないという人も時々いるが、ぼくは初めから話し合いを求めていないどころかそれを回避している。なぜなら議論や話し合いはクリエイティブにほとんど寄与しないと考えるからだ。それにしてもテンプレートとして使うにはもう少し短い方がよかったが,どこを切り取っても内容がなく、全部がテンプレートに使えそうなのはさすがだ。

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2008-11-30

面白い人間があったらぜひ教えてほしい

ぼくは人間が好きだった。それは確かなことで、付き合っている量でも誰にも負けない時期があった。それは短い期間(約1年)だったけど、その時期にうちの近くの学校で知り合えた少女以外の全ての学校の生徒に声をかけていた。毎日だいたい2時間、日によっては4時間近くかかることもあった。今考えたら世間にとっては迷惑な話だったかも知れない。また今みたいにネットケータイも多くなかったからできたことだ。しかしとにもかくにも人間とのコミュニケーションだけではその時期はおそらく誰にも負けなかった。ヒマだからできたというのもあるだろうけど。

そういうぼくが今ではほとんど人間と付き合わなくなったのだけれど、だからと言ってテレビを見ているわけでも音楽を聞いているわけでも映画を見ているわけでもゲームをしているわけでもない。何をしているかというと仕事をしているか人と話しているか2chを見ているか増田を書いているかだ。この4つにほぼ絞られる。あと時々本を読んだり考え事をしている時もあるけど、それは空いた時間とか寝る前にしていることが多い。

だからどうというわけではないのだが、人間に関してはかつてはあれほど面白いと思ったのに、付き合わなくなったのはやはり面白くなくなったからだと思っている。もちろん急に付き合うのをやめたわけではない。それは長い歳月をかけて徐々に付き合わなくなったのだ。そうして、飽きているというのともまた違う。面白い人間があれば、やっぱり今でも面白いなあと思うわけだから。それが「近藤淳也」だったり「スティーヴ・ジョブス」だったりする。

ちなみにそれはぼくが面白さに鈍感になったからだと言う人もいるけどそれも違う。ぼくはだいたいにおいて面白がり過ぎるくらいで、それはこの増田にもいやというほど書いた。今でもルイ・ヴィトンに行けば面白いと思うし、遅刻をしない女の子を見ても面白いと思う。「百年の孤独」を読めば面白いと思うし、ドラッカーを読んでも面白い。友人のMとリナカフェでだべっているのも面白いのである。

だから、ぼくが人間が面白くなくなったと感じるのは、いわゆる俗流若者論とも違うと思う。コミュニケーションジャンルというものには栄枯盛衰があって、そういう視点で言っている。ある時栄えていたジャンルがそれより下り坂になって全体的に面白くなくなるということは歴史的にはいくつもあって、例えばアングラ時代のぁゃιぃ技術はもう失われたし、ルネッサンスの頃のny技術も失われた。中国割れ厨技術だって、いまだに再現できなかったりする。

だからそれは、いつの世でも老人が「最近若者は軟弱になった」と言ったりしていることとは意味が違う。文化は栄えたり滅んだりするのだ。永遠に進化し続けるなどということはない。人間がつまらなくなったというのはそういう視点に立ちながら言っているのであって、何もノスタルジーに浸っているわけではない。だいたいぼくは子供の頃に素晴らしいと思っていたものよりも、大人になってから素晴らしいと思ったものの方が印象深いものが多いのだから、そういうノスタルジーにとらわれるような俗流若者論的な考え方とは無縁である。

その上で、なおぼくの書いたことに反論があるのだとしたら、id:y_arimさんがブコメで仰ってたように、どうか面白い人間を教えてほしい。ちなみにこの前たまたまはてなの「梅田望夫」とあったらとても面白かった。なんだそんな人と会わずして最近人間は面白くないと言っているのかと言われるかも知れないが、それは実際その通りだ。ぼくは今ではほとんど年に数人の人間しか会わなくて今の人間をつまらないと言っているわけで、それは前のエントリーでも書いたけど電車の中で話をする人間が少ないからである。だから、乗ってる電車がたまたまそうかも知れないと言われれば、それは確かにそうかも知れない。それから電車の中で話をする人が少ないからといって人間の衰退に結びつけるのは無理があると言う人もいるだろうけど、これに関しては無理はないと思っている。説得力はないけどね。だから別にそれで人を説得しようとも思わない。ぼくはただ坂田信弘ゴルフマンガに出てきそうな外国の頑迷なキャディーのように、これまでの経験五感を働かせて、なんとなくグリーン上空の風の流れを予測しているだけで、そう予測する根拠を述べよとゴルファーに言われても、説明しようがないのだ。ただ経験からそう予測したというだけである。それでは信じるに値しないというのなら、それはそれで仕方のないことだ。それならどうぞあなたの予測するようにボールを打って下さいと言う。それでゴルファー予測が正しくて、ぼくが間違っていたのなら、ぼくは潔くキャディーをやめるくらいの覚悟はある。

http://anond.hatelabo.jp/20081130034946

そういう時はもと根本から分析すべし。

例えば手初めてにお前の体を分析しる。

何でできていて、だれからどこから生まれてきたのか。

その概念五感でなるべく感じる。

なんとなく実体があるもにまとまった様に思えてきたら

その感覚から見て0才から1年ずつインクリメントして診断する。

その1年1年をさっきと同じように五感でまとめていく。

そうすると徐々に感情を交えない客観的な「やってきた事」の事実が浮かび上がってくる。

高校卒業制作で??自分はチープだなあと思ってたけど、(ry

という主観的なものが

・俺は高校卒業した。

卒業制作を作成した。

twitterに登録した。

DQを半分くらいした。

PCを買っていじった。

となる。

人間ってその時その時の事を今から思い出すと総括しちゃって落ち込みがちだが

その時点をよくよく思い出してみると比較的精一杯生きている事が多い。

それを五感を通じて想起させる。「今の感情」じゃなくて。

なんだよそんなことかよ

と思うかも知れないが診断というからには自分が思った事とやってきた事を分けるという方法はお勧め

2008-10-15

部下の、業務と直接関係ない事柄に関してイラッとしたりすることに悩む。

まず臭い。

まず貧乏ゆすりが目障り。

タイピング音がやたらうるさい。

いやね、全部俺が我慢すればいいことなのよ。でも、自分の業務だけでもイライラしてるってのに、真横でこうだとさー、どうしても。五感のうち3つを刺激する奴にだなんて、どう接したらいいかわからないよ…。

どうして俺ってこんなに神経質なんだろう。

もう……

2008-09-05

http://anond.hatelabo.jp/20080905201435

世界で彼と二人っきり。ベッドも枕も全部吹き飛んで、真っ白の中に彼だけが見えるの。それがイクって事」

と昔、仕事帰りの風俗嬢に教えてもらったよ。

具体的には「五感の全てを使って好きという事を伝えろ」って事らしい。

その風俗嬢曰く、テクが上手いと評判のAV男優よりも、自分だけを見てくれるSEX初心者彼氏の方が気持ちいいらしい。

まあ、そう言われても「なんかの足しになれば」とAV見て研究してしまうのが男のバカさ加減だね。

2008-07-17

http://anond.hatelabo.jp/20080717032802

そこまで整理ができてくると、世の煩悩はあらかた整理ができてくるんだろうね

(虚心に力を捉えられて、謙虚に可能性へと開かれうる心身状態を、とりやすくなりそう

この場合(モテ議論)で難しいのは自身との切り離しにくさ、つまり自分が異性に対してしていってやれること(相手にとって、それも稚拙な一般化だけれど”モテる”状態を維持するために必要な言動や、配慮の取り方)と、五感にまつわる部分もあれば、性欲や食欲、安全欲求、社会的欲求、家族形成への意欲など、多面で多彩な自身の欲が、ごっちゃに結びついた異性を”欲しい”と思う状態とが、密接な形で結びついていることが多いのも、その一因にはあるのかも

感情の分化やその場合分けって、ましてや想定されうる状況に応じたTPOって、自身を振り返っていった場合でも、一朝一夕では身につかないものだったと感じられることだし

(ようやく最近になって、成長のスピードを、意識的に加速させることもできつつあるけど

せめて目標(対象)が見定まった先からは、真摯な取り組みになっていけるよう、せめてそれまでは、好みと異なる異性や状況を、翻っては自身のためにも、貶めることのないように、せめてその後も、途上の仲間を(互いにも一方的にも)けなしあうことのないようにしてもらいたいね

その難しさも、ある意味人間らしいけどね

2008-03-22

http://anond.hatelabo.jp/20080322104414

つれづれにレスする。

脳みそ再生される記憶に、現物と同じような価値を見出すようになるからかも。言い換えれば、しゃべり、本を読み、文章を書くようになるつれて、言葉からの想像記憶コラージュ)だけで興奮できるようになっていくってことじゃないかと思う。

最近おれは、五感から入ってくる情報に良いとか悪いとかの意味づけをせずに、感じ取れるようになれないかと思ってる。たぶん、全然ちがう世界観が生まれる。世界観というよりは、ただただ、ありのままの世界を見てる感覚かもしれない。最近ホッテントリに上がったワイアードビジョンの記事で、確か、脳の左半球の機能が脳溢血で一時的に失われた女性学者の話があったけど、彼女いわく、見慣れたハズの自分の手が、熊手のような得体の知れないなにかに見えたんだとか。これなんかは、脳溢血によって「自分の手」を…食べ物を掴んだり、ボールを投げたり、あらゆる仕事をこなす道具…今までそれを使ってきた様々な記憶…そういった意味づけから離れて、見ることができた結果なんじゃないかと思ってる。そういう認識を、病気にならずにしてみたいんだよね。

なんか、昨日沸いてた学歴君とか見てるとかわいそうになってくるんだ。自分で世界に貼り付けたラベルから逃れられなくて苦しむの。その自分中心の手前勝手なラベル貼りで、逆に自分が苦しくなってくることに、彼はいつ気づくのだろうか、とか思っちゃう。世界にどんなラベルを貼るかなんて、個人がいかようにも決められることだというのに。自分のラベルの貼り方が絶対だと思ってるんだ。「これはイイ」「これはイクナイ」「おれのラベルの貼り方が世界一だ。唯一最高の貼り方だ」ってね。でも自分で貼り付けたいラベルを、現実には自分に貼り付けられなくて苦しむ。最高の私像みたいなものがあって、でも現実には、全然それに届かない私がいて、たぶん、彼らは苦しんでる。あるいは、自分に都合のいい形での最高の世界像みたいなものがあって、現実世界がそれに全然似ていないからといって、嘆き悲しんでみせたりする。場合によっては、こんなにみにくい世界がいけないんだ、おれは悪くないとか言っちゃって、しまいには世界を変えるとかなんとかいって、過激な行動にでたりする。なんだかな、とおもう。醜いだのキレイだのラベルを貼ってるのは自分だということに、こういう人って気づいてないんだ。

2008-02-25

http://anond.hatelabo.jp/20080225114353

それは『意識』の定義づけ次第で、確認できるか否かが決まることでしょ。

まず、自分とまったくおなじ『意識』を持ってる人間は厳密には存在不可能だよ。(限りなくゼロに近い時間なら存在可能かもしれないけどね。)二人目の自分を作った時点で、その二人目は、コピー元の自分とは、文字通り、違った立ち位置で生活するようになってしまう。見る景色も感じる経験も違ったものになるから、当然、意識コピー元の自分とは違ったものを持つようになる。一卵性双生児イメージすると分かりやすいかも。

そういう前提があった上で、じゃあ、たとえば、あなたの考える、『意識』って何?ということ。計算ができること?しゃべれること?あるいは、なんらかの感情があること?五感で感じた感覚を楽しんだりすること?これらであれば、コピーした二人目の自分の行動を見ても確かめられるし、脳が発する電気を測定しても確かめられる。なにを『意識』と呼ぶにせよ、意識とはなんであるのかが定義できれば、意識は測定できる可能性が生まれる。あとは、測定する技術の開発を待つだけだ。

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