常識とは18才までに積み上げられた先入観の堆積物にすぎない、という言葉があるように
その人は幼少期、親あたりからそのような常識を刷り込まれて、その分勉強かなにかに向かわせられたのだろうね。
子どもを机に向かわせたい親のやり口としてはかなり拙いやり方だけども、そういう環境で育ってしまったんだ。
不幸なことだよ。その人を不憫に思うことはあっても、苛立ってはいけない。
戦犯探しは一切やらない
調整ミスのせいにもしない
国内プロリーグのレベルには触れない。レベル低下と言った輩は非国民扱いして追い出す
日本代表は強かったと言ってる相手国のコメントを大々的に紹介する
まだ残ってる他国同士の試合の存在を無視して国内プロリーグに興味をシフトする
多数の選手を何らかの戦犯にする。ただし海外組は戦犯対象にしない
国内プロリーグのレベル低下を嘆く報道を毎日多数出す。海外組の出来には触れない
前にも書いたが、「王様の耳はロバの耳」なんだよ。
匿名だから、まあストレス発散の吐き溜めだが、中には魂の叫びも混ざってる。
「名前の言えないあなた」の切実な思いが人目に触れるチャンスだから、心が揺さぶられる何かがあったら、ブクマを付けてあげよう。
体育会系の先輩にろくな人物は居ないので、教育勅語をありがたがるのは体育会系の先輩の側になれたやつだけ。
政治や経済の現状関係なく、日本は2000年代以降、まともな人間が住み辛い国づくりをしたために、少子化に加えて人口流出が問題になっている。科学研究の失速が最もわかりやすい例だが、それにしてもこれについて言及する人間が日本にはいない。
私に云わせれば、なぜここまで酷くなる前に誰も気づかないのか?とも思うのだが。
おれはリバタリアンだけどそういう息苦しい社会は持続可能ではないと思う。
増田が挙げているのは自己責任論というより、自分のもつ特定の思想に反した振る舞いをする人間を罵倒するお墨付きが与えられる社会って感じだ。
本当の自由主義社会は、どんな行いも基本的に(迷惑を掛けない限り)許容され、
それによるどんな類の失敗であっても、ある程度社会がフェイルセーフしようとすることが肯定される社会だ。
増田のと真逆なんだよ。増田モデルは全体主義やファシズムに近い。
そして、自己責任論と結びつけられやすいリバタリアニズムだけれども、
非リバタリアンが想像するリバタリアンは「個人は自分のやることを理性的に判断して行動できる合理的個人である」
と主張して暗に「賢くなれ、さもなきゃ死んで当然」と言わんばかりのマッチョだと捉えられがち。
でもリバタリアンと言われる人の多くはそんなに凝り固まっていない。賢くなることは重要だとは考えるけどね。
だってそうでしょ、人間はつねに合理的行動ができるなんて思っている人はそうそういない。
認知症だから重大事故を起こしてしまった、お前が認知症なのが悪い、
ギャンブル依存だから破滅してしまった、お前がギャンブル依存なのが悪い、
そういった例が100%自分の責任、自分のコントロールの圏内にあったのか、と言われれば誰もが難色を示すだろう。
そもそも情報があふれかえる現代、人は自分の意志で「自己決定」していることなんてあるのか、
「~からの自由」である消極的自由は守られるべきだが、「~する自由」である積極的自由を認めすぎると
衝突にあふれた社会になり、他人を攻撃・制御・統制しようとする邪悪な自由に侵食され、消極的自由が脅かされる。
穏健なリバタリアンは、車を持ったりタバコを吸ったりする自由などほとんどは認めるけれど、
それによりどうなってしまうか、合理的な判断ができるように、越境する前に柵を設置して、注意書きをするんだよ。
そうやって「自分の意志で乗り越えてる」ことを明確に意識させる配慮をした上で「自己責任ですよ」と言う。
もちろん乗り越えて死んでも知らんぷり、というわけでもなく、最低限の救いは用意するし。
理性的な判断可能性をブーストしたうえで(これがリバタリアニズムがITとの親和性が高い理由)の自己責任。
それは、乗り越えて失敗した人を切り捨てる(ザマーミロする)ための自己責任ではなくて、
知らなかったことを知ったとき知ったあとで行動すべきを考えること反省することを子供のようだ幼稚だというのならもうなにもかもやめたほうがいいとおもう
文字どおりなにもかも
あなたは小学校を卒業してから気づきや学びや反省や努力をしたことがないのか
中学生以上は「起きる前のことを想像して対策を練りこれまでの歴史上起きた閉塞的結果に陥らないよう行動すべき」と考えているのか
小学生がするようないじりで恥ずかしい思いをしたということに限って小学生の比喩を出したのなら
小学生時代を田舎で過ごした都会で過ごしたというような人間が異なる環境に出たとき
あってもなくてもどっちでもいいけどライブってやつというか何を見てるのかっていうとあれは希少性をみてるだけなんだよね
ライブの下にライブビューイングがあってその下に録画があるわけよ
どれも同じ映像をみてるだけなんだけど見た人間側の自身の定義が希少性を得たという付加価値なんだよ
生でみたとか録画でみたとかむしろ見てないけど聞いただけとかでも全部情報としてはほぼ等価なんだけど付加価値で生産性が決まってるわけで付加価値を削り落とした商品は自ずと価格低下を免れないし価格の低下で付加価値のマージンが減ると生産性が損なわれるから結果市場から消える
生だライブだという意味でいくと3Dでリアルタイムレンダリングしてストーリーも変化要素を演算させた結果を大画面で見るということにすれば近いものになるとおもうけどそれと録画の違いが感じられないでしょ。
実況動画でいいというニーズや録画でいいというニーズの他に自分で体験したという付加価値がほしいもあってそれぞれジャンルがちがうわけよ
録画でもいいから見たいというニーズに映画があって希少性がほしいというニーズがライブになってるだけで分かれてるとか一本化すれば効率的とかいうものでもないんだよ
逆に希少性市場を取り込むためなら「一回しか上映しない映画」だとライブだろうとなんだろうと「ライブ層」を取り込めるとおもうけどね
アニメ層 ライブ層 コレクター層などいろいろあるとおもうしそれぞれ大きい市場だとはおもうけどそれらをコンプリートした層ってかなり希少で市場を開拓する意味があるほど価値があるものじゃないと思うよ
以前はウルトラ大好きだったクチなんだけど、ここ10年くらいとんと見なくなってしまった。
マックスくらいまでは「先人達をリスペクトしつつ、新しいものを作ろう!」という志の高さが感じられた。
「第三惑星の奇跡」なんて「超兵器R1号」や「怪獣使いと少年」に匹敵する名作だと思う。
でもそれ以降、大集合映画を乱発したり、ポケモンもどきの大怪獣バトルやセブンの息子など
過去の名作たちを「困ったときに食い潰せる使い勝手のいい遺産」みたいな感じに扱いはじめたんだよね。
デザインもどんどんゴテゴテしていって、小物玩具を売るためだけの番組に成り下がった感が出てきた。
放映権もテレ東に移って、再放送なのか新作なのか良くわからない放送形態。それが嫌で見なくなっちゃったなぁ。
今生きていたら何歳か、若いときのイメージしかない人の年齢を数える
マリリン・モンロー(90)
チェ・ゲバラ(88)
ブルース・リー(77)
松田優作(67)
夏目雅子(59)
アイルトン・セナ(57)
ダイアナ妃(55)
尾崎豊(51)
昼休み、トイレに行くと、自分のタイツに強そうな陰毛が付いている。
そこで私は閃いた。これをフロスがわりにすればいいのではないかと。
陰毛はちぎれ、歯に挟まった。
意識高い系の人…自分にも他人にも厳しい。べき論に凝り固まりやすい。
意識高い人…ベースとなる本心の部分で、自分にも他人にも過度に期待しない。が自分の仕事は客観的に相当高レベル。
なぜ期待値を低くしておけるのか、というと、意識が高いゆえに、人間の限界や多様性を熟知しているから。
自分や他人に常に強度のテンション(張力)を掛けておくことが必ずしも最適解ではないと知っているので、寛容になれる。
もちろん表面上、他人に期待をかけることはある(大抵は有効なので)が、仮に失敗してもひどく叱責することはない。
それどころか寄り添って、上手に褒めながら行動修正を相手に自ら引き出させることができる。
サークルの先輩に聞いた話だが、就活生に面接室でうんこをさせて、その外観・芳香・品格等によって選考をなす企業があるらしい。嘘みたいな話だが、これが本当なのだ。そもそもなぜ学生にうんこをさせるのかというと、そこには創業者の信念がある。その創業者は幼少時代、学校のボットン便所内に転落したことがあった。助けを呼ぼうと思ったが強烈な悪臭のため口を開けることができない。そうこうしているうちに同級生たちがやってくる。呑気に排便する同級生を頭上に望むこと十数分、彼は気づいた。良識あり頭脳明晰なる学友の便が美しい光沢を持ちまっすぐ決然と落下していくのに対し、最低にしておよそ褒めるべきところがない学友の便は表面が醜く爛れ、便槽に着地すると不愉快な音をたてる。そう、うんこと人間性は比例するのである。この大発見によって彼は陰謀渦巻く実業界中において成功を手にし、全学生の憧れるホワイト企業の創業者となったのである。以上は創業者の自伝による。
つまり、うんこによって当人の人柄はもちろん将来における成功ありやなしやまでをも判定することができる、というのがこの企業の言い分なのだ。これによって苦労するのが就活生であることは言うまでもない。なにしろ面接会場で当意即妙のうんこを放出しなければならないのだ。うんこ面接が学生の間で知られるにつれ、いろいろ対策がとられるようになった。就活生はまず自己分析の一環として自らの排便を見つめ直さねばならない。ワークシートに排便日時・場所・形状等を記録し、それを元に企業の求めるうんこを練ってゆく。そして、面接数日前からはコーラック・ビオフェルミン等によって排便を調節し、万全の態勢で本番に臨むのである。
このような方法論が積み重ねられれば、じきに内定へのセオリーが出来上がるのは当然といえよう。就活セミナーでは、理想的なうんこを出すための薬品使用法はもちろんのこと、排便に先立つ下着の脱ぎ方や、はては息むときにはどのような声を出すと好印象かといった問題までも詳細に指導されるようになった。こうして、就活生は志のある者ならば誰でも、面接室でバナナ形のほどよく光沢のある社会人として恥ずかしくない排便をなすことができるようになったのである。
しかし、誰もが似たようなうんこをしてくるようになったので、人事担当者は辟易した。なにしろ面接日となれば朝から晩まで皆一様にバナナ形でほどよく光沢のあるうんこをアピールしてくるのである。時々は向こうを張ってあえて下痢便を大噴射させてみたり、肛門まわりの剛毛を剃らぬままやってきたりする者が現われたが、そういう人間はむしろ不評で、結局は光沢バナナ形の中からわずかな差、たとえば尻のほくろがキュートだったとかうんこにコーンが混じっていたとか、そういう些細な差によって内定者が選ばれることの方が多かった。そういう現状を嫌い、ためしに細いうんこ出してみてよ、などと無理な要求をなす面接官まで最近はいるようだ。
こういう旧態依然とした面接に対しては、社内でもしばしば批判されている。うんこ面接はもう限界なのではないか、そもそも東大卒でうんこが理想的でも働かせてみると無能だったりするではないか、と主張する重役もいる。しかしうんこ面接を支持する声は根強い。言葉はいくらでも誤魔化すことができるが、うんこだけは当人の人間性を証するものとして否定しがたい説得力を持っている。就活を通じて自分のうんこを見つめ直せるならばそれもまた成果ではないか。というのがうんこ面接支持派の挙げる主たる理由である。しかし本当のところは違う。自分が過酷なうんこ面接をくぐり抜けて入社してきた、それが今の自分に繋がっている、という社員の思いが、うんこ面接の否定を避けさせているのである。