はてなキーワード: 辺鄙とは
新たに友人ができたようだ。人見知りは人並みにするけど、人付き合いは嫌いじゃない。こんな歳にもなれば、ある程度自分を曲げずになおかつ他人と上手くやっていく技術はなんとなく身に付いてしまう。良い悪いは別にして。その分、知り合いはどんどん増えて入れ替わっていくけれど、友達となると、学生のころとか入社間もないころとか、要するにまだ不器用なころに知り合った相手ということになってしまう。だから、十歳以上も歳の若い相手と新たにサシで、気遣い無くというか、純粋に取り留めなくしゃべりながら飲むことができるようになったのは素直にうれしい。あ、相手は女じゃない。そうならまた全然違う意味でうれしいが。
それで、なんとなく落ち込んでいる。何となくじゃない、明らかに落ち込んでいる。気付いてはいるんだが、以前から俺は未来恐怖症だ。高校のころ、あと一年半で卒業だ! どうしよう、みんなと会えなくなる! とそれはそれは悲痛な悩みを抱えていた。今となっては笑い話だが、そういう傾向があったことを思い出した。そういえば大学のときもそんなことを多少は思っていたような気がする。こんな良い仲間と、あとこれだけの期間しか一緒にいられないなんて! バカじゃないかと思う。さすがに就職してからは思わなくなった。どこへ行っても社内の人間関係には利害調整という面が入らざるを得ない(そんなことを常に意識できるほど計算高くはなれないが)のと、人事異動はいつも突然なので「あとこれくらいの期間で」なんて暢気なことはないからだ。
久しぶりにこんなことでうだうだ考えてる。いい奴で、駄目なおっさんになりつつある俺よりよっぽどしっかりしていて、女にもモテて、正直ちょっとムカつく。そいつと気軽に合えるのは多分あと十数回だ。今は学生の奴も来年は社会人。そうなればまあ一年に一回も会うのは難しいだろう。就職先はずいぶん辺鄙なところらしいから。もしお互いが平均寿命まで生き延びたとしても、あと二十回は無いな。一度会って、バカ話して、じゃあな、と別れる度に一枚ずつ消えてく回数券。あと何枚あるかは分からない。でも最大でどの位かは何となく分かってる。この考え方は明らかに歳のせいだけれども、未来恐怖症のバリエーションには違いない。
そう思うと、あんまり人とは親しくなるもんじゃないな。恋人や嫁なら単純に親しさだけの話じゃないし、ある意味割り切りも効いたり、逆にうだうだ考えるような余裕も無くなったり、環境によって会えなくなるなんて全く問題じゃなかったりするけれど、友人となるとそうも行かない。こんなことを今まで言葉にして考えたことが無かったから、余計にそう考えてるだけかとも思うが。
親友だと勝手に思ってる奴とも、新幹線ならすぐのところにいても会うのはせいぜい年に一回。奴とはせいぜい数年に一回位になるんだろう。どうせそうなることが分かってる、いや実際には会わなくなったら時折懐かしく思い出す程度になるだろう相手なのに、どうしてもう会えなくなる寂しさをあらかじめ大げさに予想して、それを今に引き寄せて落ち込んでるんだ? 何かに酔ってる? 悩んでる自分に? この歳でこれはキモ過ぎる。
「また飲みましょう」と言ってたけど、考えもんだな、ちょっと。こんな意味不明なことで何となーく落ち込んでるのは、我ながらイタい。いや、別に奢るのがいやなんじゃないぞ。どうせ悩むなら、もうちょっとこうマシな事で悩むべきだ。人生短いんだから。それももう半分越えてるんだから。ここまで書いて、高校のころから成長してないだけなんじゃないか、という結論に達した。俺のこれまでの半生意味なしかよ。しかしこれは引く。増田行き決定。
ナメック星編(?)が終わった(トランクスがフリーザ一派を全滅させた)あたりまで読んで思った事。
宇宙最強の帝王が父親(コルド大王)と一緒に辺境の星に旅行に行って皆殺しにされたのに、最終回まで一度も残党達が地球に捜索に来ない理由は、誰にも知らせない「お忍び」の旅行だったからではなかろうか。
フリーザ一族は自分たちが宇宙最強である事に強いこだわりを持っていたみたいだから、野蛮なサイヤ人に殺されたとなれば全力で隠そうとするはず。
そうなると、(フリーザ達の感覚では)辺鄙な場所にある地球に行く理由もおおっぴらに説明する事は出来ず、必然的に秘密裏での旅行という形だったのかも知れない。そういう意味では、あの時同行した部下達はフリーザ一族の中でもとりわけ信頼の置ける連中だったのかも。
他にも考えられる要因としては、残ったフリーザ一族(劇場版ではフリーザの兄とかいたし)の間や他の強豪種族との権力争いとか、そういったゴタゴタで捜索するどころの余裕がなかったから、とも考えられる。
僕の町はど田舎です。娯楽施設なんて何一つなく、ただただ雄大な自然が、端的に言ってしまえば山ばっかりが町を囲っています。
人口は千人あちこち。移動に車は必須で、大きな買い物をするためには逐一近くの大型ショッピングモールにいかねばなりません。
場所によっては携帯も繋がらない。光回線だって通っていない。冬には雪が降り積もり、色々とお金も人でも必要なのに、仕事はないわ魅力はないわで色々と積んでいるよくある田舎町なのです。
そんな田舎町の、更に奥まった場所に、バブル期の名残でもあるホテルが建っています。僕はそこで厨房の手伝いをしています。
その他に働いている従業員は皆都市部出身。額面通りの都市ではないにせよ、僕の町よりはよっぽど発展した町からやってきた人々たちばかりです。
そんな人達が、ことあるごとに言う訳です。ここは辺鄙な場所だと。娯楽は少ないし、何かと不便であると。
その通りなんです。その通りなんですけど、なんだか腹立たしいのです。
僕の中に郷土愛なんてものがあるからなのかもしれません。あるいは、お前たちがそれを言うなよと思ってしまうからなのかもしれません。
持てる者だからこそ知っている優越感に、無意識の内に反発してしまうのです。
この感情は、だから僻みと紙一重なのでしょう。もしかすると嫉妬なのかもしれませんし、羨望なのかもしれません。度が過ぎれば憎しみに変わることもあるかもしれません。
僕個人としては、少なくとも表面的にはどうでもいいと感じているにも関わらず、です。
最初から持てる者として生まれた人が、自身の当然を口にするときは注意が必要です。たとえどれだけ相手が気を許しているように見えても、その実傷を与えているとも分からないからです。
ヘラヘラ笑っているその裏で何を考えているのかはわからない、などというつもりはありませんが、自らの当然が当然足りえる空間を認識する必要はあると思うのです。
6 Reasons We're In Another 'Book-Burning' Period in History | Cracked.com
By: S Peter Davis
これを聞いた人の8割は私の顔を殴りたくなるだろうが、端的に言おう。
稀覯本を含む本を数万冊以上捨ててきた。
焚書と聞いて、一般にはおそらくナチスドイツを連想する人が多いんじゃないだろうか。
それは不寛容と反知性の象徴だ。
だが今回の焚書は違う理由で起こっている。
本を捨てているのは、利用者が誰もいないような辺鄙な田舎の図書館だけじゃない。
おそらく世界最高の権威がある図書館、大英図書館でも、本の廃棄が産業的な規模で行われている。
オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ大学やそのほかいくつかの大学では最近、本の処分に関するスキャンダルが起きた。
今年ボーダーズという書店がつぶれたときには、在庫は寄付されるのではなく廃棄された。
捨てられているのは、『TVガイド』とか重複所蔵の本だけじゃない。
17世紀に美麗に印刷されたシェイクスピアの作品集を想像してみてほしい。
奥付のページには、遠い昔に亡くなった所有者からの達筆なメッセージが付いている。
それをゴミ箱に捨てるのだ。
私は何度もその場にいた。
持ち帰ってeBayに出して売って、何百ドルかにはなったんじゃないだろうか。
これはオバマの共産ナチ新世界秩序に操られたソビエトの秘密作戦か何かではない。
血も涙もない官僚主義によって起こっているのだ。
というのも……
誰しも思うのは、恵まれない人たちに寄付すればいいんじゃないの、ということだ。
囚人でも、病気の子供でも、独立系の新興書店でもいい。寄付すればタダじゃないの、と。
蔵書であることが分かるようになっている。
その本を寄付したり売ったりするときには、印を消さなければならない。
盗品でないと分かるようにするためだ。
そればかりか、所蔵印が残っている本は、親切な人が見つけて図書館に返しに来てくれちゃったりもする。
そして、処理すべき本はとても多い。
図書館はやっきになって蔵書を減らそうとしている。
図書館館長になったつもりで、10万冊を処分しなればならないという報告を受けたと考えてみてほしい。
選択肢は二つ。
学者を何十人か雇って蔵書目録をもとに重要度や価値を評価させて、
また何十人かを雇って重要度の低い10万冊に一冊一冊処分の印を押させる、
というのがひとつ。
第二の選択肢は、コンピュータで貸出回数の少ない10万冊を列挙して、
数人に館内を回って集めさせて、シュレッダーにかけさせること。
第二の選択肢のほうがずっと速くて安いことはお分かりだろう。
そうなれば儲けがでることもある。
ことに司書にとっては、それはまるで、
ゾンビに噛まれた親友を前にして、自分だけが銃を持っているようなものだ。
それに、捨てられた本のなかに救われるべき本が埋もれてしまうことも忘れてはならない。
このやり方では明らかに、ものすごく貴重な本が引っかかってしまうことがある。
2011年版が書架にあるのに、『白鯨』の初版本を書庫から借りようとする人がいるだろうか。
コンピュータで出した貸出数ランキングではそうした区別ができない。
また、このやり方をする場合は、本は完全に破壊しなければならない。
ただゴミ箱に放り込むだけでは不十分だ。
盗られるかもしれないからだ。
誰も読もうとしないように本を引き裂くか、ゴミ箱に漂白剤を入れておく必要がある。
とにかく、ゴミ箱が「ご自由にお取りください」状態になってはまずい。
そして作業をする図書館員が16世紀の貴重書を見つけたとしても、
館長はそれを救えとは言えない。
捨てる代わりに調べるように命じていることになりかねないからだ。
どんな本か分からなければ捨てるのも楽になる。
みなさんがこの事実をご存じなかったとすれば、
ほとんどの場合、一般人が気づくのはゴミ箱に大量の本が入っているのを誰かが目撃してからのことだ。
とはいえ司書がこっそり話し合っている掲示板はいくらか見受けられるが。
2004年ごろ、ニュージーランドのビクトリア大学は13万冊の本を廃棄することを決めた。
計画では、廃棄対象の本に赤いテープを貼り、
それを救いたい人がペンでチェックマークを付けることになっていた。
ご想像のとおり、誰もが怒りをあらわにした。
ある教授は図書館を「野蛮人」と呼んで学内に電子メールを回し、
図書館をめぐりすべてのテープ付きの本にチェックを入れるよう、
職員と学生に呼びかけた。
私の場合は、本の廃棄に気づいたのはそれを盗んで逮捕された人だけだ。
一般人が気づくころには、すべて終わっていて、反乱の機会はなかった。
それに図書館は気づかせることのないよう巧妙な言い回しを使う。
たくさんの書架を空にして、本を書庫に送ったというとき、彼らは嘘をついているわけではない。
ただ、書庫はすでにいっぱいで、新しい書庫行きの本の分だけ廃棄をしているということを言わないだけだ。
本の廃棄を推進する人たちは、図書館の機能を「本の博物館」だとする見方に反対する。
みなさんは愛すべき古典文学の書架に代表されるたくさんの書架の集合こそが図書館だとお思いかもしれない。
通貨が少し下がったり上がったりすれば、外国雑誌の価格も少し変わるだろう。
さてここで、購読するのは数冊ではなく10万冊だと考えてみてほしい。
そして、いま降りかかっているのは小さな変動ではなく、大恐慌時代以来の最悪の不況だ、と。
これは一夜にして旅客機一台分が財布から飛んでいくことを意味する。
その旅客機の代金が払えないと、まずいことになる。
そうなったらとりうる手段は、燃え盛る蜂の巣を手放すように、
購読を打ちきることしかない……とお思いだろうか?
ところがそれは図書館のパワーユーザー、学者と学生が毎日必要とするものなのだ。
必要のないもの、それはたとえば、手書き挿絵の入ったネクロノミコンだ。
どれほどかけがえのない所蔵物であろうと、とにかく場所がないのだ。
というのも……
図書館が蔵書を引き裂く必要がある理由のひとつは、この不況だ。
悲しいことだが、それはそれで仕方ない。
コーヒーショップと引きかえに土塊にされているとしたらどうだろうか?
オーストラリアのニューサウスウェールズ大学でまさにそれが起こっている。
その図書館では、社交的空間を作るため、1850年代からの蔵書と新聞雑誌が廃棄された。
ピーター・スレツァク教授はそれを、図書館を「スターバックスのようなもの」に変えるものだと評している。
しかし、図書館の立場にたってみれば、それを要求しているのは、
彼らは本を保管することだけではなく、本を使う場所を図書館に求めているのである。
そして出版社は無数の本を出してくる。
ということで、図書館は、一方では新刊書を所蔵するために拡張を迫られ、
一方ではカプチーノを飲んで腰を下ろす場所を作れと言われているのだ。
問題は、その費用を誰も出してくれないということだ。
この報告書でも分かるように、図書館へお金を出している組織は予算増額をものすごくいやがる。
図書館が「拡張の資金が必要」と言えば、大学当局は「他を当たってくれ」と言うだろう。
ほとんどの図書館に他の当てはない(建物に放火して保険金をせしめるという手を勘定にいれなければ)。
本はもはや流行らない。このことは認めざるをえないだろう。
2010年最後の三カ月のAmazonの売上データで、電子書籍は紙の書籍を上回りはじめた。
最近のハードディスクであれば、場所をとらずに事実上無限の数の本を入れることができる。
小さめの図書館ならUSBメモリ一つでで置き換えられるとしたら、
巨大な防火設備で本を守り続けさせる原動力は、人々の愛しかない。
現在の経済状況下では、その愛はなかなか発揮されることがない。
この動きは三十年前に遡る。
1980年代、図書館のスペース問題を解決したのは電子化ではなくマイクロフィルムと呼ばれる新技術だった。
本や新聞雑誌をスキャンしてマイクロフィルムとして保存すれば、
図書館ひとつがキャビネットひとつに収まるというのが謳い文句だった。
ニコルソン・ベイカーは、マイクロフィルムブームの悲痛な記録を本にした。
それによると、大英図書館、アメリカ議会図書館といった世界の名だたる図書館が、
数千冊の古い貴重書を引き裂いてスキャンし廃棄したそうだ。
世界中の本好きたちがこれに抗議したところ、司書がマイクロフィルムを掲げて
今日では、インターネットの普及によって、本の圧縮はますます推進されるばかりだ。
ある組織では廃棄する本の選定にあたって、グーグルブックスに載っているかどうかというシンプルな基準を用いているそうだ。
もちろん、本好きの心はそれだけでは慰められない。
彼らは本の内容だけではなく、本それ自体に価値があると信じている。
彼らにとっては、同じ版の本がほかの場所にあるからといって、
貴重な書物を捨てることは正当化できない。
道は事務書類で敷き詰められていて、
これが現実だ。
流行に乗らない事を偉そうに「流行に躍らされた愚民」とかバカにする人たちって何なんだと憤慨する人がいた。流行に乗ることをバカにする流行に乗らない人は流行に乗ることを罠に引っかかるみたいな言い方して流行に敢えて乗らないことはそんな罠に引っかからない自分ってすごいみたいな言い方をする。そういうふうに下に見ることで優越感を得たいのかも知れない。逆に言えば流行に乗れなかったことに対してどこかで劣等感を持っているのかも知れない。
自分では流行に乗れてないという感覚があるしそれに対して劣等感もある。ただ流行に乗ってる人を見下すことで優越感を得ようという気分にはならない。見下す人を見下すことで優越感を得ようとも思えない。辺鄙なところに住んでいて一部の物が伝わりにくいからか流行っているとか乗り遅れてるとか気にしたところでどうにもならないみたいな諦めみたいなのがあるのかも知れない。
田舎(いなか)または鄙(ひな)とは、農村・漁村・山村のように、人口や住宅が疎で辺鄙な地域を指す概念・用語である。対義語は、都市、都会、都など。
村落は学術的に用いられることが多いのに対して、田舎や村はよりくだけた俗語・日常用語である。また、生まれ(育ち)故郷を指す場合もある。
以下で言う「田舎」は、「辺鄙な地域」という意味と「故郷」という二つの意味。
昨年、西川美和監督の『ゆれる』を鑑賞した。心もゆれる、いい作品だった。
先日、岩井俊二監督の『リリイ・シュシュのすべて』を鑑賞した。賛否あるようだが、いい作品だった。
そして、どちらも性的表現があり、作品全体に流れる空気も淫靡だ。
懐かしい。
それと共に、閉塞的で、物悲しさ、憂い、残酷性、狂気も感じる。
退廃的な美。エロスだ。
でも、田舎のどこが退廃しているのか、詳しくどのようなところがエロティックなのかは、まだよくわからない。
心臓をギュッと掴まれるような恐怖を覚えながらも、どうしても田舎を舞台にした作品を観てしまう。
だから、帰省のたびに泣きそうになり、帰省のたびに胸が高鳴る。
田舎って、いいよね。
ttp://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20090202
田舎にはけっこうひきこもりの老人が多い。車の運転が難しくなり、かといって家から歩いていける範囲内に商店や農協はないし、病院といえば十数キロ離れた街道沿いの、行けば3時間は待たされるであろう巨大病院だったりする。子供を持った若い家族はそんな辺鄙な集落での暮らしに嫌気がさして新興住宅地に引っ越してしまった。この「ドキュメント・ナウ」の内容と同じく山形駅前や仙台の中心地には、高齢者向けのマンションがどんどん建ち、学生向けのアパートは高齢者用へと転換している。公共の交通機関が充実していて、徒歩で生活必需品の購入や通院ができる都市のほうが高齢者にとって住みやすい条件が揃っていたりする。そもそも田舎にはもう医者がいないし。
2ちゃんねるからはてなに単身で引っ越してきて随分経つ。短期間、mixiに住んでいたこともあるし10年以上前はぁゃιぃわーるどやあめぞう中を駆け回ったこともある。そのときに、いわゆる辺鄙なサイトを沢山見てきた。この先の長い人生において、再訪することは絶対無いであろうウェブサイトの数々を。はてブの新着エントリを見ていてもこういうことを最近よく考える。
「こんなところで人が書いているなんて、ちょっと信じられない」といった気分になるのだ。最近の例では、はてなハイクだ。あそこにはSNS的機能もあればお絵かき機能だってある。オフ会だってあるし、有名人とのタイアップ企画だって存在することに激しい違和感を持った。なんだこれは。これじゃあここで一生を終えてしまうことが出来てしまうじゃないか、という「つまらなさ」を感じずには居られなかった。おそらくだが、ちょっと面白いことを書けば普通にブクマされるであろう地域だ。芸能人だっているかもしれない。
ニコニコ動画に行けば制服を着た高校生が談笑している。彼らがこの先歌ってみた系を目指すのかVOCALOIDで殿堂入りを目指すのかは知らない。もちろん過競争のこのご時勢、彼らが無事殿堂入りできるのかどうかはわからないが、少なくとも彼らにとっての幸福な人生とは、ニコ動で商業デビューしニコ生で他放送主と出会い、ニコニコで、ニコニコで・・・すべてがニコニコで成す事を前提に設計されているはずだ。おそろしい、とてもおそろしい。彼らはうまくいけばいくほど、そのウェブサービスから出る必要に迫られることは無いのだ。逆に、ニコ動で目立つことに失敗した人は「仕方なく」、YouTubeやUstreamに出てくるはめになるだろう。どちらが幸福な人生だろうか? 俺は前者のタイプを羨ましい面があると認めつつも、「怖い」とも思うのだ。自分があんなに辺鄙で、「ささやかな人気動画に行けばそこに大抵顔見知りが居る」程度に小さなサービスで過ごして一生を終えることを考えると、ゾッとする。
俺の実家は2ちゃんねるだが、たまに帰ってきてν即を見るとやはり同じ心境になる。そこに居る沢山の利用者はROMを除けばだいたい2ちゃんねらだろう。この人たちにとってのレジャースポットの最上位は、せいぜいVIPや実況板なんだろうな、と。年老いてからもそれは変わらないのだろうな、と思うとやはりゾッとするのだ。
なぜみんなもっと外に外に出て行こうとしないのだろう。なぜ外に出ないうちに有料会員になったりするんだろう。わけがわからない。同じように、運営者もなぜ読者にいろんなサービスを紹介しないのだろう。外の世界を教えてしまうと逃げられるから、という理由があるような気がしてならない。
ちょっと調べてみたが、海外でもたとえばアメリカではFacebookで一生を終える人とかは普通に居るようだ。有り得ないって絶対。今自分が利用しているウェブサービスで人生を終えることが本当にベストなのかどうか、せめて幾つかのサイトを見て回ってから結論を出したら?
俺はまだ結論が出せていない。この欲というか、迷いみたいなものがいつまで経っても断ち切れなくて、最近はウェブに固執する必要もないよな、みたいな考えにもなってきてる。
※「はてなハイカーをバカにしている」と言われたら返す言葉が無い。確かに俺は今、はてなハイクの人々をバカにしている。だから俺のこともバカにしてくれて構わない。ただ、悪意が無いことと、これは俺の一切の偽りの無い改変ネタであることだけは理解してもらえたらと思う。
自分があんなに辺鄙で、「ささやかな繁華街に行けばそこに大抵顔見知りが居る」程度に小さな土地で過ごして一生を終えることを考えると、ゾッとする。
あーあるなあそんなの。でも日本の場合は基本、終身雇用じゃん。だから一度就職してしまったらその地域に居続けるしかないんだよね。新卒として就職したならなおさら。
京都から東京に単身で引っ越してきて随分経つ。短期間、中部に住んでいたこともあるし10年以上前はパソコンのメンテ屋として京都や大阪中を駆け回ったこともある。そのときに、いわゆる辺鄙な土地を沢山見てきた。この先の長い人生において、再訪することは絶対無いであろう街の数々を。旅行で地方の街並みを見ていてもこういうことを最近よく考える。
「こんなところに人が住んでいるなんて、ちょっと信じられない」といった気分になるのだ。最近の例では、京都府の京丹後市だ。あそこにはコンビニもあれば学校だってある。役所だってあるし、民間企業の社屋だって存在することに激しい違和感を持った。なんだこれは。これじゃあここで一生を終えてしまうことが出来てしまうじゃないか、という「つまらなさ」を感じずには居られなかった。おそらくだが、amazonで書籍を注文すれば普通に届けてくれるであろう地域だ。ユニクロだってあるかもしれない。
鉄道に乗れば制服を着た高校生が談笑している。彼らがこの先大学を目指すのか就職するのかは知らない。もちろん就職難のこのご時勢、彼らが無事就職できるのかどうかはわからないが、少なくとも彼らにとっての幸福な人生とは、地元で就職し地元で家庭を持ち、地元で、地元で・・・すべてが地元で成す事を前提に設計されているはずだ。おそろしい、とてもおそろしい。彼らはうまくいけばいくほど、その土地から出る必要に迫られることは無いのだ。逆に、地元で就職することに失敗した人は「仕方なく」、京都市や大阪市に出てくるはめになるだろう。どちらが幸福な人生だろうか? 俺は前者のタイプを羨ましい面があると認めつつも、「怖い」とも思うのだ。自分があんなに辺鄙で、「ささやかな繁華街に行けばそこに大抵顔見知りが居る」程度に小さな土地で過ごして一生を終えることを考えると、ゾッとする。
俺の実家は京都市だが、たまに帰ってきて河原町を歩くとやはり同じ心境になる。そこに居る沢山の歩行者は観光客を除けばだいたい京都府民だろう。この人たちにとってのレジャースポットの最上位は、せいぜい河原町や梅田なんだろうな、と。年老いてからもそれは変わらないのだろうな、と思うとやはりゾッとするのだ。
なぜみんなもっと外に外に出て行こうとしないのだろう。なぜ外に出ないうちに家庭を持ったりするんだろう。わけがわからない。同じように、会社組織もなぜ社員をいろんな土地で働かせようとしないのだろう。外の世界を教えてしまうと逃げられるから、という理由があるような気がしてならない。
ちょっと調べてみたが、海外でもたとえばアメリカでは同じ州で一生を終える人とかは普通に居るようだ。有り得ないって絶対。今自分が住んでいる土地で人生を終えることが本当にベストなのかどうか、せめて幾つかの土地を見て回ってから結論を出したら?
俺はまだ結論が出せていない。この欲というか、迷いみたいなものがいつまで経っても断ち切れなくて、最近は日本に固執する必要もないよな、みたいな考えにもなってきてる。
※「地方の人間をバカにしている」と言われたら返す言葉が無い。確かに俺は今、京丹後市の人々をバカにしている。だから俺のこともバカにしてくれて構わない。ただ、悪意が無いことと、これは俺の一切の偽りの無い本心であることだけは理解してもらえたらと思う。
コメントで「繋がれた象」というお話について教えてもらった。この話は知らなかったが、俺が言いたいことはこれにかなり近いので少し安心した。
4年間大学生として京都で過ごし、この春地元で就職した者です。
内容があれだからもう益田で書いちゃうことにするけど、本当に、徹底的にわからない。
まず、出会い方がわからない。みんなどこで出会ってどこで付き合おうって言う話になってるの?わからない。合コンも今のところない。まず街中に人がいない。人がいるのはちょっと大きめなショッピングセンターぐらい。俺はショッピングセンターで出会いを探すしかないのか?と真剣に思い始めている。そもそもショッピングセンターで声をかける意味がわからないからさすがにそれはないと思うけど。
いざショッピングセンターでかわいい子を見つけたとしてもその子はもう結婚してて子供いたりとかザラ。大体かわいい子に限って結婚が早いかつDQN率が高いのは悲しい話。田舎結婚はえぇよ。20前半ならもう結婚しててもおかしくないよねって言う風潮がはびこってる気がする。
あとみんな基本的に車移動。毎日車ですれ違うかわいい子とお知り合いになれる可能性は果てしなくゼロに近い。そんな感じで出会いがない。
そして遊ぶ場所がわからない。どこにいきゃいいの?娯楽といえばパチンコ屋と国道沿いにカラオケ屋とボウリング場があるぐらいで、あとは見渡す限り田んぼ。絶望的なほど田んぼ。あとはショッピングセンター。デートに誘ってご飯を食べにいこうにもデート向きなおしゃれカフェバーチックな店を探すのに難儀する。てかそもそもみんなデートご飯はファミレスで事足りてるみたい。何でガストやココスでみんな満足してるの?ファミレスだよファミレス。京都ならデートしてて晩御飯行くときにファミレスなんか連れてったらちょっと顰蹙もんだと思うんだけどな。いいじゃんデートのときぐらい気取ろうよ。っていう、そういう感覚がない気がする。あと、なんせ痛いのが、ご飯のときにお酒を飲みづらいこと。なぜなら、田舎は車移動がメインなので飲んじゃうと飲酒運転になってしまうから。これは本当につらい。運転をしないどっちかがお酒を飲むことはもちろんできるけど、普通は「俺/私だけ飲むのもなぁ」と思って、結局2人とも飲まないのよ。一緒に飲んで、いい雰囲気になりながら二人して帰るなんてことが遠い夢。正直これが一番つらい。
あとこれは人によるかもしれないけど、セックスできる環境を構築するのに相当な労力を要する。ラブホへの入り方がわからない。学生のときは一人暮らししてたから、変な話全部うちで事足りてたんだけど、今は町の中心部からかなり外れた辺鄙な実家住まいなので無理。たとえ誰かと付き合ったとしても、むこうもまた実家ずまいの場合が多いだろうから、到底気軽にはうちにあがりこめない。どこかのアパートでも借りればその点はいっぺんに解決するだろうけど、それだけのためだけに住みやすい実家を離れてまで行動を起こすモチベーションはない。でもラブホには入れない。この堂々巡りのおかげで実家に帰ってきてから立派なセックスレスです。付き合ってる人もいないんですけどね。
それでも京都にいたときは数ヶ月に一回ぐらいは一晩だけのうんたらかんたらみたいな話もあったんだけど、田舎じゃもうそれすらも許されなさそうな雰囲気。ネットワークが狭いのでそういうことがあるとすぐ噂話が流れて村八分状態になるだろう。また住んでる人間も流動的じゃないので、下手に身動きが取れない。たとえ気まずくなっちゃっても遭遇しない可能性がない。地元の女の子の友達・知り合いなんかは小中高の幼馴染が多いわけだし、それはさすがに、ねぇ。
断言する。アバンチュールな付き合いは田舎においては絶対にできない。そしてこれが一番つらい。セックスするなら付き合わなくちゃいけないし、その逆も然り。そうなると、もう結婚したほうが手っ取り早くね?ってことになる。逆にアバンチュールな要素を求める人たちは風俗にいったり○琴にいったりして済ます。あ、別にそんなに軽い人間ではないんです。ただ、付き合い→結婚にいたるまでの選択肢が、至極全うなものしか残ってないっていう事実は少しさびしいのです。クレイジーケンバンドは歌いました。「安い出会いの、安い関係、始まりはそんなもの(GT)」そう、始まりはそんなものでもいいんです。そこからお互いのことを知るようになって、最終的には全うに結婚して幸せな家庭を築く。そんな選択肢もあっていいのに。さっきも言ったように一人暮らしすればある程度田舎でも楽しいお付き合いができるかもしれない。でも田舎のこういう精神構造だけはなかなか覆らなさそうだなと思います。気軽に付き合えない。
嫌だなぁ、もう7月だぜ。夏なのに・・・。
新たに友人ができたようだ。人見知りは人並みにするけど、人付き合いは嫌いじゃない。こんな歳にもなれば、ある程度自分を曲げずになおかつ他人と上手くやっていく技術はなんとなく身に付いてしまう。良い悪いは別にして。その分、知り合いはどんどん増えて入れ替わっていくけれど、友達となると、学生のころとか入社間もないころとか、要するにまだ不器用なころに知り合った相手ということになってしまう。だから、十歳以上も歳の若い相手と新たにサシで、気遣い無くというか、純粋に取り留めなくしゃべりながら飲むことができるようになったのは素直にうれしい。あ、相手は女じゃない。そうならまた全然違う意味でうれしいが。
それで、なんとなく落ち込んでいる。何となくじゃない、明らかに落ち込んでいる。気付いてはいるんだが、以前から俺は未来恐怖症だ。高校のころ、あと一年半で卒業だ! どうしよう、みんなと会えなくなる! とそれはそれは悲痛な悩みを抱えていた。今となっては笑い話だが、そういう傾向があったことを思い出した。そういえば大学のときもそんなことを多少は思っていたような気がする。こんな良い仲間と、あとこれだけの期間しか一緒にいられないなんて! バカじゃないかと思う。さすがに就職してからは思わなくなった。どこへ行っても社内の人間関係には利害調整という面が入らざるを得ない(そんなことを常に意識できるほど計算高くはなれないが)のと、人事異動はいつも突然なので「あとこれくらいの期間で」なんて暢気なことはないからだ。
久しぶりにこんなことでうだうだ考えてる。いい奴で、駄目なおっさんになりつつある俺よりよっぽどしっかりしていて、女にもモテて、正直ちょっとムカつく。そいつと気軽に合えるのは多分あと十数回だ。今は学生の奴も来年は社会人。そうなればまあ一年に一回も会うのは難しいだろう。就職先はずいぶん辺鄙なところらしいから。もしお互いが平均寿命まで生き延びたとしても、あと二十回は無いな。一度会って、バカ話して、じゃあな、と別れる度に一枚ずつ消えてく回数券。あと何枚あるかは分からない。でも最大でどの位かは何となく分かってる。この考え方は明らかに歳のせいだけれども、未来恐怖症のバリエーションには違いない。
そう思うと、あんまり人とは親しくなるもんじゃないな。恋人や嫁なら単純に親しさだけの話じゃないし、ある意味割り切りも効いたり、逆にうだうだ考えるような余裕も無くなったり、環境によって会えなくなるなんて全く問題じゃなかったりするけれど、友人となるとそうも行かない。こんなことを今まで言葉にして考えたことが無かったから、余計にそう考えてるだけかとも思うが。
親友だと勝手に思ってる奴とも、新幹線ならすぐのところにいても会うのはせいぜい年に一回。奴とはせいぜい数年に一回位になるんだろう。どうせそうなることが分かってる、いや実際には会わなくなったら時折懐かしく思い出す程度になるだろう相手なのに、どうしてもう会えなくなる寂しさをあらかじめ大げさに予想して、それを今に引き寄せて落ち込んでるんだ? 何かに酔ってる? 悩んでる自分に? この歳でこれはキモ過ぎる。
「また飲みましょう」と言ってたけど、考えもんだな、ちょっと。こんな意味不明なことで何となーく落ち込んでるのは、我ながらイタい。いや、別に奢るのがいやなんじゃないぞ。どうせ悩むなら、もうちょっとこうマシな事で悩むべきだ。人生短いんだから。それももう半分越えてるんだから。ここまで書いて、高校のころから成長してないだけなんじゃないか、という結論に達した。俺のこれまでの半生意味なしかよ。しかしこれは引く。増田行き決定。
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暇ができた時に一人で生きてるのって寂しい。
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成人式って良いと思うけど、
>これからのことを考えて目標打ち出してみる
こういうことって色々な人を見て影響されるとこもあると思う。同期が進路をどう考えてるのかとか聞くの好きだなぁ。
色々な生き方に思いを馳せる方法としての成人式も悪くないと思う。
いい影響を与えてくれる人間も探せばいるしね。
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片付けるべきものを用意してから軽い筋トレをはじめる。
意外と効く。
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Stand By Me/B.E.King
http://www.youtube.com/watch?v=N3Ev8aGQAHo
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http://anond.hatelabo.jp/20061207040659
これいいね。
寂しさを解消する手段とか幸せになる方法とか全然思い浮かばない。
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http://anond.hatelabo.jp/20061208024300
この辺には実体験から同意
集中する。
・コーヒーを飲む
・チョコレートを食べる
・栄養ドリンクを飲む(ここぞというときのみ使ったほうが良いと思われる。耐性がつくので)
・がんばってる奴を見る。
リラックスする。初期状態に戻す。
・お茶を飲む
・頭に浮かんだことを書いて行き、現在の状況を整理する
・15分程度の机に突っ伏しての仮眠。
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廃棄処分するキャベツを喰って生き延びるホームレスが誕生する日も近い。
ベジタリアンなホームレスが健康的に生活して現代人に警告するロードムービー
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なんか今日は久々にいい夢を見た。ポジティブな夢だった。明るい未来?の夢だった。
でもそうなるためには内面が変わっている必要があるほどのインパクトだった。だからこそ感動したのだけど。
最近あまり内面が成長していないなと感じる。
端的に言うと、過酷なことに挑戦しなくなっている。
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どうしたら性格は、行動パターンは、思考パターンは、変わってくれるのだろう?
変えにくいところなのは知っているけど、20代を超えてからも変わるものなのだろうか?
これは変わらないだろうなと思っている部分が変わったりする例はあるのだろうか?
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世の中そんなに暇な人ばっかりじゃないのよ。