はてなキーワード: 落合とは
落合は堀元の友人知人取引先に粘着することにより、「落合陽一ってこんな粘着なんだ、リアル接点を狙ってくるらしいし、下手にいじったら怖い人なんだな」と堀元(および潜在的堀元たち)に思わせることに成功した。
これは長期的に財産になる。今後、落合を気軽に馬鹿にする命知らずは減るだろう。少なくとも堀元は「わりに合わんし、もう落合いじりやめよう」と考えたはず。
堀元は裁判を厭わない姿勢を示す事で、「堀元見って実はああ見えて法的に狡猾だし、材料集めてリアルに裁判をやるような奴なんだ、これ以上やると厄介だな」と落合に思わせる事に成功した。
落合は危うい発言をいくつか残してしまっていたし、堀元が「下り」ずに受けて立つ姿勢を示したことにより、本当に法的闘争になったら不利益が大きくばかばかしいと冷静に判断したと思う。
もちろんブラフの可能性はあるが、あの三部構成の日記により「本当にやりかねない」という印象を落合やギャラリーに与えた。
堀元が目的を達成できたかというと……これからも悪口ビジネスを続けるつもりだろうから、そういう意味では落合事変を解決したことで目的を達成したといえる。
一般に、著名人がネット民(堀元氏はほぼ著名人側だと思うが)を殴り返しに行くと、安全地帯にいたつもりのネット民はパニックを起こす。
直近ではsaebou氏に本気で殴り返された映画ブロガーや、少し前になるが楽しくゲームツイートしていたところをヨッピーに強襲されたモフモフ社長などはパニックを起こしていた。
ネット民は殴られ慣れていないので、著名人側はネット民に「お前本気で殴るぞ」とブラフをかますだけで、だいたいは大勝利できる。
例えばはあちゅう氏は、自分を批判する人間に片っ端から法的手段をもってスラップすることを繰り返していた。
しかしはあちゅう氏は裁判の過程で、論敵になりすましたアカウントを運用していたことが露見してしまい、逆に大ダメージを負うはめになった。
「相手が下りる」ことを期待してのブラフは、たいていの場合において有効だが、しかし相手が下りなかった場合のプランも想定していなければならないのである。
ネット民側が覚悟完了していれば「じゃあ法廷で会いましょう」と言われて著名人側がパニックを起こすケースもある。
今回落合氏が引き際を間違えていたら、はあちゅう氏みたいに面倒くさい展開に陥っていたおそれがあり、そういう意味で的確なクロージングだった。
はあちゅう氏といえば、Hagex氏やロマン優光氏がはあちゅうを「いじる」記事は、はてブでも人気があった。彼らに便乗してブックマーカーたちも悪口を楽しんでいた。
他にもイケダハヤト、田端信太郎、梅木雄平、夏野剛といった面々を「いじる」悪口記事は、はてブでも人気があった。今も、ターゲットを変えつつ、そうした文化は残っているように見える。
まさかいないと思いたいが、過去のロマン優光やHagexによる悪口芸には喝采を送っていたのに、堀元の悪口ビジネスには道徳的嫌悪感を表明している人が仮に存在するならば、少し自己総括をすべきだと思う。
落合が「悪口野郎と付き合うのか?」って周囲に問い詰めてなかったら、
今でもヘラヘラと悪口は知的エンタメとか言って集金してただろうよ。
自分が散々他人を馬鹿にして金稼いでおいて、それを告発した人物は「空気の読めないガキ」呼ばわりしてたじゃん。
問い詰めの内容も別に攻撃でもないし。「悪口をエンタメとすることにあなたは同意するのか?」って聞いてるだけやん。
https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/2304421/
落合陽一「私はフワくんじゃないw w w」
https://news.allabout.co.jp/articles/o/83278/#google_vignette
フワちゃんはなんか偉そうに専門用語で経済とかITとか語りだしてからおかしくなったよな…。最近だいぶ雰囲気変わっちゃって残念
https://togetter.com/li/2413950
↑
落合陽一、堀元見本人のことは6年前からずっとブロックし続けている上であれやって対話は好きですとか言ってるの、なんだかんだ言っても結局マジの狂人なのではという感想を抱く
堀元は、ビジネス書をバカにするライブ配信を過去にやっていて、冷笑の被害者は落合陽一さんだけではない。被害者の会を発足して冷笑ビジネス元締めの堀元を追い込めばいいと思う。
それと、落合陽一は、堀元から謝罪を引き出せただけで満足してしまうんだ、という驚きもあった。ゆる言語ラジオから水野を引き摺り落として、ゆる言語ラジオを解体、堀元を業界から排除するまでが勝利条件だと思っていた。
元2ch現4ch管理人のひろゆきと共演するのは自分ルールでOKなのか?
例えば霜降り明星粗品だったりウエストランドだったり、悪口芸で食っている芸人と彼らを擁する各事務所も最終的な攻撃対象なのか?
下世話な週刊誌もまた然りか?
文章として面白い(半分くらい落合先生が面白いだけの気もするが)のに、
全く反省の色がないというか、申し訳ないという感情が見えてこない。
それどころか「あれが責められるのはおかしい」みたいな憤りの感情も見えない。
フツーああいう風に自分の行為を咎められると自己否定方向にしろ自己肯定方向にしろボルテージが上がると思うんだが、その高まりを一切感じない。
例の動画ではビジュアルシンカーではなく滅茶苦茶言語思考タイプということだったが、
人間の気持ちみたいなものについても全てロジカルな関係性として捉えてる感じ。
感情のクオリアを我々凡人とは違う形で認識してるんじゃないかとすら思う。
流石だわ。
・・・ ー ー ー ・・
落合陽一が「エコーチェンバーを存分に味わえ.」って言ってた。
僕もそう思う。
都知事選の結果は、果たして本当に僕たちを落胆させるものなのだろうか。
様々な思惑が蠢いているに違い無いけれど、
いったい何を話して笑う?
きっと誰かが埋めている
いったい何を話して笑う?
選挙の時に思い出すのは
むかしむかしの淡い思い出。
僕は君たちの生活が
つつがなく流れていくことに
安堵しているのかもしれない。
社会の変革には痛みが伴うかもしれない。
その選択には、
誰かを取り残してしまうかもしれない。
よかれと思ってやったことは、
人々の暮らしをよくするとは限らない。
そのことを、選んでいるんだね。
ことりは歌う。
とても楽観的に。
たいそうなロマンに心を躍らせながら。
ことりは微笑う。
つらいことがあっても、
他人の痛みを分かち合うように。
汚れてしまった僕の手を
まるで導いてくれるかのように。
きみの手が溢れていくように。
きみはどう思っているんだろう。
濡れたアスファルトに取り残された僕に
名もなきハッピーエンドが訪れるよう
はなればなれになったとしても。
今では信じられないことだが、90年代~10年代はリベラル論壇でサブカルチャーの作品や作家について深く思考し語れているか?が論者として凄いかどうかの基準のひとつ。これが暗黙の前提だった。
だから宮台真司も東浩紀もサブカルチャーについて語っていたし、そんな風にインテリにレペゼンされるのが嫌な野良の書き手と謎の小競り合いが起きて……とモメ事もその周辺で延々繰り返された。
このレペゼン枠争いはいまでも岡田斗司夫のオタキングという通称だったりがその時期の文化遺産として名残が残っている。ユリイカがたまにマンガ家特集やったりしてる所なんかもこの名残のひとつだ。
何にせよこの戦いでは深く理解をする、少なくとも理解をしようと務めた者が勝者であり価値として認められていて、これだけは立場、思想を問わず共有されていた。
これが10年代に一気にかわり、理解しているか?よりも反省させているか?が価値となった。迂闊な表象を出した作家や企業をどれだけ炎上させ反省させたか? 理解の深さを競うゲームから一抜けし、かわりに誰かを反省させることをリベラルは選んだ。
これが便利だったのはサブカルチャー批評はキャラの造形、関係性、物語、世界観、作家の意図、フェティッシュ、社会反映、二次創作での扱い。そのすべてに目配せし応答できる知能が求められたが、反省させるのは目に入った刺激に反応するだけで良いので猿でも出来る事で、強力な利点だった。
だから議員になりたての売れたい中年やバズりたいだけのNPO代表なんかがこぞってこの反省ブランディングに手を出すようになり、……このへんから後は皆の記憶に新しい内容がそのまま起きていった。
20年代には誰かを反省させた=凄い奴。が蔓延しきったのでそれに続いて、自分は反省した=凄い奴と、どれだけ反省させたか競争に更にどれだけ反省したか競争までもが加わり不毛さとナンセンスさに更に拍車がかかった。
これは当初は理解の深さで勝負してたのに、いつしか反省の深さで勝負するようになったTBSラジオの宇多丸なんかが最もわかりやすい例だろう。
今の売れ筋はtoxicマスキュリニティで、反省用アクセサリーとしては最近話題になった御茶ノ水の人なんかは全身これで固めていたし定番アイテムとなっている。
この辺りの時期ですでに宮台は映画語りだけを残し撤退していたし、東浩紀は観光客をキー概念とし、レペゼンの万能感から離れ不能さに留まることを選んだ。
このリベラルの入念で計画的な自滅によってサブカルチャーを通してリベラル的に何かを考える思想の蝶番そのものが場所とプレイヤーの両面から壊れ修復不可能になっていった。
保守やヘイターの手によってではなく自分たちで壊すことを選び、現状フィールドに残ったのは壊すことで延命できるような既に賞味期限きれなのをごまかしている評論家だけになったし
新しく出てくるプレイヤーも落合や成田のようにITビジネス系とつきあう形を選びサブカルチャーにはそもそも深入りして言及する事自体あまりない。
こうやって入念に登場の準備をお膳立てし、鍋も具材もすべてリベラルが自らの手で揃えきったあとに現れたのが暇空だった。
こういう流れがないとなぜ彼がやたらとHUNTER×HUNTERの話をするのかエロゲではランス10が最高傑作だったという話をするのかも意味がわからないし
なぜ他の候補のマンガ賢者ブランディングに対し対談で謎のクイズおじさんと化して企画を破壊してまで暴くのかそのメリットが恥をなぜ上回るのかもわからないが
彼は要はこの系譜の忌み子として出てきており、リベラル論壇が自分から手放したここの客層を単におさえただけだ
そしてその上から保守っぽさアンフェミっぽさをメッキで後乗せして支持の総量を増やそうと形づくっていってるのだが、リベラルはあまりにも愚かなのでこのメッキを本体だと思ってミソジニー枠で処理しようとしていて、ほんとうにどこまでいっても愚かだなと感じる
今では信じられないことだが、90年代~10年代はリベラル論壇でサブカルチャーの作品や作家について深く思考し語れているか?が論者として凄いかどうかの基準のひとつ。これが暗黙の前提だった。
だから宮台真司も東浩紀もサブカルチャーについて語っていたし、そんな風にインテリにレペゼンされるのが嫌な野良の書き手と謎の小競り合いが起きて……とモメ事もその周辺で延々繰り返された。
このレペゼン枠争いはいまでも岡田斗司夫のオタキングという通称だったりがその時期の文化遺産として名残が残っている。ユリイカがたまにマンガ家特集やったりしてる所なんかもこの名残のひとつだ。
何にせよこの戦いでは深く理解をする、少なくとも理解をしようと務めた者が勝者であり価値として認められていて、これだけは立場、思想を問わず共有されていた。
これが10年代に一気にかわり、理解しているか?よりも反省させているか?が価値となった。迂闊な表象を出した作家や企業をどれだけ炎上させ反省させたか? 理解の深さを競うゲームから一抜けし、かわりに誰かを反省させることをリベラルは選んだ。
これが便利だったのはサブカルチャー批評はキャラの造形、関係性、物語、世界観、作家の意図、フェティッシュ、社会反映、二次創作での扱い。そのすべてに目配せし応答できる知能が求められたが、反省させるのは目に入った刺激に反応するだけで良いので猿でも出来る事で、強力な利点だった。
だから議員になりたての売れたい中年やバズりたいだけのNPO代表なんかがこぞってこの反省ブランディングに手を出すようになり、……このへんから後は皆の記憶に新しい内容がそのまま起きていった。
20年代には誰かを反省させた=凄い奴。が蔓延しきったのでそれに続いて、自分は反省した=凄い奴と、どれだけ反省させたか競争に更にどれだけ反省したか競争までもが加わり不毛さとナンセンスさに更に拍車がかかった。
これは当初は理解の深さで勝負してたのに、いつしか反省の深さで勝負するようになったTBSラジオの宇多丸なんかが最もわかりやすい例だろう。
今の売れ筋はtoxicマスキュリニティで、反省用アクセサリーとしては最近話題になった御茶ノ水の人なんかは全身これで固めていたし定番アイテムとなっている。
この辺りの時期ですでに宮台は映画語りだけを残し撤退していたし、東浩紀は観光客をキー概念とし、レペゼンの万能感から離れ不能さに留まることを選んだ。
このリベラルの入念で計画的な自滅によってサブカルチャーを通してリベラル的に何かを考える思想の蝶番そのものが場所とプレイヤーの両面から壊れ修復不可能になっていった。
保守やヘイターの手によってではなく自分たちで壊すことを選び、現状フィールドに残ったのは壊すことで延命できるような既に賞味期限きれなのをごまかしている評論家だけになったし
新しく出てくるプレイヤーも落合や成田のようにITビジネス系とつきあう形を選びサブカルチャーにはそもそも深入りして言及する事自体あまりない。
こうやって入念に登場の準備をお膳立てし、鍋も具材もすべてリベラルが自らの手で揃えきったあとに現れたのが暇空だった。
こういう流れがないとなぜ彼がやたらとHUNTER×HUNTERの話をするのかエロゲではランス10が最高傑作だったという話をするのかも意味がわからないし
なぜ他の候補のマンガ賢者ブランディングに対し対談で謎のクイズおじさんと化して企画を破壊してまで暴くのかそのメリットが恥をなぜ上回るのかもわからないが
彼は要はこの系譜の忌み子として出てきており、リベラル論壇が自分から手放したここの客層を単におさえただけだ
そしてその上から保守っぽさアンフェミっぽさをメッキで後乗せして支持の総量を増やそうと形づくっていってるのだが、リベラルはあまりにも愚かなのでこのメッキを本体だと思ってミソジニー枠で処理しようとしていて、ほんとうにどこまでいっても愚かだなと感じる