サラダバーのような形式で数種類の好きなミックスサラダを詰めてお持ち帰りすることができるお店。
自分は菜食主義者ではないが、時たまおやつ感覚で野菜をたくさん食べるのがすきだ。
以前ヴィーガンの友人に連れられて行った薄らオーガニックレストランで、1600円のサラダバーガーを食べた数時間後に激しい空腹に苦しめられながら街を歩き回った経験があるにも関わらず、だ。
だがそんなことはどうでもいい。それはそれとしてサラダで満たされた箱を開ける。重要なのは今だ。
サラダになにが入ってるか確認せずに適当にいろいろ詰めた箱なので中身はわかってない。要はサラダバーを殴ってドロップしたアイテムだ。
無慈悲にもサラダの死体をフォークで突き刺し、口に運ぶ。ベビーリーフ、ケール、玉ねぎ......多種多様な野菜が鳴く音がシャキシャキと小気味よい。
突如、フニャッとした。フニャ?
小粒の、やわらかい皮の内側に確かな甘さを宿すそいつは間違いなくレーズンだった。
レーズンよ、そこはお前の居場所じゃない。気づいていないのか?
確かにお前はパンやオートミールをはじめとした穀物とは仲がいい。
自身が持つ甘さゆえケーキやアイスクリームのような連中ともやっていけるだろう。
チーズとの組み合わせや、ビーフカツレツの上に松の実と共に鎮座する姿には高い潜在能力を感じざるを得ない。
だがサラダは違う。お前は野菜そのものが持つ甘みから明らかに浮いている。
久しぶりに連絡が取れた2人の友人との再会の予定をがんばって立てようとしたが他の2人が大して乗り気でなかった時のような甘みだ。
ひよこ豆やオリーブはお前が場に馴染めているかのような振る舞いをしている。だが気づいていないのはお前だけだ。
レーズンは自分だ。周りも人間関係が下手だと言うから安堵していたら、実際には場に根差している共通意識のようなものに1人だけ干渉できていなかったことに気づく前の自分だ。
2人の仲を取り持とうと空回りしていた自分を俯瞰して見てしまう前の自分だ。
このレーズンは気づいていない。気づかないままに酸の海に消えてしまうのだから幸せなのかもしれない。
レーズンを胃に落としながら、お店に陳列されたサラダの中で居心地がよさそうに座るレーズンのことを考えた。
彼らはいつか気づくだろうか。
かぼちゃサラダの中のレーズンは好きだから手放しに賛同できない