はてなキーワード: 枕草子とは
FGOに紫式部が実装されて、清少納言との百合カプはいつくる?とキャッキャしてるツイッターみてて、紫式部が陰キャで清少納言が陽キャ(もう古語やね)というざっくり知識から、色々ググって現代語訳された枕草子読み通した。
第一部だけ記憶に残ってたが、あれは彼女の良いところを思うままにつらつら紹介する文章だ。季節バージョン以外に池バージョン、木バージョン、虫バージョンなんてのもあるが正直ツマラネ。やっぱり感性合わねーんだよなぁ。あすなろの章みたいにデマと誤解で大ポカもしてるし。(この辺池上彰っぽさを感じて安心感もある。ぶっちゃけ可愛い)
代わりに頭の弁シリーズが大好き。今や頭の弁の名前だけでめめっちゃ興奮する。清少納言目線で相手6歳歳下かよ。そりゃ義弟ポジになるわ。恋愛要素ないんかーい。和歌が苦手で変わりに三蹟と称されるまでに文を磨く…には至っていない(片鱗はめっちゃ見せてるけど)若かりし頃の行成の姿がとても良かった。
定子様が出てくるエピソードは正直真っ直ぐ読めない。主人が没落する中で徹底的にポジティブに在りし日を遺したと知ってもう何も言えないわ。先に終わりを知ってしまった闘病日記のよう。いやでもこの作品の中では永遠に二人で仲良くしててほしいわ。
1000年ぶりに枕草子書いたの私だ
自然と調和する文化を持つ日本人は、古来から太陽に合わせて活動してきました。
江戸時代までは不定時法といって、日没と日の出の間を基準に昼と夜に分け、それぞれを分割して時刻を決めていました。
また、生活リズムも日が早く昇る夏は早くに起き、午睡をとって夕方からまた活動をしていました。
枕草子でも「夏は夜」と言っています。これは、午睡をとっているので、夜の活動時間が長くなるからです。
このように、日本人は太陽に合わせて自分たちの生活を変えていました。
一方、西洋では不定時法という季節に関わらない時間を採用しました。
そして夏には日が昇ってから活動時間が始まるのが不便だと、サマータイムをつくりました。
賛成する方の多くは欧米への憧れからか海外での成功事例を持ち出しますが、私はむしろサマータイムこそ日本の風習であったと言うべきだと思います。
サマータイム導入は、太陽に合わせて生活していた日本古来の知恵を復活させることなのです。
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インターネットでよく見るヤバイ教師ってほどでは無いけど、そういや自分の小学校のある教師は教育的にアウトだったんじゃないかと最近思っている。
小学生のうちは何でも簡単に覚えられるから、どんどんいろんなものを暗記しようという考えだった。
最初は後々入試とかで覚える必要があるからという理由で「枕草子」や「平家物語」の冒頭を覚えさせた。本文の意味を教えてもらった記憶は殆ど無い。
ちなみに、私の通っていた小学校では学年に1人ぐらいしか中学受験はしない。だから、その暗記した文章を使うのは何年も後の話で、その頃には私はほとんど忘れてしまっていた(これは私の記憶力の問題かもしれないが)。
つぎに暗記させようとしていたのは「雨ニモマケズ」だった。完全に教師の趣味である。その教師の好きな作家が「宮沢賢治」だという理由だった。ほかに理由は無かったと思っている。
宮沢賢治の誌の中でも比較的わかりやすいものだが、わざわざ覚える必要があるか?と感じている。あの詩は宮沢賢治の思想が十二分に含まれているし、きっと小学生には理解できない。私を含め、ほとんどの同級生は宮沢賢治の一生についてほとんど何も知らなかったからだ。彼の人生を知っていても、並の小学生は時代背景を理解して文章を読み解けるのはほんの一握りだと思っている。これは小学生に限らないかもしれないが。
その次に暗記させたのは「般若心経」だった。これはひどい。教育に自分の宗教を持ち込むなよと思う。私の家は仏教徒だがその他の生徒はどうだったのだろう。キリスト教やイスラームの家庭かもしれない。宗教的教育は公立の小学校でする必要はない。それを暗記させようとしていた頃には私はほとんど嫌気が差して覚えようとは思わなかった。記憶力の良い生徒は丸暗記していたし、それをクラスのみんなの前で流れるように唱えていた。あれは異様な光景だったと今なら思える。
1つは宗教の自由だ。日本人は比較的に仏教徒は多いが、全員ではない。また、仏教系やキリスト教系などの学校では無い普通の公立小学校である。つまり、他の宗教を信仰している生徒がいる可能性があるにもかかわらず、特定の宗教だけを教えるのは極めて不適切だと思っている。
2つ目に丸暗記の弊害だ。生徒は意味もよくわからずひたすら暗記するだけだった。果たしてそれに何の意味があるのだろう。まして、宗教的文章となると無意識的に生徒の思想を操作しているのと同じではないだろうか。
あの文章を暗記させていた教師は教頭か校長になっていると聞いたことがある。その教師は熱心に生徒と接していたので人気も高かった。きっと問題にならずに済んだのだろう。
この教師が一般的だとは思わないし、思いたくないが、探してみると案外いるのかもしれない。この文章を読んで似たような体験をした人がいたらぜひ教えてほしい。
どの業界でも似たようなこと起こってるのに自分の土俵だけ荒らされてるって感じの被害者意識だだ漏れのところが気に食わない。
例えば音楽なら、「昔は歌唱力が評価されてたのに今は握手券の有無で売り上げが決まって嘆かわしい。だけど金のためにクソみたいなJPOPのインストバージョンの打ち込みの仕事してます。やめたい。」みたいなもんでしょ。
金にならないからって勝手に殺すな。これだけインターネットが発達して個人でも世界に発信できる環境があるのに勝手にストーリー自体が死んだことにしないで欲しい。
一発芸だろうが人の目に触れるような工夫をしてる人達のことをこき下ろすのも気にくわない。日記のこともこき下ろしてるけど枕草子のことはどう思ってるんだろう。
前からそう、いつもその人がいた場所にはほのかに香りが残っている。上品で甘過ぎない大人の香水だ。残り香に触れるといつまでその場所にいたのかもわかる。香りが薄い時は随分前に出ていったのだろうなとか、香りが時間さえ教えてくれる。
平安時代には香を衣に焚き込める習慣があって、枕草子なんかにも記述があるけれど、昔から人の残り香を恋しく思うのは変わってないんだと思った。別にそれが恋愛感情でなくとも、知っている人の香りはその人に関する記憶を呼び起こさせる。それが何となく人恋しさと結びつくんだと思った。
憧れのその人には私は、経験も人柄も何も及ばないような存在だけれど、少しでも共通点を持てたらと思って、最近初めて香水を買った。いわゆる香水デビューだ。柔らかくて石けんのような香りを選んだ。本当はきっと、もっと特徴的な香りを選ぶべきだったんだろうけど、緊張して買えなかった。でもそれでいいのだ。この香りは誰かに私を恋しく思わせる必要はない。あの人との接点ができればそれでいい。
昭和の集合住宅に住んでいて平成不況と人口流出で空室が多いんだが、火災報知器が昨日誤作動して消防出動の事態になったからか、工事をしていてうるさい。うるさくてつらいので、ヘッドフォンで昔に買った音楽を聴いている。それでふと思い起こしてこの人のブログを見たんだが、いまも死んだペットのことに執着しているらしい http://ameblo.jp/mariko-kouda/entry-12243053638.html
さて、私は仏教徒だから遺骨には執着しない。遺骨に後生大事に執着するのは儒教徒だ。ちなみに中国で仏教と儒教が習合してしまって渡来したから日本では混同されている。
私は数年前にもペットが死んだけど、遺骨は残さずにパアッと処分してしまった。私は、片親殺されているが、親の遺骨を相続したくないし、親の遺産も相続したくない。
遺骨が残るのは、超高温でもなければ燃え残るからだ。火葬にするのは、インドではおそらく、遺体が腐ってむごくなるのを避けたかったから火葬にしたわけで、そうやって火葬された人の霊魂は報われていいとこに生まれかわると信じられていた。だから、偉い人、偲ばれている人は、火葬にされる。火葬にもされなかった人はいいとこに生まれかわれないと思われていた。
遺骨は残さない方が本当はよい。遺骨に執着するのは凶相だ。ちなみに世の中には「お焚きあげ」というのがあるが、捨てるに捨てられないものを焼却処分してもらう、ごみ処理である。以前流行った(流行らせた)ことばでいえば「断捨離」である。例えば写真にしても、焚きあげて処分してもらう。それを、いまでも世の中にはなんでもかんでも写真に撮りたがる人々がいるが、画像データが大変だ。そして、見て記憶に残すことを忘れて、カメラで撮るのに必死になっている。
「千の風になって」ではないが、遺骨はナノ単位にでも砕いて風葬にでもした方がよい。それとも、処分に困ったら一心寺にでも持っていけばいい。遺骨を墓碑か寺院にでも納める人は多いと思う、遺骨を手元に置いて仏壇にでも納めていると大変だ。ましてや、遺骨や位牌に執着して逃げ遅れて死ぬ人がいるが、正直に言って客観的にみて、滑稽だ。
遺骨は生きていないし、生前のものでもない。古代エジプト人ではないから、ミイラにしたらいつか復活するとも思っていないし。
生きているというのは状態であって、実体ではない。生きものというのは状態である。
死んでもうこの世にない生きもののことは、記憶には残る。忘れられない。しかしその記憶も所詮は細胞の状態でしかない。記憶している人もそのうち死ぬ。残された記録もデータであって、実体ではない。
日記であろうが、枕草子であろうが徒然草であろうが愚管抄であろうが、経典であろうが、データである。日本では驚異的なまでに昔の経巻が保存されているそうだが、それも経巻の内容より経巻そのものに執着し信仰してきたかららしく、「御真影」ではないが火事になっても必死に経巻を運び出したからだそうだ。しかし経巻を後生大事にとっておいてもしかたがない。それなら中村元の岩波文庫のやつでも読んだほうがよい。
そうならないのは、貴重な経巻が残っているということが寺院の資産であり「箔」が付くからでもあり、それで檀信徒から財施(供養)をもらっている。法要にでもなれば、漢訳経典を暗誦するんだが、聞いている方は意味不明だ。我々は漢文のネイティブではないし、そもそもその漢文はいま「生きている」言語ではなく中国に行っても話さないだろう、ラテン語みたいに学術上のものでしかない。それでもその檀信徒が財施をするのも、彼らがモノに執着しているからであり、だから古い仏像とか経巻とか建物とかをみて大したもんだといい、布施をするのである。そして、経典の中味ではなく、経典を読むこと自体が目的化している。
あの人も、遺骨もアロマドームも生きていないしうまくすれば朽ちないだろうから、後生大事に持っていれば何十年後かわからないが自分が死ぬ方が先だろう。
忘れられないのはわかるし、忘れてはいけないのかもしれない。死なないと消えない記憶というのは、ときには快いかもしれないし、ときには残念かもしれないが、ある。空襲だか「鉄の暴風」だかに遭ったり、ベトナム戦争だかイラク戦争だかに行ったりした人は、忘れられないトラウマが残ってつらいものである。ヘタすれば人は80年とか100年とか生きられてしまうから大変である。しかしその記憶もデータであって、細胞の状態である。
本当に火事になったら私は死ぬかもしれないし、そうでなくとも私もいつか死ぬ。いま聴いている音楽も、データでしかなく、ディスクがクラッシュでもしたら消える。人類が滅亡したらヒトの遺伝子も失われる、それがいつのことかは、ちょっと、わからないけど。
それにしても、あの人もそのうち50である。どうなんだろう。たしか40を「不惑」とかいったと思うが。当人も、未だに残っているファンも、互いに執着して、共依存して、期待される姿を互いに演じて定着してしまっているということもあるかもしれない。しかしそうした姿は、私の望んでいることではなかった。