はてなキーワード: キャプテン翼とは
かも。
人生今までこんな精神状況になった試しがなく、これまでも(これからも)わたしはなんの問題もない普通の人だという信念があって、だから病院には行きたくない。今少し落ち込み気味なだけでわたしに問題はないと言い聞かせている。
けど、シンプルに生きていくのがだんだん難しくなってきて、自分では判断できないからなんとなく書き込んでおく。
【現状】
完璧主義者。
好きに暮らしたくて、ちょっと無理して奮発してアパートの最上階の南向きの角部屋に暮らしているのに、最近外壁工事で日中は信じられないほどの騒音+いつも窓の外を工事のおじさんが歩いているので遮光カーテンが開けられず、一日中家の中が暗い。
朝は8時に起きてそのまま18時まで在宅でIT関連の仕事。少し家事や休憩をして20時から夜中3時まで在宅の副業。
そのまま寝てまた8時に起きて仕事。
食事はパスタを茹でて市販のソースをかけたものを一日2〜4回食べる。ビタミン、マルチミネラル、鉄、亜鉛、DHAサプリメントも一緒に飲む。間食もとてもする。韓国のりやアイスの実を無限に食べながらボーッとしている。
【症状】
ひたすら眠い。
気がつくと何か食べようとしてる。
人と会話する気になれない。
集中力が持てない。
文章が読めない。
なんとなくいつも悲しい。
整理のためにこうして書き出してみるとやっぱり鬱なのかな…自意識過剰なだけかもしれない
服薬治療してさっさと元の快活な状態に戻りたい気持ちと、薬を使って元気を出した状態に依存してしまうかもしれないという恐怖が凄まじい。今日も仕事しなきゃと思って朝起きたけど手が動かなくてそのまま昼まで寝て、いままた布団でこれを打ってる。どうして頑張れないんだろうっていう自分の理想とのギャップで死にそうだね。もうちょっと頑張ってほしい。
(追記)
わたしは生まれてから今日までものすごいオタクだしセーラームーンとキャプテン翼に育てられ、学生時代はスマの記憶しかなく今するゲームといえば軒並みソシャゲかDMMだしそもそも普段の土日だってコロナがなくても家から出ないような、通勤アンチの立派な引きこもりです。フルリモート確定の時も完全に勝ったと思ったしまさかこんなメンタルになるなんて予想出来なかったよ…
宇崎ちゃんのポスターを赤十字が起用することで社会に対して女性蔑視を広める害があるから止めるべきだというのであれば、
聖書・コーラン・資本論は現実にそれらの作品に影響を受けた人が殺人なども引き起こしている以上は発禁ですよね(棒)
それはさておいて。
『フィクションに影響力はない』とは思わない。ただし、『レイプ物のAVやエロゲーを“見た人は皆が”レイプしたくなる』ような明確な効果は無い。
キャプテン翼を見てサッカーを始める人はいる。なぜならばサッカーは少なくともそれ自体は別に悪いことではないからだ。
一方でルパン三世を見て泥棒になる人やワンピースを見て海賊になる人はほとんどいない(『全くいない』と書かないのは悪魔の証明だからです)。なぜならば見る人は『泥棒』や『海賊行為』が悪いことであると知っているからだ。
フィクションにそのような『個人や社会の道徳的・法律的抑止を乗り越えさせる』ような効果はおそらく無い。
同様に、レイプ物AVなりを見てレイプした奴は─そのように言っている人は『自分の意思の弱さを認めたくなくて単に創作物に責任転嫁しているだけ』というのが一番高い可能性だとは思うが─元々レイプに対する抵抗感が薄い人で、
AVやエロゲが無かったとしても、『道でセクシーな女を見かけたから』『狙っていた女に振られてむしゃくしゃしたから』という理由でレイプするような奴だけだ。
「だからセクシーな女は通りを出歩くな。みんな整形でブサイクになって貧乳になれ」という主張はどう考えても成立しない。
これはプロパガンダ作品も同様で、“桃太郎 海の神兵”には、元々日本への帰属意識がある人に対し、戦争に協力する意識を強めるような効果はあったのかもしれない。
ただし、元々そのような意識がない人があの作品を見て「じゃあ日本の戦争に協力しよう」と思うかというとおそらくノーだ。
宗教的プロパガンダはというと、まず宗教とは何かという定義問題と、「宗教のない社会」はおよそ実現したためしがない(※なお増田は、社会主義もある種の宗教であると見做しています)ことから、
結局は宗教的プロパガンダも、よほど異教徒への憎悪を駆り立てるようなものでなければ規制するべきではない。それを規制し始めたら、冒頭に書いたような「聖書もコーランも禁止」という凄まじい不自由社会にしかならないと考えている。
https://anond.hatelabo.jp/oytc/20200108の補足その6
鳥嶋のこの発言。
この発言に関しては、平松伸二の「そしてボクは外道マンになる」を参照。
この漫画に登場する編集者、魔死利戸毒多(ましりとどくた)は、担当編集者の引継ぎで平松伸二と初対面のとき、平松の師匠である中島徳博の『アストロ球団』をバカにするという驚きの人でなし発言をしている。
もちろん漫画的誇張があるのだろうが、鳥嶋のインタビューでの平松への対応と随分違うところが面白い。
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1810/26/news017_2.html
というか、自分が担当を引き継いだ「ドーベルマン刑事」も読めなかったと明言していたりする。
この座談会でも話題に挙がっている「キャプテン翼」も「スラムダンク」の敵(ライバル)のトレーニングシーンと成長が描かれているだろうが。
スポーツは再戦があるのだから、主人公(チーム)だけ成長していたら不自然だし、不公平な試合になり過ぎるのではなかろうか。
かなり無理があるセオリーじゃないだろうが。
鉄腕アトム(1963)
鉄人28号(1963)
オバケのQ太郎(1965)
ジャングル大帝(1965)
魔法使いサリー(1966)
ゲゲゲの鬼太郎(1968)
巨人の星(1968)
タイガーマスク(1969)
サザエさん(1969)
アタックNo.1(1969)
あしたのジョー(1970)
ルパン三世(1971)
科学忍者隊ガッチャマン(1972)
マジンガーZ(1972)
ドラえもん(1973)
アルプスの少女ハイジ(1974)
宇宙戦艦ヤマト(1974)
キャンディ・キャンディ(1976)
銀河鉄道999(1978)
機動戦士ガンダム(1979)
Dr.スランプ アラレちゃん(1981)
うる星やつら(1981)
キン肉マン(1983)
魔法の天使クリィミーマミ(1983)
キャプテン翼(1983)
タッチ(1985)
ドラゴンボール(1986)
聖闘士星矢(1986)
らんま1/2(1989)
ちびまる子ちゃん(1990)
美少女戦士セーラームーン(1992)
クレヨンしんちゃん(1992)
幽遊白書(1992)
スレイヤーズ(1995)
新世紀エヴァンゲリオン(1995)
名探偵コナン(1996)
ポケットモンスター(1997)
金田一少年の事件簿(1997)
ONE PIECE(1999)
NARUTO -ナルト-(2002)
攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(2002)
機動戦士ガンダムSEED(2002)
鋼の錬金術師(2003)
ふたりはプリキュア(2005)
らき☆すた(2007)
けいおん!(2009)
化物語(2009)
魔法少女まどか☆マギカ(2011)
Fate/Zero(2011)
ソードアート・オンライン(2012)
ガールズ&パンツァー(2012)
進撃の巨人(2013)
ラブライブ!(2013)
妖怪ウォッチ(2014)
おそ松さん(2015)
けものフレンズ(2017)
鬼滅の刃(2019)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/morningmanga/status/1195223667275231233
私は多くの人のように、「フィクションに食いつくな」とは言わない。メジャーな作品であればあるほど、誰もが気付いていない視点から問題を指摘することには大きな意味がある。「登場人物の思想と現実は別だ」とも言わない。フィクションの登場人物の思想が現実に大きな影響を与える場合は充分考えられるし、作家もしばしばそれを望んで作品をつくる。たとえば、キャプテン翼が世界中にサッカー小僧を作ったように。そして、フェミニズムに意味が無いとは言わない。声なき弱きものの剣として、それは数多くの偉業をなしてきた。
だが、最初のブクマの中でゾーニングゾーニング叫んでる人々には一切同調しない。誰でも思いつきそうな、殴り返してこなさそうな安易な一件に噛みついて騒ぐだけで、何の目新しい視点もない、追及する意義の極めて低い、単なる弱い者イジメだ。こんなツッコミ無益どころか有害でしかない。「表現の自由」というもののありがたみ、「表現を規制する」ということの重みを余りにも軽く考えている。
先日来の、自分の望むような内容のフィクションを作れとか(自分で作れ)、自分が望むような内容でない自分向けでもないフィクションの内容にケチを付けるとか(余計なお世話だ)、創作物どころか人間の多様性まで認めようとしない。他人が成熟しているのしてないのと人の精神の内容を傲慢にも審査した上で、価値の優劣までつけようとする。紛れもなくおぞましい悪魔の発想で、この世で一番権力をもたせたらダメな連中だ。
「さえない中年が少女に思いを抱く」というテーマに拒否反応を示す人が一定いるのは理解する。何人か「恋は雨上がりのように」を例に挙げている人がいたが、正直私自身はあの作品にあまり感心していない。ああ高齢読者をヨシヨシする作品だなあと冷めた感情を抱いている。だがだからといって、あの作品に感動する人がいてもそれはそれで当然だとも思うし不健全だと指弾するつもりもおきない。あの作品が中年と少女の恋愛を推進するから規制すべきとも思わない(仮にそれが実証できたとして、の話だが)。
それよりも、このテーマの作品を全否定するような人たち全員に言いたいが、あなたたちが殴っているのはたとえばこういう作品だ。
https://blog.goo.ne.jp/fuwafu-wa/e/5e3b2574e5fa6db55d8ddefe128ee492
私は大島弓子を優れた作家だと今も思っているし、この作品は彼女の短編の中でも構成、語り口等含めてレベルが高いものの一つだと思う。今回の一件を聞いて、私はすぐこの作品のことを思った。そして、多くのブックマーカーがこの作品を含めて全否定するような論調で話をしていることに、大きな危惧を抱いた。
そもそも作品を評価するか否かと、自分がそういうことをするか否かとは全く別の問題だ。別の人の人生、物の見方、世界の捉え方を知り、考えられるのがフィクションの素晴らしい点なのだから、たとえ主人公が殺人鬼であろうが何の問題もない。その作品を評価することと殺人を評価することとは、全く別のことだ。なるほど、流血シーンやグロテスクな表現が多用されるのなら「ゾーニング」は肯定すべきかもしれない(ただそれも、そのようなシーンが明らかに悪影響を及ぼすことが確かなエビデンスによって実証された上での話だ)。だが、そのような規準なしに、表現に対する規制を声高に述べることに、どのような正当性も見出せない。まして、あまりに粗雑な定義によって、あまりに大きなものを殴りつけるとなると、その行為は無意味に多くの人間や表現を傷付けることになる。
「私は、このような表現が嫌いだ。なぜなら…」それならいくらでも述べればよいだろう。「単なる個人の感想」は「個人の感想」として軽く流されるからこそ、制限もされにくいのだ。だが「規制せよ」というのは明らかに立派な一つの政治的主張だ。この社会で一つの政治的主張をするには、相応の合理性、責任と一貫性が求められる。合理性もなく責任も一貫性もない規制論者と規制論、それはただの差別主義者によるヘイトでしかない。ヘイトスピーチは、許すべきではない。
岬ってキャプテン翼じゃなかったっけ? と思ったけどあれ岬くんだったわ