はてなキーワード: グローバル社会とは
先に言うと天皇制の是非についてはネトウヨとネトサヨに任せるんで興味なし。
ただ今後グローバル人材()を育成するということで教育面への影響を考えた話。
キリスト教やイスラム教は宗派の違いはあれど国境を超えてもその人の信仰ということで一生ものの道徳律として作用する。
だけど天皇制にはそれはない。
神道と天皇制を同一にしようとする動きもまあ戦前に色々あって出雲大社が分家作って新興宗教化するくらい反発もあったけど、今になるとそのへんの境界も曖昧になってる。
キリスト教やイスラム教は、神と人という哲学的な倫理観を(是非はともかく)含むものであるけれども、かつて「現人神」なんてくだらない幻想を作り上げた歴史のある日本においてはそうした哲学は全くない。
象徴天皇として「高貴な存在」として崇めている人はいるだろうけど、その役割は災害なんかで悲しい目にあった人にたいしてお慰めをするというところにとどまっている。
キリスト教やイスラム教みたいに「XXをしたら神に認められる!」という積極的なものじゃない。
今日本の富裕層として財界や政界で活動している連中の中で、「天皇陛下に認められるためにやっている」と思っている人はゼロだろう。
つまり何か行動を起こす時に「天から自分の行動の良し悪しを判定してくれる大きな存在」がいないのだ。
だからこれからの子供に「天皇を敬いなさい。日本の象徴なのよ」といくら洗脳教育をしてもそれはグローバル人材にはならない。
せいぜい狭い島国日本国内でおとなしく親の言うことを聞き、平凡が幸せと感じる自称中流を量産することにしか役に立たない。
政治は言わずもがなだが、何せ最近まで無意味な規則があったり、道路交通の発展がやたら遅れていたり、大都市の癖に私鉄がしぶとく残っていたり、座高検査というものが無意味とわかっていて最近まで続いていたり。
それでも、私はこれは変わったといえることがある。それは、「ブラック企業」バッシングが良く作用できたということと、「バイクバッシング」がほぼ衰退したということ。
前者は日本の社会・経済的発展において止むを得ないからあの電通叩きが酷かったのはそのためだと思うんだけど、後者についてはやはり「無意味かつ全時代的価値観な叩き」というものが廃れたので良かったということ。
自転車は生活必需品で、オートバイは贅沢品という印象が大きいが、近い将来これが逆転するんじゃないの?日本なんぞこのご時勢に「日本のグローバル社会化成功を願う!!」をスローガンにしていて、日本の隣国はアメリカとロシアを除いて、自転車とオートバイの比率が日本と逆になっているし。
オートバイがらみの話が出てきたので云っておきたいけど、不良・珍○撲滅への感謝は権力だけに云ってはいけない、不良抜きに社会を楽しめるようにした社会と経済に感謝しろ。
「日本死ね」ならぬ「天皇制つぶせ運動」というものが広まっているから、次は何らかの屁理屈でそれが正当化されるんじゃないの?共和制移行が時代の要請であったとかなんだかんだでね。
市民団体の調査によると、2016年度、鉄道社会に不満を感じるという声は、全鉄道利用者の52%だった。
このうち、利用者のモラルによる不満は、85%と、不満の原因としては多数となっている。
2012年以降高校生のバイク単独所持解禁が進み、鉄道に変わる公共交通機関が十分に整備され、唯でさえ鉄道の未来が暗い時代にこういうロクでもない、グローバル社会という空気すら読めないような鉄道馬鹿が増え続けるのも困ったものですね。
日本人のモラルハザードもそうですが、ずるがしこい人がはびこるような社会下で、すばらしい人がゆとり・ポストゆとり世代から出てくると思うでしょうかと。
バカな日本社会の下で、すばらしい人が日本に住むのは割に合わない。
シドニアの騎士みてて、はたと気づいたんだけど
人間なんてねずみ算式に増やせる
謎の先入観で「絶対にどうにもならない」と考えていたが、中国の一人っ子政策並にゴリ押せば意外とどうにかなる
もちろん今はグローバル社会なのでそんなえげつない事はできない
いつかはどこかの国が実行するんじゃないかと思ってる
いずれペット感覚でホイホイ産んでもいい時代になるのではないかな?
その際には人口増加率をコントロールできるようになるといいよね
過去の歴史を振り返ると、増え過ぎたり減りすぎたりというのが極端なのだ
そこを社会がコントロールできれば、人類は新たなステージに立てるのではないか?
とは言え問題もある
現時点の政治を見るとわかるが、人間は何だかんだ言って自分が死んだ後の事をあまり気にしない
少しは考えるが、優先度はずっと低い
え、でも「このグローバル社会で命を惜しんで金だけ出しているような日本は各国の信頼を得られない」ってあんなに言ってたじゃん?
学校の勉強を「必要かどうか」「役に立つかどうか」で仕分奴wwwwwww
なぜお前は、必要性や役立ち度を「お前にとっての尺度」で測ろうとするのか?
もし必要でなかったら、あるいは役に立たなかったら存在してはならないのか?
多分できないだろうけど。
お前は今の所社会にとって必要ではない。役にたってもいない。それは確実だ。
だったら、お前はなぜ生きている?
勉強というのは、お前を社会にとって役に立つ人間にしてくれる。
そして。
理科がお前の役になったかどうかなんてそもそも理科には関係ないことだ。
今まで理科で学んできたことを、いかに目の前の問題を解決するための鍵として
理科に限らず学校での勉強が社会生活に直接役立つことは少ない。
せいぜいクイズ番組くらいだ。
お前が学んだ英語はどれだけグローバル社会で生きることの助けになっているんだ?
国語も数学も社会も理科も英語もそれ単体では学んだ意味がない。
それがなかったらどうだろう?
英語を学んでも語るべき内容を持たないのと一緒だぞ。
さあ全力でつられてやった。
社会は公民や歴史、地理など広く知っておくべき事が多岐にわたる。
だけど、理科は?
理科科目って社会とくに会社務めする上で必ずしも必要ではないと思う。
現にそういうのがいる会社はあっても、普通そういう会社に就職するなら
だけど、一般にある普通会社に就職するのに理科って必要かなと思う事がある。
よく理系大は文系とか体育会より賢いからって自慢する人多いけど、
実際の社会生活において理科が生かされる機会ってあるんだろうか。
実は生物学とか物理学って大学によっては文系の範疇にある事もある。
つまり理科系統とされてる分野ですら文系と呼べるものもあって、
話は戻るが、理科科目は本当は社会生活の役に立たないのではないか。
何故なら、それらの分野は理科と異なってちゃんと学問としてあって
もし理科系統ならば、医学部じゃなくて理科学部医学科といった学術体系に置かれなくてはならない。
故に理科は社会生活において、どの程度関与する事が出来るのか。
恐らくそこから考えない限り理科が社会生活に必要かどうか断定できないのでないかと思えてならない。
そういうのは大学以降で行うべきだ。
徴兵制や、個人の財産封鎖、その他嗜好性の把握などに繋がると憶測するメディアは多い。
国家権力にとって、
マイナンバーが国民統治の為の非常に使い勝手の良いツールになることは間違いない。
マイナンバー制の導入を防ぐには、
それ自体が人権侵害(あるいは何某かの憲法違反)になることを立証する以外にないのだけれど、
マイナンバーを使えば、
もし今後、マイナンバーを使った国の施策に反対したいのならば、
それになるかの選択肢がある。
マイナンバー=徴兵制みたいなミスリードに惑わされてはいけない。
さもなくば、我々市民はミスリードによるおかしな糾弾に力を使ってしまい、
本当に解決しなくてはならない問題への取り組み、
腐敗の道を歩んでしまう。
最終的な腐敗のシナリオは、
この記事は別にマイナンバーそれ自体をたたく為の記事ではない。
冷静に考えて、
今はそうならない様に、
ODAを強化するなどして仲間を増やしたりしてそれを防いでいるけれど、
そして、
恐らく、何よりも恐ろしいことに、
本当に良く分かっている。
敢えてそういう状況を作っている。
今は、
なんだか悲しい。
正義の為に人は、人を殺す。
彼らはなぜ人を殺すのか。
戦争をするのか。
それは、
銃で撃たれて死ぬのではなく、
同志は、
圧倒的な自由主義によって、
圧倒的な為替の差、
圧倒的なビジネスモデルの偏りで、
ファーストフード店で1時間も働けば1つのTシャツを手に入れられる先進諸国の人々と相対して、
彼らは1日中働いてもそのTシャツを手に入れられるかどうかわからない。
出来上がった格差の元に、
目の前で同志が死んでいるとしたら。
富は更に強固な富を作ろうとする。
それでも勇者は断った。
正義の為に。
半分でも断るんだよ。
今、先進国が、
半分どころか数分の一か、数百分の一か。
これは、グローバリズムの片りんだ。
そこで思考の停止を生む。
なぜ起こすかを深く考えて、
その背景をたどらなくては、何も解決しない。
何も解決をする気の無い人々に操られれてしまう。
このグローバル社会を生きなくては、
大きな力にはあらがえないが、
大きな力の中で自ら考え、自ら行動することはできる。
だから、
しっかり考えよう。
同じ人かと思ったら違う人だったか。すまん、あれ長過ぎて多分追えない罠。
で、これミクロの気持ちの問題とかじゃなくて、純粋に全体の生産効率の話でして。
「人数増えれば増えた分だけ生産効率上がる」って状況は、そもそも人類史上稀なこと。
普通は増えても増えても一人頭の生産効率は上がらず、周辺リソースは限られているため、周辺リソースの上限で維持できる人口が頭打ちになる。
ところが産業革命以降、金のシステムと流通網がリンクしていわゆる「資本主義化する瞬間」ってのは、その例外的なことが起きる瞬間でな。
それまで上の奴が下に抱え込んだ部下や家族に命令出して上から下へやってた作業が、全て人の命令と上下関係ではなく「金」で結ばれるようになり、結果家族でも知り合いでもない奴や、命令系統がそもそもない奴、誰でも協力しあって一つのものを生産する際の効率化を徹底して上げて行けるようになった。
こいつは大人数になればなるほど最初のうちは効率化がより進む。
無駄飯食いを作ってしまう差別を撤廃して、全員が等しく金で繋がる生産に関わる者とし、生産と流通の網が広がれば広がるほど、生産効率が上がっていくスパイラルだ。
当然外部と繋がるだけでなく、内部でもガンガン人を増やして効率化を進めようとしていく。
こうして資本主義化の瞬間の爆発的な人口とGDPの伸びが発生する。
ただ、一定レベルまで増えると、これ以上は人数増やしても生産効率上がらない、ってラインに入る。効率化が行き着くところまで行き着いて、グローバル社会の先進国一般水準にまで達してしまった状態。
人数が増えても、生産性の効率は上がらず、手に入るリソースはこれ以上効率的に利用できないとなると、もうそれ以上人口は伸ばせない。
一般的には、生産の効率化が進んでいくにつれ、教育コストの増大が来て、教育につぎ込んだりソースが全て、現在の生産性の高さを維持するために消費される。
誰かが誰かを支配する構造自体が、金というシステムが発達してからは、非効率的になった。
金と流通網がここまで発達する前までは、誰かが誰かを支配するのが有効だったんだけど、ね。
個人主義で人間と人間を金で結び、各々が頭脳を100%駆使して、効率化を極める方が効率的になった。
(被支配者は脳みそ使わないというか、使ったら駄目なので、その分作業効率化が出来なくなる)
まぁ、もともと、生物的に見てどっちかっつーと女が男を選択して緩やかに支配するのが向いていた生き物なのに、ある意味無理をして覆し続けてきたのが、もう限界になったってのもあるかもね。
比喩が適切じゃないんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20131102094842
を読んで思ったこと。
この上から目線問題って、本文でも指摘されているように自分の価値観を相対化できるか、という問題を孕んでるんだよね。
で、世の中にはまぁこの価値観を相対的と見なす人と、絶対的と見なす人がいる。
もちろんこれは絶対的に二分化して存在するのではなく、連続性を持って存在しているのだけど。
相対価値観のメリットには、多様な価値観を認められる、つまり、人種の多様性を認められる、ということ。
デメリットには、多様な価値観を認めるが故に、相手がどのような価値観を持っているのか毎回確認する必要があること。
絶対価値観のメリットには、絶対的であるので相手も同じような価値観を共有していると考えられるため、事前の確認なしでその価値観に乗っかった議論が出来ること。
みんなが価値観を共有しているため、価値観に付随する問題を当人の問題から価値観へ押し付けることが出来ること。
デメリットは絶対的である故に排他的になり、異なる価値観を認めない方向にいくこと。
どっちもどっちではあるけれども、全く同じ価値観を共有するには同じような環境で成長することが必要であるように思う。
同じ環境だったからこそ同じような教訓をそれぞれが得るので、同じ価値観にたどり着きやすいということ。
逆に言うと、これが日本におけるムラ社会の必然とも言えそうだ。
では今後の生活においてこれは通用するのか?というと、グローバル社会とかなんとかを考えると無理だろう。
大人数の人々が全く同じような環境で成長するとは考えにくいし、それ故に同じ価値観を共有することは難しい。
(それでも一部の先進国は民主主義を絶対的な価値観として広めようとしているが、割と滑稽である。)
従って、多様な価値観を認めることはどう抗っても必要なことになっていくように思われる。
つまり、異なる価値観に触れて自分の価値観を相対化し、また異なる価値観の中から「自分が」どんな価値観を選び取るのかが重要になってくる。
自分で選び取る以上、責任も当人に付随するので、「そんな責任負いたくない」という人は負いたくないのに責任を負わざるを得なくなる。
故に、そのような人は責任を己のものから解放してくれる、絶対的な価値観を求めたくなる。
まぁそんなところな気がするので、あなたは自分の人生にどれくらい責任を負えますかっていう問題をスルーするわけにはいかない気がします。
http://anond.hatelabo.jp/20130903002317
この人、自分と同じ高校の出身だろうか。少なくとも高校に関して書いてあることは全部一致しているので、似たような環境で育ったことは間違いない。高校時代は学年最下位クラスの落ちこぼれだったが、東大・京大クラスの大学には入れた。大学でやった予備校のバイトで、「MARCHは夢」という世界を目の当たりにして驚いたところまで一致している。
昔、高卒で派遣社員の彼女と付き合った。お互いにグルメ好きだったので意気投合し、バラエティ番組とか、お笑い芸人とか、密度の濃い友人関係とか、今まで全く知らなかった世界に驚き、毎日のできごとの一つ一つが新鮮だった。が、まじめに結婚を考える段になると、子供の教育とか、未来像が全く描けなかった。
結局、その彼女と別れて、同じような学歴の今の妻と結婚した。それまで彼女とは学歴のことなど問題になったことがなかったけれど、あらためてそのことを指摘されて複雑な気持ちになった。それでも、子供の教育方針では良くぶつかる。今から考えても、高卒の彼女と結婚することは考えなくて良かったと思う。
上のリンク先の記事を書いた人との、考え方の違いの最大の原因は、学歴に対する見方の違いだと思う。おそらく、自分の能力に本当に自信がある人間は、学歴をあってもなくても良いものだと思っている。未来には無限の可能性があると信じていた大学時代の自分もそう思っていた。
ただ、実際働いてみると、学歴がないと、高度な仕事を与えられる機会が激減するということがわかった。学歴があるから、仕事の機会が与えられ、成長することで、次の仕事の機会が与えられる。大学卒業/大学院修了直後から、このサイクルを高回転させられる人と、下積みから初めて、ふるいにかけられ、それで初めて高度な仕事が与えられる人とでは、10年後20年後のキャリアの違いは歴然としている。卓越したコミュニケーション力+技術力 or 体力でもあれば別だが、そうではない自分のような一般人は資格とか学歴に頼るしかない。特に自分の業界では取得困難な資格はなく、プロジェクトの効率が、「一番頭の悪いメンバー」に依存することから、採用側から見ても、学歴は非常に重要だ。
MARCHも難しいと考えている子供の前で、「東大なんか入って当たり前」と言い放って、子供を追い込んでしまうような親にはなりたくないけれど、自分と似て、ちょっぴりコミュニケーションが苦手であろう子供には、それを克服して、グローバル社会を楽しむ方法を見つけてほしいと思っている。新興国の労働者と競争しつつ、上司に媚びず、客に媚びず、体を壊すこともなく、自分の成長を感じつつ、楽しく仕事をするための、有力な方法が、学歴だし、少なくとも自分はそうだったわけだから、結婚相手の学歴は無視できない。大学生の自分には、こんなことは理解できなかっと思うけれど、今はそう思っている。
そういえば、小学生の頃の自分は、なぜか、貧しい女の子が王子様と結婚するというストーリーの小説を良く読んでいた。そして、「王子様になって、貧しくてかわいい女の子と結婚するんだ」というよく分からん夢を描いていた。増田で言われている「高学歴の世界」を王子様にたとえるのは趣味が良くないが、少なくとも、「自分と違う社会階層の女性と結婚しない」という、物語の王子様と正反対の選択をしたことには変わりないだろう。
友達と話していても、似たような話は良く出るから、多くの似たような環境で育った人間が、同じような判断をすると思う。もちろん、そういう話はごく限られた友人でしか話さないから、表には出てこないけれど、実際にはそんな風に考えている。だから、自分から高学歴の彼と別れた元増田の判断は正しかったのではないかと思う。少なくとも本人が傷つきたくないという気持ちをかなえるためには・・・。
社会の問題と個人の問題は違う。
この問題について言えば、多くの社会調査が示す通り、学歴は再生産され、社会の階層は固定化されている。そしてこのことは、長期的な社会の安定の維持のために大きな問題であり、これを回避するためには、奨学金の充実が必要という意見があるかもしれない。しかし、学歴の再生産が問題だから、異なる学歴の人との交際を継続しないといけないとか、した方が良いということにはならないだろう。
「グローバル社会に伍して行けるマルチ人間に仕立てなきゃならない」という強迫観念があるのでは?
だから、政府自民党内の議論で「大学生全員にTOEIC義務付け」とか、「文系大学生にも数学入試義務付け」とか、
「いや、理系学生にも、国際社会に出ても恥ずかしくないよう、日本史や古典を学ばせるべきだ」
と、とかく科目の積上げに議論が流れてしまう。
「文系大学生が、原子の崩壊方程式(って言うのですか?)を知らないのはオカシイ、義務付けるべきだ」と
吼えていたそうだが、文系の自分は、その意味がわかりません、ええスミません。
まあ曽野綾子は「文系に方程式を教育するのは不要」と語ったそうだが。
「自分の専門分野は、全学生、全日本人が知っておくべきだ」と視野狭窄に陥りがち。
こんな専門家の意見を真に受けて、学習科目を積上げていけば、日本の小学生中学生高校生は
「どのレベルの学習が、理系大学生には必須か?」という「積上げ方式」で設計すると、必ずパンクする。
無理やり詰め込みすぎると、消化不良を起こして、後々の躓きになる。
こういうのは、積上げ以上に「捨てる技術」「仕分ける技術」が欠かせないと思う。
「ここまでのレベルの学習が、理系大学生には不要では?」という引き算も定期的に行って、
あと、日経朝刊に
「大学を出たが就職できない日韓と比べ、ドイツは大学を目指さない若者が専門学校に進み、
それがドイツのグローバルニッチな中小企業に入って、ドイツ技術のレベルアップを支えている」という記事があった。
言われて見れば、ドイツには「オックスフォード、ケンブリッジ」「ソルボンヌ」
「ハーバード、スタンフォード」のようなビッグネームの大学は乏しい。
しかし、超名門大学は乏しいのに、ドイツの技術水準は高く維持されている。