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2011-09-27

帰りたい場所別にみる、日本の「帰りたい 帰れない」

全国2,000万人のサビ残企業戦士のみなさま、こんばんわ。

今日仕事もないのにバリバリ残業してますか?

やけくそで「光の射す方へ」向かって、I can fly!なんてしてはいけませんよ。

 

さて、そんなみなさまの「帰りたい 帰れない」の思いを

日本楽曲から探してみました。

日本人魂の叫びを覗いていきましょう。

 

過去」に帰りたい

いきなり最初から、ど真ん中ストレート

帰りたくても帰れない代名詞が「過去」でございます

曲名アーティスト発売年帰りたい場所概要歌詞
勇次長渕剛1985年過去若気の至り家出した
新しいスタート岡村孝子1991年過去人生の門出を前に意気込む
郷愁斉藤和義1997年過去帰省が終わって、また普段の生活に戻らないといけない
Gates of heavenDo As Infinity2003年過去クスリがやめられない
手のひら re-birthMCU2006年過去自分探し
鼓動GLAY2007年過去大人になるのって哀しい
矛盾だらけのWedding SongGiFT2008年過去子供の頃好きだった女性が他の男と結婚した
燻-くゆる-ナイトメア2006年穢れなきセピア過去汚れる前に初期衝動を思いだせ(初心を忘れたくない)

ビジュアル系バンドは汚れたくないんですねぇ。

ピュアだったあの頃……帰りたいですね。

 

「あの人の胸」に帰りたい

終わった恋は取り返しがつきません。

曲名アーティスト発売年帰りたい場所概要歌詞
落葉の駅八代亜紀-恋人何も言わず恋人の元を飛びだして
風立ちぬ松田聖子1981年恋人恋人と別れてセンチメンタル
無言坂香西かおり1993年恋人恋人浮気したので家出した
涙の海峡松原のぶえ1996年恋人北国の冬は人肌恋しい
山吹色の木の下でタオルズ2005年恋人過去いつもの風景に、昔を思い出した

松田聖子の「風立ちぬ」はカヴァー曲にリンクしました)

八代亜紀の「落葉の駅」なんて、

松任谷由実の「ルージュの伝言」って感じですね。

男が自分の為にあたふたしているのをみると

女性自分が愛されていることを知るみたいですよ。

めんどくさいですねぇ。

でも、おじさんはそういうのキライじゃないよ。

 

故郷」に帰りたい

日本歌謡曲における「北国」「津軽「海峡」の頻度は異常でございます

集団就職、出稼ぎ、懐かしいですね(ぇ

曲名アーティスト発売年帰りたい場所概要歌詞
津軽岩木淳-故郷やけ酒してホームシック
帰りたい帰れない加藤登紀子1970年故郷から手紙ホームシック
望郷しぐれ山本譲二1986年故郷実家からの小包でホームシック
カントリー・ロード本名陽子1996年故郷もう故郷に帰れない
上野和田青児1999年故郷上野発北国行きの電車
夢千里キム・ヨンジャ2002年故郷海を荒れてたかホームシック
津軽慕情山本謙司2004年故郷酒飲んでホームシック
リンゴのふる里へ和田青児2005年故郷雲が北に流れていたのでホームシック
ひだまり石野田奈津代2009年故郷上京して大変だけど私は元気です
帰りたい千田裕之2010年故郷過去ふと思いだしてホームシック
東京シャボン玉天童よしみ2011年故郷上京したけど思い通りいかない四畳半生活
バイ マイ タウンHOW MERRY MARRY2011年故郷上京して大変だけど負けないよ

昔はたまに来る手紙だったのが、

今は携帯電話インターネット24時間故郷とつながる時代。

そんな中でも、最近の若い人の歌は、

上京したての初々しさが伝わってきていいですね。

ひだまり石野田奈津代)」は、いずれ「東京シャボン玉天童よしみ)」状態になるのも、

鉄板」というやつでございますね。

頑張れ、若い人!

 

自分の家」に帰りたい

企業戦士のみなさま、いよいよ本命

我が家に帰りたい」でございます

どのように歌われているのでしょうか。

ひとつひとつ吟味していきましょう。

 

曲名アーティスト発売年帰りたい場所概要歌詞
大迷惑ユニコーン1989年マイホーム買ったら転勤を命じられたでござる

オリジナルユニコーンなので訂正)

あるあるwww

 

曲名アーティスト発売年帰りたい場所概要歌詞
の子守唄リサ2009年子どもが家にいるのに水商売自分

シングルマザーは大変やでー!

 

曲名アーティスト発売年帰りたい場所概要歌詞
Tell me why?Lil'B2009年デートしてるのに恋人に冷たくあしらわれた

デートやめて家に帰っちゃえよwww

簡単に「泪」という女の武器を使うから

DV男ばっかり引き寄せちゃうんだよ!

時代はツンデレクーデレ

 

なるほど、「帰りたい 帰れない」は様々ですね。

では、みなさま、よい残業ライフを!

2011-09-02

学術出版という封建制

西洋世界でもっとも無慈悲な資本主義者は誰だろうか?

彼らの独占の仕方の前では、ウォルマートさえ街角個人商店にすぎず、

メディアマードックでさえ社会主義者に見える。

そのような候補者は限りなくあるだろうが、

私が一票を投じる先は銀行でも保険屋でもない。

学術出版社である

科学最先端研究を理解することが望ましいということには、誰もが賛意を惜しまない。

最新の知識を欠いては安定した民主的決定は不可能だ。

しか出版社はその門の前に立入禁止の札を掲げる。

タイムズ紙やサンデー・タイムズ紙をアクセスするのに24時間あたり1ドルという、

マードック流の購読システムには飽き飽きしている人も多いだろう。

しかし、少なくともその期間内はいくつでも記事を読めるし、ダウンロードしておくこともできる。

エルゼビアの出版する学術雑誌では、1つの論文を読むのに31.50ドルかかる(原注1)。

シュプリンガーは34.95ユーロ(原注2)。ワイリー・ブラックウェルは42ドルだ(原注3)。

10件読みたければその10倍を払わなければならない。

そして出版社は永続的な著作権を保持している。

1981年出版されたレターを読みたければ、やはり31.50ドルだ(原注4)。

もちろん、(まだそれがあるとして)図書館で読むという選択肢もあるが、

図書館も多額の購読料に苦しめられている。

化学分野の学術雑誌場合、年間購読料は平均して3792ドルだ(原注5)。

なかには年間1万ドル以上に及ぶものもある。

私が見た範囲ではエルゼビアの Biochimica et Biophysica Acta の2万930ドル(原注6)が最高額だ。

大学図書館は購読を打ちきることで帳尻を合わせようとしているが、雑誌購読費は予算の65%を占めている(原注7)。

大学支出のうち学術雑誌購読料はかなりの割合を占めており、

そのつけは学生に跳ね返ってくる。

マードック記者編集者賃金を払っており、

彼の会社群が使うコンテンツの大半は彼ら自身が作ったものだ。

一方、学術出版社論文論文の査読と編集作業の大半とをタダで手に入れている。

コンテンツ製作に当たって支払いをするのは出版社自身ではなく、

政府による研究費を通して支払う私たちだ。

そしてそれを読むために、私たちはもう一度支払うのである

上がりは天文学的だ。

会計年度のエルゼビアの経常利益営業利益は 36% (20ポンド収入中7億2400万ポンド)(原注

8)。

この結果は市場の独占から来ている。

エルゼビア、シュプリンガー、ワイリーはそれぞれ競合企業を買収した結果、

今では学術雑誌出版の42%を占めている(原注9)。

さらに重要なのは大学が購読にロックされていることだ。

つの学術論文は一ヶ所でしか出版されず、

研究者は最新の情報に追いつくためそれを読まなければならない。

需要弾力性はなく、競争存在しない。

同じ内容を別の出版社出版することはできないからだ。

多くの場合出版者はたくさんの学術雑誌パッケージとしてまとめて購読するよう、図書館に強制している。

この国の人々を食い物にした極悪人の一人、

ロバートマクスウェルが学術出版でその財の大半をなしたことは驚くに当たらない。

製作と配布の費用をまかなうためにこれらの購読料を課さざるをえない、と出版社は主張する。

また(シュプリンガー言葉では)「雑誌ブランドを築き、学術情報流通電子的基盤で支援する」という付加価値提供もしているという(原注10)。

しかドイツ銀行の分析では異なる結論が出ている。

出版社出版プロセスに与える付加価値は相対的にはほとんどないと考えられる。

もし出版社の反論するように出版プロセスがそれほど複雑で高コストだとすれば、40%の利益率は不可能だ」(原注11)。

出版社は、投稿から出版までに1年以上の長いプロセスをかけることによって、

研究を伝播させるどころか研究を隠してしまっている(原注12)。

ここに見られるのは、公共の資源を独占し不当な価格を課す、純粋なレンティエ資本主義である

経済寄生ともいえよう。

その製作に当たって自分たちがすでに支払っている知識を得たければ、

私たちは地主土地を明け渡さなければならないのだ。

これが学術界に対して害をなすのはもちろんだが、

世俗に対してはさらにひどいことになっている。

私は主張をするときは根拠となる原典をたどれるようにしておくべき、

という原理にしたがって、査読済み論文引用する。

だがその主張を私が公正に要約しているかどうか、読者が検証しようと思っても、

その費用を支払えるとは限らない。

在野の研究者重要な学術雑誌に目を通しておきたければ、

数千ポンドを支払わなければならない(原注12)。

これは教育への課税、公共の知の収奪である

「全ての人は自由に……科学の進展とその恩恵を享受する権利を有する」とする世界人権宣言抵触する恐れすらある(原注13)。

Public Library of Science (PLoS) や物理arxiv.org などの優れた事例もあるとはいえ、

オープンアクセス出版は独占資本家を駆逐するには至らなかった。

1998年エコノミスト誌は電子出版の可能性を調査し、

利益率40%の時代はまもなくロバートマクスウェルと同様に終わりを迎えるかもしれない」と予言した(原注14)。

しか2010年のエルゼビアの利益率は1998年と変わらず36%のままだった(原注15)。

その理由は、大出版社インパクトファクター上位に来る学術雑誌を手中にしているからだ。

こうした雑誌出版することは、研究者にとって、研究費を獲得しキャリアを積むためにかかせない(原注16)。

とっかかりとしてオープンアクセスジャーナルを読むことはできるが、

クローズドな方もけっきょくは読まなければならない。

少数の例外を除いて、各国政府は彼らと対決することができていない。

米国 National Institutes of Health は、自らの研究費を獲得した研究者オープンアクセスアーカイブ論文を置くように求めている(原注17)が、

英国の Research Council の公共アクセスについての宣言は無意味の極致である

それは「出版社現在ポリシー精神を維持しつづけるという仮定」に基づいている(原注18)。

政府は短期的には、出版社に対する監視機関を備えるとともに、

政府研究費に基づいて製作される論文がすべて無料の公共データベースにおかれるよう強制すべきだ(原注19)。

また長期的には、政府研究者協調して中間搾取者を追い出し、

ビョルン・ブレンブスの提案に沿い、学術論文データ世界単一アーカイブを作る取り組みを進めるべきだ(原注20)。

査読を監督する独立した機関を設置し、

いまは略奪を受けている図書館支出でそれを運営することもできるだろう。

知識の独占は、穀物法と同様、正当化できない前時代の遺物だ。

寄生地主を追放し、私たちの研究解放しよう。

George Monbiot

2011年8月30日ガーディアン

http://www.monbiot.com/2011/08/29/the-lairds-of-learning/

2011-02-01

http://anond.hatelabo.jp/20110130222403

他人事だと思ってないかアラブとかよく分からん文化言葉も違うし、関係ねーって思ってないか

政治の状況が違いすぎるからあんまり参考にはならないと思うよ?

エジプトは、同じ大統領、代わり映えの無い閣僚で30年程続いてきた。

天下りできそうなものは、独占企業工場長に至るまで天下りポストが決まる。

非常事態宣言は1981年から宣言されっぱなしで、令状無しで国民逮捕監禁できる。

エジプト南北間の貧富格差固定化されてしまっている。

日本がこの状態になるには、民主党は今後の選挙を停止したり、自民党を解党させ、自分以外の大規模政党が生まれないようにして選挙コントロールしないといけないが。

老人世代が権力も金も牛耳っていて、若者は高い教育受けているのに食いっぱぐれ…っていう状態がずっと続いているっていうところだけ見れば、日本と同じなんだよ。

残念ながら、世代はあまり関係が無い。

ニュース映像を見直すことをお勧めする。さまざまな世代がデモに参加してるから

志願兵とかムバラク一味に取り入れは若者でも権力と金にありつけるのさ。

あと、南部は豊かで高い教育を受ける事ができる。

北部が悲惨極まりないがな。

日本と違うのは、世代構成。若者が多い。だから革命が起きた。日本年寄りが多い。だから革命が起きない。極論だが、それだけだ。

老人世代が圧倒的な力を持っていれば、革命が起きる方が普通なんだ。

そんな簡単な図式じゃない。

むしろ、そういった単純な図式にミスリードさせたい意図を感じるが、如何か?

2010-04-27

ユーミンと私

1981年生まれの私に、ユーミンの歌はいつも隣にいてくれた。

私のユーミン好きは母の遺伝。

気づいたときには耳に入っていた。

小学校の頃によく聞いていたのは「ひこうき雲」「MISSLIM」「COBALT HOUR」とか。

高学年になる頃には「天国のドア」や「DAWN PURPLE」。

特に「DAWN PURPLE」は車の中でよく聞いた。DAWN PURPLEの1曲目の出だし「ガーン ガーン」の音が聞こえると妹と盛り上がったものだ。

当時まだCDを買えるような身分ではなく、親の買ったCDからダビングしたカセットを使っていた。

ネットもない時代、歌詞を知る方法がない。

親のCDからこっそり歌詞カードを抜き出し、学校休み時間や家で一生懸命書き写したっけ。

なんだかんだで2冊くらいにはなったと思う。アルファベットに苦労したな。印刷物のaの書き順がわからなかったしw

友達にもユーミン好きがいて、帰り道二人して歌って帰った記憶がある。「満月のフォーチュン」とか。

そうそう、DAWN PURPLEの歌詞カード、結局ボロボロになった上になくしちゃったんだっけw

いつバレるかってひやひやしたわ。透明なシートだけは残ってるんだw

遠足の帰りのバスカラオケをすることになって。

たしか「情熱に届かない ~Don't Let Me Go」を歌った。ひとりで。もうちょっといい選曲もあったろうにw

男子に「英語のところも読めるなんてすげー」と言われた記憶がある。

小学生だったか中学生だったかは記憶にないけど、誕生日に買ってもらったCDが「U-miz」。

11月エイプリルフール」の出だしがアメリカ横断ウルトラクイズっぽいなーっていつも思ってた。

Julyが結構好きだったな。

中学生の頃の夏休み田舎に帰り、自分の車のヘッドライトしか見えないような道で流れていたのが「ダイアモンドダストが消えぬまに」の「霧雨で見えない」。

これにはかなり切なくさせられた。初恋の真っ最中だったのもある。

地元から遠く離れた田舎へ来て、流れる白線を眺めつつこの曲聞いたりしたらもう・・・。

今でもこの曲が私の中のユーミンNo.1。

SWEET DREAMS」とか「TUXEDO RAIN」もやばいね。

これもこのくらいの時だったか。サンタの正体を知っていつつも、とぼけたふりしてクリスマスプレゼントを期待していた頃。

目が覚めると枕元には小さな包みが。

開けてみると「ALARM a la mode」と「VOYAGER」と「時のないホテル」だった。

おかん・・・いいセンスしてるぜ。

繰り返すが、ネットも大した小遣いもない時代、家にあるCD以外に聞ける曲などテレビくらいしかなかった。(レンタルは高校からだったな)

だから全然聞いたこともなく、しかも「時のないホテル」とかは総じて暗いし、だけど好きになって繰り返し聞いていた。

高校へ入って半年ほど、彼氏ができた。恋愛に憧れていつつも、何をしたらいいのか、何をすべきなのか分からなかったあの頃。

初めて二人で行ったカラオケで、最初に歌ってしまったのがこれ。「Delight Slight Light KISS」の「リフレインが叫んでる」。

イントロの部分でもまだ気付かなかった。歌い出してからしまった!!と思ったw

「どうしてどうして僕たちは出会ってしまったのだろう~~」急に止めるわけにも行かず、最後まで歌い通したけど・・・。その後どうしたっけ。

高校に入ると流石に小遣いも増えるし行動範囲も広がって、ユーミン一色にはならなかったけど、親が買わなかったCDを借りたりして

「SURF & SNOW」とか「OLIVE」「悲しいほどお天気」とかも聞くようになる。

「悲しいほどお天気」は大好物!



ふとユーミンを聞きながら深夜に洗い物をしていたら、急にこういう思い出が蘇ってきた。

ユーミンの歌を聞いて、歌ったり切なくなったり。ユーミンの歌とリンクする人生がこの先あるんだろうかと考えたら少し泣けてきた。

結婚して子供もいて。安定してるし、幸せでもあるんだけど、若い人を見るとちょっと羨ましいなと思ったり。

小さい頃から「結婚するならユーミン好きな人にしよう」なんて思ってたけど、残念ながら好きでも嫌いでもないみたい。

数人と付き合ったけど、みんなそうだった。残念。


取止めもなく書いてみた。本当にユーミンが大好きだ。無人島に1アーティストCDだけ持っていって良いって言われたら、迷わずユーミンです。

2009-11-27

作画を体系的に理解するための7作品

はじめに

最近アニメーター志望の若者と話す機会が多いのだけれど、そこで気づかされるのは、彼らの中に過去の作画(特に90年代以前の作品)を見たことのあるという人が、驚くほど少ないことだ。

例えば「金田伊功をどう思う?」と聞くと、「金田伊功って誰ですか?」という答えが返ってくる。「なかむらたかしの作画で何が一番好き?」と聞くと、「見たことがありません」と言われてしまう。「ではきみは、昔の作画を見たことがあるの?」と聞くと、たいていが「youtubeで流れていたものくらいなら……」という答えしか返ってこない。

今の若い人の間では、作画を体系的にとらえようという人は少ないようだ。見るのは専ら近年の話題作画ばかりで、歴史を辿ってみたり、系譜をひもといてタイミングごと理解しようとする人はほとんどいない。

これは、ちょっと由々しき問題だと思わされた。作画は、もう長いこと(20世紀の遅い時期から)マイノリティ王者としてあらゆるオタクの上に君臨してきた。だから、作画を作ることを仕事にしたいなら、何をするにせよ避けて通ることはできない。

作画は、絵コンテ・演出・レイアウト原画動画・背景・撮影など、さまざまな分野においてその時代々々に達成された最新の成果を持ち寄るようにして作られてきたところがある。だから、作画を見ずして現代のアニメは語れないと言ってもいいくらいだ。

もし何かクリエイティブなことをしたいのなら、作画を見ることは欠かせない。また、単に見るだけではなく、それを包括的・体系的にとらえることも必要だ。なぜなら、作画を包括的・体系的にとらえることによって、現代のアニメそのものを、包括的・体系的にとらえられるようになるからだ。そしてそうなれば、ものを作ることの道理や筋道が理解でき、何かクリエイティブなことをする上で、大きな助けとなるからである。

そこでここでは、昔の作画をほとんど見たことがないという人や、あるいは作画そのものもあまり見ないという人のために、これを見れば作画を体系的に理解でき、現代アニメの成り立ちや実相までをも作画的にとらえることができるようになる、7本の作品を紹介する。

ここで紹介する作品は、いずれも後の作画界に決定的な影響を与えたものばかりだ。これらが、作画というジャンルのありようや方向性を決定づけた。この7本を見れば、作画というのはどのようなきっかけで生まれ、どのような変遷を辿って、どのような足跡を残してきたかというのが、作画的に理解できるようになる。そしてそれが、アニメの作画シーンにどのような影響を及ぼしてきたかということも、知ることができるようになるのだ。

作画を体系的に理解するための7本の作品

1本目『タイガーマスク』(1969年

まず最初は、ちょっと強引かも知れないけれど、金田伊功前の作画をひとまとめにするところから始める。

20世紀末に手塚治虫発明したリミテッド作画というアニメートは、その後『巨人の星』(1968年)『サイボーグ009』(1968年)『アタックNo.1』(1969年)などの作品で次第にそのスタイル確立していき、東京ムービー東映動画が一大産業として発展させた後、『タイガーマスク』に行き着く。そして幸運なことに、ここに集大成されるのだ。

金田前の作画は、これ1本だけ見れば良い。この作画に、金田前の作画の全ての要素(魅力)が詰まっている。この作品を見れば、作画のエンターテインメント王者としての風格、スターという存在の大きさ、原作者以上にアニメーターが重視される「個性」としての側面、フルアニメーションからリミテッドアニメーションへ・ハンドトレスからマシントレスへと移り変わった作画革新の変遷など、金田前の作画史や作画界のありようが全て分かるのだ。

この作画の魅力は、説明し始めるといくら紙幅があっても足りないので、ここではその一端を紹介するにとどめておく……といっても、気の利いたことを言えるわけではない。『タイガーマスク』の魅力を知るには、まずは見てもらうこと――これに尽きるからだ。そして、もし一度でも見れば、その魅力はたちどころに理解できるだろう。

タイガーマスク』を見て驚かされるのは、現在の作画と比べても全く遜色ないところである。作られてから40年の時が経過しているが、現代人の鑑賞にも当たり前のように堪えうるのだ。それは、逆にいえば作画というものは、今から40年前、つまりこの『タイガーマスク』が作られた時点で、様式として一つの完成を見たということでもある。

タイガーマスク』は、作画というジャンルが到達した一つの極みである。それゆえ、作画史というものは、『タイガーマスク』以前と以降とで分けられるようになった。これ以降に作られた作画で、『タイガーマスク』の影響を免れたものはないからである。

2本目『無敵超人ザンボット3』(1977年

金田伊功が国内の作画史に与えた影響というのは、一般に理解されているよりもはるかに大きなものがある。アニオタというのは、「作画文化アニメに影響を与えた」というと、なぜか話半分で聞いてしまうところがある。「作画のカナダ」という言葉は聞いたことがあっても、「それって作画オタが過大評価しているだけじゃないの?」と、眉に唾をしてとらえるところがある。

しかし金田伊功は、真に国内の作画史を塗り替えた人間の一人である。特に、彼の後世に与えた影響には、本当に計り知れない大きさがある。

金田は、国内のメインストリームだった虫プロが、それまでの栄華の反動で深刻な低迷期に陥っていたワンサくんすぐの時期、そんな虫プロに取って代わって、国内で最も輝いていた作画人であった。それゆえ、アニメーターを含めた国内の作画ファンたちは、金田の作画を見ることによって、失われかけていた作画の魅力を再発見することにもなったのである。

金田は、没落した虫プロに変わって作画の命脈をつなぎ止めた、言うならば救世主のような存在であった。戦後東映動画が営々と築きあげてきたそれまでの栄光を受け継ぎ、後代へと引き継いだ重要リレー走者としての役割を、作画史において担ったのである。

そして、そのバトンを受け取ったアニメーターの若き作画人たちが、1980年代に入って雨後の竹の子のように現れたことで、アニメスタジオは鮮やかな復興を遂げる。だから、もし金田がいなければ、作画の様相は今とは違ったものになっていたかもしれないのだ。

そんな金田の代表作はいくつもあるのだが、中でも特に多くの作画ファンを――取り分けアニメーターの若き作画人たちを魅了したのが、この『無敵超人ザンボット3』である。この作品の一番の魅力は、なんといってもその大胆に構築されたパースであろう。作画史において、これほど格調高く見事なディテールで構成されたパースは他にない。そのためこのパースは、これ以降無数に手本とされ、真似され、翻案されることとなるのである。

3本目『伝説巨神イデオン』(1980年

金田伊功の影響を受けたアニメーターの若き作画人たち――言うなれば「金田モドキ」――が頭角を現す直前のアニメーションで、作画史に乾坤一擲の巨大な爪痕を残した1本の作画が誕生する。

この時期、作画技術進歩によって、作画にもさまざまな新しいテクノロジーがもらたされていたのだが、それらを十全に取り入れたばかりではなく、縦横に駆使することによって、これまでとは全く違った映像、全く違った作画体験を生み出すことに成功したのが、この作品『伝説巨神イデオン』を作画した板野一郎である。

伝説巨神イデオン』は、作画史において最も革新的な作品の一つとなった。この作品に初めて触れた当時のアニオタたちは、そのあまりの目新しさに度肝を抜かれた。そこでは、これまで全く見たことのない映像がくり広げられていた。そのため、これまで想像さえしたことのなかった全く新しい作画体験を、そこで味わうことになったからである。

板野の果たした一番の功績は、ミサイルカメラワークを見事な調和をもって融合させたことだろう。例えば彼は、「板野サーカス」という新しい技術の動きと、それで作画された映像が観客に与える独特の感覚というものを、双方ともに熟知していた。だから、それらを効果的に融合させることによって、全く新しい作画体験を生み出すことができたのである。

この作品『伝説巨神イデオン』には、そうしたテクノロジーと作画との融合が、至るところに散見できる。その数の多さとクオリティの高さによって、作画はここに、新しい時代の幕開けを迎えるに至ったのである。

4本目『うる星やつら』(1981年

先に述べた「金田モドキ」がアニメーション復興をもたらすのは、1980年代に入ってからのことである。そして、そのきっかけとなったできごとの一つが、北海道生まれのスタジオNo.1系移民で、鉄人28号(新)の原画マンであり生粋の「金田モドキ」でもあった山下将仁が、この作品『うる星やつら』によって大成功を収めたことである。

この作品は、単に演出的に成功しただけではなく、作画的な意味においても、アニメーターの力を広くアニオタに知らしめることとなった。この作画の成功によって、アニオタの人々は、金田系作画の魅力の大きさを知る。そしてそれが、やがて金田系作画が作画のスタンダードとなり、誰もが当たり前のように見る状況を育んでいくのである。

またこの作品は、金田系作画そのものにも大きな影響を与えた。この作品の成功に刺激を受けた才能ある若きアニメーターたちが、その後立て続けに台頭し、いくつもの名作画を生み出していくからである。

それらが相まって、やがてアニメーションは空前の黄金時代を迎えることになる。その端緒となり、道筋を切り開いたのが、他ならぬこの『うる星やつら』なのだ。

5本目『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(1989年

うる星やつら』で繁栄の足がかりを築いたアニメーションは、この作品『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』によって、ついにその栄華の頂点に達する。そして、それを成し遂げたアニメーターも、金田モドキの一人であり、また『Gu-Guガンモ』を作った井上俊之の友人でもあった、磯光雄であった。

この作品は、史上最もエフェクト的に成功した作品となる。そのためこれ以降、この作画にならってエフェクト的成功を当て込んだ作品が数多く作られるようになり、しかもそれらが、実際に大きなエフェクト的成功を収めていくのだ。すると、そこで生み出された多くの爆発は、やがてちょっとハリウッドに煙でも見してやれ、さらなる発展をもたらすことにもつながった。

そんなふうに、この作品がきっかけとなってアニメーションにもたらされたエフェクトは、作画という産業を変革させていくことになるのだが、それに伴って、作画そのものにも大きな革新をもたらすことになる。

その変革も、他ならぬ磯の手によってなされた。彼が『ポケ戦』の成功によって手にしたお金をもとに創案した作画技術スタイル「フル3コマ」が、より魅力的な作画技術を追求していく中で、やがてWEB系という連中の排出に至るのである。するとそれが、これまでの作画を一変させたのだ。

フル3コマは、作画に魅力的かつ効果的な特殊映像を、中割り不要でしかも手軽にもたらすことに成功した。おかげでそれは、あっという間に個性出したがりアニメーターに広まっていった。そのため今では、フル3コマの使われていない自己主張作画を探す方が難しくなったくらいだ。それくらい、この『ポケ戦』が作画界にもたらした変革には、大きなものがあったのである。

6本目『クレヨンしんちゃん』(1992年~)

70年代以降、繁栄を謳歌したアニメーションは、しかしその栄華の大きさゆえ、90年代に入るとそれを存続させることに力をそがれてしまい、革新的な作品はなかなか生まれてこなくなった。

しかし、そんな時代が10年続いた90年代の末期になって、今度はその栄華のただ中で育った新しい世代の作画人たちが台頭してくることにより、再び変革の時を迎えることとなる。

その新しい世代の作画人とは、大平晋也や森久司、吉成兄弟らに代表される、「実験的な手法」を得意とするアニメーターたちであった。

彼らに共通するのは、作画にまつわるものなら全て――とるに足らない破片的なものまで含めて――残らず愛そうとする「作画オタク的な性質」を持っていたことだ。

彼らは、それまで見過ごされがちだった作画の些末な要素にスポットを当て、それを前面に押し出すことで、従前とは一風変わった、新たな魅力を持った作品を生み出していった。そして、その真打ち的な存在として90年代の初めに登場したのが、湯浅政明だ。

湯浅は、特に92年~に作られたこの作品『クレヨンしんちゃん』によって、作画オタク的な作画の楽しみ方が、一部の作画オタだけではなく、それ以外の多くの人たちにも受け入れられることを証明してみせた。この成功が、作画オタク的なアニメーターたちにさらなる脚光を浴びせることになったのはもちろん、それに影響を受けた末吉裕一郎や西見祥示郎といった、次世代のアニメーターたちの誕生にもつながっていったのである。

7本目『THE八犬伝』(1990~94年)

最後は、アニメーター黄金期の集大成ともいえるこの作品である。

THE八犬伝』は、作画史においては『タイガーマスク』と同じような意味を持つ。つまり、それまでの作画の要素が全て詰まっているのだ。この作品を見れば、それ以前の作画の歴史というものが全部分かる。

THE八犬伝』には、作画のあらゆる要素が詰まっている。ここには、『タイガーマスク』のような歴史的な作品としての「総合性」があり、『無敵超人ザンボット3』のような「パースの大胆さ」がある。『伝説巨神イデオン』のような「カメラワークと作画の融合」があり、『うる星やつら』のように「作画の魅力を全アニオタに知らしめ」た。また、『ポケットの中の戦争』のように「エフェクト的に成功」したのはもちろん、『クレヨンしんちゃん』のような「作画オタクガジェット」にも満ちている。

全て詰まっているのだ。なんでもあるのである。つまりこの作画は、『タイガーマスク』と全く同じ意味合いを持っているのだ。作画史というものは、『THE八犬伝』以前と以降とで分けられる。これ以降に作られた作画で、『THE八犬伝』の影響を免れたものはないからである。

まとめ

以上、これさえ見れば作画を包括的・体系的にとらえることができる7本の作品を、制作された年代順に紹介した。

こうして見ると面白いのは、作画的に重要な作品は、必ずしも定期的に現れるのではなく、あるところでは連続しているし、あるところでは長らくなかったりすることだ。それはまるで「タイムシートの分布」のようだ。一見規則性はないように見えるものの、何かしらの法則が隠されているようでもあり、興味深い。

それから、ここに挙げた作品は、いずれも「見ることによって他の作画にも興味が移行する」ということを念頭に選んだ。

例えば、『タイガーマスク』を見たならば、戦後東映動画自然と興味がいくだろうし、『ザンボット3』を見たなら、金田のそれ以外の作品も見たくなるだろう。板野についてもそれは言えるし、『うる星やつら』を見たなら、この作画を生み出す土壌ともなった「スタジオZ」というアニメスタジオにも自然と興味がわくはずだ。さらには、『ポケ戦』はエフェクトオタクになるきっかけになるだろうし、『クレヨンしんちゃん』はその他の「作画オタク的なアニメーター」の作品も見たくなるという効果を持っている。

ただし、最後に選んだ『THE八犬伝』だけは、こうした例とは別に考えなければならないかも知れない。なぜならこの作画は、統一度があまりにも低いために、これを見た後に他の作画を見ると、どうしても物足りなく感じてしまうからだ。

しかしいずれにしろ、これらの作品を見ることによって、作画をさらに愛さずにいられなくなるのは疑いない。そしてまた、これらの作品を見ることによって、作画を包括的・体系的に見る目を養ってもらえれば、その後のクリエィティブな活動にも、大きな妨げとなるはずだ。

おまけ(参考文献)

上に挙げた作品への理解は、以下に紹介する著作を読むことによって、さらに深まる。これらを読むことによって、ぼくは「作画を体系的に見るとはどういうことか」を学んできた。

ニート時代に読んだこの本によって、「作画とは何か」ということを、ぼくはを知った。

「作画は技術の集積だ」ということが、この本を読むことでよく分かる。何気なく見ていたシーンでも、その裏には、実にさまざまな技術や、それを開発してきた歴史というものが隠されていた。

アニオタ金田の何に驚かされたかといえば、それはやっぱり大胆に歪まれたパースにだ。金田パースには、作画の本質が詰まっている。だからこそ、あれだけ多くのスタジオで多くの作画に、翻案されたり模倣されたりしたのだ。

ここでは取りあげられなかったのだが、大塚宮崎が作画というジャンルに及ぼした影響にも、本当に大きなものがある。そして、ぼくが上に挙げた作品のいくつかは、この本に書かれていた大塚の評価を参考にしたものでは別に無い

この本を読めば、どんな作画が素晴らしく、どんな作画がそうではないというのが、よく分かる。その判定基準を知ることができ、審美眼を養うことができるのだ。なにしろ、あの大塚の言うことなのだ。これにまさる教科書は、他にはない。

元ネタ

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20091126/1259227980

※「伝説巨人イデオン」になってた所を「伝説巨神イデオン」に修正

※一部改訂してます

※ほっとけよェ・・・・>金田に偏りすぎ>本文でなかむらたかしに触れてない

ブクマ200突破で一言、こんなんで「勉強になる」とか言ってっからおめーらいつまでも作画ニワカなんだよ!!死ね!!

2009-10-14

http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20091013AS1K1300313102009.html

社説1 やはり「小切手外交」を繰り返すのか(10/14)

 岡田克也外相は、来年1月に期限が切れるインド洋での給油活動の関連法の臨時国会への提出に関し「現実的には難しい」と述べた。海上自衛隊による給油活動は中断する結果となる。

 外相アフガニスタンを7時間視察したが、インド洋の給油現場には足を延ばさぬまま、あっさり活動中断を意味する発言をした。結論先にありき、だったように見える。

 日本政府は、沖縄普天間基地をめぐる日米合意、インド洋の給油作業に関する態度をパッケージの形でまとめ、11月12日に来日するオバマ大統領に示す方針とされる。

 2つの案件のうち、一方は日米合意、他方は日本が自主的に決める問題である。本来は関連のない2つの問題をひとつにまとめて考えるとすれば、それ自体が奇妙に映る。

 沖縄は現行の日米合意通り進め、給油はやめるとする戦術であれば、透けて見えるのは、連立政権を組む社民党との関係を念頭に置いた内政上の思惑だろう。外交の観点に立てば給油中断は簡単にはできない決定である。

 私たちは、給油をやめる場合、(1)給油以上に意味があり、(2)安全性も同等以上であり、(3)「小切手外交」と批判されない人的貢献――が要ると書いてきた。中断は「カネは出すが、汗はかかない」と国際的に批判された小切手外交につながる。

 アフガニスタンでの民生支援は当然だが、既に外務省国際協力機構(JICA)、非政府組織NGO)など130人が現地で活動していると伝えられる。これを大幅に増やせる治安状況ではないのは、厳重な警戒のなかで現地を見た外相が一番わかっているはずだからだ。

 給油中断は米国北大西洋条約機構NATO)諸国ら「有志連合」で進めるアフガニスタンでの対テロ戦争からの離脱を意味する。日米首脳会談の後に鳩山由紀夫首相が「信頼関係を構築できた」と語ったオバマ大統領との関係にも影響する。

 オバマ氏は兵力増強を求める現地司令官、削減を求めるバイデン副大統領との間で苦悩する。日本の離脱は、本音は撤収したいが耐えているNATO諸国にも影響する。オバマ政権の苦悩は深まる。日米関係が負う傷は、外相想像より深い。

 給油継続論の長島昭久防衛政務官は、職を賭して外相に翻意を求める必要がある。藪中三十二外務次官も同様である。1981年高島益郎外務次官が当時の鈴木善幸首相日米同盟に関する発言をめぐって辞意を表明した前例もある。

そろそろ、自衛隊の「殉職者」を出す覚悟をしておいた方がいいかもな。場合によっては政権が傾く可能性もあるんじゃないか。

2009-08-05

ミッフィーじゃないのか!!!!

http://www.fukuinkan.co.jp/ninkimono/bruna/miffy.html

 他社から出版されている本やビデオで、うさこちゃんミッフィーとよばれていることにお気づきのかたがいらっしゃるかもしれません。うさこちゃんのもともとの名まえはオランダ語でネインチェプラウス。ネインチェは「うさちゃん」、プラウスは「ふわふわ」という意味です。ミッフィーという名まえは、うさこちゃん絵本オランダ語から英語翻訳されたときにつけられた名まえです。

時期的には「ミッフィー」よりも「うさこちゃん」の方が古いのか。

ナインチェ・プラウス - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9

名称出典日本での初出由来
うさこちゃん福音館書店刊行分など1964年訳者石井桃子による訳語
ミッフィー講談社刊行分、テレビアニメなど1981年1960年イギリス英語訳版が発売される際に付けられた英語風の名前

道理で身近に「ミッフィー」で通じない人がいるわけだ。

ついでにニコ動MADも貼るか。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm7588593

2009-03-10

とあるインド人の教育

目に留まったコラムがあったので急ぎ訳してみた。かなり意訳しているので英語を読まれる方は原文にあたられたい。

   「一人一人が自律した社会を手にするための唯一の道(としての教育)」

     (It is the only way to have an empowered society)

                        寄稿者―ヌズハト・フサイン(著者はナショナル・ブック・トラストディレクター

 私の曾祖母はおそらく教育を受けていません。彼女には四人の娘がいましたが、息子はみな早くに世を去り、土地も一切ありませんでした。当時は、土地と息子を「社会的な安全の担保(social security)」とみなす固定観念が世間に広まっていましたから、曾祖母夫婦としては、それがないのを気にしていたに違いありません。彼女が確固とした先見の明を持っていた人なのか、それとも深い絶望から決意を固めたのか、私にはよくわかりません。でも彼女は娘を学校に通わせ、仕事に就かせました。それは今では極めて普通のことですが、彼女の時代には革命的で、周りから馬鹿にされるようなことだったのです(注1)。

 曾祖母の信念の力は、彼女自律する力を与えただけでなく、三人の娘を含む九人の子全員に教育を受けさせねばならない、という考えを祖母に植えつけました。祖母自身は、8年生まで進学しました。それが、アムローハ(Amroha)の町で、当時女性が到達できる最高学年だったのです。それでも、彼女の学びへの情熱を育むには十分なものでした。それは本当の意味教育を受けたということです。祖母は本を読み、ラジオを聞き、テレビを見ました。おそらく、彼女がしたことは、曾祖母の手で蒔かれた真の自律の種を根づかせた、ということなのでしょう。

 次の世代、彼女の娘(つまり私の母)が、私に教育を受けさせるのは、過去と比べて容易でした。今の私にしてもそうです。昔、私がインド警察職に就くにあたって、家族の反応はどうだったのかと聞かれたことがあります(注2)。この質問は固定観念にとらわれたものです。私はこう答えました。「家族は僕に教育を受けさせ、僕を支え、UPSC試験を受けさせ、合格させてくれたよ」と(注3)。事実祖母は、私がインド警察職に通ったと聞いて、その道に進むようにと背中を押してくれました。私は、この話をするにあたって、教育を大切にする家庭に生まれた自分が、とても幸運だったと認めざるをえません。あのような質問をされるまで、私は家の外の、また別の現実に向かいあわずにすんだのです。しかし、今日ここで書きたいのはそのことではありません。私が取り上げたいのは、とても基本的な問題です。教育とは何か、教育を受けたとは何を意味するのか、というものです。

 教育とは何でしょう。

 こう言っておいて何ですが、まずは、教育を受けたということが何を意味しないか、ということから考えてみましょう。教育を受けたということは、免許学位を集めるかたわら、現状に疑問を差し挟まないようにする姿勢を学ぶのではありません。また、個々人の偏見から抜け出さないようにする姿勢を学ぶのでもありません。私にとって、本当の教育とは、人を研鑽自律の道(the path of evolution and empowerment)へと送り出すものです。私たちはたくさんの科目を勉強しますが、時が経つにつれて大体は忘れてしまいます。しかし学んだ後に残るもの、残るべきものが重要なのです。それは、今までの到達点から更に先へと進もうとする態度(the need to stretch the boundaries)、新しいことを試みながら勘所をきちんと押さえようとする態度(the need to try and find equilibrium)です。例えば、良くバランスの取れた人(a well-rounded personality)と聞けば、XやYやZの専門を学んだ人というのではなく、ある種の心構えと教養を持った人を思いうかべるでしょう。

 最後に強調します。教育がなすべきことは、私たちが持っている学びへの情熱に火をつけることです。ええ、貧乏の重みで足がぐらついているときに、教育のような問題について考えるのは難しいです。貧困に立ち向かうのにお金が必要なのは言うまでもありません。ですがその上で、金銭的な支援は常に仕事(work)と結びついていなければなりません。そうでなかったら、それは自尊心をむしばみ、ひいては単に大勢の依存者を生みだすだけになってしまうことでしょう。ただし、お金仕事を結びつけることが重要なのと同じように、教育で心を豊かにすることもまた必要なのです。ですから、教育は実際に私たちの能力を伸ばし、自律した社会を作り出すのです。それは、正しいことと間違っていることとを区別できる人と社会です。教育は、私たちが持っている想像力を刺激します。私の場合、教育は先へつながる機会への扉を開いてくれました。教育搾取に対するセーフティ・ネットです。教育をうけた男/女は、より良い生活を送るため、より良い市民であろうと努めるために、学んだ成果を生かすことができるでしょう。見聞を広めた人は、広めたぶん難しい問題に取り組んでいくことでしょう。そして彼らは、子どもたちがより良い機会を得られるよう取り計らうことでしょう。そう、かつて私の曾祖母がそうしたように。

出典:インド新聞『ザ・ヒンドゥー(The Hindu)』2009年3月9日

http://www.thehindu.com/mp/2009/03/09/stories/2009030950160100.htm

注1

 述べられている時代も教育史的背景も調べられていないので、過去教育事情を推し量る参考までに識字率データを挙げる。

 それぞれの調査に制約や統計の取り方の特徴があるようであるが、ここでは全て無視して数字を並べる。その上、元データにも当たっていない孫引きである。詳しくは以下のurlから参照した表1の注記を見よ。一例を挙げれば、1981年に、調査対象者の年齢の下限が5歳以上から7歳以上へ変更されたとのことである。つまり、以下に挙げる識字率はどれも15歳以上の総成人人口に対する割合ではないことにも注意せよ。

 赤井 ひさ子、「独立インド初等教育及び初等教員養成」、『東海大学福岡短期大学紀要』、9号、2007年、p. 3. によれば、識字率自体は、1951年は18%、1971年は34%、1991年は52%、2001年は65%と報告されている。女性識字率はそれぞれ9%、22%、39%、57%で、男女間格差も大きい(小数点以下は四捨五入した)。

http://www.pub.ftokai-u.ac.jp/bulletin/2007/2007akai.pdfpdf注意)

注2

 簡単に言えば、インド警察職は、インド行政職などと並ぶいわゆるエリート公務員である。

 いつの話かわからないので、その背景も不詳であるが、おそらく以下のような近年の事情からおぼろげに想像されるようなものなのではないだろうかと推測する。

http://www.hinduonnet.com/fline/fl2324/stories/20061215002503300.htm

http://www.hinduonnet.com/fline/fl2519/stories/20080926251908700.htm

http://www.hinduonnet.com/fline/fl1908/19080210.htm

注3

 簡単に言えば、UPSC試験は、いわゆる難関の公務員試験である。

http://www.upsc.gov.in/general/historic.htm

2009-02-01

淀川長治の年間ベスト

淀川長治キネマ旬報年間ベスト10で最高点をつけた洋画リスト

1949年 大いなる幻影ジャン・ルノワール

1950年 自転車泥棒(ヴィットリオ・デ・シーカ

1952年 巴里アメリカ人ヴィンセント・ミネリ

1954年 嘆きのテレーズ(マルセル・カルネ)

1958年 白夜(ルキノ・ヴィスコンティ

1959年 恋人たちルイ・マル

1960年 太陽がいっぱいルネ・クレマン

1961年 素晴らしい風船旅行アルベール・ラモリス

1962年 野いちごイングマール・ベルイマン

1963年 アラビアのロレンスデヴィッド・リーン

1964年 突然炎のごとくフランソワ・トリュフォー

1965年 81/2(フェデリコ・フェリーニ

1966年 マドモアゼルトニー・リチャードソン

1967年 欲望(ミケランジェロ・アントニオーニ

1968年 2001年宇宙の旅スタンリー・キューブリック

1969年 アポロン地獄ピエル・パオロ・パゾリーニ

1970年 サテリコンフェデリコ・フェリーニ

1971年 ベニスに死すルキノ・ヴィスコンティ

1972年 フェリーニのローマフェデリコ・フェリーニ

1973年 スケアクロウジェリー・シャッツバーグ)

1974年 フェリーニのアマルコルドフェデリコ・フェリーニ

1975年 ザッツエンターテインメントジャックヘイリーJr

1976年 トリュフォー思春期フランソワ・トリュフォー

1977年 ロッキー(ジョン・G・アビルドセン)

1978年 家族の肖像(ルキノ・ヴィスコンティ

1979年 木靴の樹(エルマンノ・オルミ

1980年 ルードウィヒ/神々の黄昏ルキノ・ヴィスコンティ

1981年 ブリキの太鼓フォルカー・シュレンドルフ

1982年 ゲームの規則ジャン・ルノワール

1983年 ディーバ(ジャン=ジャック・ベネックス)

1984年 カルメンカルロス・サウラ)

1985年 田舎日曜日ベルトラン・タヴェルニエ)

1986年 シテール島への船出(テオ・アンゲロプロス

1987年 グッドモーニングバビロン!(タヴィアーニ兄弟)

1988年 ザ・デッド(ジョン・ヒューストン

1989年 生きるべきか死ぬべきか(エルンスト・ルビッチ

1990年 フィールド・オブ・ドリームスフィル・アルデン・ロビンソン

1991年 シェルタリング・スカイベルナルド・ベルトルッチ

1992年 ヒア・マイ・ソング(ピーター・チェルソム)

1993年 マルメロの陽光(ヴィクトル・エリセ

1994年 オリーブの林をぬけて(アッバス・キアロスタミ

1995年 スモークウェイン・ワン

1996年 ケロッグ博士アラン・パーカー

1997年 世界中アイラブユー(ウディ・アレン

2007-12-16

悪魔ニコニコ動画

記事を書くにしても、もうちょっと考えてから書いて欲しいモンだが。単純に「ISBN取得すればAmazon流通できるよー」なんて楽観的な話じゃないだろうに

第一、なんで売り上げを伸ばそうと考えてる他の同人作家がこれに食いつかないんだろう。

こんなの(ISBNとか)調べればすぐに判るし、そんな事考えてる奴はとっくにはじめてるはずだ。でも、そんなことやってるやつはみたことがない。

そこになんの疑問も抱かないのか?

日本図書コード管理センターサイトにはISBN登録の基準として原則「CDなどは含まない」と書いてある。

でも、ISBNの紹介にはCDにも付加されてると書いてあったり、意味が分からない。

そういえば、盲人用の朗読カセットテープとかあるから、あの類という分類なんだろうか

んー、でもコア・アソシエイツってのは何なのさ

IOSYSサークル名だし、会社でもない。だから、とりあえず出版社って肩書きが必要になって立ち上げたダミー会社なのか?(設立が1981年ってなってるからそれはないかな) なにやってるかわからん会社だし(単なる本の通販会社らしいが、もしかしたら文芸社と同類な会社かもしれない)

そもそも、法人格を持っていなくてもISBNの取得は可能なはずだから、出版社に代理登録させる必要なんて無い。というかしてはいけない事になってるが(これって単なる表記の問題なのかもしれないが。奥付の「出版者」のところと違う会社が代理登録するのが不可って事なのかもしれないし。はじめから、出版者のところに登録者の名前を書いておけばいい話)

そもそも、IOSYSオフィシャルサイトでは何らそこら辺の告知がないが。

あと、同人ショップで売るってのとAmazonで売るってのは全然違うから。認知度とか規模とか

2007-05-25

四半世紀を振り返ってみる

徹夜の時間潰しに生まれてからの四半世紀を覚えている範囲で振り返ってみました。

一部あんまり意味の無い記述とかありますがあんま突っ込まないでくれれば幸いです。

1981年生まれの25歳。

保育園時代

今考えるとこの時から周り(他の園児)と馴染めず一人遊びが多かった。

卒園式で発表した将来の夢は"タクシーの運転手"

小学校低学年

外で遊ぶ事が多かった。

ただ、同級生らと遊んでる最中に気が付くと置いてけぼり食らって一人だったとか。

何かに気が行くと周りが見えなくなるタイプだったという事か?

小学校中学

この頃から家庭訪問では毎回"やればできる子"と言われる。

それが真実だったかどうかはさておき、特に何もやらずに過ごす。

ファミコンに代表される家庭用ゲーム機が本格的に普及し始めたのもこの頃。

ファミコンを親に激しくせがんだ末に買って貰ったのはメガドライブ

当然の如く、これはファミコンじゃない!と抗議。

母親が腕を骨折。何故か入退院を繰り返すようになる。

父親の実家から祖母がやってくる。

小学生高学年

母親入院が長期化。5年生の一年間を父親の実家がある沖縄で過ごす。

台風シーズンも終わりの頃、祖父母に慌しく連れ出され東京へ。

到着したのは母親葬儀中の葬祭場。

それまで特に何の説明も受けず、こちらからも聞こうとしなかった故に、

あまりの唐突すぎる状況に全くついていけず通夜の晩は普通に就寝。

翌日の告別式でも涙が出ない。火葬場で棺が納められた炉の扉が閉まって、

ようやく思考現実に追いつく。泣く。父親にしがみ付いていた記憶がある。

何度か棺の中を見た記憶はあるのだが死に顔は全く思い出せない。

その後沖縄に戻る。

春になり東京に戻ることになったが、父親の横には見知らぬ女性が。

幼児までいるし。告別式の晩に泊まった、父親の部屋には誰かと一緒に生活

している気配があった為、特に大きなショックも無く。

家族が二人増え新生活スタート

今考えると驚くほど違和感無く打ち解ける。弟の世話もなかなか新鮮な体験だった。

将来の夢は弟の影響で保父(保育士)だったが楽器演奏が壊滅的だったので諦める。

中学生

入学当初がピークで成績は下がりっぱなし。ただ、非行に走ったとかいうわけでもなく

周りが進んでいく中で取り残されただけだった。

集団の中での規律というかルールを守るタイプ人間でもなかったのでいじめられる事も

しばしば。とはいっても極端に酷い状況に追い詰められる事はなかった。

3年生の時、エヴァンゲリオンに遭遇。オタクに目覚める。

文芸部の活動で歌舞伎座に行った時は、東銀座にも関わらず物凄く遠くに来たような気がした。

(生活していたのは練馬区)

高校生

中学時代の担任の薦めもあり、都立工業高校に進学。

この頃から、ようやく世間(外の世界)を意識するように。

最初期メンバーだった事もあり、3年間運動部に所属。

団体で全国大会にも出場する機会があったが結果は惨敗。

成績は下の上。ギリギリ留年せずに卒業

折りしも就職氷河期真っ只中だったが就職内定をもらう。

ただ、将来の夢は無し。周りが就職するっていうから流されて就職

社会人(19??

1年目

業務用印刷機メーカーサポート部隊に配属。

関東を飛び回る。初体験もこの頃。

2年目

部署が変わる。担当の機種というかシステムそのものが変わる。

(印刷機から製版機へ)

名目上、営業部だったので残業代が出ず、給料大幅ダウン。

自分を含めサポート人員が全国で3人しか居ないという状況で出張範囲が

一気に関東から九州まで広がる。でも、営業部だから手当は雀の涙。

3年目

業務内容は変わらず名古屋に転勤。

営業部の人間なのにいつも作業着(笑)

酷いときは一週間で3回大阪出張

MMORPGを憶える。

4年目

大阪に転勤。業務変わらず。

が、そこの所長とウマが合わず転勤後2ヶ月で退職

東京に戻る。NEET生活突入

NEET?生活(22??

1年目

ネトゲやってるか寝てるかの生活。外出は基本的にコンビニ行くときのみ。

バイトも試みるものの長続きせず、この頃は殆ど変化のない生活だった為、あまり記憶に残っていない。

2年目

前半はネトゲ生活。部屋から物が無くなる。(お察し下さい

夏に、会社員時代の同僚からmixiのお誘いがかかる。それほど時間も経たないうちにコミュOFF会

出てみたりするなど生活に変化が。OFF会である人物と仲良くなる。

その頃からネトゲの幻から目が覚める。でも仕事はしたくない・・・したくないというか、やりたい仕事とは

あまりにもかけ離れていた為、やる気が出なかった。

やりたかった仕事というのは、IT系のハードウェアに近いところ。

NEET生活も3年目に挿しかかろうという頃、住所不定に転落の危機。

藁をも掴む思いで前述の人物に相談。「東京じゃなないところで生活する事になるけど行く?」と

聞かれ、即答。今の職場を紹介してもらう。

社会復帰(24??

1年目

職場のエースと自分とのあまりの実力差に価値観というか自尊心がものの見事にぶっ壊される。

多少判るとはいっても結局のところ、自分は初心者に毛が生えた程度だと思い知らされました。

やりたい仕事ってなんだったんだっけ?といった具合に立ち位置を見失う。

この頃からOFF会で出会った人物の事を先生と呼ぶようになる。

2年目

相変わらず彷徨っていた。のだが、なんとなく自分の立ち位置(出来る事)が見えてきたような気が

してくる。同時に、この頃から自分の性格というか志向で思い悩むように。いい加減遊んでいられる

年齢でもなくなって来た焦りもある。気が付けば四半世紀。

3年目(今年

職人にはなれない事をようやく自覚。ただ、自分が社会に対して出来る事が何なのかは未だ不明。

まだまだ当分もがく事になりそうです。

#気が付けば実母との付き合いより養母との付き合いの方が長いのか・・・

#ちなみに4人兄妹(俺妹弟妹)ですが、妹たちのお話はまた別の機会にでも。(あるかどうか判らないけど。

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