はてなキーワード: キネマ旬報とは
現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論や交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法は誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである。
注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである。
調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたことである。そして同じく白樺派の有島武郎や長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生・木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブな意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。
心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。
牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報の文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである。
もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブな用法も多かったようだ。
この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。
もとは『The Scarlet Empire』というタイトルのアメリカの小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。
私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ
こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。
真夏の暑い日に遠く法華宗のお題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。ものが煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。
「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。
議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写。結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか。
かるが故に自己の生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級の城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度を採用することは一に権力者に反抗する意志を学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護の有為なる人材を作ることになる。
この式場隆三郎も白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか。
勿論コチコチ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所を認識する感服癖さえある。
昭和10年 ギュスターヴ・フローベール『ジョルジュ・サンドへの書簡』
では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。
翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。
戦前は武者小路実篤を中心に、小説・詩歌・戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論や交渉が煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。
それに関してわかりやすいのは「国会会議録検索」で、戦前の「帝国議会会議録検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉の文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。
となると次に気になるのは「議論が煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブな文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。
しかし日本側は表面上は「朝鮮総連を相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤が相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから、問題は煮詰ってしまった。
やはり人間は災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのときの判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。
ハイ・スクールからジュニア・カレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジ・ライフで煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである。
ああいう自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。
「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まっちゃう」「煮詰まっちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」
昭和60年 毛利子来・岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』
「結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法は議論や交渉の文脈でしか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか。
ちなみに、この「行き詰まる」用法が誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰まる 誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。
といったところか。
「煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。
それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブなイメージを適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブなイメージを適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。
もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然な感覚である。当初から「煮詰まる」は多義的な比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。
元ラーメンズ・小林賢太郎が、過去に行ったお笑いコント公演の中でナチスによるユダヤ人虐殺をジョークのネタにした事が発覚し、この情報が海外にも拡散してサイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)の知るところとなり、東京五輪開閉会式の総合演出担当を解任されましたね。
小山田圭吾の障害者虐待が世間一般に広く認知された結果、小山田が東京五輪開閉会式の音楽担当を辞任した際には、一部の人間が「90年代には、悪趣味・鬼畜系カルチャーが存在を許されていた、時代の空気が存在して云々」と小山田を擁護し、それに対して町山智浩は「小山田圭吾は悪趣味・鬼畜系とは無関係(だから、自分[町山智浩]たちには責任は無い)」と反駁しました。
ラーメンズは悪趣味・鬼畜系ではないと思いますが、間違い無くサブカル領域に属する芸能人です。また、今回問題視された90年代半ば当時の彼らの芸風が、当時の、いや、今もサブカル界隈に根強く蔓延る「不謹慎なことを言う/するのがオモシロイ/カッコイイ」と云う風潮の下に成立していたことも明らかでしょう。そして、この風潮を作り出すことには、旧体制『映画秘宝』界隈も関与していたと言えます。たとえば『キネマ旬報』の編集部を襲撃して同誌の編集部員に暴力をはたらいたことを、町山智浩はパイ投げ事件などと称して矮小化して面白おかしく笑い話扱いしていますが、アレは「言論の自由を脅かす暴力事件」以外の何物でもありません。しかし、サブカル界隈の身内贔屓の体質は、町山智浩の仕出かしたことに対して真摯な批判や反省を行うことを忌避する道を選びました。昔から、サブカル業界人は身内贔屓が大好きで、これは松江哲明の性的強要・搾取にダンマリを決め込んだのを見ても判るように、今も変わりません。
ラーメンズがお笑いコントの中でナチスのユダヤ人迫害・虐殺をジョークのネタにしたことに関して、擁護として「米国のサウスパークや英国のモンティ・パイソンもジョークのネタにしているのに、何故、彼我に批判の差が有るのか?」と言う人もいましたが、個人的には、連合国側の人間と枢軸国側の人間では、それをジョークのネタにする資格に差が有るのではないかと思います。何か死傷者を伴うような事件があって、それをジョークのネタにするのは、被害者の親族が言うならまだしも、加害者の親族が言ったらアウトになるのと同じです。
一般的な傾向として多くの日本人は、自分たちが枢軸国側であったこと、戦時中にはナチス政権ドイツと同盟国だったことについて、自覚が稀薄だと私は思います。だから、ナチスドイツをポップカルチャーの一部として、エンターテイメントとして、カジュアルに消費するのだと思います。
さて、エンターテイメントとしてナチスドイツの残虐行為を楽しむといえば、長年に渡って率先してそれを実行し続けてきた人間が、旧体制『映画秘宝』に1名います。ナチス強制収容所ネタのエクスプロイテーション映画が大好きと公言し、自ら「所長」と名乗ってそれらの作品の"素晴らしさ"を布教している、赤毛で入れ墨だらけのオジサンが1名。そう、高橋ヨシキです。高橋は、間違い無く、悪趣味・鬼畜系の範疇に属する人間です。高橋ヨシキによる布教活動は、日本において「ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺を、カジュアルに楽しんで消費しても許されるのだ」と云う風潮を作ることに寄与し続けてきました。
もちろん、高橋ヨシキの存在や布教活動が、ラーメンズを生み出した訳ではないでしょう(ラーメンズのネタの公表よりも、高橋ヨシキの布教活動開始の方が時期的に後だと考えられますし、世間的に認知されたのも、ラーメンズの方が高橋ヨシキよりも先でしょうから)。しかし、ラーメンズのネタが世間に発表されてしまった後、長年に渡ってそれが見過ごされたのは、観客である一般人たちの中に「コントのネタなのだから(批判するのはおかしい)」「たかがフィクションのネタに何をマジになってるの?」と云う間違った考えや言い訳の口実が存在したからです。これは、ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺と云う出来事が"エンターテイメント・コンテンツ"として、誤った"市民権"を獲得していたからでしょう。そして、高橋ヨシキによる「ナチス強制収容所エクスプロイテーション映画は素晴らしい!」という布教活動は当に、その誤った"市民権"を獲得するための活動でした。だから、次のようには言えると思います。
「高橋ヨシキによる『ナチス強制収容所エクスプロイテーション映画は素晴らしい!』と唱える布教活動は、ラーメンズのネタの"誕生"には影響を与えなかったかもしれないが"生存"には影響を与えたであろう。したがって、その点については、高橋ヨシキ及び彼に同調した人間に責任が有る」と。仮に時代の空気と呼ぶべき何かが有ったとしても、それは勝手に生まれたのではなく、それを意図的に作り出した人間がいるのです。この場合、それを作り出した人間の一人は、間違い無く高橋ヨシキです。
SWCの人たちも驚愕するのではないでしょうか。21世紀の日本で、ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺をネタにしたエクスプロイテーション映画を「面白い!素晴らしい!」と公言・賞賛し、他人にも観るように推奨活動している人間が存在して、しかも堂々とメディアに登場し続けていると知ったら。誰か英語が得意な人がいたら、高橋ヨシキがしていることをSWCに報告すると良いかもしれませんね。もしもそうなった時、町山智浩はSWCに対して「悪趣味・鬼畜系カルチャーをやっていたのは、電通・ホイチョイ・フジテレビに対する対抗心が有ったから」と弁明できるのでしょうか。見ものです。
それと、SWCといえば思い出しましたが、長年に渡る町山ウォッチャーならばご存知のとおり、過去に町山智浩自身が他人に対して「オマエのことSWCに通報しといたからな」と言ったことがありました。その矛先が自分の近しい人間に向けられた時、町山智浩はどうするでしょうか。
この投稿は以上です。
http://anond.hatelabo.jp/20170414013324
名前 | 2016年のベスト(一部2015年) | リンク | 所感等 |
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週刊文春ミステリーベスト10 | 国内 『罪の声』塩田武士 海外『傷だらけのカミーユ(文春文庫)』ピエール・ルメートル | 年末恒例! ミステリーベスト10 - 週刊文春WEB | 40回も続いている老舗。 |
このミステリーがすごい! | 国内 『涙香迷宮』竹本健治] 海外 『熊と踊れ(ハヤカワ・ミステリ文庫)』アンデシュ・ルースルンド、ステファン・トゥンベリ | ― | 1988年~ |
本格ミステリ・ベスト10 | 国内 『聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた』井上真偽 海外 『ささやく真実 (創元推理文庫)』ヘレン・マクロイ | ― | 1997年~ |
ミステリが読みたい! | 国内 『真実の10メートル手前』米澤穂信 海外 『熊と踊れ』アンデシュ・ルースルンド、ステファン・トゥンベリ | ― | 2007年から早川書房が実施。 |
SFが読みたい! | 国内『夢みる葦笛』上田早夕里 海外 『死の鳥 (ハヤカワ文庫SF)』ハーラン・エリスン | 2016年のベストSF小説は? 『SFが読みたい!』ランキング特別公開 | 1990年から早川書房が実施。 |
映画本大賞(キネマ旬報) | 『日本映画について私が学んだ二、三の事柄〈1〉―映画的な、あまりに映画的な』山田宏一 (2015年発行が対象) | 【公式】映画本大賞 2015 結果 | キネマ旬報 | KINENOTE | ハイコンテクスト。 |
歴史・時代小説ベスト10(週刊朝日) | 『室町無頼』垣根涼介 | 週刊朝日「2016年 歴史・時代小説ベスト10」を発表! 〈PR TIMES〉|dot.ドット 朝日新聞出版 | ちなみに『この時代小説がすごい!』(宝島社)は過去3年は12月に発行されていたが2016年版は発行されていない。 |
http://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/syaryou08
これよく話題になるけど
・ポスターを見て気になって映画を見て、ポスターと映画に満足した人
・ポスターを見て気になって映画を見て、ポスターに騙されたと思った人
・ポスターを見て見る気にならず、後々レンタルで見て面白くてポスターがクソだったと気付いた人
・ポスターを見て見る気にならず、後々レンタルで見て面白くなくてポスターが優秀だったと気付いた人
などなど、
どうもオリジナルを改変することはNG派が多そうなので逆に気になった次第
君の名は、確かに面白かったし、完成度も高かったと思うけど、新しいや表現、視点を自分は感じられなかった。キネマ旬報で、2位だったシンゴジラは、現実にゴジラが現れたらどういった対処がされるかって視点が斬新だったし、1位だったこの世界の片隅には戦時下の日常を描くという点がとても新鮮だった。嫉妬ではなく、何を評価するかって問題でしょ。
残念だがそれほど人気がない。
俺は英国在住のおっさん。年始にロンドンで見たが、そもそも上映している映画館が少ない。毎日上映している映画館はロンドンで2-3か所。860万人住んでいるのに。
月に数回上映がそのほかに数か所。以上。ザッツオール。公開後1月以上経過しているから減ったのだろう。
客の入りは5割くらいで、そのうち6割がイギリス人、4割は東洋人。中国人韓国人日本人。
イギリスのメディアが君の名はを絶賛した、という記事は俺も見た。口コミサイトの評価も見てみたが、非常に良い。
更には上映後のイギリス人の反応を観察してみたが、満足そうに見えた。
ゆえに入口でのハードルなのだろう。ただし内容について「感動」「ラブストーリー」というよりは「展開が早く引き込むストーリー性」「映像の綺麗さ」が評価されているように思う。
若者のラブストーリーである「君の名は」がイギリスでアジア圏のようなヒットにならない理由は以下のように推察している。
今でも完全にそうです。宮崎アニメのように家族で見に行くならともかく、ラブストーリーをアニメで見ようという発想は世間の若者に全くないように思うし、他人に知られたら恥ずかしいことと思われる。
なお本作では奥寺先輩が煙草を吸ったり、瀧が酒を飲んだりするので12歳規制がかかっている。
作品にのめり込めるか、一番重要なのはこの点だと思う。瀧が三葉が男性として女性として魅力的に描かれているか。
多くの日本人には、瀧はイケメン、三葉は高校時代は可愛く大人時代は美人、という設定に異論はないと思う。
欧米人から見ると、経験に基づく推測だが、瀧も三葉も体が薄っぺらすぎる。
瀧は本人のときでもかなり「中性的」に寄っている。欧米人からジャニーズは中性的な子供に見えるということと同じである。
(3人組のうち)高木くらい男くさいほうがいい。イギリス人は瀧に対してこう言いたくなるだろう。「もっと肉を食え、ラグビーで体を鍛えて、女性を守れる男になれ、髪形もベリーショートかリーゼントにしろ」(適当
三葉は単純に子供に見えていると思われる。もっとグラマラスな魅力が出てこないとラブストーリーの主人公という雰囲気が出てこない。シャイな性格もマイナスだ。瀧の三葉くらい気が強いほうがウケる(作品内でもそうだったが)。
イギリス人のラブストーリーは顔を0.3フィートくらいの距離まで近づけてロマンティックな言葉を囁きあう感じなので、瀧と三葉の恋愛動作は非常に幼く見える。こちらの高校生は結構オトナである。
山頂で出会うシーンもイギリス人なら、強くハグして、濃厚なキスをして、0.3フィートである(超適当)。名前を書きあっている場合ではない。出会って3秒でハグキス0.3フィートである。高校生にそういう描写が許されているのかは知らない。
ラストシーンでいったん声をかけずにすれ違ってしまうシーンには、階段の一番下から大きく手を振って「Hey!!!, I think I met you sometime and somewhere!!!」と大声を出さないのか不思議であろう。奥ゆかしさは理解されてもそこから生じる感動は理解されないと思う。実際に泣いている人は少ししかいなかった。クライマックスの「すきだ」も字幕だからね。手によくわからん文字が書いてあって字幕でI love you。ちょっとねえ。
日本人のおっさんである俺にとってどうだったかというと「超面白かった」。イギリス、日本、機内の計3回も見てしまった。最初に見たのは機内だったが、中年のおっさんがうるうるしているのを見てCAさんはドン引きしていたことであろう。少し気になるのは日本での作品への「評論」である。確かに整合性がおかしいところは多い。私は3年のずれに気づかないことよりも、この広い宇宙で隕石が1200年周期で同じ場所を直撃することのほうが超天文学的確率というか、分母が10の何乗になるのか、そのほうがずっとありえないと思いながら見ていた。変電所の爆破は中部電力に連絡が行ってしまったので町を救ったからお咎めなしになるものではあるまい。ああいう会社は融通をきかせるのが難しい。テッシ―の「髭剃れ」の話は収監されていたから?などとも思った。しかしながら、内容の整合性に難があってもそれ以上の魅力で引っ張ってくれれば私はそれでいいと思う。官僚や銀行員のような減点主義で映画を見てもつまらんでしょう、と個人的には思う。
キネマ旬報のベスト10がどういう選考基準なのかHPを見てもよくわからなかったが、アジアで数千万人を引き付けた映画よりも、日本映画だけでも10個も上位があったら、それって大ニュースなのではないかと思う。売れる映画と良い映画は違うというのは一部分かるが、それよりはもっと簡単に説明できる言葉があるのではないか。スノビズム。大衆は見る目がない、ということだもの。
同業の監督や評論家の「売れる要素だけ詰め込んだ」とか「モチーフがありきたり」の批判に対しては、おっさんは長く生きているので、30年前の「ノルウェイの森」騒動を思い出す。「100%の純愛小説」と付けてクリスマスカラーで売り出した同書は「君の名は」と同様に爆発的に売れ、今ほど有名でなかった村上春樹をスターダムに押し上げると同時に、評論家から「誰でもかける薄っぺらい通俗小説」「ありきたりの三角関係」などの多くの批判が浴びせられ、その騒動で村上春樹は心を痛めて日本を離れた。彼の作風にも影響が出てしまった(軽妙さが失われた)と思っている。
元増田「キネマ旬報は廃刊しないよとデータで示した方ありがとう。ただ、ブクマコメント欄やトラバなどを読んでるとやはりある種、廃刊する予感は否めない。そう感じる人も多いのではなかろうか。」
「キネマ旬報」新編集長に青木眞弥氏 100周年に向けデジタル対応&紙面刷新 - 文化通信.com
清水 キネ旬の雑誌事業は、単独として長らく実質的な赤字なのですが、以前は(ビデオソフト業界誌の)ビデオインサイダーの業績が良く、キネ旬の赤字をカバーしてきました。ところが、昨今ビデオグラムのマーケットが大幅に縮小し、ビデオインサイダーも収益を落としています。そこで、キネ旬の雑誌事業も単行本事業やデジタル事業と連携することで、事業としてしっかりと成立させることを考えています。最近は経費削減や、単行本の管理会計の強化によって、だいぶ収益が改善してきています。また、キネ旬もこの2年間は部数が微増しており、根強いニーズを感じています。ようやく単独で何とかやれるようになってきたかなという状況になったので、100周年に向けて、投資を拡大しようという考えです。
よかったね。
映画や作品をdisる気は毛頭なかったしありがちな話題なのでスルーだろうなと思って投稿したらやたら盛り上がったので続きを。
http://anond.hatelabo.jp/20170118083140
ただ、ブクマコメント欄やトラバなどを読んでるとやはりある種、衰退してる感は否めない。そう感じる人も多いのではなかろうか。
作品性以外の要素、音響設備やコミュニケーションツールとしての映画館を楽しみとしている層の増加である。
結構なことで否定すべきものは何もないが、おそらくここ2〜3年でキネマ旬報は廃刊になるのだろう。
映画会社の努力によりエンターテイメントとしての映画は盛り上がっているのは間違いないが、芸術性として評価すべき映画はやはり廃れる運命にあるのだ。
何かが失われている流れに気がつかない人もいるのだろう。
「君の名は。」がキネマ旬報ベスト選外となったけど、これは、日本の映画批評における下記の(伝統的な)問題点の象徴する出来事なので、みんなもっと大騒ぎすればよいと思います。
最初の問題点。日本の映画批評は、アニメーション映画を適切に評価することができません。
キネマ旬報のベストテンにランクインしたピクサー映画は、何本でしょうか?少し考えてみてください。答えは、ゼロ。ゼロですよゼロ。世界のアニメーションに革命を起こした「トイストーリー」も、障碍児童の冒険譚をウェルメイドに仕上げた「ファインディングニモ」も、冒頭からほとんどセリフを用いることなく世界の荒廃を描いた意欲作「ウォーリー」も、トリロジーの最終作として圧倒的な完成度を誇る「トイストーリー3」も、ベストテン選外になっています。ピクサー以外でも、「アナ雪」も選外なら、2016年は「ズートピア」も選外。正気かよ。日本のアニメーションに目を向けても、例えば故 今敏の作品は1本もランクインしていません。「千年女優」を超える絢爛な日本映画が2001年に10本あったか?「東京ゴッドファーザー」を超える抑揚の効いた感動作があったか?「パプリカ」のイマジネーションを超える作品があったか?「パーフェクトブルー」ほど低予算の映画で、今なお国境を越えて評価され続ける映画が何本ある?
次の問題点。日本の映画批評は、映画自体の良さではなく「他国における賞レースの結果」や「興行成績」や「過去の監督作の評価」などの外部要素に引き摺られすぎる。
2000年以降、ピクサーを筆頭にCGアニメーション映画が映像面、シナリオ面での革新を重ねる中、たった1本だけキネマ旬報ベストテンに名を連ねた映画があります。2009年「戦場でワルツを」。レバノン内戦における監督自身の記憶を辿る、という半ばドキュメンタリーのような内容の映画で、ここ数年の作品でいえば「アクトオブキリング」ような手触りの、とてもいい映画です。とてもいい映画なんですが、たぶんこの映画がキネマ旬報ベストテンにランクインしたの「アカデミー賞やゴールデングローブ賞の外国語映画賞部門にノミネートされた最初のアニメーション映画」だからなんですよね。あと反戦映画だから。反戦映画と、海外の映画賞をとった映画は日本の映画批評において高く高く評価されます。
興行成績の良い映画の評価も引き下げられます。興行成績がよい映画は「おれが評価しなくてもいいだろう」という寝言をいいながら、実のところ「自分は年に100本も200本も観ているのだから、パンピーと同じランキングには出来ない」という薄っぺらながら自意識を守るために、本当はすごく面白かったのに、8位とか9位に入れたり選外にします。2016年も「シンゴジラ」より「クリーピー」を評価して、ズートピアを選外にしたハゲがいましたね。「こいつらは友達が多いから、ほかの人が評価してくれる」って言い訳しながら。一言。邪念が多いよ!!面白い映画は普通に評価しろよ!!いや、確かに「クリーピー」は面白い。その通り!映画に順位をつけるもんじゃない。その通り!けど、正直「シンゴジラ」と「ズートピア」より「クリーピー」のほうが順位が上、とい上のはさすがに無理があります。
過去の監督作に評価が引き摺られすぎる、というのはイーストウッド映画の過大評価が最も有名でしょう。確かに、イーストウッドの映画は面白い。本当に良い映画ばかりです。でも「グラディエーターとアメリカンビューティーとダンサーインザダークを抑えてスペースカウボーイが1位」とか「父親達の星条旗と硫黄島からの手紙のワンツーフィニッシュ」は、やりすぎをこえて「ヤラカシ」だと思うんですよね。
「ヤラカシ」といえば「オールタイムベスト日本映画こと七人の侍が、キネマ旬報年間ランキングでは3位な件」がもっとも有名ですが、このときは「木下恵介作品のワンツーフィニッシュ」というわけわからんことになっているんですね。1位は「二十四の瞳」。これは、わかります。「二十四の瞳」はすごい映画です。今観てもびっくりさせられます(比類する作品は「6歳のボクが、大人になるまで。」ぐらいしかし無いのでは?)。ところで、2位は?…2位は、「女の園」という映画です。…いや、本当なら観てから言うべきなのはわかります。でもあえて言わせていただきたい…知らないよ!!オールタイムベストどころか、木下恵介監督作としても無名の作品なのではないでしょうかコレ。(誰か観た人いますか?もし「おれは観たけど、七人の侍よりずっと良い映画だよ」という人が多ければ、この段落は訂正の上謝罪いたします)
映画は観る環境によって、評価が大きくことなります。これは前項と矛盾するようで矛盾しません。映画館で観る映画と、家で観る映画は違います。「IMAXで観るゼログラビティと、金曜ロードショーのゼログラビティは別の映画だ」と言われて、否定する人は少ないでしょう。映画は体験です。ウェイン町山が「試写室で隣にピエール瀧がいたので死ぬほどビビった」と言って「凶悪」を年間ベストに挙げるように。ガース柳下が金沢映画祭で観た映画を年間ベストに挙げるように。「お家に帰るまでが遠足」と言われるように。「フェスで盛り上がる曲」があるように。では、「夫婦やカップルで観に行き、食事をしながら感想を言い合い、その日の記念にプリクラを撮り、インスタに半券の写真を上げたくなる映画」は、その体験込みで評価しなければいけないのでは?
ひとり、ルーチンワークとして試写室のパイプ椅子に座り、原稿の締め切りを頭の片隅に置きながら観る人間は、金曜ロードショーで観た「ゼログラビティ」をつまらなかったと言い切る人間と変わりません。真面目な話、かつてこれほどまでに評価され、クチコミで観客動員の伸びたデートコースムービーってあるんでしょうか?そう言えば「動員で映画の評価を語るなら踊る大走査線2は名作」って言ってる人がいましたね。…寝言かな?(たぶん口を滑らせたのだろうと思うけど)
以上3点。おれは「息もできない」を年間ベスト映画に選ぶキネマ旬報のことが(ピラニア3Dを年間ベスト映画に選ぶ映画秘宝より)本当に大好きなんだけど、やっぱりよくないところはよくないところなので、なおしていただきたく候。
なおちゃぶ台をひっくり返すようだけど「君の名は。」は観てません。だって、子どもが生まれたばかりで、奥さんが育児で手一杯だったからね。子どもがもう少し大きくなったら、ポテトチップスとコーラを片手に、あーだこーだ言いながら2人で観るよ。ほなさいなら
CMを見て能年玲奈の演技がお世辞にも上手いとは思えないし、本人の顔が思い浮かんでしまってちょっとなぁと思ってた。でもキネマ旬報ってやつで1位になってるし、まぁ面白くなかったら寝てもいいかってぐらいで1人で見に行った。めちゃめちゃよかった。
自分と同じように思ってる人は騙されたと思って見に行って欲しい。
以下ネタバレ含む。
素晴らしい所は山程あるし、色んな所で語られてるから、今更自分があれこれ言ってもとは思うけど、語りたいという欲求には逆らえない。振り返ってみると、この作品の設定のユニークさに改めて感心したので、その事を書いていく。
一般に、映画や小説、ひいては音楽というのは非日常を描くものだと思っていた。例えば、君の名は。は体が入れ替わる。この作品も、戦争と言う非日常を描いている事に変わりはないが、日常と非日常のバランスが異なるように思う。初めこそ童話的なエピソードから始まるが、すずが北条家にお嫁にいってからは、炊事などの日常が主に描かれる。そこから戦争という非日常が始まる。場合によっては、日常を描く事は、非日常を際立たせる演出上のテクニックのようにも感じられてしまうこともある。しかし、この作品では、日常を描く事自体が1つのテーマとなっていると思う。つまり日常を際立たせるために非日常を描いている、とも言えるのだ。それほど力強く生き生きと日常が描かれている。
能年玲奈がクローズアップ現代+のインタビューで「ご飯を作るのって楽しいんだとか、洗濯をすることがとても誇らしいと思えるようになった。」と言っていたことがこの事を上手く表していると思う。
映画や小説では非日常が語られる故に、主人公は、人並み以上の能力持っていたり、特別な立場であることが多い。例えば、風立ちぬでは、零戦の設計者だった。一方で、この作品では、絵が上手くて、すこしとぼけている、どこにでもいると思わせるような女性である。第二次世界大戦という歴史的な出来事を、どこにでもある視点から、描くという点が非常に新鮮だった。戦争は、主人公が全くあずかり知らぬ所で起こり、理不尽にやってきて、そして唐突に去っていく。状況も殆ど理解できないし、ただただその状況に身を任せ、やれるだけの努力をするのみである。そのどこにでもある視点は、すなわち自分が、もしその時代に生きたらという視点であった。
3.物語への没入感
物語や演出の素晴らしさに加えて、上記の2点の設定上の妙により、物語へ没入してしまった。物語への没入感は、本当に面白いと思える作品の条件だと思うが、日常をどこにでもある視点で描く、ということはこの条件を成立しやすくしている。戦争といった非日常的なものは、非日常的に語られる事が多い故に、他人事だと思ってしまいがちである。例えば、歴史の授業で心を傷める人は稀だ。この作品では、日常をどこにでもある視点で描き物語へ没入した状態で、非日常が起こる。その当事者意識や衝撃度は凄まじい。
日常をどこにでもある視点で描き、そこに起こる非日常を追体験させる。こういう手法って今まであったのかな?自分では思いつかなかったので、映画でも小説でもあれば見てみたいので、教えて頂けると嬉しい。シンゴジラが、現実の中に虚構(ゴジラ)を描いたっていう点は非常に面白かったし、ちょっと似ていると思う。でもそれは虚構を際立たせるための現実であったし、視点も特別なものである。
最後に、映画を見終わってからテレビで、能年玲奈のセリフを聞いたけど、やっぱり違和感があった笑
でも映画を見てる時は、全く気にならなかったし、寧ろハマっていたのは間違いない。それ程物語に没入していたということであると思う。
個人的にはキネマ旬報で取り上げられなかったのは別に過去の作品を見ればおかしくはないと思ってるし。
良く言えば売上をきにしない、悪く言えばスノビズム的な逆張りランキングなのは結構知られてるし。
ただ、キネマ旬報を取り上げたcinematodayなどが「君の名は。は圏外」とわざわざ表題につけたりしてちょっと、対立を煽ってる。
また、それを利用してアフィブログが対立を煽ってる感じがある。※これは片隅を挙げて君の名は。を落とすブログと逆のブログ両方がある
特に国内の批評家の間で「君の名は。」が嫌われてるのも閉鎖的で互助的な見方をされてちょっと反感持ってる人が増え始めてる。
そしてこの世界の片隅にが国内、「君の名は。」が海外で評価されるというあまりにもできすぎな状況が揃ってたりしててこのまま行くとゲハ的なこじれた状況が映画界に生まれる可能性すら考えてる。
淀川長治がキネマ旬報年間ベスト10で最高点をつけた洋画のリスト
1950年 自転車泥棒(ヴィットリオ・デ・シーカ)
1958年 白夜(ルキノ・ヴィスコンティ)
1961年 素晴らしい風船旅行(アルベール・ラモリス)
1965年 81/2(フェデリコ・フェリーニ)
1967年 欲望(ミケランジェロ・アントニオーニ)
1968年 2001年宇宙の旅(スタンリー・キューブリック)
1974年 フェリーニのアマルコルド(フェデリコ・フェリーニ)
1975年 ザッツ・エンターテインメント(ジャック・ヘイリー・Jr)
1976年 トリュフォーの思春期(フランソワ・トリュフォー)
1978年 家族の肖像(ルキノ・ヴィスコンティ)
1980年 ルードウィヒ/神々の黄昏(ルキノ・ヴィスコンティ)
1987年 グッドモーニング・バビロン!(タヴィアーニ兄弟)
1988年 ザ・デッド(ジョン・ヒューストン)
1989年 生きるべきか死ぬべきか(エルンスト・ルビッチ)
1990年 フィールド・オブ・ドリームス(フィル・アルデン・ロビンソン)
1991年 シェルタリング・スカイ(ベルナルド・ベルトルッチ)
1994年 オリーブの林をぬけて(アッバス・キアロスタミ)
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/movie/1042796710/872をやや修正
11本 アルフレッド・ヒッチコック
7本 ビリー・ワイルダー
5本 マーティン・スコセッシ スティーヴン・スピルバーグ チャールズ・チャップリン
4本 クリストファー・ノーラン クリント・イーストウッド 黒澤明
フランシス・F・コッポラ クエンティン・タランティーノ
デビッド・リーン フェデリコ・フェリーニ セルジオ・レオーネ フランク・キャプラ
3本 ウイリアム・ワイラー ジェームズ・キャメロン シドニー・ルメット
ジョエル・コーエン ジョン・ヒューストン ハワード・ホークス
ピーター・ジャクソン リドリー・スコット ロマン・ポランスキー
2本 アンドリュー・スタントン アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
イングマール・ベルイマン ヴィクター・フレミング ウディ・アレン
ジェームズ・ホエール ジョージ・ロイ・ヒル ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ
ジョン・フォード ダニー・ボイル ダレン・アロノフスキ〓 ティム・バートン
ヴィットリオ・デ・シーカ デビッド・フィンチャー テリー・ギリアム
ブラッド・バード フランク・ダラボン フランク・J・シャフナー フリッツ・ラング
フレッド・ジンネマン ポール・トマス・アンダーソン マイク・ニコルズ
マイケル・カーディズ 宮崎駿 ミロス・フォアマン F・W・ムルナウ
●シネマスケープ 殿堂75本複数選出
6本 黒澤明
5本 ビリー・ワイルダー
4本 小津安二郎
スタンリー・キューブリック ビクトル・エリセ フェデリコ・フェリーニ
アンドレイ・タルコフスキー ヴィム・ヴェンダース ジョン・フォード
3本 マーティン・スコセッシ
2本 黒澤明 アルフレッド・ヒッチコック ビリー・ワイルダー
エリア・カザン フランソワ・トリュフォー イングマール・ベルイマン
セルジオ・レオーネ スタンリー・ドーネン スタンリー・キューブリック
http://mycinemakan.fc2web.com/movie2/best100a.htm
5本 スタンリー・キューブリック チャールズ・チャップリン
4本 アルフレッド・ヒッチコック ジョン・フォード フェデリコ・フェリーニ
3本 サム・ペキンパー デヴィッド・リーン ビリー・ワイルダー ルキノ・ヴィスコンティ
2本 アンドレイ・タルコフスキー アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
ヴィクトル・エリセ ジャン・リュック・ゴダール ジョージ・ロイ・ヒル スティーブン・スピルバーグ
チェン・カイコー チャン・イーモウ フランク・キャプラ フランシス・F・コッポラ フランソワ・トリュフォー
http://anond.hatelabo.jp/20070326170845 にあえて釣られてまじめに書いてみる。
べつに必死なわけじゃないが、オレの場合、「まなび」ファンというより、金月龍之介ファンとして「まなび」を観て楽しんでいる。
金月君が「ジサツのための101の方法」を書いてた頃からのファンだから、もうだいぶ長いことオレは彼の脚本を読んできているが、「まなび」は彼の手がけたシリーズの中では秀作だと思う。
金月君の脚本はディテールにこだわる部分があって、わかりやすさとわかりにくさの両極をいったり来たりしているようなところもあるので、それがイヤな人はとてもイヤだと思う。けれどオレはそれが好きだ。
会話がまどろっこしいとか、ストーリーの進行ペースが遅いという批判もあったりするけど、それがイイと思い始めるとそれがたまらない面白さに感じる。
昔、「毎日が学園祭の前日」を描いたアニメーション映画があった。
言わずと知れた押井守の「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」(1984年/東宝)だ。
「まなび」は「ビューティフル・ドリーマー」のように学園祭の前日にリセットされるというわけではない。だが、「学園祭の前日」までの日常の描写が続くという意味では、かつてアニメ界で話題になった「毎日が学園祭の前日」というテーマに再度取り組んでいるという解釈もできると思う。
学園祭という「ハレ」の日があって、学園祭が来ないという現実。
「ビューティフル・ドリーマー」のラムたちも、「まなび」のまなみたちも、学園祭が来ることを期待しつつも、学園祭を迎えることができないという困難に直面する。
状況の困難さという点では、「ビューティフル・ドリーマー」と「まなび」には共通点がある。
しかし、そういう状況の困難さを乗り越えていく方法は、「ビューティフル・ドリーマー」と「まなび」は対照的だ。
「ビューティフル・ドリーマー」には“無邪気”という状況の困難さを生み出すわかりやすい「敵」がいた。押井の映画では、“無邪気”という見える敵と対峙し、対決することによって、「絶望的な日常の連続」への変化が提示された。「他人の夢なんか壊して自分の現実を生きろ」という押井のメッセージに共感する人が多いのも事実だ。
だが、「まなび」は違う。「絶望的な日常の連続」にわかりやすい「敵」はいない。たしかに校長がたちふさがりはするが、彼女は「敵」ではない。
あえて「敵」を見つけるなら、それは「絶望的な日常の連続」を受け入れて諦めきった生徒ひとりひとりの心だ。そして「絶望的な日常の連続」を受け入れた心は、姿として、形として見えているわけではない。
その心を、まなみたちは愚直なまで正面から、文字通り“ストレート”に立ち向かい、変えようとした。まなみたちは「毎日が学園祭の前日」の日常を決して受け入れたりはしない。
まなみたちは、なにか気の聞いた名セリフを吐くわけではない。たとえば「コードギアス」ルルーシュのように「全力で学園祭を勝ち取れ! 署名を集めてチェックメイトだ!」などとは決して言わない。ハルヒのように「あんたが署名を集めるのよ!」とツンケンな態度をとるわけでもない。そういうのが楽しいというのはわかるし、そういう楽しみ方が間違っているというわけではない。
だが、まなみたちのまぬけなぐらい愚直な姿勢に、彼女たちの行動に、その表現に、オレは心打たれる。
たぶん、金月君以外の脚本家が「まなび」を書いたら、1クールを3、4話ぐらいに圧縮して、残りの話数で面白いエピソードを書くと思う。
逆に言うと、それだけ「まなび」は、他のアニメと比べてスローペースでのんびりストーリーが進んでいる。「ちんたらどうでもいいことで動画枚数使ってるんじゃねーよ」などと不満に思う人もいると思う。
たとえば「コードギアス」みたいに次から次へと物語が展開して緊張感が持続するようなアニメが好きな人が「まなび」を観たら、早い時期に結末が見えてしまって予定調和を感じたり、退屈だと感じるかもしれない。
それは仕方が無い評価だし、その評価が間違っているというわけではない。
だが、そういうスローペースの、のんびりしたアニメが楽しいと感じ、物語の展開と結末よりも過程のディテールを楽しみたいと思うアニメファンもいる。
http://www.ufotable.com/manabi/
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー -- キネマ旬報DB
http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=17402
金月龍之介(業務報告)