はてなキーワード: 長浜市とは
長浜市の高時川が氾濫した航空写真の件で「あれは遊水地だから洪水じゃない」と言ってる人が多いのだが、あれも洪水です。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/kentaoki/status/1555648450955735040
洪水っていうのは普通水が流れない場所に水が流れてる事をいうので、河川敷の河原が水没しているのも洪水なのだ。
だから元記事の「河川敷も水没」っていう記述に文句言うのもおかしいのである。
そもそも河川=堤防の向こう側=人間の営み無しの地というのは今は常識になっているが、この常識は精々50~100年程度の歴史しかない。
人類文明は有史以来水と戦ってきたが、それは必ずしも堤防で川を閉じ込めるという意味ではなかった。氾濫が頻発する箇所は氾濫するに任せておき、水が少ない季節に洪水で肥沃になった土で農業をするという方法もあった。
田んぼというのはこの最たるもので、田んぼに適した土地というのは要するに河川の氾濫原だ。水も引きやすいし度たびの洪水でぐちゃぐちゃで栄養豊かな土のある平地。
そもそも低地での河川というのは思いっきり出鱈目に蛇行したり枝分かれしたり三日月湖が残って沼になったりと無茶苦茶な流れ方をするもんである。
例えばこれは熊谷の昔の河川状況を地質から推定した地図だが、見よ!この荒川の出鱈目ぶりを!
そもそも真っすぐな箇所なんて皆無だったのだ。真っすぐな箇所は全て明治以降に工事したもんだ。
そのままじゃしょうがないからこのうちのある程度真っすぐな河道を選んで繋げたのが今の荒川だ。しかも江戸初期まで元荒川を流れて幸手とかをぐちゃぐちゃにしていて開拓の邪魔なので切り替えられたのだな。
それでも蛇行しまくりで氾濫起こしてばかりの川から田んぼや集落をを防御しなきゃならない。
そこで河道から1km近く離れた箇所に低い堤防を築き、その堤防の中の田んぼや家の人は洪水の際は泣いてくれやとしたのである。これを「堤外地」と云う。堤防の中が堤外なんだな。
こうすると水の流れが弱まるし遊水地効果で水位の上昇も抑えられるから堤防に対する攻撃性が低くなる。
で、この広い堤外地があってそこが浸水すると当然泣く人も多く出るというのが当たり前の状態だったのを近代的治水で無くして来た、というのが今の状態なのだ。
だから堤外地が浸水するのを「洪水じゃない」と考えるのは現代的治水が頭にあるからなのだ。
一方で霞提というのは近世からある訳で、こっちは「堤防で全てが守られるのが当たり前」じゃない時代のものなので、そのせいで水没した土地を見て「これは洪水じゃない」と言っちゃうわけだ。
非現代のものを見て現代の価値観を援用するので、被害が出て泣く人もいる状況を「洪水じゃないし問題ない」と処理しちゃうのだ。
以上の理由から河川敷が水没するのも洪水であるのはお分かり頂けるかと思う。堤外地があるのが当然だったし今も残るので「洪水」は堤防の向こうこっちを隔てないのでありますよ。
地役権の事を書いてる人もいるが、これは河川工事で誰かの田んぼを遊水地にする時に設定するものだ。
例えば先の荒川でいうと、熊谷~彩湖までの河川敷というのはとても広い。特に鴻巣の辺りは河川敷が2km以上あるのだな。広すぎ!
これはこの広い河川敷を洪水時の遊水地にする為で、大正に工事がされた。
すると当然この中の家の人は田んぼが洪水時に水没しちゃうし、家を建ててもパーになるから建てられない。
こういう時に地役権設定がされるのだ。
地役権は元々、あんたの土地を使わせてほしいから金出すよ、でも工作物とか建てないでくれよって時に、登記簿に設定する民事契約の事だ。水路引かせてとか通路引かせてっていうのが多い。
河川の場合は「この土地は洪水で水没するって使い方させてくれ」っていう国と地主の契約だな。
一方、霞提は近世の仕組みだから、わざわざ地役権設定する動機っていうのがないので、補償を受けらるようにはなっていない可能性が高い。(農協の共済で救済されるが)
という訳で、堤外地と遊水地、地役権といった概念の時代背景がごっちゃになって、古いものを見るのに現代的基準を拡大しているのが誤解の原因と思われる。
昔は河川から離れた個所に堤防を作ったと書いたけど、その跡は住宅地の中の一段高い土地として残ってる事が多い。
宅地化すると土地を均す事が難しくなるのでちょっと高い土地っていうのが残り易いのだな。~~曽根なんて名前の地名があるところはあやしいぞ。
こういう土地はゲリラ豪雨の時にも浸水しにくくてお得なんだけど、その近傍は水がせき止められるので水位が上がりやすく注意が必要だ。
堤外地であっても浸水しにくい箇所と水位が上がりやすい箇所がある。
例えば荒川は彩湖下流の笹目橋付近が狭いのでその下流は水位が上がり難い。また熊谷~彩湖の中流域の堤外地に家やサーキット、教習所がある所もあまり浸水しない。40年くらい水没しなかった箇所が殆どだ。
それで当初は水没して困るものは置かなかったのだが、段々とエアコンとか高価な家電や設備とかを置くようになってしまい…
そこへ台風19号ですよ。当然電気モノは全滅で結構な損害を出したと聞きます。
広い河川敷に普通の堤防と直角の堤防を築いて、洪水時に河川敷の方の流れが連続しないようにする。遊水地機能をアップさせて下流の水位が上がるのを遅らせるようになってるわけだ。
例えば荒川を渡る川越線は鉄橋を渡る前に土手を走るが、実はこの土手、新たに作ったものじゃなくて横提の上を走っているのである。
江戸川区の殆どが荒川破堤時には浸水地域になると区が警告して話題になったことがあったが、荒川は上記の構造により豪雨発生時から水位が最大となるのに1日以上余裕がある。
荒川は堤防のかさ上げ工事を行っているが、ネックになるのが鉄道の鉄橋で、鉄橋の部分だけ堤防が低い状態になっている。
つまり水位が上がると一番危険なのが鉄橋であり、越水、破堤する場合は必ず鉄橋付近から起こる。
以上の為に、水位が上がると鉄道が不通となるので、サイレンがなってからでは電車で逃げる事が出来ないのである。
必ず前日に決断せねばならない。
多摩川の二子玉川駅の真下から南に掛けて、堤防が住宅地の外側にある箇所があった。
元々ここは料亭や芸者屋敷などがある地域で、大正に近代的な堤防工事をする事になったら「堤防で川が見えなくなる、商売あがったりだ」と反対されたのである。
そこでここを堤外地として堤防を築造して、交通の為に堤防に切れ目を入れた。洪水時になりそうなときは2枚の板を入れてその間に土嚢を投入する(角落しという)。
角落しが間に合わない場合はニコタマ全域洪水である。堤外地の料亭群は全部水没して流されてしまうが契約なので仕方がない。
ところがこの料亭群は戦争で早々に潰れて宅地として売りに出されてしまい、危ない住宅地が出来てしまった。
この為に10数年前から新たな連続堤を作っている。つまりこれまでずっとニコタマは水害的に危険な地域だったのだ。
霞提の代表格は信玄提なんだが、甲府盆地は河川の近代化が進んで殆ど連続堤に改修されてしまっている。土地利用が制限されるので発展の障害になっちゃうので仕方がないな。
調べてもやっぱり結構あるな
八幡 (中泊町)(はちまん) - 青森県北津軽郡中泊町にある大字。
八幡 (猪苗代町)(やはた) - 福島県耶麻郡猪苗代町にある大字。
八幡 (市川市)(やわた) - 千葉県市川市にある町。 JR東日本、都営地下鉄の本八幡駅、京成電鉄の京成八幡駅がある。
八幡宿 (下総国) - 佐倉街道 / 成田街道の宿場町(現在の千葉県市川市八幡)。
八幡 (伊豆市)(はつま) - 静岡県伊豆市中伊豆地区にある地名。
八幡 (近江八幡市)(はちまん) - 近江八幡市にある地区で、同市の旧市街地。
近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区(おうみはちまんしはちまんでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく) - 上記にある重要伝統的建造物群保存地区。
滋賀の姉川氾濫に際してフジテレビ「とくダネ!」のTwitter上での振る舞いが話題となっている。
一般人が撮影した動画の使用許可を求め、返答が無くとも利用に踏み切ると書いて批判を浴びているのだ。
しかし各所で指摘されているように「時事の事件の報道のための利用」は合法である。
第四十一条 写真、映画、放送その他の方法によつて時事の事件を報道する場合には、当該事件を構成し、又は当該事件の過程において見られ、若しくは聞かれる著作物は、報道の目的上正当な範囲内において、複製し、及び当該事件の報道に伴つて利用することができる。
Facebook等のSNSの写真を被疑者等の承諾なく利用するという意味においては,写真の著作権の侵害の有無が問題となり得ます。
SNSの写真の場合,前提として,「その撮影者(著作者)は誰か」という問題があります。この問題は,自撮りの写真であれば本人が著作者であり,別の人が撮影したのであればその別の人が著作者となります。
そして,著作者が誰であるにせよ,報道機関が,事故の被害者はどういう人なのかということを報道する目的で,SNSの写真を使用(新聞掲載やテレビ放送)したという場合,そのような利用は著作権法41条(時事の事件の報道のための利用)により認められているので,違法であるとはいえません。
http://www.hamakado-law.jp/blog/2016/09/facebook-330924.html
まあ実際に裁判に出てみたらこれまでの常識がひっくり返るような判決が出た、といったこともありうるので絶対とは言えないが、一般的には無許諾で利用可と捉えるべきだろう。
さて、著作権法的には問題がないという指摘が広まると、批判者たちは「違法でなくても無許諾で放送したのは問題だ」といった論調に切り替わった。
動画の投稿者によると、番組側とはDMでやり取りしたとのことで、番組では今回の動画も放送された。
https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0808/blnews_170808_4885859459.html
いやいや、それでも諦めきれない批判者たちは「法律的に問題なくても、許諾を取っていたとしても、言い方が無礼だから炎上するのは当然だ」と主張する。
突然の連絡失礼致します。フジテレビ情報番組「とくダネ!」のスタッフです。現在、各地で台風5号の取材をしております。ゆうま様が撮影された姉川の映像を番組で使用させていただけないでしょうか。よろしければフォロー上、DMにてやりとりさせて頂けないでしょうか?宜しくお願い致します。— とくダネ!スタッフ (@tokudane_info) 2017年8月7日
何度も申し訳ありません。こちらは、フジテレビ「とくダネ!」と申します。
本日午前8時より「台風5号」のニュースを伝えるにあたり「ゆうま」様が撮影された滋賀県長浜市の大雨・増水の映像を放送にて使用させていただきたく、
再度ご連絡しました。— とくダネ!スタッフ (@tokudane_info) 2017年8月7日
周辺住民の方々への注意喚起および台風の被害を伝えるニュースの重要性に鑑みて、非常に公共性の高い映像であると認識しております。つきましては、「視聴者撮影」などのクレジット表記にて使用させていただけると幸いです。誠に恐れ入りますが一度、— とくダネ!スタッフ (@tokudane_info) 2017年8月7日
午前7時30分までにご連絡を取らせていただけないでしょうか?また、午前8時の放送までにご返答がない場合、上記の理由により使用させていただきたく存じます。放送させていただいた場合は、追って当方より
ご連絡いたしますので何卒ご理解のほど、お願い申し上げます。— とくダネ!スタッフ (@tokudane_info) 2017年8月7日
どこが無礼なの?
本来なら無言で利用してもおかしくないところ、できるかぎり許諾を得ようとして何度も何度も連絡を取ろうとしてるだけだよね。
これにレスを付けてる奴らのほうがよっぽど無礼なことを書いてるじゃん。
敢えて言うなら時間が深夜というのは問題だけど、災害の発生時間も番組の放送時間も変えられないんだから仕方ない。
むしろ「みんな寝てるので取材を控えますね」というほうが報道としてどうかという話になる。
もう正直に言いなよ。
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。