はてなキーワード: 名詞とは
はじめに、この感想はBTSをほとんど知らない人間が、印象だけで書いた感想であるので、事実とは異なる部分も多くあると思うし、
アーミーのみなさまには不愉快な部分もあるかもしれないことをはじめに謝罪しておきます。
しかし、私自身はとってもたのしい時間を過ごせたので、せっかくだから書き残したいなと思う。
ひょんなことからBTSのコンサートチケットを手に入れた。私はほとんどテレビも見ないので、BTSの曲もメンバーも知らない。
もともと、ロックバンドのライブやフェスには足を運ぶ方であり、知らないバンドの演奏を聴いたりするのが好き(それをきっかけに新しい出会いがあるため)なので、軽率に行くことを決めてしまったが、そんな、メンバーすらあやふやな私よりも、コンサートに行きたくて涙を飲んだ人の方が、チケットの行く先はふさわしかったに違いない。ファンの人には一抹の申し訳なさを感じたが、個人的にはそんな遠慮よりも好奇心が勝ってしまった。アーミーのみなさま、許してほしい。
いちおう予習はした。曲はけっこう好みだったので、ハマったし、いちおうコールも少し覚えた。
ただ、バタバタしてて、メンバーの顔と名前を一致させるのは間に合わなかった……。
・音楽番組と違って、長丁場となるコンサート。ずいぶんといろいろな発見があった。
メンバーの体力や集中力の差は如実に現れる。しかし、それがマイナスなのかというと、そうではないことを知った。
少し集中力が切れてきたメンバーに、余裕のあるメンバーが絡みに行って見せ場を作ってあげたような場面もあった。
なにより、そういう現場の苦悩を知ったことによって、ぐっと彼らの人間的魅力が増したように私は感じた。
・ずば抜けてパフォーマンスが目を引いたのは、ナムジュンとジミン。
この二人は、自分のやりたい表現と方向性と、周囲の求めるものがほぼ一致に近いのではないだろうか。両者ともに、パフォーマンスに隙がない。
コンサートの後半までパフォーマンスが決まり続けていたのはこの二人だったな。
・ナムジュンは、ラップもダンスも、どこを切り取ってもキメてくる感じだ。精神的にも、体力的にも余裕がある。
かといって、前に前に出てくるというよりかは、きちんと周囲を見ているように見えた。ファンサービスも旺盛。
予習の段階ではそこまで注目していなかったが、今回一番好印象だった。能力が高いことで他のメンバーを気後れさせてしまう可能性さえも、考慮しているかのような賢さを感じた。
MCでも、日本語と英語、韓国語を堪能に混ぜていたのがすごい。"雨 EDITION"という表現に、彼の語学センスの高さを感じた。英語表現に引っ張られていたら、形容詞的に「雨の」 EDITIONといってもおかしくないところを、日本語センスでうまく名詞を形容詞化してとっさに喋れるのがすごいと思った。後から調べたら、この人はIQが高いそうですね。
とにかくシンプルにかっこよかったし、ずっと目で追ってしまう力強さがあった。
・ジミンは、ソロの曲の時に「えぐいダンスうまいやつがおるぞ」と思って注目していた。
バラードの曲の時、ずっとその曲の世界観の顔になってたもん。美意識とプロ意識の高さを感じた。とにかくダンスが上手い、いいものを見せてもらったという感じ。
・その他のメンバーで印象に残ったのはJ HOPEことホソク。
彼はずっとにこにことしていて柔らかい雰囲気。門外漢から見てもわかる、絶対に必要なメンバー。
あの余裕のあって安心感のある顔を、しっかり自分の役割として自覚し、振舞うことができるのは強い。
見ている側も、安心するし、きっとメンバーにとってもそういう人なのかな、と想像した。
・世界一かっこいい顔に選ばれたらしいVことテテ。この子に関して私はどう評価したらいいのか、とても慎重に言葉を選ばねばならない。語弊を生みかねないのを承知で、素直な感想を書けば、
体力や集中力のあるメンバーと対比的に、ムラがあった。バラードの曲の表情の作り込みも、ジミンと比べたらあまりに素直すぎる。しかし先にも書いた通り、それが彼の魅力にもなりうるポイントである。彼の天然っぽいMCで私は、彼はこういう不思議なバランスで、自然でいることを隠さないことで、スターになっているのだとわかった。
隙のなさすぎる人に、果たして魅力を感じるだろうか。うっかりすれば高嶺の花のような偶像になりかねないほどの美しすぎる顔を持つ彼が、一人の人間として受け入れられることは相当にすごいことだ。テテはもっとも刹那的なバランス感を持っており、ほんとうに、「今しか見れない魅力」に溢れたメンバーだと思った。
・もっとも苦悩して見えたのはユンギちゃん。。。この人は、自分のやりたい表現と、自分のできる表現の間にギャップを感じているように見えた(妄想です)。しかしそう思ったのは、彼のパフォーマンスから努力の跡がにじんでにじんでしょうがなかったからだ。表情の真意は、ファンですらない私には読み取れなかったが、ジミンが自身の美意識をある程度形にできる段階にいるのに対し、ユンギはその過渡期にあり、苦悩しているような印象をもった。そして彼のパフォーマンスは、もちろん申し分のない素晴らしいものだったので、すごく応援したい。
・ごめんなさい!後のメンバーはよくわかりませんでした!!でもみんなかっこよかったです。
帰宅してさっそくBTSを復習している自分がいる。今回きちんと追えなかった残りのメンバー(ジン、グク)のこともきちんと知りたいと思った。
基本的に完成度が高く、いいものを見れた素敵な時間を過ごせたので、行ってよかったと思った。
そして、彼らの関係性やひとりひとりの性格が、長丁場の中で見えてくるのがほんとうに面白かったし、
知れば知るほど、魅力が増していく、とてもいいグループだと思いました。またどこかで見たいです。
付け加えると、その「古い法律」は今でも「生きてる」からね。たとえば民法の出だし。
これを
この法律を施行する期日は勅令(天皇の裁可による命令)をもって定める。
明治23年法律第28号民法の財産編、財産取得編、債権担保編、証拠編は、この法律発布の日から廃止する。」
という意味に誤りなく理解するためには、古文・漢文の知識が普通にいる。(たとえば、古文では原則として主語に助詞がつかない。「定ム」はマ行下二段活用動詞で終止形が「定む」(口語文法ではマ行下一段で終止形は「定める」)だから、ここで文は終止している、とか。「此法律」は、あとの名詞に係っているので「此」は「これ」でなく「この」と連体詞で読む、とか(純粋な漢文というよりこれは日本漢文の知識だが)。)そもそも漢字片仮名交じりの表記は漢文の訓読体をベースにしているので、漢文にある程度なじみがないと違和感がすごい。「このくらい分かるだろ」という人は、それは自分がいやいやながら「古文・漢文」をやらされてきたからだということを理解しておいた方がいい。たとえば中国以外の外国出身、日本語ある程度読み書きできる人とかでも、こんな条文になると全くお手上げだ。大学入試から古文・漢文を廃して「実用現代語教育」みたいなことだけにするということは、日本人の日本語力をその(外国人)レベルにする、ということと同義でもある。)
これが万人に絶対必要な知識・教育だとは言わない。だから、義務教育では文法まで教えないし、大学入試でも、古文・漢文なしで入れる大学は普通にある。そういう人が先の法律を見て「訳分からん」となることも、当然おかしいとは思わない。だが、ある程度専門の学習を行う「高等教育」に進学する人間にとっては、戦前に制定された法律や文献が現代社会の重要な基盤となっているという意味で、やはりこれは普通に必要な知識のうちだろうとは思っている。これが不要と言うなら、文系の大半の人間にとって有機化合物に関する化学の複雑な中身とか全く不要なわけだが、それが現代社会の重要な基盤となっているという点では、やはり高等教育を受ける人間にとってクリアすべき知識とされていることに疑問はない。
問題は、その「必要性」が充分教育の現場で徹底されていないことなのだと思うよ。高校教師でそういうことを考えている人間は確かに少ない。「なぜそれを現代社会で、高等教育を望む人間に試験として課す必要があるか」は、最初の増田のように常に問題提起されてよいとは思うし、指導者は常にそれに対して説明する/できるようにする義務があるはずだね。
うん、違うと思う。書いた通り「代わりに使われてる感じの言葉」を挙げたのです。
職業婦人やキャリアウーマンは会社で働いてない女性との対比だったけど
今は会社で働いてない女性と対比する必要があんまりなくて、むしろ会社で働いている女性の中での対比が必要になってるのかなと感じます(結婚している人がまだ少ない世代だからそう思うのかもしれないが)。
あと、キャリアウーマンってニアイコールバリキャリかなと思うんだけど、その用法に限れば総合職女性もほぼ似たような意味かと。
例を挙げれば「落馬する」「報告する」「希望する」などがあり、
ただし動作性名詞かどうかは明確なものではなく、わりと感覚によって左右されるようだ。
「旅」そのものを表す普通名詞と捉えるかで変わってくるように思える。
「頭痛する」という表現も無いではないが一般的ではないだろう。
「頭が頭痛=頭に頭の痛みがある」や「頭痛が痛い=頭の痛みが痛い」とすると確かに違和感がある。
ただし、「頭痛」を明確な病名と見なすなら、「頭痛で頭が痛い」は「風邪で喉が痛い」などと同種の言い回しと考えることもできるだろう。
たとえば「頭痛」の具体度を高めて「群発頭痛」とすれば、「群発頭痛で頭が割れるように痛い」といった表現はそこまでおかしくはない。
「頭痛」を「頭が痛む」という動作として捉えるか、「頭が痛む病気」という名詞として捉えるか、というところだろうか。
「離乳食」は「乳離れするときの食べ物」という意味で、これ自体に「離乳食を食べる」という動作的な意味はない。
「演歌」も「演説するときの歌」という意味で、これ自体に「演歌を歌う」という動作的な意味はない。
名詞は「歌」で動詞は「歌う」だよ って子供に示す場合。「歌は歌うもの、踊りは踊るものだ」のさりげないバージョン
または「だから私は歌を歌うのだ」といえば「のだ」とか「だから」以前の理由や状況説明と歌+歌う重複でめちゃくちゃ歌うことの重要さを協調している
なんなら「唄を詠うのだ」みたいに漢字にニュアンスのせてくる厨二病的表現もあるしな
はてぶみてたら、マスコミ関係者が「違和感を感じる」という表現を使ってるのに対してして、「マスコミのくせに、そんな日本語使うのか」って鬼の首とったようにコメントつけてる人が複数いたんだけど、これってそんなに間違った表現なの?
たしかに「感」の文字はダブってるけど、これって「応援歌を歌う」みたいなことじゃないの?
たとえば「コンプレックスを感じる」って表現は、そこまで糾弾されることはないと思うけど、大抵の人は「コンプレックス」を「劣等感」の意味で使ってる。
これ、日本語で「劣等感を感じる」と書いたら、とたんに「間違い」なのだろうか?
(正確にいうと、元々は「コンプレックス」単体では「劣等感」の意味はなくて、「インフェリオリテイ・コンプレックス」が正しいのだと思う。その意味では「コンプレックスを=劣等感」というのも誤用なのかもしれないが、とりあえずそのことは措いておく)
これが「感動を感じる」だったら、さすがに自分もおかしいと思う。
これは「感動を覚える」と書いた方いい。
で、なぜかと考えると、「感動」はそのまま「感動する」と動詞で使えるからではないだろうか。
「感動を感じる」じゃなくて「感動する」でいいじゃん、と思うのだ。
この「動詞のダブリ感」は「感動を覚える」と表現することで、消える。
で、「違和感」なのだが、「違和感する」と動詞として使ってるのは見たことがない。
だから「違和感を感じる」は、そんなにおかしくないんじゃないの?と思うのだ。
「劣等感を感じる」も同様。
「応援歌を歌う」も「歌」がダブってるけど、「応援歌する」とは言わないから「歌う」という動詞を続ける。
「歌」は歌うものに決まってるけど、それでも「歌う」と重ねる。
英語なら「sing a song」の「sing」が動詞で「song」が名詞、という区別があるところなんだろうが。
そもそも「違和感を感じる」って、書き手が何を言いたいのか充分伝わるのだから、そこまで糾弾することなのか?
「正しい日本語」ってなに?
なんというか、「違和感を感じる、は間違い」と糾弾する人を見ると、悪名高き「マナー講師」を見たときのような嫌悪感を感じるのだけれど、自分の感覚がおかしいのだろうか。