はてなキーワード: 遊撃手とは
正直、国民全員が大卒で遊撃手であるサラリーマンになればいいという変な教育しちゃうから
ADHDだの発達障害で空気いっさい読めなくて転職ばっかり、とか
核家族で育児補助(年金つき)のいないご家庭で1人以上は無理!ってなって
それでも苦しくてうち奴隷じゃん!貧しい!ってなるのでは
高品質果物とか輸出してたらマイクロ経済としては助かるとおもうんだよねー
っていうかまさに増田みたいな
「本来スマホなんかいらないのに教育のおかげでスマホをつかえるようになったが
業務にも余暇にも必要ないので愚痴にばっかりつかってる連中がくる場所」
ではサラリーマン以外職じゃない無職だとおもってるからこういうのが見えてないだけで
遊撃手「俺が遊んでる訳じゃないことくらいわかるだろ?」
「私、日本人でよかった」という惹句のついたポスターが京都の町に貼られている問題だが、
この惹句は決してコピーライターのイデオロギーを含んだものではないと思う。
ただ単に、ニワカな人がそれをごまかすために派手な言葉を使ってしまっただけのことだ。
「ちゃんと年賀状、ちゃんと大人」「日本よ、これが映画だ」等も同様の例だろう。
日本の経済成長に伴って教養の無い高学歴者が大量に生まれ、そいつらが勘違いして
クリエイティブの場にでしゃばり始めたせいで、広告の言葉が無残に劣化してしまった。
昔に脚光を浴びた「街の遊撃手」なんかも、俺に言わせれば凡人の陳腐な発想に過ぎない。
馬鹿なコピーライターのしたり顔が想像できて、その道化ぶりはむしろ共感性羞恥案件だろう。
http://blog.livedoor.jp/idolookami/archives/44261826.html
「メジャーリーグ史において最も重要な40人」はアメリカの著名スポーツメディア「スポーティングニュース」が先日発表して話題となったもの。ソースはこちら。
The 40 most important people in baseball history, ranked | MLB | Sporting News
ここで挙げられている40人について調べてみたんだけど、筆者はMLBにそこまで詳しいわけではないので、何か誤認・誤訳があったらごめんな。
MLB史上最大のスター。驚異的なペースでホームランを放ち、MLBの野球を「ライブボール時代」へと変えた。当時、ブラックソックス事件により信頼を失っていたMLBは、ルースの人気によって復活し、さらにはアメリカ最大のスポーツにまでなった。
近代MLBにおける初の黒人選手。ニグロリーグで活躍した後、1947年にドジャースでMLBデビューして、MLBの「カラーライン」を打ち破った。またMLBの初代新人王でもある。
1920年、ブラックソックス事件の収拾を図るために、強大な権力を有するコミッショナー職が新設され、判事であったランディスが就任した。事件に関わった8人の選手は永久追放とされ、その厳格な対処がMLBの信頼回復に繋がったと考えられている。
1900年にアメリカンリーグを創設し、現在まで続くMLBの2リーグ体制を作り上げた。審判に権力を与え、違反行為に厳しい罰則を課すことで、クリーンなイメージを生むことに成功した。強権的な性格から、のちにランディスと対立して辞任した。
カージナルスやドジャースのGMを歴任し、MLBで初めて選手育成のためのファーム制度を整えた。また、ジャッキー・ロビンソンと契約して、黒人選手がMLBに参加する道筋を作った。
1966年、エコノミストとしての経験を買われてMLB選手会の代表に就任し、最低年俸の増額、選手年金の拡充、そしてFA制度の導入に貢献した。彼の在任期間中に選手の平均年俸は1.9万ドルから32.6万ドルにまで向上した。
スポーツ用品のSpalding社を興し、ナ・リーグ創設にも関わった。初めて野球のルールブックを出版、ボールの標準化に努めるなど、初期のMLBの発展に尽力した。野球選手としても超一流で、通算勝率のMLB最高記録を保持している。
シカゴ・カブス(の前身)の社長であり、1876年のナショナルリーグの創設者の一人である。のちにナ・リーグの第二代会長に就任して公正かつ厳格な運営を行い、MLBの基盤を作り上げた。スポルディングとは盟友だった。
黒人野球チームのスター選手であり、また球団オーナーとしても成功した。彼の呼びかけによって、1920年にニグロリーグが設立された。「ブラックベースボールの父」と呼ばれる。
野球評論家・統計家で、「野球の父」とも呼ばれる。ボックススコアを考案して試合の記録を取り、「打率」などの指標を提唱した。またスポルディングのもとでガイドブックを刊行するなど文筆活動も盛んに行い、野球の普及に多大な貢献をした。
元はブルワーズのオーナー。MLB選手会とオーナーの対立が激化していく中で、1998年(実質的には1992年)に第9代MLBコミッショナーに就任。リーグの再編、収益分配制度の導入、オンライン配信の開始などにより、就任前と比較して5倍以上とも言われる空前の収益をMLBにもたらした。
ドジャースのオーナー。冷徹な経営者であり、1957年に球団をブルックリンからロサンゼルスへ移転させた。それによりアメリカ西海岸における野球ビジネスを開拓し、経済的には大成功を収めたが、ブルックリン住民からは深く恨まれた。
1977年から1988年まで刊行した「Baseball Abstract」を通じてセイバーメトリクスを提唱した。米国野球学会(SABR)のデータと統計の手法を用いて、RCやRFなどの様々な新しい指標を作り出した。
1974年、ドジャースの選手だったトミー・ジョンに、自らが考案した靭帯再建手術を施し、それを成功させた。この手術は「トミー・ジョン手術」として、いまでは広く施術されている。また、1990年には肩再建手術も成功させている。
ブレーブスで活躍し、ベーブ・ルースの記録を超える通算本塁打755本を放った。黒人のアーロンが白人のルースの記録を破ることには反発もあったが、彼はそれを乗り越えた。通算打点2297点は現在でもMLB記録である。
ヤンキースに所属し、当時の記録である2130試合連続出場を達成して「鉄の馬」と呼ばれた。しかし筋萎縮性側索硬化症に苦しみ引退、そして37歳の若さで亡くなった。背番号の「4」はMLBで初めて永久欠番となった。
野球クラブのニッカーボッカーズや全米野球選手協会(NABBP)において、チームの人数や塁間の距離、一試合のイニング数、バウンドルールの撤廃など、基本的なルールの策定に貢献した。遊撃手のポジションの創始者とも言われる。
(野球ルールの策定に関してはアレクサンダー・カートライトの名前がよく挙がるが、現在ではドク・アダムスを評価する声が多いようだ)
ニグロリーグで活躍した後に、MLBで最初の黒人スカウトとなり、最初の黒人コーチとなった。ニグロリーグ野球博物館の設立や、ドキュメンタリーへの出演、多くのインタビューを通して、ニグロリーグへの関心を高めることに尽力した。
MLBにおけるヒスパニック系選手の先駆けであり、中南米出身で初めてMLB殿堂入りした。慈善活動中の飛行機事故により38歳で亡くなり、そのため慈善活動に貢献した選手に贈られる賞にその名が冠されることになった。
肩、肘、膝に関する整形外科医。1985年、ロジャー・クレメンスに施術した関節鏡手術で脚光を浴び、以降もスポーツ医学の権威として数多くの選手の手術を担当している。
「シューレス」の異名で知られるMLB初期の名選手。しかし、MLB最大の八百長事件であるブラックソックス事件に巻き込まれ、MLBから永久追放された。ファンは彼に同情的であり、いまなお悲運の選手として記憶されている。
最多安打4256本や最多出場3562試合などのMLB記録を持つ「安打王」。しかし、引退後の1989年に野球賭博に関わっていたことが発覚し、MLBからは追放された。
走攻守すべてに優れたMLB史上最高のオールラウンダーであり、当時MLBにおいて台頭しつつあった黒人選手の代表格でもあった。オールスター24回出場は最多タイであり、「オールスターはメイズのために作られた」と評された。
1901年にアスレチックスの初代監督に就任すると、それから1950年まで指揮を取り続け、5度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。もちろん監督の就任期間としてはMLB史上最長である。
上院議員、ケンタッキー州知事、そして第二代MLBコミッショナー。ランディスが黒人参加に否定的だったのに対して、チャンドラーは進歩的であり、1947年にドジャースおよびジャッキー・ロビンソンを支持し、その契約を承認した。
連邦最高裁判所の名判事として著名。1922年、球団が選手の移籍を制限できる「保留制度」について、それが反トラスト法に該当しないとの判決を下した。これにより、現在までもMLBは反トラスト法適用免除の特例として扱われている。
1900年にパイレーツのオーナーとなった。その後のナ・リーグとア・リーグの対立を調停し、「ワールドシリーズ」を提唱して1903年の初開催に尽力した。また1909年に、鉄筋コンクリート製の近代的な球場を建設したことでも知られる。
スコットランド出身のビジネスマン。1934年、野球発祥の地であるクーパーズタウン(これはスポルディングが広めたデマであるが)に野球博物館を作ることを思いつき、そのアイディアがアメリカ野球殿堂の元になった。クリーランド自身は野球に全く興味がなかった。
レッドソックスで活躍し、MLB史上最高のバッターの一人とされる。最後の4割打者であり、通算出塁率.482はMLB記録である。1970年に刊行された、自身の打撃理論を記した「The Science of Hitting」は、後の多くの打者に影響を与えた。
大学で統計を学び、1969年にスポーツ百科事典「The Baseball Encyclopedia」を、1974年からは「Sports Encyclopedia: Baseball」を毎年刊行し、高い評価を得た。他にサッカーやバスケットボールの百科事典も編纂している。
ジョン・マグローらと並んでMLB史上最高の名将とされる。ホワイトソックス、アスレチックス、カージナルスの監督を歴任し、ワールドシリーズを3度制した。データを駆使した細かな継投を得意とし、現代的な「クローザー」というポジションの確立に貢献した。
MLBで首位打者を獲得するなど活躍し、引退後は監督となった。1934年に日本の野球チームと対戦したとき、相手チームに「ジャイアンツ」というニックネームを贈った。1949年に訪日した際にはチームを率いて全国巡業を行うなど、戦後日本に野球を広めるのに貢献した。
アストロズのオーナー。1965年、世界初のドーム球場・アストロドームを建設し、さらにドーム球場では天然芝が使えないために、人工芝アストロターフを開発した。人工芝は70年代に流行し、その走りやすさからMLBの野球をスピーディなものに変えた。
MLBのインターネット部門であるMLB Advanced Media社(MLBAM)のCEO。MLB.comを運営し、試合のオンライン配信や、チケットの販売などを開始したことで、巨額の利益を上げている。
1998年のサミー・ソーサとの最多本塁打争いにより、1994年のストライキで低迷したMLBへの注目を取り戻した。最終的に70本塁打を放って当時の新記録を作ったが、2005年頃からステロイドの使用が確実視されるようになり、その名声は失墜した。
1969年、カージナルスに所属していたフラッドはトレードを拒否し、マービン・ミラーと共に「保留条項は反トラスト法違反であり、トレードは無効である」との訴訟を起こした。裁判には敗れたが、この事件をきっかけにFA制度が導入された。
日本での任意引退を経て、1995年にMLBのドジャースと契約した。30年以上前の村上雅則を除けば、MLBで長年に渡って活躍した初めての日本人選手であり、その後も続々とMLBに移籍する日本人選手たちの先駆けとなった。
1977年のワールドシリーズで、当時のMLBコミッショナーだったボウイ・キューンは、女性記者であることを理由にラットクの取材を許可しなかった。彼女は平等な取材を求めて訴訟を起こし、勝利した。これ以降、全てのチームが取材に制限を設けないようになった。
1920年、カージナルスの選手だった彼は、野球用品メーカーとして有名なローリングス社に、グラブの親指と人差指のあいだに「網」を貼るべきだと提案した。これにより現在の形の野球グラブが完成した。
2002年、レッドソックスのGMに史上最年少となる28歳で就任する。2004年のWS優勝で「バンビーノの呪い」を打ち破ると、2012年には新たにカブスの球団社長となり、2016年のWS優勝で「ビリー・ゴートの呪い」までも打ち破ってみせた。
スプラトゥーンは死ぬのを許容することとか、並以下の指揮官が歩兵を鉄砲玉扱いしてるのと同じ。
判りやすく言うとね「下手くそは相手と刺し違えろ」って言ってんのと同じなの。聞く必要無い。
スプラトゥーンは任天堂のゲームらしく、経験値を溜めてキャラが強くなったりしない。
戦闘を繰り返して経験値がたまって強くなるのは「プレイヤー」なんだよね。
で、こっからがポイントなんだけど、スプラトゥーンってチーム戦なんだよ。
ガチマッチで特に顕著だけど「自分のウデマエだけではなんともならない」のが普通。
ってことは、ウデマエでA+ランクを維持し続けるのって、基本的に「指揮官」としての能力が必要になる。
自分もCランク2人分は働きつつ、他のメンツがうまく動けるように「誘導」する必要がある。
この「誘導」がうまく出来ないと、「逃げてねえで特攻して死ねよ」みたいな悪態になる。
「オレのランクのために、オマエラは捨て駒になれ」みたいな説教は聞く必要無い。
ただし「死なないと達成できない」ことも、確かにある。
こっからガチマッチのランク別立ち回り書いとくから、参考にしてくれ
でも、「まずは死なない」のが基本。
だから、Cランクの立ち回りは、イカセンプク時間が一番長くなるはず。
逃げることすらママナラナイ時は、ガチマッチ早すぎ。ヒーローモードで動きに慣れろ。
塗らなきゃ勝てないんだから、当然塗るの最優先。
ブキによるが、相手からの攻撃には、撤退&牽制が行動の基本になる。
回りこむには?塗っとかないといけないよな。
この辺から徐々に、相手との「読み合い」になってくる。
つまりAランクの行動指針は、味方にいかに塗らせて、相手をいかに封じるか。
ランクもA+になると、スペシャル以外では崩せない絶対防衛ラインを張れるバケモノが居たりする。
ただ、退路を断って数で押すとか、釘付けにしといてその隙にガチエリア塗るとか方法はいくつかある。
Aランククラスだと、間違いなくチームとして動かないと勝てなくなるので、チーム貢献度が高いチームが強い。
ここまで来ると、ペンキ塗り合うゲームじゃなくて、読み合い&駆け引きのゲームになる。
ランクAまで来て初めて「アイツを排除できるなら相打ちでもトク」とか判断できるようになる。
2対1でも、味方が回りこんでるのが判れば、引きつけておいて死ぬ(その代わり相手を2人ヤレる)とか。
だいたいランクB-~B+を行ったり来たりしてる連中は、
基本的な立ち回りは出来るんだけど、撃ち合いになってワーイみたいにやってる。ダメだからソレ。
隙を見せた相手を一方的に殺戮するか、詰将棋みたいなルートの読み合いだから。
お散歩使って、自分のブキがどこまでどう届くか把握して、的確に潰していくようにしてね。
味方からナイスされるような「許容される死」が自分でわからないうちは、死なないことが重要だから。
味方のブキ見て動き観て、自分の立ち回りを変えられる人は強い。
何にでも段階はある。C-で覚える立ち回りと、B+で期待される立ち回りは違う。
1三「怒髪天を衝く」
髪が逆立つほどの闘争心を見せながらも、冷静に点を取り返す狡猾さも併せ持つ、攻撃的なリードオフマン。
2二「布衣之交」
「庶民でさえ約束は守るでしょ」と厭味ったらしく相手を責める、地味ながらも失点の隙を与えない堅守が自慢。
3遊「智勇兼備」
野球評論家・司馬遷も絶賛。攻撃でも守備でも活躍する、まさに智勇兼備と言うべき遊撃手。
4捕「刎頸の交わり」
投手との阿吽の呼吸で巧みにリードする名捕手。契約更改の前に「チームのためならクビを切られても悔いはない」と言い放ったエピソードは有名。
5中「肉袒負荊」
諸肌を脱いで棘付きバットを振り回すパフォーマンスで知られるスラッガー。エラーをするたびに厳罰を望むようなストイックなところがある。
6右「両虎共闘」
危険を察知するのが得意な守備の名手だが、中堅手と共倒れにならないようにフライの処理を譲る場面が多く見られる。
7一「琴柱に膠す」
技術はあるのだが融通がきかないために一軍に定着しきれていない。今回のチャンスをものにできるか。
8左「紙上談兵」
読書家で野球の知識は豊富。他球団からもマークされる期待の若手だが、実戦経験が少ないことに懸念の声も。
9投「完璧」
球界の盟主・秦を相手に完全試合を達成した大エース。「石ころ」と呼ばれるくらいの低評価だったが才能に磨きをかけて名選手となった。
松井稼頭央、西岡剛、中島裕之がメジャーにおいて遊撃手失格の烙印を押され(押されかけて)、一方、川崎宗則はそこそこ評価されているのだけれど、なぜこういう事態が起こったかの考察した。
その結果、通算守備率.980以上の遊撃手はメジャーでも活躍できるであろうこと、そしてそれ以外の要素は判断材料足りえないことが分かった。
直感でいえば、NPB時代、前三者の守備は華があるけどどこか不安定であり、川崎はうまいのだけれど目立たないという守備であった。
そして、メジャーにおいては、NPBで華のある守備とされたものは日常の光景であり、不安定さだけが目立ち、結果ミスのしない川崎だけがポジションを維持できるという事態が生まれた。
これを現在のNPBに当てはめると、鳥谷、井端は間違いなく守備ではそこそこ以上と思われる。一方、坂本、今宮は論外となるであろう。
大谷メジャー挑戦騒動は、結局、日ハムサイド(注目選手get)にとっても大谷サイド(ポスティング密約get)にとっても勝利となったと思うが、大谷くんは結局大人に騙されたようだ。
というのも、どうやらこの球団、二刀流でショート・ピッチャーをやらせる予定らしい。もうこれは明白に、日ハムは大谷を野手として評価していることの現れだろう。
さて、球団資料「夢への道しるべ」(http://www.fighters.co.jp/news/detail/3251.html)。これをよく見ると、あることに気づく。
それは、韓国でドラ1高卒野手でドラフト拒否メジャー挑戦したのはチュシンスだけで、そして、彼は(大)成功しているということである。
つまり、日ハムは論破されぬよう大谷くんを野手としてとる可能性を隠さなければならなかったのだ。それが二刀流という玉虫色の誘い文句であり、
大谷君はそれを投手に加えて野手(DHあるいは外野手?)もできるよと自分勝手に解釈してしまった。そして、契約してしまったからにはもう遅い。
この球団は野手で取る気しかはじめからなかったのだ。そして、メジャーで通用する遊撃手を育成する能力などNPBにはない(野球用は天然芝ですらないしね)。
ということで、大谷君は今後も大人たちにさんざん振り回されてしまうだろう。やはり、まずは親を説得するべきだった。
これじゃないかな。
もっといえば真のベンチャーではなく、ひと段落したベンチャーかな。
あと、番外で提案できるのは、
・野に放つ。
かな。
素浪人になって仕官先をさがすもよし、同士を集めて勃興するもよし。
この時代なら本人が優秀なら野に放つのが一番なきがするな。
いろんな人とあってパートナーを探したり。
本人がモチベーションもってやれることをやるのが一番力を発揮できるからね。
優秀であればあるほどいまはどこにでも位置取りできる遊撃手的なスタンスが活躍できるように思うよ。
以下、偏見にまじった自分の時代感。
→ 今は待遇としては地方公務員の方がいいし、これから官僚になると、
今後20年一番悪いタイミングで苦渋を味わうことになるかもしれない。
→ 悪くはないが、国内で取得する一般博士号ほど食えないものはない。
現状を説明し、それでも本人が望んだ場合のみで薦めてやらせるものではない。
→ 現段階においては大企業は今後特定分野を除いて分社化していく方向。
特定分野においても将来的にはセグメントが分けられる可能性が高く総合職としては魅力はあまりない。
優秀な人材であればあるほどアイドリング期間が長く感じられて途中で脱落したら身もふたもない。
→ 士業でくっていけるのはごくわずか。弁護士のような資格をとってものき弁などでやっていくしかない。
結局は本人の活動以上には大きくできないので、
会計士+中小企業診断士などのあわせ技で組織化して大きく活動していくよりない。
現段階で先陣達が切り開いている分野であり、10年後は明るいかもしれないが、
ひとつの資格で一生食っていける時代ではなくなった。
全体的な系統と組織としての系統を混同しないほうがよいとおもう。
→ 一緒に興すならともかく後のりで「就職」するという考え方ではままならないとおもう。
本人がやりたいのであれば留めはしないが蓄えや資産は別に必要。
とりあえず起業してみる
→ ビジネス経験がまったくないのは問題かもしれない。(実家が商売をしているなど素養があれば別)
どのように優秀なのかわからないのでコメントできない。
やることも決まっておらず、資金もないのであれば会社を無理におこすこともない。