はてなキーワード: 自己肯定感とは
私大学の時はそこそこ友達もいて人の研究の手伝いやったり飲み会参加したり遊園地行ったり旅行行ったりまあ普通に楽しく過ごしてた
お前には友達が居ないんだとか、
とか甚だ酷いことを言われまくってる
彼らの妄想の中では私が彼らに関わろうとしないのは私が富を独占しようとしてるかららしい。
なんて酷い勘違いをしてるんだろう
富ってなんだよ
何も知らないし私にはいまでも連絡のつく友人は複数人いる。頼ろうと思えば頼れる人たちもいる。
ほんま妄想が怖いわ
ガキだった頃、友人から「あいつおまえのこと嫌いらしい」と言われたことがある。
結構かなりショックだったのだけど、話を聞いていくとどうも腑に落ちるところがあったので、ショック以上に発見と反省点が上回った。
どうも当の同級生としては、「気遣いがだるい」的なところがあったらしい。
私にとってこれは驚くべきカルチャーショックだった。古い規範がところどころで残るコミュニティでは、「気遣い」=「正義」だったからだ。気を遣ってなんぼ、相手の思惑を汲み取って行動する、当然会話は相手を思いやる言葉に尽きる。こういう状態が平常だと思っていたし、それ以外のコミュニケーションを知らなかったのだ。この経験により「気を遣いすぎるとよくない」という実例を知った。ガキなりにありがた迷惑を理解したのである。
「気遣いがだるい」の真意とは何だったのだろうか、と未だに思うことがある。それは「気遣いがだるい」と思う側の気持ちを改めて理解するようになったことでもある。近しい人間にそういう「気遣い」=「正義」だと思っているような人がいるのだが、それをどう直してもらえばいいのか分からない。だから改めて「気遣いがだるい」を細分化してみる。
※これは一般的な「美徳としての気遣い」とかではなく、もっと個人的な「プライベート気遣い」として考える。
・余計な気を回すこと自体が、自虐の道具にされているように見える
注:ここでは自虐が自愛行為として行われているにも関わらず、自己肯定感の低さを悲哀がましく訴えるということ
・気遣いという上っ面だけの行為ではなく、こちらはぶつかり稽古を求めている
・こちらが求めていることをして「あげて」いますよ、という的外れなあざとさ
特性を挙げれば挙げるほど、「プライベート気遣い」の正体が分からなくなってきた。むしろこれは気遣いに対するだるさではなく、メタ気遣いのだるさでは?みたいな話になっている気がする。
気付きとしては、「気遣いをやめてくれ」という想いは「相手と対等に信頼しあいたい」という感情から出てきているらしい。特にぶつかり稽古とか、もし社訓にされたら最悪すぎるわけだから。気遣いをするということは自分を守るという面があって、わりと高使用頻度の基礎人間スキルでもある。自分とて、ある程度の気を遣い、他人の顔色を窺って生きることをやめようとは思わない。
じゃあもう、他人などに期待するのはきっぱりとやめるべきなのだろうか。あの人は自分に対して「プライベート気遣い」を多用するが、それはただの基礎人間スキルであって、仕方がないことだと割り切ればいいのだろうか。この「一般的な美徳としての気遣い」ではない「プライベート気遣い」の気持ち悪さ(関係性をだめにする要因)は、どう整頓すべきなのだろう。
結局解決策が分からなかった。鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がすというが、鳴くことを正しいと思っている人間に、どうやってそれを伝えてあげらればいいのか分からない。分かる人は教えてほしい。
年収身長学歴とかより、夫が育児やるかどうかのが女の幸せに直結するのは間違いない。子育てしないのに何故か子供作る男は「一人前の男は子供がいるべき」という昭和までの妄執に狂ってる。金に釣られて狂人と結婚するべきではない。
母が専業主婦かどうかよりも、父がホワイトな働き方で育児参加できるかの方が今時、家庭の余裕を表す。父親が育児に参加した子供は自己肯定感が高いという話もあるし。そりゃ、子供が熱出そうが不登校になろうが父親の仕事が一番優先って家庭で、子供が無条件に自分を肯定する心を育てるのは難しいよね
一人で時間を潰すのは全く苦ではなく、自分の中に新しい物語や知識が
流れ込んでいくのがただただ楽しかった。
一人の時間に耐えられない人、
暇を潰せない人種のことを少し見下していた部分もあったと思う。
非人道的なほど満員の電車に毎朝揺られるうちに自分も上に書いた人種のようになってしまっている。
あまり本も読めなくなったし、楽器を演奏する時間も減ってしまった。
今では暇があればスマホを開いてYouTubeを開いてたいして見たくもない動画を
垂れ流しているし、
定時で上がった後も何をやればいいかわからずとりあえず居酒屋に入って
ただ酒を飲んでタバコを吸ってそこにいる人と話したり話さなかったりして
酔いが回ってこういったことも考えられなくなって気づけば眠りに落ちている。
単純に仕事によって自分の時間と体力が奪われているからそうなったとも思えない。
中高の学生生活でも9時5時くらいの時間は毎日拘束されていたわけだし
なんならそのあと塾とか部活に行ったりもしていたから自由な時間という
おそらく合ってない社風向いていない仕事をずっと続けることは
自己肯定感の低下に大きく影響する。そして低下した自己肯定感のもとでは
新しいコンテンツや創造的な趣味に取り組む意欲も湧きづらくなるのではないかと思う。
毎朝ベッドから出る意味が見出せない、1日を始めるモチベーションが湧かない。
本を開いても目線は活字をただ撫でるだけで、自分の中に新鮮なイメージや意味を
与えてくれない。世界は平板化してしまってどこに行って何をしても結局同じなんだ
という感覚がつきまとって離れない。
増田の考えるイージーモードとは、自己肯定感を得られる環境のことなんだろうな
いっそすべての環境を捨てて
プログラマとしてのキャリアを積んできた私にとって、リーダーという役割は新しい挑戦でした。
プログラマに飽きがきていたし、会社からもそれを求められていたし、年収も頭打ちになっていたので、
コミュ力も上がってきていたので、できるかもと思っていました。
しかし、実際にリーダーになってみると、想像とは全く違う世界でした。
調整ばかりで、自分でつくる達成感もない。
責められるだけで、自己肯定感も下がっていく。
まったく面白くない。
私は自分に問いました。
なんでリーダーをやろうと思ったのか?
本当にやりたかったのはプログラムを書くことではなかったのか?
答えは明らかでした。
私はプログラムを書くことが好きでした。
私は気づきました。
大事なのはどんな役割でやったとしても価値を提供することだと。
一般論で年収が高い役割でも、価値提供できないなら意味がないと。
事業会社に転職して、年収を下げずに、本当にやりたいことができるようになりました。
技術面で自分と組織の成長に貢献できる仕事ができるようになりました。
私は幸せです。
リーダーになることは、私にとって間違いではありませんでした。
人に言ったら困った顔をさせてしまうからあまり口には出さない。
検索すると、自己肯定感がどうとか、うつ病の症状だとか、いろいろ言及されている。
答えは無理矢理まとめりゃ大体「前向きになれ」。
しんだ方がマシだとは思えない。
しのうとも思えない。
生きてても死んでてもどっちでも変わらないと思う。
いてもいなくても社会に影響はないから、他人に迷惑かけないようにひっそり息をしてる、それだけ。
CMで、使えないからゴミなら使えるようにすればゴミじゃないと言っていた。
それなら使えるようになればいいかなと頑張ってみたこともある。
結果、使えるゴミが育っただけだった。
汚いゴミ箱は人に迷惑だからなるべく身の回りはきれいにしている。
いつか回収されるなら、それもいいかなって思う。
人に話を聞いてもらえなくても、自分がゴミだと思っていれば「まあゴミの話は聞かないよな」で終わる。
親切な人がいればゴミの扱いさえも丁寧な聖人に見えるし、自分の周りで関わってくれる人たちのことまで汚さないよう迷惑かけないよう過ごしてる。
自分がゴミを捨てるとき同族意識が募るから、物を大切にするようになった。
使い捨てのものはあまり使わなくなって結果ゴミは減ったから、環境にも優しくできているのかもしれない。
ゴミと人間を比べても意味がないから、他人と自分を比較することもなくなった。
他人の感情やライフステージの変化にダメージを受けることもない。
とりあえず細々と誰の迷惑にもならないよう過ごしている。
頼まれれば地域の活動にも参加して、仕事だけこなして帰ってくる。
誰かに褒められることもないけど誰かに誹られることもない(と思う)。
というより、そこまで興味を持たれていないと思う。
私の家はたいして裕福とは言えないが、世間一般では多分実家が太いと言われる方に属してると思う
しかし、別にそれによって人生がイージーモードになったかというとそんなことはないと思う
私は無能だったので偏差値で言えば60前半くらいで、必死に勉強したが慶應にしかはいれなかった
慶應に入ったら入ったで、無能なので平均点前後をウロウロ、頭が人よりちょっとだけいいことが取り柄の無能が、ただの無能になって自己肯定感が目茶苦茶下がる
その後、大学までそんな感じで、就職は面接が苦手で全滅してニートになる
出遅れた。
アトピーだったからしばらく普通にメイク出来なかった。しかし素で可愛かったので、ほとんどメイクしなくとも誤魔化せた。
めっちゃ真逆すぎて笑ってる。のでメイクに興味を持たなかった女が簡単に書くと、自分の顔を整えても可愛いと思わないし、気分もあがらないからです。
もう少し詳細に自分語りをする。
幼少期、姉から「ブス」「子豚ちゃん」と呼ばれる。なお姉の顔も似たり寄ったりの芋。
中高時代、校則の厳しい女子校だった為にメイクどころか髪もショートか指定色のヘアゴムのみ。ストパーした子は反省文書かされてた。
卒業後に化粧をしようとするもさっぱりわからんし、友達と遊びに行くときにちょっとメイクしたら「色気づいた」と姉に言われる。(友達には可愛いと言われた)
大体姉の所為じゃん。
こういった経緯で見目に関しては自己肯定感が低いので、やっても無駄感がある。今も日焼け止めくらいしかしない。
昔、メイベリンのCMで「まつげ5倍ボリューム」と謳ってたけど「5倍の人がやれば25だけど1の人がやっても5じゃん」と思ったことがある。つまりそういう精神です。