はてなキーワード: 田舎暮らしとは
うちの嫁は常に現状の不満を持っている その不満を打破するために自分で努力すればいいのだがそんなことは絶対にしない
常に「こんなはずじゃなかった」と他人に不満をぶつけるだけだ そして不満をぶつける対象を常に探し求めている
結婚前は「仕事が辛すぎる」と毎日愚痴を言っていたのに、結婚して専業主婦になった途端「私は家事と育児だけで一日が終わる あなたは会社があっていいよね」と平気で言う(じゃあお前も会社へ行け)
東京への転勤が決まった途端「あんなごみごみしたところ人が住む所じゃない」と言い放ち、数年して次の異動が出ると「田舎暮らしは嫌だ 東京に残りたい」と宣う
とにかく何もかもが不満でその不満を誰かにぶつけたい 駅でたまにいるスマホしている誰かにわざとぶつかりにいくおじさんと一緒の存在だ
そんな既婚女性に与えられたエクスカリバーが「ファミニズム」 これを思い切り振り回しガンガンと殴りつける
で、そうやって世の中のありとあらゆるものを切り刻んだあとで一体何が残るんですかね 何も産み出してなくね?
北海道には敦賀発のフェリーで向かった。敦賀は何度も訪れてるし、土地勘があるから敦賀発を選んだんだけど、これが間違いだった。到着するのが苫小牧東港という、なかなかの僻地だったんだよ、嗚呼!
それでもその港からそんなに離れてないはずの土地に宿も予約した。
尚、予約時の会話。
宿「港からウチの宿まで真っ暗ですけど!?」
苫小牧東港(ところで苫小牧って早口言葉に利用出来そうよな)に到着し、あらかじめ調べておいた道をひた走る。時刻は午後8時過ぎ、季節を問わず超西日本でなければ真っ暗な刻限。
途中から完全に街灯はなく、ガイドの道端の反射材だか点滅灯だかがなければ道幅さえも判らない。
宿の人の言葉を思い出す。『真っ暗ですけど!?』
田舎育ち&田舎暮らしだから、夜道が真っ暗なのには慣れていた。しかし北海道の夜道の暗さは密度が違う!
遠からぬところに海があるんやろな、ここを昼間走れたなら実に最高やったんやろな。
霧も浴びながら、何とか宿に辿り着く。
どうも職人宿系らしい。それは別にいい。安くて親切なところが多いし。
実際その宿も安くて親切だった。
翌朝、宿で朝食を頂戴し、自転車に荷物をセットして出発しようとした時、
「え、荷物それだけ!?」
宿の人に言われた。
モンベルのフロントバッグにトピークのサイドバッグ20リッター2つ、ちょいちょい取り出すものは巾着袋に入れてトピークの把手にぶら下げている。
「これだけですけど」
「北海道を旅しようっていう人がたったそれだけの荷物ってのは、初めて見たよ」
私これまで、中国・四国地方をこれだけで走ってきて、特筆するほどの苦労はなかったんですけど。
旅してる間に、宿の人の言っていた事が理解出来てきた。
北海道を自転車でぐるり回ろうなんてアホはそんなにいない。大抵はバイクだ。
バイク乗りは自分がエンジンじゃないので、結構荷物を積む。中にはサイドカーに荷物積んでる人もいる。
それと較べると、私の総計40リッター+αの荷物は、確かに少ない。
でも、ふたつのサイドバッグの片方は、ほぼキャンプ道具だ。この中にダブルウォールのテント、ふっくら寝心地のいいマット、ダウンの寝袋(気温2度までイケる)、コンロに鍋にその他炊事道具が入っている。正直キャンプしないつもりなら、片方のバッグは要らない。
もう片方には二日分の下着、化粧品(アレルギー持ちなのでその辺ので済まされない)、薬(アレルギー持ちなので薬もいっぱい)、着替えが詰まっている。
うーん、アレルギーである事とキャンプする前提である事を除いたら、ただでさえ少ない荷物が1/3くらいになるぞおw
実際、途中で出会って一緒に食事などしたバイカーの人の話を聴くと、食料たんまり積んで、寝袋+毛布も積んで、とそら荷物でかくなるわという感じだった。
私は食料はマル〇イラーメン一パックと、途中で買ったカップ麺一個くらいしか積載してなかった。
でだ。
旅の後遺症がちょいちょい頭をもたげる。
断捨離をしたくなる。
40リッター+αぐらいで生活出来るんだと思ったら、家の中のもの殆ど捨てたくなる。
子どもの教科書に出てきたので久しぶりに家の本を読み返してみて疑問に思うことがあって。
坊ちゃん家の下女、清というおばあさんと坊ちゃんの関係が、どうも子供のころに読んだときのイメージと違うんだよね。
子供のころに読んだときには、坊ちゃんをかわいがるおばあさん、という印象だった。
坊ちゃんは母親を亡くしていたので、おばあちゃん子がおばあちゃんに懐いているようなものだと思ってた。
でも今改めて読み返してみて、どうもこの二人の関係がそれとは違う、なんだか年の離れたカップルのように思えてきて、当惑している。
例えば、山嵐に一銭五厘返すことを決意するときに、清にかつて三円借りて今だ返済していないことを思い出し、
これは返せないのではなく、返さないのだ、なぜなら
【清は今返すだろうなどと、かりそめにも俺の懐中をあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。
こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑るようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。
返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片破れと思うからだ。】
と、清を自分の片破れ:かたわれ、とまで云う。
また、田舎暮らしで嫌なことが重なり、もう帰りたいと思ったときに、
【数学なんて役に立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本にして牛乳屋でも始めればよかった。そうすれば清もおれの傍を離れずにすむし、
おれも遠くから婆さんの事を心配せずに暮される。いっしょにいるうちは、そうでもなかったが、こうして田舎へきてみると清はやっぱり善人だ。
あんな気立のいい女は日本中さがしたってめったにはない。婆さん、おれの立つときに、少々風邪を引いていたが今頃はどうしてるか知らん。】
と清を懐かしみ、清からの手紙を待ちわびて、下宿先のお婆さんに東京から手紙はこないかと何度も尋ねたので、なぜ奥さんを連れてこないのか、
と手紙の相手が離れて暮らす妻からのものだろうと勘違いされる始末。
そして最後東京に帰った坊ちゃんは、まっさきに清の家に向かい、涙を流して喜ぶ清に、
【俺もあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだ】という。実際、つてで職を得て玄関もないような家を借り、そこで清と暮らす。
清と一緒に暮らすことを、清と家;うちを持つ ということに当惑したし、
ほどなくして清が亡くなる際に今度は清が、坊ちゃんに
【坊ちゃん後生だから清が死んだら、坊ちゃんのお寺へ埋めてください。お墓のなかで坊ちゃんの来るのを楽しみに待っております】
と云うんだよ。
これって、あの世でも一緒になりたい、っていうくらいの遺言じゃない?
とまあ、これ以外にもこの話では端々に坊ちゃんが折々に清を思い出しては今ごろどうしているだろうかと思いを馳せる場面がいくつもあったりして、
マザコンというのとも違う、おあばちゃん子というのとも違う何かを感じて仕方がない。
たしかに、清はまっすぐすぎて社会からはみ出しがちで生きるのが下手な坊ちゃんの唯一で最大の理解者であり、その清を坊ちゃんが大切に思う気持ちは理解できる。
でもそれだけじゃないでしょ、と。
親子でも、おばあちゃんと孫でもない、英国モノのご主人と忠実な執事との間の独特な信頼感に基づく絆、というのとももちろん違う。
これって一体どういう関係なんだろう?
とはいえ、私自身はこれを今回改めて読み直してみて、こういう二人の関係っていいなと実は思っている。
年齢差はあるけど、恋愛結婚ではない別の形の家族の作り方、とでもいえばいいのかな。
これを夫婦と呼ぶのは違うかもしれないけど、もしこういう関係も含めるならば結婚の幅って広がるかもしれない、と思ったり。
なんの結論もでてないけど、とにかくもやっとしたので書いてみた。
半世紀近く農業従事する人に聞いた話が田舎の幻想をぶち壊すって話「農業は高度なコミュニケーションが必要とされる」など
https://togetter.com/li/1432461
農家はそれぞれが個人経営者なので、経営者として作物を売らなきゃいけないから、最低でも農協と色々掛け合ってお話する必要があるし、農協以外に出荷をしているなら、その出荷先とのお話も必要なのよね。農作業そのものには対人コミュニケーション能力はあまり要らないので、農業法人とかで小作人みたいに働くサラリーマン農家というものがあれば、それはコミュ障と馬鹿にされる人達にとってはそう悪くない選択になると思う。
あと、俺もそうだけど日常の雑談が苦手で近所付き合いが大嫌いだが、仕事の話なら何の抵抗もないし喧嘩腰の交渉も出来る、ってタイプのコミュ症なら、それほど問題なく農業できると思うが、俺が住んでるのが近所付き合いを執拗に求めてくるタイプの田舎じゃないからなんとかなっている可能性はあるなw
田舎は楽園などでは全然なく、そこにはそこなりの苦労があって、それ故に人が減っているというのは田舎暮らしを続けて(というかそう時間も経たないうちに)わかったのだけれども、事情をよく知らない田舎暮らしに憧れている人間を小馬鹿にしている人間の文章を見るとどうも面白くねんだよな。
取り敢えずひとつ案があるのだけど、多分それだけでは解決策にはならんだろう。
でもまあ、せっかく思い付いたので書いてみる。
読んでいたら、意見をくれると嬉しい。
痴漢の罪。強制わいせつや迷惑防止条例があると思うけど、これらの罪でしょっぴく際閾値を設けてこれを超えた場合のみ、然るべき措置を取る様にする(すなわち逮捕)というものだ。要は交通違反の点数制度の様なものと思ってもらえればいい。
現状では、痴漢被害者の訴えだけで一発KOの可能性が高いと言われる痴漢冤罪だけど、多少の訴えでは罪に問われない様にするのだ(もちろん絶対的な物証があったり、たくさんの目撃者がいたりで、誰の目にもやったことが明らかなら一発KO相当の点数付与で良いと思うが)。
と、ここで痴漢被害を問題視する側からは異論が出るかもしれない。
点数が貯まるまで真の痴漢犯罪者を野放しにするのか。それまで被害者を痴漢の毒牙にかけさせ続けるのか、と。
これについては、まあそうなんです。という答になってしまうのだが、いくら痴漢に遭った被害者といえど、無実の人間の人生をおいそれと破滅させることを良しとはしないはずだ。
だからこれは、社会的な風潮や環境作りも大切だと思うが、痴漢に遭ったらとにかくどんどん声を上げる事が肝要だ。そうすればするほど痴漢犯罪者の排除は早まる。
と、ここで痴漢冤罪を問題視する側からは異論が出るかもしれない。
確かにそうなのだが、そのための点数制度なのだ。ちょっとやそっと訴えられただけでは生活が脅かされないという点が重要だ。
これはある種の実験も兼ねていて、被害の訴えの確度が高ければ割と早い段階でアウトな人間が出てくるだろうし、逆に票がいつまでもバラけていれば、痴漢被害の訴えは確度が低いということになり、その辺を踏まえて制度の見直しなりすればいいのである。
自分は田舎暮らしで、普段公共交通機関は使わないし、利用したとしても痴漢して逃げおおせるほどの混み具合でもないし人混みにも行かない(というか近くに存在しない?)しで、痴漢や痴漢冤罪とは無縁の人生を送ってきた。
何と言うか、エロコンテンツの中だけの架空の存在って意識だったんだけど、あんまり世の中が痴漢痴漢痴漢冤罪冤罪女性専用車両うるさいので考えてみた。
取り敢えずこんな感じ。
如何なものですか?