はてなキーワード: 創作的とは
深津氏の文章を読んで、本当に佐野氏のロゴは著作権的にアウトじゃないか
ことを代わりにやってみた。
著作権侵害が成立するには
1.依拠性
2.類似性
の3つをすべて満たす必要があるらしいので、順番に検討してみようと思う。
(http://www.saegusa-pat.co.jp/copyright/cr_02_3.htm)
を参考にした。
1.依拠性
証明する必要があり、Pinterestの閲覧の有無が争点になると思う。
当然ベルギーのデザイナーはPinterestに自分のロゴを登録しているし
佐野氏もPinterestに登録していたことが確認されている。
これによって佐野氏がベルギー側のロゴを見たということには充分妥当性があるように思う。
ここで佐野氏が実際にそのページをみたかどうかの証明は必要ないし(もちろん証拠があればそれに越したことはないが)、
佐野氏がもし仮に、見ていないと発言しても、忘れたと発言しても依拠性が覆されることはない。
2.類似性
まず佐野氏のロゴとベルギー側のロゴの類似している部分を列挙してみる。
・中心の縦の棒のパーツ
・左上と右下におかれたパーツ
・3つのパーツにより切り抜かれた円の形を視覚的に感得できること
・パーツの組み合わせにより『T』と『L』の合字が視覚的に感得できること
以上の4つではないかと思う。
判例では、他人の著作物の表現形式上の本質的な特徴を直接感得できるかが判例の判断基準となるようだ。
類似性があるとは認められないのと同じ。
これは一目しただけで、類似していることが認められるのではないかと思う。
相違点はベルギーのデザイナーのデザインが外側に黒丸で囲んであり、
モノクロ(2色構成)で構成されているのに対し、佐野氏の、エンブレムは
外側の黒丸に対する円がなく、4色構成であり、右上に赤い丸があることの
違いであるが、これらの違いはベルギーのロゴが土台にあってはじめて
成り立つものであり、ベルギーのロゴが本質的な特徴であることが理解できる。
つまりベルギーのデザインが土台にないと、佐野氏のデザインはまず
構成できないことに着目したい。
主張していて立証は難しいように思える。
着目してみたい。
である。
ここに飛躍的がある。
出発点となっているため、飛躍的な超越はない。ここにベルギーの
おそらく佐野氏は『L』の合字部分に気付かなかったのではないか。
ベルギー側のデザインが『T』のみのロゴだと思い込んだのである。
つまり佐野氏のロゴは、『T』としては非常に不自然な形状をして
いることになる。この不自然さこそ、一般的でないことの証明であり
創作性を保有しているということになる。
という着想を得たのだろうか。
あきらかに五輪エンブレムとして利用すれば利用行為を行ったことになる。
佐野氏がエンブレムを取り下げたために、ベルギー側も告訴を取り下げるしかなかった。
はないかと思われる。
これを読んでもみんな(深津氏や山本一郎氏を含む)は、佐野氏は
エンブレムをパクッてないということになるのだろうか、聞いてみたいところである。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20150903190148
よろしくどうぞ
食傷気味ではあると思いますが、佐野氏問題について自分の考えをまとめるために文章を書きました。
もうこの話題にうんざりという方はそっとスルーして頂けると幸いです。
■前書き
デザイナーではないけれど、クリエイティブ職に携わっています。
私の立場としては、
・トートバッグはアウト
というものです。
以下、目次です。
▾ デザインとは
- このエンブレムは一体何なのか
- 似ているのか
- 原案は似てる
- お粗末なマネージメント
▾ 個人的には
■デザインとは
デザインは、社会に受け入れられることを目的の一つとしています。
受け入れられるということは抵抗がない方がいいですから、あまりに新しすぎて意味が理解されないようなものはよくありません。
しかし多くのデザインにおいては、新しさや独創性を伝えたいという想いもありますから、デザイナーにとって受け入れやすさとオリジナリティというのは永遠の課題であると言えます。
多くのデザイナーにとって、ロゴのオリジナリティについて語りにくいのはこれが非常に繊細な問題であることが理由だと思います。
ところで、デザインは「計画」「設計」「応用美術」という言い方もされることがあります。
あるいは例えば、◯◯デザイナーという肩書きなどについて、プランナー(計画者)、マネージャー(管理者)という言葉を入れ替えても近いニュアンスがあるということについて考えてもいいかもしれません。
これらの言い方からも分かる通り、デザインとは一から全てを新しく作り出すという行為ではなく、適切に設計する、配置する、選択するという行為であるとも言えます。
では果たして佐野氏のデザインは適切なものだったのでしょうか。
その前に、デザインにおけるトレンドというものについて簡単に考えたいと思います。
参考に、近年のロゴのトレンドと言われているものをご覧ください。
http://photoshopvip.net/archives/78102
http://www.radflaggallery-design.com/blog/2015-logo-trend
http://coliss.com/articles/build-websites/operation/design/788.html
すでに2008年のトレンドが古く感じてしまうのが分かるかと思います。トレンドというのは、新しく感じられ、それでいて受け入れられている、という一つのラインです。トレンドを押さえる(上手く選択する)ことで瑞々しい印象を与えることができますが、トレンドが去った後には古さを感じるようになるものです。
新しさがありつつ、普遍性のあるデザイン、というものが如何に難しいかが分かります。
・このエンブレムは一体何なのか
それでは本題のオリンピックエンブレムについて考えたいと思います。
図像的には非常にシンプルなものになっています。また、恐らくは1964年の東京オリンピックの亀倉雄策のイメージをオマージュしており、色彩は日本的トラディショナルなもので、あまり目新しさは感じられません。そういう意味でこのエンブレムはあまりトレンドに乗っていないと言えると思います。
なぜこのような選択・デザインになったのでしょうか。
トレンドに乗らず、非常にシンプルなものにしたのは、普遍的なエンブレムになることを狙ったものだと思います。
亀倉雄策の1964年オリンピックは今でも素晴らしいデザインと語られるもので、古さは多少感じさせても未だに迫力が伝わってきます。
佐野氏のデザイナーの仕事にはシンプルで洗練されたものが多くあります。また、近年世界にアピールできている日本のデザインはシンプルなものや余白を活かしたもの、自然融合的なものが多く見られます。
このように、佐野氏、あるいは日本の強みであるシンプルなデザインであり、また一時的なトレンドではなく普遍性をもつもの、として単純な図像になっているのだと思います。
もちろんこれにより、トレンドに乗っていない、古めかしく見える、単純すぎる、単純すぎるために似たデザインが挙げられる、といったことについて意見が出てくることについては想定していると思われます。
・似ているのか
さて、よく問題として挙げられているベルギーのロゴと比較してみます。
前述の通り、単純な図像なので、近いロゴがあることは避けられないと思います。しかしプレゼンテーション動画などを見ると、このエンブレムのアピールは以下のようなものです。
・東京の頭文字T
・日の丸
このうち、ベルギーの劇場のロゴと共通するのは円のモチーフくらいではないでしょうか。
以上のような点を踏まえると、佐野氏のエンブレムは図像的にはベルギーの劇場のロゴと近く見えるところもあるが、その他の点で大きく異なっている、と言えると思います。
著作権は、思想・感情を創作的に表現した著作物を保護するものです。
佐野氏のエンブレムはベルギーの劇場ロゴの思想・感情的な表現とは違う発想で出来たものであることは明らかだと思われます。
Wikipediaによると、リエージュ劇場は公共性が高いためロゴに商標登録がなく、商標権については問題にしていないとあります。
・原案は似てる
色彩、配置的なアレンジはありますが、これはヤン・チヒョルト展のタイポグラフィに結構似てると思います。
しかし原案として過去のデザインを参考にすることは問題ないのではないでしょうか。個人的には、なぜ公開したのだろう、と思いますが…。
これがこのまま採用されるとしたら大変ですが、最終案ではかなり変化しているので、これはある意味で事前チェックが上手く機能したと言えるのではないでしょうか。
・お粗末なマネージメント
佐野氏ほどのデザイナーですと、事務所を構え、他のスタッフにデザインをさせるというのは勿論あることです。しかし本人の名前で発表する以上、その監督責任は本人に求められます。
トートバッグに関しては、明らかに佐野氏の失態です。佐野氏もそれを認め謝罪し、社会的な罰は十分受けていると思います。
私が冒頭に書いた「(ほぼ)問題なし」という括弧はここが理由です。
本来なら大きな仕事は少し控えた方がいいと思いますが、今回はエンブレムの後に発覚したものですし、取り下げる程ではない、と思っています。
そもそもこのコンペは、一定以上のクオリティを信用されているデザイナーへの指名コンペです。
日本有数のデザイナーであれば、色々な人間との関係性ができるのは当然ではないでしょうか。
コネは悪用された時に問題になるものですが、今回のコンペがコネを悪用したものかどうかについては判断できないと思います。
■個人的には
個人的には、もう少しトレンドを押さえたデザインが好きだなぁ、と思っています。しかしそれと、ダサいかカッコイイか、良いか悪いか、善か悪かといったことは無関係です。
個人としてはそこまで好きになれなくても、表面的な華やかさを控えて理念としての重要性を選択したということは驚きでしたし、思い切った決断だと思っています。
ところで、オリンピックのエンブレムはどれほど重要なのでしょうか。
東京オリンピックを世界に向けて恥ずかしくない誇れるものにするために、私たちは何を大切にしなければいけないのか選ばなくてはいけません。
インターネットのお陰でどこまでも検索することが可能になり、どんな事象でもどこまでも批判できるようになりました。
私は刀剣乱舞が嫌いだ。
家族が芝ゲーに嵌ってガンオケ語りしたり、スレに入り浸ったり、大絢爛舞踏祭ROMしてた頃から芝村嫌いだったけど、どっちかというと芝臭は薄いし、ある種のプレーヤーのハートを掴む術は心得てるよねと思う。どいつもこいつも量産型八葉みたいなデザインだなとは思うけど、それもまあ別にどうでもいい。
明らかに安い釣りに来てる公式台詞が気持ち悪い。審神者って言葉の使い方も、いかにも芝村らしくて気持ち悪い。サービス開始二日目位から、アンチ発言したどこかの人を寄って集って炎上させて吊るし上げて叩いてたファンが気持ち悪い。自称創作厨が一気にあのジャンルに流れて行ったはいいけど、それ本当に元ネタあるのかみたいな突然のあるあるネタが気持ち悪い。TLにしょっちゅう流れてくる絡み漫画も、申し訳ないけど高確率で気持ち悪い。
ブラウザゲー興味ないしモバマス艦これ他に食指が動く事も反感を覚える事もなかったから、自分でもなんでこんなに嫌いなのか理解出来ない。少なくとも自分にとっては創作的な人を悪い意味で刺激する芝村世界観が悪い方向に作用してるのかもしれない。
システムパクだの絵師トレパクだのネットから素材流用だの本体がキナ臭いことになっててある種ああ…って思った。それでも、あの界隈の雰囲気が元に戻ることはないだろうなと思う。それ自体が単純に好きな人に悪意はないの分かってるけど、全く興味ない、自重しない腐ネタがガンガン飛んで来る状況にはそろそろ耐えられない。自分の立ち位置だと思ってた場所が、実は全くそうじゃなかったってだけのことで、特にこれ以上悪く言いたいわけではないけど、合わないものは合わない。
↑を書いた者です。
他者とどこかで共振できるというのは、やはりそれも美しいものであり、またたいへんに嬉しいことだなぁと実感しました。
それから、こちらは半ば予想通りではあったんだけども、意に反して、嫉妬、それも創作的才能に対する感情に限定して捉えた方が多かったみたいでした。一度はてブを稼いでみたくて釣り気味に書いたんで、しょうがないんですけど。反省してます。
で、たしかに嫉妬的なやるせなさも想定して書いたのですが、頭に強くあったのは、それよりはむしろ、ただ自分が自分であることが不思議でしょうがなく、また自分以外ではありえないことが悲しいということでした。
私はあなたになることはできないし、花や鳥や音楽になることができない。比喩ではなく言葉通りの意味で。
偉大な何者かになりたいとか、現状が理想からはほど遠いとかいう話ではなく、私にはなにかが不足しているという話でもなく(不足だらけですけど)、自分は自分でありそこからは抜け出せず、いま目の前にある美しいものにはなりえないということの不思議さを、他の人はどう考えているんだろうか、という疑問です。
そんなものは受け止めるしか選択肢のないことで、現実生活上、「そういうものです」で話は終わりなんですけども。
「ただのないものねだりじゃね?」っつー話なんですけども。
自尊心云々はさておき、はてなの利用規約で他人の著作権を侵害する行為を禁止しています。
http://www.hatena.ne.jp/rule/rule
ブクマのコメントに著作権が発生するかどうかですが、100文字より短い俳句・短歌に著作権は「有る」とされてる以上文字数は問題無いでしょう。あとは法律の「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」に該当するかどうかです。全てのコメントに著作権があるとまでは言えませんが、条件さえ満たしていればコメントも立派な著作物であり侵害してはいけないものとなります。
そしたら後は「はてなの利用規約は正しく運用されているかどうか」です。利用規約に同意し守ってるユーザーが保護されるか、利用規約に反しているユーザーがやりたい放題なのか。今回の事例では後者になってるから納得いかないってのが元増田の言い分でしょう。
http://park2.wakwak.com/~willway-legal/kls-c.case.384.html
>本件水彩画に接する者は,その創作的表現から本件写真の表現上の本質的な特徴を直接感得することができると認められるから,本件水彩画は,本件写真を翻案したものというべきである。
某所における炎上に当てはめると,
本質的な特徴 → 昆虫の交尾に注目し,焦点をあてて撮影したこと
昆虫の交尾自体に創作性が認められないとしても,それを撮影するときに伴う工夫に対しては著作権法により保護される。
ただ単に昆虫の写真を集めただけではなく,その交尾の最中に注目し,構図をとって撮影しているところは創作性があり,翻案したイラストはそれを子細に再現しているので写真を翻案したものである。
http://anond.hatelabo.jp/20131112234910
たくさんのトラバ&コメントありがとうございます。
実を言うと、前記の会話にはかなり端折ったところが有って、
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私「いや、そもそも与えられた条件が違うし……平安文学とかは女性主体で書かれてたんでは?」
某「いや、『竹取物語』とか、初期の方の物語の作者はみな男性だったし、そうやって男の作者が書いて女子供に読ませてた物語を、女が真似して書き始めたのが広まったの。日記だって最初の『土佐日記』に『男が書く日記を女も真似して書いた』ってあるじゃん。そういうことだよ。『源氏物語』だって道長のバックアップで評価されたってのが大きいし、後になって、藤原定家とか本居宣長とか男の学者が評価して研究したから。でなきゃ多分今まで残ってないよ。女が内輪で盛り上がってるだけじゃ同人と変わらないからねえ。樋口一葉は鴎外や漱石が評価したからで、でなきゃ今の綿矢りさみたいな扱いでしょ。それに女に特に人気があったわけじゃないしね。……いや、どれも作品自体は凄いんだけどね。女にしか書けない内容だし」
某「第一、どのジャンルでも男の作家から影響を受けた女性作家ってのはいるけど、その逆ってほとんどないじゃん? コミケの参加者は女の方が多いけど、その割りにプロは少ないよね。まあ、俺はコミケは嫌いだけど」
私「(それってやっぱ「条件」の問題なんじゃ…)」
某「いや、確かに凄い人は凄いんだけどね。本質的には女は創作には向いてないね。例外的には才能ある人いるけど、そういうのに限って人としては酷いのばかりだし、素じゃ近寄りたくないよな」
私「それは女に限らないでしょ? 男だって創作は出来ない人が大半だし……」
某「いや、一般的な傾向を言ってんだよ。男が最初から出産できないのと同じ。……ついでにきついこと言うけど、君自身には創作的な才能は残念ながら無いよね。いや、俺にもあんまり無いけど。まあ、女にしては頭は良いというか、まだまともなんじゃない? 出産方面はダメそうというか、あんまりいい子供は出来なさそうだけど……それはそれとして、俺が言ってるのはあくまで全体の話だし、事実だから」
私「……」
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結局は、女性というよりは私自身が見下げられていただけ、という気がします。
ついでに付け加えると、彼は別にクリスチャンではなくて、宗教全般に興味が有った感じです。アマテラスの話題はあまり出ませんでしたが。
今時の曲をチェックするような人間ではないのだが、それでもBGMやラジオがかかってる環境でで強制的に新しい曲を聴かされることがある。その新曲どもがどれもこれもサビで始まるのだ。何年か前に「ヒット曲の法則」とやらを呼んだことがあるが、その中に「始まって30秒以内にサビを聴かせろ」というのがあった。サビを冒頭に持ってくれば一発である。あたまいいね。
元々サビから始まる曲というのはごく少数で、それなりの創作的理由があった。たいていはサビまでが長い場合である。Aメロ→Bメロを2回またはそれ以上繰り返す場合や、長い前奏や間奏が入る場合もあった。今時の曲は普通の構成の曲にサビを頭に持ってくるだけなので単に同じ繰り返しが一回増えることになる。
以前は色々あった日本のポップミュージックの形式も、90年代以降はほぼAメロ→Bメロ→サビ→Cメロ→サビに統一されてしまった。これに今はさらに頭にサビが付く。それもみんなだ。J-Popはかつてないほど画一化してきている。
この状況は実は洋楽の方がひどかったりする。洋楽はたいていBメロがないからもう延々サビの繰り返しだ。あちらではCD販売がほぼ壊滅しているから試聴の最初の数秒が勝負なのだろうな。
こういう状況は場末のスーパーマーケットに似ている。経営が傾いたので商品を売れ線に絞って合理化した結果、どこにでもあるものしか置いてなくてますます客足が遠のくあの循環である。ポピュラー音楽はそりゃ世の中の変化やビジネスとは無縁ではいられないが、「サビ頭」の蔓延はDL販売も含めた今の音楽業界にとどめを刺すことになると思うね。
いまはてブでリアルタイムに展開しているのがずっと感じてきた新格差っすわ。
・創作的能力があり、己が固有の何者かであることを世界に発信できる人
・創作的欲動があってもそれは出来ないで、あとは子ども作って納税して社会の背景として死ぬまでクソして生きる人
の2種がイキイキと描き出されてる
後者の前者に対する怨嗟!! そこそこ豊かな先進国日本の、しかも自分で稼いでない若年層にとって、それはもはや経済的格差よりも地獄的な、自意識内での格差、そしてルサンチマン。
「ボクはもしかしてクソして納税するだけの歯車階級なの?」というレイプ目の呟き。yes。人類の大半がそうです。いまとなっては子作りすらも許可が出るかどうか判りません。