はてなキーワード: 仏教とは
グーグルのマインドフルネス研修が話題になって、宗教臭いイメージを払拭しつつあるが、根本は宗教から生まれたもんなので、本はきちんと選定しないとトンデモがたくさんある。
宗教に対する警戒心も正しいと思う。
けどマインドフルネスとかは全部仏教の瞑想から生まれたものだから。
よくわかるよ「マインドフルネス」とか「実践にフォーカスしたアプリ」とかに惹かれる気持ち。
クールに有用なメソッドだけを効率よく食い千切ってるつもりでしょ?
でもあれは重要なエッセンスをだだもらしに取りこぼしてるから。
勿体無いよ。
なんていうか、プログラムを扱うにも根底の思想とかの勉強は必要でしょ?
「これが効率的でクール」って言いながらカット&ペーストでその場しのぎしてるだけの人はいつまでもプログラムを理解できず扱えるようにならず勿体無いでしょ?
それに近い。
上で挙げた本にしても宗教の話なんかたっぷりやってるわけじゃないよ。
(本当に仏教の勉強しようとしたら分厚い本を何十冊も読まないといけないし、瞑想の為にそこまでするのはナンセンス)
でも瞑想がなんでそうなるのかのエッセンスが含まれてるし勉強の入り口にはなる。
マインドフルネスの本はそういう部分を全部取りこぼしてる。
取りこぼしてるだけならまだしも、変なニューエイジ的な自己解釈を付け足してまでいる。
唵
サンスクリット語のオームoの音写。インド古来より神聖なる音声と考えられてきたもので、本来は、神々に対する呼びかけの間投詞であったが、やがて各種の呪句や真言の初めに付せられるようになり、それら呪句、真言が密教に取り入れられたのに乗じて、仏教に流入した。この音はa, u, maの3音節に分解できるので、3要素よりなるもの、たとえば天・地・空、熱・水・食物、ビシュヌ・シバ・ブラフマーの3神などに配され、あるいはふたたび総合されて全一普遍の実在ブラフマン=アートマンを象徴する聖音とされ、その念想によって実在への帰入、解脱が期せられることになった。仏教では、「阿毘羅吽欠」などのように密教の真言や陀羅尼の初音として用い、帰命、供養のため、あるいは法身・報身・応身の仏の三身を意味するものとされている。
たまに「無縁仏になるぞ」的な脅しをかましてくる人いるけど、無縁仏ってそんなに脅しになるほど嫌なものか?仏教徒の人前提で。
異教徒や無宗教の人ならともかく、仏教徒の人相手でもそこまで効果ある脅しとは思えないんだよな。
天国と地獄の概念があるとしても、無縁仏だと天国行きに時間がかかるだけで全く行けないとかは無いわけで。(地獄行きの人は別として)
私は特に自分の宗派に熱心とか信心深いわけでもなく、普通に仏教と神道を信仰しているけど、家の墓なくてもいいと思うし、無縁仏でも不都合は無いと思う。
100年どころか50年もしないうちに、更新しなかったりとか寺が潰れたりして墓が撤去されたら、それこそ実質無縁仏みたいな扱いになるわけだしね。
「検証可能性と再現性をもとに科学的検証を行った上で正しいという」が科学
昔は、科学的検証というものがなかったから、すべてが信仰の領域だった。
しかし、科学的検証が生まれ、かつ科学的検証が馴染むものは信仰から出ていき科学となった。
昔は、天地はどのようにして作られたか?や、人類はどこからきたか?も信仰の領域だった。
信仰に近い仏教の瞑想が脳内スキャンの進展によりマインドフルネスということで科学になりつつ有る。これは最近の信仰から科学への転換の例としてあげられるだろう。
しかし、対人関係や、社会、体内については、まだまだ検証可能性を整えるまで至っていない部分がある。
検証できないものは、自分が正しいから正しいとしか言いようがなく、他人が言う話を、言うやつの信頼性を含めて各々が判断するしかない。
つまりは、「信仰」としてまとめられた書物や、今生きているやつが正しいと思うというだけの言葉から学ぶしかない。
なお、これについて釈迦はある言葉を死ぬ間際に残している。釈迦が死ぬ間際、弟子がこれから何を信じて生きればいいのですかと聞いたところ。
各地の廃寺となった寺の数を知るだけでもその苛烈さが分かる。富山藩では、1600か寺以上あった寺院が6か寺にまで激減。薩摩藩でも1000か寺以上あった寺院が明治7年には全廃となり、藩内には一つの寺院も存在しなくなった。まさに「おどろくべき暴挙」(圭室文雄*1)であった。
当時の全国にあった寺院の約半数が廃寺と化し、途方もない数の文化財が廃棄・破壊され、果ては売買されたと伝えられているが、今もなおその正確な実態は掴めていない。
2001年にアフガニスタンのイスラーム主義組織「ターリバーン」が偶像崇拝禁止を掲げて、バーミヤン仏教遺跡群の石像を破壊すると世界中から非難の声が上がった。その際、日本政府は修復のための基金を設立し、最終的に3億円以上を拠出した。
だが、皮肉なことに、近代日本の夜明けを告げた明治政府は、「ターリバーン」など比較にならない規模の「ヴァンダリズム」(文化破壊運動)を容認していたことを、日本人として記憶に留めておくべきだろう。
うちの家族は「葬式なんかでカネを使うより、生きてる者が未来の為にもっと有意義なことに使ったほうが良い」って考えですね。
資産家だった私の父もそうでした。
生きている間
「罰があたる!」
などいろいろな脅し文句でカネを引き出そうとしてきた坊主の態度に大きな疑問を抱いて、その背景にある仏教をベースにしたビジネスモデルのろくでもなさに気付いたようです。
こういった考えは葬式で商売されている方にとっては都合が悪いでしょうが。
資産・負債という観点、投資という観点からすれば、葬式にカネを使うのはあまりにも非合理的。
今の日本は合理化が進んでいますから、葬式なんて不要!という人が多くなるのは当然。
それに高級車でキャバクラ通いをする坊主を批判しない仏教界の体質にも強いマイナスイメージを覚えていることでしょう。
そりゃそうですよ、自分が葬式の為に出したカネがキャバクラ嬢やクルマやその他もろもろの高級ブランドが肥え太る為に使われてるなんて知ったらね。
葬祭ビジネスなんてろくでもない。
「罰があたる!」「戒名にこれぐらい出さないと恥ずかしい!」「他の人はもっと寄付してくれてますよ!」
などと脅したり人を馬鹿にしてコンプレックスを刺激したりして今まで儲けてきた。
ほんと、高い壺を売る連中と根っこは変わりませんよ。
仏教界も高級車でキャバクラ通いをするような坊主を表立って批判しませんし、そういった汚れた体質も人々の仏教離れを進めている。
いちばんおぞましいのは仏教信仰が強い地域で葬式を行わないと村八分にされるという恐れですね。
そういう意味では仏教はオウム真理教などのカルト宗教と有害性はさほど変わらなくなる。異教徒への人権侵害を是とする姿勢なのですからね。
東京国立博物館や地域の博物館とかで経塚やそれに関する遺物を見かけることは多い。
経塚は、昔の人が末法の世になってもお経が伝わるように、地面にお経を埋めたものだ。
経文と共に仏像なんかも安置される。
埋められた経文を埋納経という。金属などで出来た容器は経筒という。
埋めたものが何かの拍子で出土することがあるのだ。
埋める際には、当然末長く伝わることが目指された。
経筒を密封することはもちろんだが、まわりを石で作った入れ物でさらに封をする場合が多い。
お経は紙で、溶けてしまって今に伝わらないが、後世にはお経を石に掘って埋めたり、石に墨書して埋めたものもある。
いつまで仏法を伝えればいいのか? それは56億7000万年後だ。
弥勒菩薩が現れて再び衆生を救済するまで、末法の世は続くのだ。
経塚関係資料を見ながら、埋めた人々の想いはいかばかりだったかと想像する。
色んな苦しみが今よりずっと多い時代。
拠り所とするお経というか仏教がなくなるかもしれない。伝わらないかもしれない、という想い。
金と権力がある人が示威的にやっている側面ももちろんあるだろうけれど、それだけで切りとれない要素もある。
未来に向けて伝える、という何か意気込みのようなものが実物資料から伝わってくる。
ところで、私たちは銅鐸の使い方を知らない。
多分こうだろうというのはあっても、精確なところは解らない。
銅鐸に限らず弥生時代の祭祀具は、使い方がわからないモノが多い。
さらに前の縄文時代の祭祀具(と思しい)考古学的資料も、やっぱり精確なところの使い方は解らない。
皆忘れてしまったのだ。歴史のどこかの段階で、忘れてしまった。知る人が一人もいなくなってしまった。ある種の絶滅だ。
銅鐸に替わって登場する祭祀具は鏡だ。こちらは解る。今も神社に奉納してある。ご神体のような使い方をする。伝わっている。
このあたりから、何となく使い方が実感としてわかる資料が出てくる。
例えばいきなり経塚から石板に刻まれたお経が出てきたとして、その名前や考古学的な背景が解らなくとも「うわなんかお経が書いてあるぞ」くらいはわかったりする。
あるいはそこまで行かなくても、「何か文字が書いてあるぞ」とわかる。
この辺りで「これは何か重要なものかもしれない」と多くの人は感じとることができるだろう。密封されてもいるわけだし。
専門的な仕事に携わってなくとも、例えば土木工事や農作業で経塚が今に姿を現したら、「なんか仏教関係ぽいのがでてきた」と思えると言うわけだ。
私たちは仏像なりお経なりを見たら、直観的にどんな分野のものであるか理解できる社会に(今も)生きている。
科学が発展しようが、未だに路傍には地蔵があり、葬式でなんだかわからんままお経を唱えたり、する。
仕組みを何となく掴んでいる。
そ私たちは仏教になじんでおり、仏教を今から未来に伝える一翼を担っている。
銅鐸とはここが違う。
そういう意味では、古えの人々の想いは伝わっている。
平成が終わろうとしているが、その時代にあっても仏教にまつわるものだと素人でも判断できる社会だからだ。
難しいけど、科学が発展した時代だけれど、こうした直観でわかる宗教的バックグラウンドは大切なものと思う。
今はかなり色々なことがわかる時代だが、そうじゃなかった時代に人々の心のよりどころになった考え方とその資料。