「検証可能性と再現性をもとに科学的検証を行った上で正しいという」が科学
昔は、科学的検証というものがなかったから、すべてが信仰の領域だった。
しかし、科学的検証が生まれ、かつ科学的検証が馴染むものは信仰から出ていき科学となった。
昔は、天地はどのようにして作られたか?や、人類はどこからきたか?も信仰の領域だった。
信仰に近い仏教の瞑想が脳内スキャンの進展によりマインドフルネスということで科学になりつつ有る。これは最近の信仰から科学への転換の例としてあげられるだろう。
しかし、対人関係や、社会、体内については、まだまだ検証可能性を整えるまで至っていない部分がある。
検証できないものは、自分が正しいから正しいとしか言いようがなく、他人が言う話を、言うやつの信頼性を含めて各々が判断するしかない。
つまりは、「信仰」としてまとめられた書物や、今生きているやつが正しいと思うというだけの言葉から学ぶしかない。
なお、これについて釈迦はある言葉を死ぬ間際に残している。釈迦が死ぬ間際、弟子がこれから何を信じて生きればいいのですかと聞いたところ。
ヒトの意識には二つの車輪があって、それが論理と信仰だ。 意識とは、感覚器官からの情報を統合するために生み出されたもの(らしい)。 統合技術の一つが論理だ。演繹、帰納、数学...
「誰か権威を持つ人が正しいと言ってる」が信仰 「検証可能性と再現性をもとに科学的検証を行った上で正しいという」が科学 昔は、科学的検証というものがなかったから、すべてが信...
本人もめんどくせえから割愛してるんでもう全文割愛でOK
意味と価値逆じゃね?
宗教を広くみれば科学も宗教なんやで 幸福のではなく。 信教の自由は科学を信じないまたは利用しない自由でもある。エホバの証人だの、アーミッシュだのは、実際にそうして科学を一...
定義はいくらでも広くすることができるので 「広く見れば当てはまる」に大した意味はない
駄文すぎる。ややこしいことを議論したいなら明晰な文章にしなさい