はてなキーワード: 仏教とは
俺自分用に古墳造営しているんだけど、ちょっとアドバイス欲しくて投稿する。
農業系の自営業。経営者をしている。好きに使える金とユンボとかがあるから、生前から墓を造っている。
空閑地を買収して土木工事させている。5世紀ころの個人的に一番いいと思う時期(でかくていいのだ)の前方後円墳。
大きさはそこまで大きく出来ない。ある有名古墳をトレースして半分くらいの大きさにして造営している。
ええと、古墳名出さなくていいよね? よくオタクが作品をぼやかして語ることあるだろ。それとおんなじだ。
皇族が眠っている可能性が高いから、実名を出したくない。大きさを小さくしたのもそのためだ。
もちろん、諸研究が明らかにする通り、被葬者は在地勢力の可能性もあるし、王朝が変わっている可能性もあるのだが。
んで相談てのが葺石どうするのか? って話だ。
他の人はどうしているんだろうか。
基底石を用いるパターンかそうでないか以前の問題で(俺はそこはどちらでも構わない)、
日本中、河川を護岸工事したせいで、河原の石が変容を遂げてしまった。
北海道とか行けばあるんだろうか? 古墳造った人やその親族がいれば教えてほしい。
日本人は無宗教です仏教は形骸化して人々はクリスマスやバレンタインデーを適当に楽しんでいます、みたいなよくわからない無宗教信仰が昂じてしまってこうなってしまった。
人権思想・平等思想というのは、そもそも現実世界を観察して、現実の人間の感情に即して作られたものではない。
人権擁護派ですら、ちゃんと考えて勉強した人間は「人権を100%維持できるわけないよね、でも理想を目指すためには理想のビジョンが必要だよね」ぐらいに言っている。
人権が守れない自分は間違っているのでは?なんて考えてストレスを感じるのは甚だ非合理だ。
例えばキリスト教ってのは、全ての人間を平等に扱え、なんて人間の感情に即してない理想は示さなかったね。「汝の隣人を愛せ」と言っただけだった。儒教の場合は、家族のように扱えと言った。仏教は、他人を攻撃したくなるような執着を捨てろと言ったね。それぞれ可否賛否はあるけど。現実の人間に即していたという点では、「人権」よりも優れている。
つらいことから逃げるのが一番。後、悩んだら悩んだことで検索をかけて本を読み。
役所が「家族のことは家族がやるべきものなんですよ」は一般論としてはそうなんだが、毒親や貧困の状態では必ずしもそうじゃない。
それこそ「俺知らんので」で役所にぶん投げたままでもいい。むろん、それは墓にも入れずに放置するということでもある。毒親ならどこかで考えるべきもの。
あと、苦しい時の心の持ちようなんてのは実際苦しんだやつしかわからん。今の坊さんなんて過去の仏教文献を読まなくてもなれるし、相続で豊かなままで生きているだけのもの。
ごく一部の、本を書いて、それが役に立つようなタイプの僧侶は別だ。言ってみれば売れっ子作家みたいなもの。日々相談するような相手ではないだろう。
後、新興宗教は、基本依存させるためだけのものだから、なーんの解決にもならんよ。適当に先祖が悪いから俺が払うから金よこせ、みたいなのがいっぱい。
悩みの内容が祖父の処理ができなかったということと、親のことだから、毒親悩み臭いな。この本を勧める。
人が好いだけだと、こいつ舐めてもいいだろ、と有害な奴も引き寄せる。
鬼にならんとあかんやつってのはおるよ。さらに、同調圧力で集団で来ることもある。親戚一同そろってとかな。
むろん、舐めれると思ってるから、向こうが攻めてきたり、あるいは懐柔しようとしたり、さらには遺産で釣ったりすることもあろう。だろうが、切るべきもの。
あと、つらいという感情で自己中毒になってる感じもある。その自己中毒は脳内物質もかかわっている。今はその自己中毒を抑えるのは心療内科で薬をもらえば収まる。
その反例はたくさんある。まどマギだって小飼弾だとか文化人的な人、はては坊さんが仏教的解釈したり、いろいろあったでしょ。
それから、バカに見える人に近づけと言っているんじゃない。他人をバカだと決めつけるな、決めつけられるとしたらそれは思い上がりだ、という話。
バカのためのものだという決めつけでもってモノや人を愚弄しつづけるのは自分を狭めると言っているの。
例えその作品のメインターゲットが小中学生だったとしても、それを経済学の専門家の自分が見たら気づける独自の面白さがあった、そしたらそれを絶賛すればいいんだよ。
ファンの質がどうだとか、そんなものは本質ではない。作品それ自体や、それを真面目に作っている人たちに、偏見をもたずに真摯に向き合うのが本来なんじゃないの?ということ。