はてなキーワード: モルヒネとは
今日、友達と飲みに行ってん。そんでな、なんかかんかしてるうちに、生きることとか死ぬこととかの話になったわけなんよ。
なんでそんなちょっとめんどくさいというか、気持ち悪い話をするようになったかっていうと、僕のほうからそういう話を始めたわけなんで、ちょっとそれは説明せなあかんなと思うんやけど、まあ有り体に言ってしまうと、僕のばあちゃんが死んだからなんよね。
ちょっとまえ、ていっても3,4ヶ月前にもちょっとそれで文字に起こしていろいろ考えた時があったんやけど、その時はまだなんとかばあちゃんもまあ喋れるし記憶もあるしって言う状態で、会いに行った時はちょっと拍子抜けしたんやけど、その時に凄い僕に聞いてくんねんな。「私死にたくないんよね」って。死ぬのって怖いんやって。死ぬってなんなんやろうって。
僕はその時、「ああこの人はすごく幸せやったから(実際死ぬ前には家族というか孫含め親戚はだいぶ来てくれていたし)死ぬってことちゃんと考えたことなかったんかもな」って思って、僕が思ってる死ぬってことについていろいろ語ったわけなんですよ。気持ち悪いけどけっこうまじめに。
「あんなばあちゃん、死ぬってのは死ぬ側からしたら死ぬってないねんな。なんでかって言うと、死ぬ自分はもう意識がそこにはたぶんなくなってしまうから、見れんじゃん?残った人から見たらそりゃばあちゃんは死んでるかもしれんけど、ばあちゃんは死なんわけよね。だから、ずっと生きれると僕は思ってるんよね。だってばあちゃんの体か動かんなって、死んだとしても、僕らはばあちゃんのことを即座に忘れるわけちゃうし、ずっとそういう意味では生きてるんやん?」なんてことを行った気がする。
ばあちゃんは一応聞いてくれてたけど、多分ばあちゃんが求めてた答えはたぶんそういうことじゃなくて「大変やなぁがんばって」みたいな励ましやったと思うんやけど、そんでそれも僕はちょっとわかっていたんやけど、ここで言わんともう言われへんなみたいなふうに思って、ちょっと気持ち悪いけど頑張ってことばにして、極力誠実に語ってみたんですよね。
そんでその後、何ヶ月かして夏休みになって、インターンとかいろいろあって盆には帰れずに、なんとか8月の終わりに実家に帰った時にもう一回ばあちゃんに会いに行ったんやけど、その時にはもうだいぶ病気が進んでて、意識は無いし、痛みを抑えるモルヒネでなんとか頑張ってる感じで、あーこれはもう持たんなぁって感じだった。でもなんか、いや根拠はないんやけど、しゃべれないけど僕はばあちゃんとしゃべれるような気がしてきて、ずーっと手を握って、「ばあちゃん、怖くはないんやで。安心してな。」ってことをずっと思うてたんよね。いや完全に僕の自己満足というか勝手な解釈なんやけど、あの気持はばあちゃんに伝わってる気はしたし、今でもそう思ってる。
ほんで、結局そのままぽっくり逝ってしまって、まあそら悲しかったんだけど、ばあちゃんは多分そんなに死ぬの怖くなかったんちゃうかなというか、いくばくかこわさを和らげれたかなという気がする。でもやっぱり、そう言うてる僕もなんか死ぬのが全く怖くないかっていうとそうじゃない。なくなってしまう怖さというか、まあ経験したこと無いからしゃあないんやけど、すべてが無いってなんなんやって思うわけよ。すべてが無くなるってことはないって考え方もあるやろうけど、少なくとも今見えている世界からは一回切り離されてしまうのは間違いないと思うし、それってやっぱりだいぶ怖いことなんですよね。理屈ではそうじゃないんじゃないかって思ってても。
っていう話をしてたんですけど、そしたら相手も最近同期が自殺をしたかもしれんなんていう話をし始めて、その怖いっておもうことを自分からしてしまうようなその子の周りの環境と、周りに居た人間の理解のなさと鈍感さと、残された人たちの悲しみと、知らない僕にすら与える衝撃と、そしてそのすべてを凌駕していたであろう、その子の孤独と悲しみを思うと、なんだか一層社会が怖くなってしまったのです。
数としては一年に3万人ぐらいが日本だけでも自殺で死んでるっていうのはデータとして知ってるし、身近に居ても全然おかしくはないんやけども、実際にそういう近いところに現れるのを見ると、改めてそれを実感するというか。ああ本当にあるんだなぁと。
多分その子も死ぬのは怖かったと思うんよね。これは確信はないけど。でも生きるもの全てにかせられてると思うんですよ、死ぬのが怖いっていうこの根拠の無い考えって。
これで大抵の社会問題(くだらないネット空間限定)は解決する。
かの名著『家畜人ヤプー』に倣い、弱者男性を家具や便器等の道具として利用出来るようにする。もちろん性的略取も可。
覚醒剤や大麻はもちろん、モルヒネやフェンタニルやリタリンやコンサータなどの薬で彼らの苦痛を和らげる事を法制化する。
みんなも人間同士がいがみ合い、殺し合う様子を晩酌しながら眺めるのは好きだろう?
ついでに金を賭ければ真剣味も増し、税収増にもなり一挙両得。
思想信条に関係なく全てのデモの隊列を弱者男性の群れで囲み、プロテスター達の盾にする。
大学の学部選んだ時に漠然とあった好奇心はもう全部使い切っているのに、未だに分からないことだらけで目眩がしてくる。
会社のやってることもなんだか他所と色々違うみたいだから転職してリセットした所で良くなるとは思えん。
ただただ金と時間を交換しているだけなのに、どんどん責任は重くなっていく。
テレビゲームのボムみたいな感じで「とにかく助けてください!」でどうにか出来る年齢じゃなくなってきた。
というか自分がそれをやられる側だ。
頼んできた側の勘違いで実際には簡単なことだった時、物凄いホッとする。
いざ自分がやられる川になったら、俺の時間を奪いやがってなんて気持ちが湧き上がるんじゃないかと思っていたけどそんなことはない。
もうとにかく一番怖いのはチーム全体で死にものぐるいで戦わないといけない怪物の発見報告がやってくることなんだ。
昔は後ろの方でビクビクしながら最前線のサポートだけしてればよかったのが、自分が突っ込んでてよく分からんまま口に手を突っ込んで一か八かでトドメをさせないかとアレコレやらされる。
もう嫌だ。
趣味も完全に上手く行ってない。
もう全然楽しくねえ。
膝悪くしてからはスポーツは怖いだけで全然楽しめなくなって、足に負担賭けないようにビクビクしながら筋トレだけやってる。
ゲームも全体的に飽きてきて、大作のとにかく先が見えない感じはもうかったるいし、かといってインディーズのアイディア勝負もちょっと齧った所で昔やった何かと比べてすぐに飽きてしまう。
昔は存在価値の分からなかった「何だか良く分からないものに触ってあっという間に終わってしまうゲーム」の価値が分かるようになってきた。
とにかくアイディアだけサクっと味わえたらもうそれでいいんだって状態なんだ。
映画やドラマも展開は一通り見飽きてるせいで集中力が落ちて話が追えない。
ていうか自分が自分の思ったよりも頭が悪いらしくて難しい話をちゃんと分かろうと思ったら画面に齧りつかなきゃいけないってことを直視できない。
画面の中のテレビショーをちゃんと理解するために必死に画面に食い入ってそれだけやるって人生の使い方がなんだか凄く惨めでやりたくない。
映画館に行って集中して見てたはずでも話が分かってないことが多い。
見終わってから他人の感想を読んで自分が全然話を勘違いしてたことに気づいたりする。
なんだか惨めだ。
私生活も荒れてきて、たまに掃除や睡眠をしっかりやろうと思いつくことがあるけど、そのブームがいつの間にか去って気づくと汚い部屋で夜更かししていることが年の半分ぐらい。
体は膝以外もボロボロで、歯医者で歯石取ってもらってるのにいつも口の中がネバネバしてるような感じとか、ふとしたときに嗅いだ服の匂いの加齢臭みたいなのとか、そういうのもう全部辛くなってきた。
バイキングじゃ全然食べられないのに何でもない日にたくさん食べまくってしまい次の日は夜まで何も食べられずに過ごしたりするような、体のコントロールの効かなさがいろんな所に起きてる。
結婚式や葬式以外でしか合わない従兄弟が今何やってるのか時折気になって、そういやアイツらはこっちよりも大分器用に生きてた気がするなと嫌になる。
人間関係の健全なあり方みたいなのを身に着けられずに来たからとにかく人間と関わりたくない。
いい感じに見下しあえたら友達になれて、一方的にこっちが見下してたら関わりたくない相手、逆に相手から強烈に見下されていると感じたらそのときも逃げていく。
人間が他人と自分を比べるっていうのは当たり前なんだけど、そこにおいて尊重しあうっていうことが道徳的な正しさの上にしか存在してないような感覚がある。
もうなんか人生全部が辛い。
末期がんの患者がモルヒネがいい感じに効いてる時の穏やかな気持ちの中で「じゃあ自分の人生にどういう結論をつけていくか、頭の中だけでも整理してから終わらせたいなあ」と考えているような状態の中をもうずっとずっといつまでも生きてきた気がする。
そこから突然、なにかが変わって人生が好転しだす可能性を信じてた。
世の中じゃこういうのを「人生が始まってることに気づいてない」みたいに言うらしいな。
いつの間にか始まっていた人生がいつの間にか終わっているただそれだけなんだってことを納得しておけばいいっぽいのは分かってる。
生まれた家とか時代とかDNAとか子供時代の過ごし方とか就職先の選び方とか人間関係とかそういうのにたらればを持ち出すのは無意味だってことも分かってる。
少なくとも生まれてきた瞬間に決まるものについてタラレバを考えるのは無駄だ。
「魂の実在を信じているのか?異世界転生するライトノベルみたいに?」って話だ。
科学を進行しているので魂や輪廻転生は信じてませんって考えてるくせに、どこかで「もしかしたらこうだったかも知れない自分」を空想しているのが本当に無駄なんだ。
「生まれ変わったら今度はこういう風に生きよう」みたいなこと館上げるのは、タイムマシンで意識だけを過去に飛ばせる実験がどこかで成功したのを聞いてからにすればいい。
今の時代に生まれた自分たちの意識において、過去に飛ぶとかやりなおすとかは無関係なことなんだ。
空想の中でそれをやって、空想の中で満足するだけならまだしも、そうやって作戦を練ることで人生が好転する可能性を信じているならそれは科学を進行している人間として実に奇妙な状態になる。
なんたらの賭けの亜種として、もしもそんなことが起きる可能性があったならちょっとぐらいは準備しておくのもアリかもって範囲ならまあいんだろうが。
でもなんか自分含めて皆があーだこーだ考えすぎている気がしてならん。
今の自分じゃなかった可能性の今の自分を考慮して何の意味があるんだろう。
「もしも3月31日生まれじゃなくて4月2日生まれだったら学年一位だって取れたかも知れない」みたいに考える時、そもそもその2日違いの生まれの間に意識は全く別物へと変容していて、今の自分とは別の魂で動く別の人間だったはずなのに。
肉体より先に魂がこの世界にあると信じるならそれでもいいが、それならもういっそ割り切って「ハズレを引いたなりになんとかやっていくループ」として今の人生を生きればいいのに。
前世の記憶が引き継げたりしないルールっぽいのは明白じゃないか。
異世界に行った時に備えて現代知識の勉強をするために現代社会を生きるのは完全に無駄だ。
魂の実在を過剰に信じてたらればに執着して生きるってのはそういう生き方だ。
って頭で分かっているのにそういうのに縋ろうとしている自分に毎日出会う。
どうしようもなくなった人生に逆転のワンチャンスを与えてくれるなにかを信じて。
こうやって自分を説得しまくってもまだまだ魂の実在を信じて脳がタラレバを考える。
だってもうこんなどうしようもない人生を今から立て直そうとするのはしんどすぎるから。
本当にしんどいんだ。
減税の場合、官公庁や自治体側には追加の事務はほぼ発生しないが、補助金は受付審査事務が追加発生する。
一見「減税のほうが良いじゃないか」と言われそうだが、事はそう単純ではない。
補助金によって事務は増えるが、今以上公務員の業務量は増やせないので、民間委託が発生する。ここがポイントだ。
新設された補助金の受付審査事務の設計から実行までを民間に丸投げするのだ。その原資は補助金のために割り当てられた予算から。これにより、さまざまな企業が新たな稼ぎにありつける。
事務設計するコンサル業者、設計された事務を実行する人材派遣業者、その様子を統括()してあれこれ能書きを垂れる別のコンサル業者、など。増田はそのコンサル業者に居たことがある。
簡単に言えば、補助金は雇用確保も同時に出来る「お得セット」だ。これは減税ではほぼ出来ない。減税でも審査を入れる仕組みにすれば似た効果は狙えそうに見えるが、「歳入減のための事務予算」が認められないので出来ないし、よく言われる「消費税減税」のようなものは審査を入れようがない。
仮に補助金を全部止めて、その分を減税に置き換えたら何が起こるか?