はてなキーワード: あの世とは
さて、あの人だ。あの世間知らずな小娘だ。そうか、まだこの憎たらしい小娘のことを紹介していなかったな。この小娘は狭い範囲で育ったせいか、視点が狭い。そしてとても自己中心的な世界観を持っている。自分に不要なものは全て要らないと思っており、自分の言った言葉で他人が傷つこうが自分には関係ない。科学なんて要らないと思ってる。物理なんてなんの役に立つの?みたいなことをよく言っていた。僕を含め周りの人たちが科学がどういうところで必要とされているかなんども説明したように思うが、この小娘は自分のほんとうに身近で科学が役だっていることを実感できないらしく、いつまでも同じことを言い出す。
そんな小娘がまた無神経でむかつくことを言ってきた。僕は博士課程に進む予定だが、就職しなかったことに不満らしい。親のすねをかじってればいいさとか勘違いなことを言ってくる。僕は博士課程に親の金で進むつもりはない。ちゃんと就職組並の給料は貰う予定でいる。それに僕はこの小娘と違って遊び人ではない。遊ぶことにあまり興味はない。むしろ研究をやっている方が楽しい。だから給料が少なくて後悔するとか言うが別にそんなことは無い。それに博士で就職したほうが初任給は高いし、外国人と相手するときに博士号を持っていることは有利になる。この小娘の職場はとても暇らしく楽らしい。それを自慢してくる。別に僕は暇して給料もらうのが目的ではなく研究をするというのがやりたいこと。給料は二の次。それにあんたの給料は低いんでしょ?かといえば、小娘が就職活動しているときになかなか内定がもらえず精神が狂いそうなほど苦労してたらしく、そのことで、お前は全然苦労していないとか言い出す。この小娘は僕の何を知っているのだろう?僕がなぜ博士課程に進学しようと思っているのかわかっているのだろうか?それにこの世間知らずの小娘に苦労をしらないと言われるとは笑ってしまう。大学までずっと近所の学校に通っていた箱入り娘のあなたに言われるとは!片腹痛い。こちとら片道90分かけて大学に通ってるんだぜ。バスと電車と歩きで結構疲れるよ。箱入り娘さんよ、あんたもやるかい。学部生のころは1限8時に間にあうために早起きして家を出るのは結構しんどかったぜ。それに加えて、僕は病気がある。この病気は厄介なやつで、僕の精神をじわじわと蝕んで行く。小娘にもうつしてあげようか。ちなみに精神病ではなく、不可抗力的なものだ。体調管理うんぬんは関係ない。(そういえば昔付き合ってた人が、体が弱いのは心が弱いからだよなどと抜かしていた。一理ある。たしかに一理ある。が、僕の場合は正しくない。)おそらくこの小娘は自分の人生に満足できてないから、人を貶めることが楽しくて仕方ないのだろうね。
大学に入って暫くしてのことだが、某深夜アニメにはまってしまった。
そもそも大学入学まではアニメなどゴールデンタイムに観るぐらいしかなかったし、ジャンプなど漫画雑誌も購読していなかったので、そういうものに疎かった面はある。
初めて買ったゲームを朝までやり続けたように、どの程度が異常なのか、それともよくあることなのかがわからなかった。
きっかけはなんだっただろうか。放送をぼちぼち見始めて、世界設定や元ネタ、キャラクタを調べているうちにどっぷり浸かってしまった。
たとえ入口が一つであっても、そこから先は広いと分かった。それこそ考察・カップリング・作画・声優・公式・非公式・メディアミックス……全てに手を付けたわけではないけど、きっと望めば望むほどコンテンツは存在し、それが枯渇すると今度は自分が供給に回るのだろう。自分にはそれが深淵のようにも見える。そして自分はそれに覗き込まれてしまったのだろう。覗き込んだのは、どちらも自分自身だというのに。
気づけばアニメ系まとめサイトを逐一チェックし、公式のメディア展開に一喜一憂し、日常生活でもキャラクタ名を空目する自分がいた。それについて割と恐怖したし、自分を律しようと試みた。今のところそれは成功しているように思える。毎日のweb巡回ルートと、日々保存される画像を除いては。
またはサブカル系の考察や思想に手を出してみたが、こちらはちょいと微妙である。コンテンツと消費の話は個人的には面白いのだけど、妄執を解決するには至らなかった。
頭ではあの世界が、あの作品がフィクションであると解っている。解っているのにそれでもフィギュアを見たりアニラジなんかを聴いたりすると混乱する。混乱すると判っているのに、その情報を検索するのを止めない。
たまにSSや同人のたぐいを目にすることがあるが、自分自身はそれを好まない。メアリー・スーよろしくキャラクタとオリキャラを絡めたりするものもあるが――自己嫌悪に陥ってこれまた混乱する。少しでも想像すると自己中毒になる。
誤解しないでいただきたいのは、作品自体を批判したり、ファン活動や同人活動を嫌悪しているわけではない、ということだ。むしろ、何かに夢中になったり自分を捧げるというのは素晴らしいことのように感じる。自分にはその覚悟がなくて、自分で引いた境界線の前から、此岸から彼岸の人々を見ているに過ぎない。ぶどうを取れなかった狐のように、指をくわえて。それでもその線を越えようとしない、越えたくとも越えられないのは、越えれば自分が自分でなくなるとでも思っているのか、それをよしとする自分が許せないのか。
この「病気」とも言えるものは、きっとそのアニメのコンテンツを全て絶つか別のコンテンツに移行するか、同人も含めた全てが終わらない限り、一生治らない依存症なのだと思う。このまま距離を取り続けて、それがオワコン化しても耐えられるだろうか。……それはまだわからない。どこかで折り合いを付けるか、そこから別のものにシフトして昇華させる必要があるのだと思う。孤独な誰得チキンレースである。
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このシーンがすごく気になるんだ。
お母さんは、まどかの腕を掴んで引っ張り上げることもできた。
でも、それをしなかった。
この前の先生とお母さんの会話で、
「あの年頃の子供はね、ある日いきなり大人になっちゃったりするものよ」
「信じてあげるしかないわね」
って言われている。
腕をあげたけど、おろすしかなかった。
だってまどかに、「今でもそう信じてくれる? 私を正しいと思ってくれる?」
って言われたから。
お母さんだって、子育てに戸惑っているし、どうしていいかわからないから、そうするしかなかったんだ。
この日急に大人になったまどかは、大人になるために階段を下りていった。
この結末は、まどかの家族にとって、まどかを大切に思う人にとって、よかったんだろうか。
まどかのお母さんはあのとき腕をおろしたことで、まどかを永久に失った。
いつもそばにいるし、希望の持てる世を作ったし、もうまどかのいたあの世界は、最初からなかったことになったのかもしれないけど、それでもあの世界のまどかの家族は、まどかを失ったことに変わりはない。
あのままの世界で、まどかを引っ張り上げたら、何も変わらない世界だけど、今のままで生きいけたかもしれない。
いくら神になったって、多くの人を救ったって、ただ娘に幸せでいて欲しいと願った母の思いは、どうなるんだろう。
事情を話もしないのに信じてくれた母に、胸をはれる?
ねえ、まどか?
お母さんの信頼に応えられた?
母を悲しませても、自分の信じた正しいことをするのが、大人になるってこと?
自分の娘がまどかのような行動をしたなら、俺はずっと悲しみ続けると思う。
もちろん、娘を誇りに思うだろうけど、それは同時にとても悲しいことで、俺が望むこととは違う。
でも、そうやって、自分で決断して、親のいるフロアーから降りることが、大人になるってことなんだろう。
二度と戻ってくることがないとしても。
頑張ろう、頑張ろうって言うけど、
家が流されたんだよ?
おまえ、ちゃんと分かってるの?
超つらいとき、「とりあえず帰りたい、もう帰りたい」っていう、
あの帰る家がね、全部流されたんだよ。
俺、もう、家ないの。
今日も疲れた―!ってドア開けてホッとするような所がね、
全員、一瞬にして、心の準備もなく、いきなり11日から消えたわけ。
おまえ、家ないのに頑張れる?
服も漫画も、化粧道具も、アルバムも、大事にしてたもんも、全部いっきに無い。
よし、頑張ろう!って思える?
すげぇ言われてるんだけど、CMとかで、頑張れ頑張れとか。
ちょっと気を許すと、「一緒に頑張ろう!1人じゃない!」とか言うわけ。
いや、おまえら家あるじゃん?そのCM撮ったら家帰ってるじゃんって。
おれ、船、なくなったんだぞって。
多分、漁師はもうできないと思ってる。
もう、なーーーんもない。
どう考えたら、今、頑張れるんだよ。
ちょっとでも頑張れる何かが、今、俺たちにあるのか?
「いや、今はこっちで頑張るから、おまえらは1年ハワイでゆっくりしてきな」
とか言われたい。
「おまえらが帰ってくるまでに片づけとくから。家も建てとくから」
毎晩、うなされるし、夜いつまでも眠れない。
流された人を何人も見た。
顔見知りも流された。
その頭にある映像を何回も思い出す。
そのたび、津波がこうくるって分かってたら、あの人を助けられたかも、とか。
時間が戻せたら、隣のおばあちゃんちに寄ってあげたかった、とか。
1人でも助けて英雄みたくなったら、まだやる気が起きたかな、とか。
俺、1人で逃げてきたわけ。
誰も助けなかった。おばちゃんとか、何人も追い抜いて逃げた。重そうなもの持ってる人とかもいたのに。
もう100万回くらい、100通りくらい後悔している。
4日目にやっと町に行っていいと言われて、
ここを復興だなんて、微塵も思えない。今も。
蓋をしたい。見たくない。
町を見ると、死にたくなる。
こっからは、もう、どう頑張っても金持ちにもなれないだろうし、
家だって、もう、二度と持てる気がしない。
何も希望なんかないよ。
「一緒だよ、1人じゃない」とか言われるたびに、
ああ、あの世界は自分たちとは、もう全然違ってしまったんだと思う。
家がある人の言葉だなーと。安定してるなーと。
そんなCMとかして充実もしてんだろうなーと。
地に足が付いてる人が、すげぇ神妙な顔で、お洒落な服で、こっち見て何か言ってるな、と。
どう見たら、この状況が大丈夫になるのか、胸倉つかんで聞いてやりたい。
でも、怒る元気もない。やる気もない。
数日たったら「元気出して頑張って!」とか言って、
自分たちの家に帰っていく。
「何か、できることある?」
何を言っていいかわかんなくなって、兄に泣きながら聞いたら、
「正直、不幸になってくれたら嬉しい」
と言われた。
俺たちの分、そっちもみんな不幸になってくれたらなー」
と言われた。
東京も全部流されて、それでも「頑張ろう」って言われたら、
頑張るよ。その人の歌なら聴く。
知らないやつに、馬鹿みたいに「頑張って」とか「大丈夫」とか言われると、
今は正直、消えてほしくなるよ。
募金は嬉しいよ。で、ボランティアじゃなくて、ビジネスで、仕事として、
町を復興に来てくれた方が、こっちも気兼ねなく色々頼めて気が楽。
と。
RADWIMPS、相対性理論、神聖かまってちゃん、世界の終わり、androp、amazarashi、The Mirrazといった、『語るように歌う』ロックバンドが最近勢いを増している。
彼らの大きな特徴は、その歌唱法にある。
従来のヒップホップのラップでは、声にドスを効かせたり、『Yo!』『Check It Out!』といったヒップホップではお馴染みのキーワードを口にしたり、語尾でキッチリと韻を踏んだりするが、彼らの歌唱法はそれとはかなり異なる。
ヒップホップのラップほどに声を作らず、日常会話のように、朗読のように歌詞を口にする。そのままでは朗読になってしまうので、テンポを上げて、跳ねるようなリズムを取り入れている。そこに少しメロディラインを混ぜたような歌い方。これまでの音楽にはない、独特のグルーブが感じられて、新鮮味がある。
歌詞の内容も、従来のヒップホップやJ-POP、ロックバンドと比べると一風変わっている。
従来のヒップホップの大きなテーマは『自分を誇る』ことであり、歌詞の内容も、自分のラップのスキルの凄さを自慢したり、気に入らないラッパーをDisったりといった、アウトローの雰囲気を感じられる歌詞が多かった。
それとは別にJ-POPでは『恋愛』や『前向きに生きていくこと』が比較的多く歌われる。これはヒップホップが台頭して、ラップをJ-POPに取り入れるようになってからも変わっていない。ケツメイシ、GREEN、FUNKY MONKEY BABYS、遊助、ヒルクライムなどが代表的だ。J-POPでのラップは、ヒップホップほど相手を威嚇しないようにはなったものの、依然としてヒップホップ的フックの雰囲気(『Yo!』といった掛け声)は残っている。
それらと比べると、『語るように歌う』系のロックバンドの歌は、あまりに歌う内容が違いすぎる。
彼らが歌う内容で多いのは『次元の捉え方』『記号・数式』『あの世・死生観』『死にたい』『言葉遊び』『ポストモダン』などであり、そこには従来歌われていたテーマは微塵も感じられない。歌詞はひねくれているのにメロディやキャッチーで親しみやすいから、そのギャップに困惑してしまう人も多いだろう。
それともう一つ重要なのは、ヒップホップ性を意図的に排除しているということだ。彼らはヒップホップ的なフックを全く使わない。DJもターンテーブルのスクラッチ音も入れない。歌詞の内容も自分を全く自慢しない。むしろメンヘル的なイメージさえ感じられる。アウトロー性もほとんどなく、ヒップホップを象徴するアクセサリーやファッション・アートワークも用いない。その徹底的な姿勢は、まるでヒップホップから『語るような歌い方』を奪い取ろうとする姿勢さえ感じる。そういった意味では、ヒップホップへのアンチテーゼとも言えなくない。ヒップホッパーも、この現象には困惑しているだろう。
これらの歌い方をするバンドを『念仏系』と呼ぶ人がいたが、案外的を得ているかもしれない。
この歌唱法を広めたのはRADWIMPSだが、結局のところこの歌唱法は時代が要請したものだったのだろう。価値観の反転、雇用制度の崩壊、複雑化した世界――そういった時代を表現するためには、従来の歌唱法だけでは足りなかったのだ。今後この歌唱法がどのようになっていくかは分からないが、僕としては静かに見守っていく次第である。
ならば早くこの人のようになればいいのに。
今35才なんだが、コイツは16才以降、今まで檻の中に居た時間の方が長い
小・中と、ひどい虐めを受けて、ある日突然キレて生き方を変えた奴なんだが
本人曰く「また、正月前には自首予定」、、、似たように虐められていた他の仲間達が
「もう20年以上たってるんだ」
「もうやめてやれよ」etc
言っても聞かない
何か壊れてしまって
昔虐めていた連中に徹底的に粘着して復讐することが
ケラケラ壊れたように笑うのが怖かった。
お前等が虐めてた過去は、忘れもせず水に流しもしないが
柴田の墓石たたき壊して、骨壺にウンコかけるなんてまともじゃねぇが
止めようもない。
ひき逃げ(4年半)
いたずら電話
嫁と息子、娘への○○○ (5年)
今3人は、何処にいるかまで調べてる
http://d.hatena.ne.jp/hagex/20101029#p1
「今まで本当にありがとうございました。みなさんと過ごせて幸せでした」
先ほどmixiのつぶやきでこのようなことを呟かれた。(中略)つまり『あの世』に逝くことを意味している。というか、それ以外の意味などないだろう。
「引っ越す」
「コミュニティ脱ける」
「mixi退会する」
「とりあえず今までの知り合いとはすべて縁切りたい、一人になりたい」
「超嫉妬深い女と結婚する」
「タコ部屋入る」
「刑務所入る」
…etc
ところで元増田の性別はなんなのか。とりあえず、相手(彼)が「構って」であることは確かに間違いないと思うので「構う」に一票。
「今まで本当にありがとうございました。みなさんと過ごせて幸せでした」
先ほどmixiのつぶやきでこのようなことを呟かれた。正直、判断に困る。「でした」と過去形になっているということは、これからはみんなと過ごせないということで、それはつまり、みんなが住んでいる『この世』とは別の世界、つまり『あの世』に逝くことを意味している。というか、それ以外の意味などないだろう。
しかし、本当は無意味なただのつぶやきなのかもしれない。その場合、ヘタに心配してしまうと「自殺の予感をしてしまう、空気の読めない人」として扱われるので、コメントが書きづらい。
また、本当は自殺するつもりでいるが、何とか押しとどまってくれるかもしれない。その場合、「死ぬなよ」などと書いてしまうと、その人は今後生きづらくなってしまうかもしれない。なので、何もコメントすることが出来ない。
う~ん、どうすれば良いんだ。彼には死んでほしくないんだが。
と考えて、自分もかなり保身に走ってるんだろうな、と思う。
例えば「死ぬなよ」と軽くコメントしておくとする。しかし自殺してしまう。すると自分は「自殺の予感に気付いていたのに軽くコメントしただけの冷たい人」と思われてしまう。
正直、嵐とかakb48とか、その他アイドルに熱中してるやつとか
どーにかしてるぜって思ってたんだ。2010年の途中までは。
なんで、そんなに熱中しなきゃいけないんだって。
普通のおじさんやおばさんが「嵐いいね!AKBの前田も篠田もいいよ!」
かもしれない。その逆で批判的なことなら、ガンガンと話のネタに
するのかもしれないけど。
個人的には、若い子たちがキャーキャー言ったり騒いだりするための
っていう見方が大半だと思う。
前で公言して、そういったアイドルグループに本気になる
大人が大量にいたら一般的にはおかしい気がする。
自分は、そう思ってた。あの時までは。
そう、ももいろクローバーに出会うまでは。
フシギなアイドルグループだと思った。
聞いてみたけど、その時は、怪盗少女と走れ、以外は
ろくなもんじゃないと思った。
そのろくでもない歌に価値があることを知った。
歌だけ聞くと、ろくなもんじゃないんだけど
舞台作品になった。
本格的な芝居やミュージカルとは比べ物にならないっていうのは
よくわかるんだ。自分も実際にNYに行ってブロードウェイ見てきたから。
挑戦していてスゴイと思うんだ。
だけど、ももいろクローバーを見た時に感じたのは
そういう種類の感動じゃなくて、「学校の文化祭が上手くいったよ!」
みたいな種類のものだった。
すごい感動するじゃん。そういう感動。
それが楽しいって思える。
実際に、自分もチケット買って、ももクロの世界に入ってみたけど
普通の日本社会というワールドにいたら、決して見ることのなかった
景色なんだよね。
「ああ、こういう視点のスライドっていうのは何年ぶりだろう」
みたいな感動があったわけ。
その代表的なのが、次のやつだろう。
「同じCDを何枚も買わしたり、金を払って握手したり、写真とったり
するなんて、会社のオッサンたちに搾取されていることに気づいてないの?」
自分は、ライブには行っても、同じCDを何枚も買ったりとかしてまで
これからもしないだろう。だがメンバーの生写真は一枚づつは購入する。
これなら映画館に行ってポスターを買うのと同じレベルだと思う。
ああやって、一般的には「搾取されている」部類の人たちというのは
それが好きでやっているんだから放置しといたら良いんだと思う。
普通なら金が底をついたら諦めるでしょう。
ビジネスの手段であって、それで実際に儲けになっているんだから
車をディーラーで買ったことのある人ならわかっていると
売る時にだって、あれもこれもつけたらもっと安くするとか
いろいろ必要ないようなサービスまで付いていたりする。
進んで買いに行かないよね。
ブランド料を払ってでも、服や車を買うわけでさ。
まあ、デザインとか色々理由をこじつけようと思えばつけられるけど。
何にでも難癖をつけて、あれがダメ、これがダメっていう人たちは
結局その人自身がダメってことに気づいていない。そういう人たちに
「そんだけ偉そうなこと言ってるあなたは一体どんな人なんですか?」
まあ、かつては自分もそうだったんだけどね。
人それぞれ、そうやって良い点っていうのが必ずあって、それを
見いだせるかどうかっていうのが、重要なんじゃないかなって思ったわけ。
悪い点を見つけることっていうのはすごく簡単なんだけど
良い点を言えっていわれると見つけるのに四苦八苦する。
以前、アメリカで暮らしてた時に、ひどい人種差別にあったわけ。
日本人っていう以前に、アジア人っていうことだけで、殺されそうに
なったりね。そんな時に、ホームステイ先のおじいちゃんが
言った言葉があるんだ。
「いくら酷い悪口を言われようとも、その場では、そういうことを言った人
だけが愚か者であって、自分の愚かさをわざわざ言いふらしているような
というわけで、まあ、そういう経験があったんで、
「ももいろクローバーの世界」を知っている人からしたらso what?だから。
あと、ファンのストーカー化っていうのは別問題で
それはその人が悪い。
色々書いて長くなってしまったけど、「ももいろクローバーの世界」
が好きだからそこにいるだけで、嫌になったら帰って来るだろう。
なんか宗教みたいな世界だが、要は信じるか信じないかっていうことだと思う。
主人公の能力が一番優れている、というのはあの手の世界では普通なので、特段突っ込みどころではない。
「カンすれば手が伸びる」とか、「ハイテイツモなら和了」とか、「東場で強い」とか、「デジタル打ち」とか、
そういう能力のぶつかり合いなのだから、単純に能力を磨くという話になる。
能力の相性や、力そのものの強弱でほぼ勝敗が決まる世界なのだ。
(そういう意味で「かじゅ」はすごい、オールドタイプがニュータイプと互角にやっているからだ)
そういう世界で「成長」を語るというのは、どうにも馬鹿馬鹿しい。
それはつまり、そうした努力に価値があるのだ、という描写を見せて欲しいという、視聴者の願望でしかないからだ。
しかもこの考えは、バトルもので若者が年長者に勝つときに破綻する。
20年の積み重ねよりも、数か月の修行の方が勝ってしまう、本来ならおかしな描写。
しかしこれも、そうした描写を見せて欲しいという、即物的な視聴者の願望を満足する。
世界には絶対の強者などなく、それらは努力や成長で打ち破れるのだ、という幻想。
それらの症状が進むと、今度は逆視点にすら嫌悪感を感じてしまう。
先日、久しぶりに大学時代の恩師に会った。
飲みながらあれこれ話していたが、少し思うところがあったので、質問してみた。
「あなたたちの頃は活気がありましたが、今の学生は少し違いますね。」
「大人しいですか?」
「そうですね。それもあります。」
「それはやはり、1987年生まれを境にですか?」
「というのは?」
「あまり言いたくはありませんが、ゆとり世代になりますね。」
「それが独立変数かどうかはわからないけどね。時期的にはそうなります。」
学生時代、私が部活で部長をやっていた頃の新入部員がちょうど1987年生まれ世代だった。私は彼らの2つ上。彼らが入部してきた頃、1つ上とも、同期とも、1つ下とも違う妙な雰囲気を感じたものだ。そして今年、彼らが新入社員として入社してきたとき、私は当時と同じ感覚に陥った。別に彼らが使えないと言いたいわけではない。もし使えなかったとしたらそれは社員教育が悪いのだろう。私が学生時代も今年の春にも彼らに対して感じたのは、気持ち悪いくらいに素直だということだ。そして、その傾向は今の学生にも続いているらしい。
「私の記憶では、あの世代は素直な子が多かったように思いますね。」
「確かにそうです。素直なのは悪いことではないと思いますが・・・。」
「素直すぎますか?」
「そうです。」
そこからは今の学生の傾向を色々と聞いた。環境問題や社会政策に強い関心があり、ボランティアやセミナーには積極的に顔を出す。インターンシップにも関心が高い。ただ、ゼミの最中にはそのような積極性は影を潜め、借りてきたネコのようになってしまう、とかなんとか。一番たまげたのは、「なぜ発表者に質問しないのか」とゼミ長に聞いたところ、「答えられなかったらかわいそうじゃないですか」と返されたという話だった。おいおい。
「うまく使われてたりしませんか?大人に。」
「そういうフシはありますね。ゼミ生がその辺の議員の手伝いにも行ったりはしてますが、大して得る物はないでしょう。他の人もボランティアはやってはいるみたいですけどねえ・・・。」
「就職活動のためというわけではないんですか?」
「そういうわけでもないみたいですよ。単純に、そういうことに興味のある子が多いです。」
その後も色々と話していたが、結局邪魔が入ってこの話は打ち止めになった。教員生活30年以上の先生が言うことなので、傾向としてはある話なんだろう。もちろん優秀な学生ばかりの集まる大学ではこんなことは起きていないはずだ。ただ私の母校は中くらいのレベルなので、多くの大学で似たようなことが起きている可能性はある。
ぼんやりと思うのは、今の学生達はもうちょっとひねくれた方がいいのではないかということだ。もちろん素直なのはいいことだが、大人にいいように使われるのではなく、逆に利用してやるくらいの野心を持った方がいい。大人は学生が思っているよりもずっと狡猾な生き物なんだから、それくらいでちょうどいいのだ。たぶん。
僕も読みたいのだけど、キチガイで毎日幽体離脱と乖離を繰り返している自分にとって
何かプラスになるだろうか。それとも青春小説のように楽しめるのだろうか。暗いふち
が待っている。流行の小説を読みたいという願望と僕の中の暗い部分はまったくもって
一致しない。結局こういう風に僕は死んでいくのだろうか。あの世のことばっかり考え
ている僕が『もしドラ』を読むことに何か意味があるのだろうか。素敵なあの世生活が
待っているのだろうか。僕には意味が何一つつながらない。ここまで書いてようやく
『もしドラ』が『まねじめんと=人を管理すること』に気付いたよ。結局僕とは何だっ
たのだろう。
・ハロウィーンです。仮装・扮装しましたか。
・ハロウィーンは欧米のお盆、ではありません。確かに、死者がこの世に帰ってきて、教会ではミサがあります。しかし、日本のお盆は死んだ家族が帰ってくるだけです。一方ハロウィーンの扮装では魔女・骸骨の仮面などなど。つまり、10月31日には、この世とあの世の裂け目がぱっくり開いて、あの世のものがどっとやってくる。そういうことです。
・さて、近頃流行りたるもの。ハロウィーンで「ジャパニーズ・キモノ」を着ることがどうやらあるようです。もちろん、着物そのものずばりではなく、欧米人に着やすい、あるいは「それっぽい」ものに加工されてはいますが、しかしハロウィーンの扮装の一パターンとして「女が浴衣っぽいものを着る」があります。
・すなわち、欧米人にとって浴衣はオバケ。彼らにとっての日本文化の異質さはそういうものだということの、いい象徴です。
・ハロウィーンでは、グダグダの浴衣もどきを着る欧米人に対抗して、似合わないグダグダの帽子付タキシードを着る男子・ヨレヨレのドレスもどきを着る女子、が日本にいてもよろしいのでは。欧米人にとって「浴衣」が異形の象徴なら、日本人にとってタキシード・ドレスは立派な「異形」ですから。
嫌いなものに立ち向かう努力と嫌いなものから逃げる努力、どっちの方が楽だとか考えた場合に、「嫌いなものに立ち向かう努力」の方が楽だと思ったのかね。そりゃ殊勝なこった。
違います。目的を達成するために避けて通れないのです。目的は固定で動かすことはないので。
やねうらお…the "プログラミング好きな人"という感じで、あの世界にどうしても馴染める気がしないんですよねえ…。わんくまとか…。
啓蒙書的なのは何冊も読みましたが(CODEとか結構いいんじゃないだろうか)、正直苦行ですね…。
でもその本はきちんと読めればためになりそうですね。ありがとうございます。
OllyDbgとかインストールするだけで面倒臭くて発狂しそうですが。(環境依存でコンパイルできないとか何故か上手く動かないとか、そういうのが死ぬほど嫌いです)
もう、ほっておこうぜ、あとは、奴らが死ぬか、俺らの世代が先に死ぬか、だ
(ああ、でも書いていて、奴らの方が悔しいけど長生きするんだろうな)
そう思う。
そして、こうやって、あの世代の愚かさがしだいに明らかになってくると、
その非難の声は世間的にも共有されはするでしょう。
しかし、
そこで語られる文章内の年齢等によって、当事者が世代でなく年代で読み替えられ、
その悪行の総てが、直接の被害者であるあなたたちの責任だとして吹聴される
ことになるでしょう。
何の被害にも遭っていない奴らの子ども世代が、被害者の顔をして、
あなたたちをなじるでしょう。
下の世代に被害が及ばないように身を挺して庇った者が、それなのに生け贄にされる。
その辺りも含め、戦争にかり出され死に、また、生きて帰れても、
軍国主義者・国の犬だと蔑まれて続けたあの世代と、重なって見えてくる。
「戦争を知らない子ども達」は、その被害者のロジックを最大限に利用し、
実力にそぐわない地位を獲得してしまった。
そしてそれを、総て自分の実力だと信じ切った。
かくして、元記事に戻る。ループ。
http://anond.hatelabo.jp/20100813213325
だから、親とか、近い親戚が死んだら、小さな墓でも用意して、お彼岸と命日にお墓参りに行けばいい。
いろいろとしきたりはあるらしいけど、最近は、そういうことを継承しない子も多いらしくて、お寺さんなんかもざっくばらんに、いろいろ教えてくれるし、知らないからといってバカにしたりしなくなってる。
私は親に勘当されてもいないし、親戚づきあいもあるけど、母が「いたぶって恥をかかせて遊ぶため」に産んだ子だから、そういうことは何にも教わっていない。何かのときに「なんで、私はしきたりとか知らないの?」と聞いたら「見てたらわかるでしょ」とのたまわった。そういう行事はみーーーーんなやらずに来たくさに、どうやって見るんだろう。まったく、あの母親は理解不能だ。
というわけで、まったくもって個人的な解釈で申し訳ないんだけど。
やるべきことは、ただ一つ。現在ある自分の命が、ご先祖さまから延々と受け継がれてきたものだということを感謝して、あの世に向かって手を合わせること。
お墓のことが気になるのなら、霊園でも回ってみれば? 最近は、いろいろ自由で「個人墓」とか「樹木墓」とか「共同墓」とか、いろいろあるよ。
前回:http://anond.hatelabo.jp/20100805013139
また大分間が空いてしまったけれども。
今はとても穏やかに時を過ごしている。何もすることもなく、何かしなくてはいけないこともなく。ただ、浅い眠りをうつらうつらと繰り返し、意識が清明なときだけネットを見たり、外に出かけたりしている。好きなゲームにはほとんど手を出していない。アニメは…ちょっと見るようになった。劇場で「インセプション」を見られるようになったというのは、自分では大進歩だと思っている。題材的にも、劇場へ足を運ぶという行為自体も、前の状態だったら絶対に無理だっただろう。
そして、この平穏があと2週間くらいしか続かないことも、知っている。
まずは眼科。これは生活上目が見えなくて困っていたからで、眼鏡とコンタクトの処方を変えることで大分改善した(あと、生活環境をMacに替えた)。緑内障の恐れがあるから、視野検査も受けなくてはならないが…。
次に歯医者にいくことにしている。十年来奥歯に痛みを抱えていて、これは生え方がおかしい、いわゆる「埋没歯」というやつなのだが、こいつの手術をしなくてはならない。入院がいるだろう。そこまで派手な治療をしてくれる歯科の心当たりはないので、聞いて回らないとダメなのだろうな。
あとは耳鼻科で耳垢を取ってもらう(俺のは医者にやってもらわないとマズいらしい。素人は手を出すなといわれている)とか、メニエール氏病の検査を受けたりしなくてはならないが、このへんはまあいつでもできるし、重要でもない。
問題は、循環器科案件。この件について知っているのは家族と親しい友人数名だけなのだが。俺は首の動脈に爆弾を抱えている。何らかの弾みでこいつがはじけたら一発アウトのあの世行き。手術することもできるのだが、その後のケアが大変すぎるのと、そもそも成功例があまり多くない? らしく「ほっといてポックリいったほうがいいですよ」などと言われる始末である。どちらにせよ、そう長くは生きられそうにもない。この休職の間にこの案件を片付けるか。それとも忘れたふりをしているか。さすがに忘れてしまうことなど出来るわけもない。ちなみにこの爆弾が原因で、俺は1日に大量のボルヴィックを浴びるように飲んでいる。血の巡りが悪くなるとこの爆弾に着火する可能性が高いからだ。
この休職により、ついに俺は社会的に死を迎えることになった。後は生物学的な死だ。むろん、お金が稼げず飢え死にするなどということは充分に考えられるが、それよりもこの満身創痍の状態でいつまで耐えられるのか、のほうが問題だろうと思っている。
結局のところ、俺はもう半分死んでいて、近々完全に死ぬのだ。それが自らの意志なのか、それとも抱えている地雷が爆発するのか、それとも別の原因なのかはさておき。時期もなんとなく、休職の明ける11月くらいなのだろうな、と言うのがうっすら見えている。一応増田たちに責任をかぶせたくないので、いわゆる「自殺」を積極的に選ぶことはしない、ということは約束する。ただ、そういう状況に追い込まれてしまったときには、謝って許してもらえるだろうか。…無理だろうな。それでも謝っておく。ごめんなさい。
今はとても穏やかに過ごしている。死んで行く事への恐怖を除けば。
再チャレンジ不能である世の中というのも案外よいもので、あの血を吐くような苦労をして、それが結果徒労となり、砂の城が崩れ落ちていくこと自体、しなくてすむというのは、とても楽な気持ちになれる。あるいは成功したとしても、それは誰かの生き血をすすり、返り血を浴びた結果であることは承知の上。そんな汚れた人間が大地に両足をつけ、太陽を仰ぐ、みたいな非道い生き方をしなくて済むのは、楽だ。
むろん、自分の作っていたものには「命をかけてもいい」と思っていたのも事実だ。ただ、会社に「命をかける必要なんかない」と言われてしまった時点で、俺のあの案件への情熱は冷めてしまった。プロとしては失格。しかし、実際に掛け金に命を賭けろと強要していたのは、どっちだ? むろん、言い出したのは俺だが、その結論に陥るトラップを入念に準備していた人たちがいたのは知っている。
そう、結局社内政治と自分の弱さに負けたんだ。そして今もまだ負け続けている。
あとは願い。完全にくたばってしまう前に、自分のやりたかったことを、形として残しておきたいと思っている。それに何日かかるのかは分からないし、なにせ相手のあることだ。そううまくはいかないだろう。それでも。俺にできるだろうか。時間が普通にあって、記憶力が常人なみで、集中力が続くのであれば、なんでもなくできること。そもそも、そんなこと、俺がやる資格があるんだろうか。
わからない。怖い。そうしたまま、今日も夜が過ぎる。