はてなキーワード: 民主制とは
「なんでゲバラみたいに革命起こさなかったんすか(笑)」っておれのことを冷笑する奴がいるんなら大したもんだ。「自分なら行動を起こしてたのに」という発言と同意だろう
おれは小市民として常識的な範囲で行動を起こしてた…投票所言って野党の名前書いて一票投じてた。それをしてない奴らが大多数らしいけどね
投票した時点で選挙で統治者を選ぶ日本の間接民主制を認めたことになるのだから「俺は自民党に投票してないから」などという言い訳はできない。
選挙で選ばれた代表に統治される仕組みと知ってて投票しましたよね?
統治の仕組みは、現代日本のような間接民主制だけではない。広場に民衆が集まって議論して決める直接民主制も、共産党一党独裁も、天皇親政も、過去に実践したり現在も実践したりしている国はある。
あなた自身が選んだ統治の仕組みによって統治されるのですから「あの時間接民主制支持した結果だよ?」とあなたもまた冷笑されるのです。
つーわけでおれはこれからも野党に入れ続けてただただ現状を追認してるやつらを「冷笑」することにするよ。若者たちに「あの時自民支持してた結果だよ?」って言葉は用意してますんで。おれは野党に入れてたんだからおれを責めるのは筋違いだぜ?
ごめん、完全に俺の書き方が悪かった。
これと
これの間を埋めて欲しかったんだわ。
"社会からのメリット"が何についてどこまでを指しているかが不明瞭と思う。
元増田はおそらく、「お前が(元増田の言う)馬鹿なことしたりや努力が足りずに困っても助けないぞ」と言われても、「助けていらない」と言うつもりがあるはずで、
これは(元増田の言う)馬鹿なことする人や努力が足りない人でも助けてもらえる社会という"社会のメリット"を放棄してると言える。
君はたぶん、もっと大きな意味を"社会のメリット"に含めてているんだろうけど、
それだとある社会に属する人はその社会に存在する特定の社会支援システムについての不満を言えなくなってしまうことになるので、
「構成員が--社会支援の基準を検討することは社会支援への同意と--矛盾しない」のは当然 に矛盾する。
俺は法律が客観性や絶対性を持つか、その程度はどうかなんて話はしてないよ。
・実際に免責不許可事由が定められている社会支援システムは無制限に厳格化していない。
・同様に、元増田はある社会支援システムについて元増田の立場よりもかなり下と思う基準の足切りを新設しても、その足切りが自分まで及ぶことを心配しないだろう。
もう少し詳しく説明してほしい。
また、「構成員がその社会の社会支援の基準を検討することは社会支援への同意と何も矛盾しない」は賛成or反対?
お金と時間が有限な以上、誰かのためにそれらを費やすと決めることは別の誰かには費やさないと決めることとイコールだよね。
なので税金の話で書いたけど、別に税金にだけ限定するつもりはないよ。
とはいえ、自発的な募金や助け合いで強制でないなら、他人がとやかく言う筋合いもないしお好きなようにどうぞって思うけど。
運用はまぁそうだろうけど、要件を決定するのは有権者の主観的な考えの集合だよ。
例えば、破産法252条1項4号の「浪費または賭博その他の射幸行為」の元になっているのは公正さに対する有権者の思いだろう。
もし要件決定に客観性や絶対性があるなら、毎年たくさんの法律の要件が変更になったり、死刑や同性婚など喧々諤々の議論になったりしないわな。
で、元増田の基準が主観的相対的な条件であるのは確かだけれど、元増田がその思いを胸に直接/間接的に法律の制定に力を尽くしたとして、その法律が無制限に拡大していくとはならないよね?という話。
まぁこれは余談だけど、
一人一票の民主制社会において社会福祉システムなんて基準緩和の方向に進む力のほうが強いのは明らかで、
(基本的に基準緩和で負担が減る人≒貧困層の数>負担が増える人≒富裕層の数)
基準強化の訴えはアンチテーゼとしても非常に重要だし、それによって基準強化が無制限に進むということは国家の意思決定システムからも考えにくい。
俺は工学徒だ
選挙のたびに政策が云々とか言ってるの見ると馬鹿らしくなる、なぜなら俺は何もわからんから。
経済を学んでないから景気刺激とか言われてもその政策がどういう風に機能するのか、どのような効果をもたらすのか全然知らん。
門外漢の俺が経済や政治について調べて正しい結果が得られると思うほど思い上がってもない。
一人の人間が修められる学問には限りがある、かつ現代において発生する問題は多岐にわたる。故に一人の人間が総合的に判断できる分水嶺はとっくに過ぎてる。
じゃあ現代の人間は何を基準として投票先を選んでるの?シングルイシューだけを見てるのか?そうじゃない政治家の方が多いだろ
Twitterで何年もフォローしている年上の人がいる。長年フォローしているので、名門大学の院を卒業、大手企業に入社、そして入籍と一連のライフイベントが観測された。いわゆる勝ち組であろう。
そのフォローしている人が、ここ最近色々な物事に対し強気に言及することが増えてきた。勤め先にひたすらダメ出ししたり、ドラレコ動画を見て道交法を語って誰が悪いと言ったり、法改正へのハッシュタグでの抗議と廃案のくだりに対して間接民主制の否定だと言ったり、GOTOキャンペーンの見直しに対して反対派のせいで経済が壊滅すると言ったり。そこまでは個々人の考えの範疇ではあるのだが、ネットで目覚めた感じの個人アカウントやDAPPIやnetgeek的なwebメディアなどのRTが増えてきた。いいね欄をふと見たら、「この案に反対するやつは日本人じゃない」的ツイートがあった。
大体の事象について、我々は専門知識を持たない門外漢である。インターネットによって専門知識に触れやすくはなったものの、概して付け焼き刃に過ぎない。それ故に、自分の思うものと異なり否定するとしても、その分野の専門家の意見は最低限は尊重すべきだと私は思っている。しかしながらその人は、それを軽んじて自分の考えこそ正しいと言わんばかりである。素人の理想とする感染症対策や経済対策の開陳にそれらへの牽強付会、その通りにならなかった際の捨て台詞を見るのはうんざりだ。
アメリカでは共和党・民主党の二大政党がある。それぞれの政党の実態はともかくとして、その名前はアメリカという国の支配体系(共和制)と政治体系(民主制)を表している。日本には『共和』の付く政党は存在しないし過去にも例を見ない。一方で、『民主』と付く政党は今現在だけでも4つもある(自由民主党・立憲民主党・国民民主党・社会民主党)。なぜ日本には『共和』という名の付く政党が生まれなかったのだろうか?『民主』と比べて『共和』という言葉はそんなに印象が悪いのだろうか?
日本は立憲君主制なので共和制ではないという説がある。それならば、『共和』と名の付く政党が生まれなかった理由に合点がいく。しかし、日本国憲法前文及び第一条において国民主権を定めていることを文字通り解釈すれば、日本が共和制であることは明らかだ。大日本帝国憲法時代の慣習を抜きにして、天皇を君主と見なすのは無理がある。それでも日本は立憲君主制であると主張する人でも、『立憲君主党』という名前の政党に良いイメージは持てないだろうし、それならまだ『共和党』という名前のほうがましと考えるだろう。
日本は共和制であるにも関わらず、主権が誰にあるのか(君主制か共和制か)を明言することが憚れる風潮が日本の国民主権の力を弱めているのではなかろうか?
はてなでは表現の自由が金科玉条のように扱われているように思われる。
あいちトリエンナーレや、ネット上の発信、漫画の規制などの話題では同然にこの言葉が使われる。
しかしなぜ表現の自由はそれほどまでに大事にされているのだろうか?表現とはなんだろうか?
表現の自由は憲法学では精神的自由の中においても優越的地位にあると考えられている。
その根拠として、精神的自由は侵されやすく、また回復が困難である。
では表現の自由はどうであろうか?
まず表現とは人格の発露であり、人が人らしく生きる上で欠かせないものであるとの認識がある。
そのためただ思っているだけでは規制されない人の精神的活動が表現を伴うことで侵害されやすくなるのである。
次に表現内容について考えてみよう。
表現は多種多様であるが、その内容は多岐に及ぶ。そこでここでは政治的な意思と芸術の2つを考えてみよう。
この二つについては関連することも当然であるが、まずは切り分けてそれぞれの側面から見ることにしたい。
はじめに政治的な意思であるが、これが表現の自由において語られるのは、民主制との関連である。
人々は民主制で意思決定をしているが、そこでは人々が各々考え方を示して、それを戦わせることによって収斂させていく。
するとある事柄に対する政治的表現が失われてしまうと、そこから生じる決定からも失われてしまう。すると正しい決定ができない。
またそのような表現を規制することは他の考え方に基づく決定したい人にとっては規制したい誘引が大きく、侵される可能性も高い。
次に芸術的表現であるが、人々は自ら考えそれを外部に行為として表現する。これは人格の作用にとってかけがえのないものである。
こう考えると表現の自由にも内容に差があることがわかる。
これに即した考え方が必要であろう。
書いてて思ったが、今、ネットで語られてる表現規制はこの違いを明確に意識する必要がない気がする。
なぜなら多くが単に自分の気に入らないことを正当化根拠もなく、規制したい人ばかりだと捉えられるからである。
詳細に考えれば、あいちトリエンナーレなんかは芸術における政治的表現をする場について、公権力が表現され、議論されること自体の価値を中立的に支援することの必要性とかが語られるべきなのに、
誤解に基づく単なる気に入らない表現行為を正当化根拠もなく、ただ規制したい人々の話にしか感じられないな。
表現行為の価値と正当化根拠の詳細な検討が行われてるケースなんてどこにもないわ。
これなら単なる意見の相違でしかない(大半は正当化根拠すらない)から表現の自由から考えなくてもいいか。
書いたことで納得できた。