2022年10月15日の日記

2022-10-15

あえて「男性」「女性」と言ったり書いたりする男の人が正直苦手

個人的に「男」「女性」じゃなくて、あえて「男性」「女性」と言ったり書いたりする男の人が正直苦手。

かたくなに男とは言わないところに微妙ミソジニーを観じるんだけど、こういった女性は少なくないと思う。


会話相手が男って言ったのに、返しで男性とワザワザ言い直すのはなんで?

女呼ばわりと違って、男という呼び方自体ミサンドリー要素は無いでしょ。


昔は男、女って呼び方で何も問題なかったのかもしれないけど、

特に男性女性で女呼ばわりするのが差別的だという風潮になって

「男」「女性」が一般的になったという経緯。これが一番思想もこだわりも無い呼び方


そういう時代にあえて「男性」と言い続けるのはこだわりがあるからでは?

そのこだわりが女性から見てちょっと怖い。

あんなのが弱者男性自称してるのかと思うと恐ろしい。

統一教会話題だけど

俺も洗脳されて精神病み病院強制入院たか被害者の苦しみをよく理解できる

巨悪を許せない

anond:20221015203000

私もフィクション現実に影響を与えると思うけど、逆だって当然あるという根拠でそれを主張するのはわけわからん

最近ゲーム報酬系を直に狙い撃ちし過ぎていると思う

anond:20221015213114

なるほど…

思春期自分の胸が似合ってないように思えて悩む女子もいるそうだ。

そういう子にこそボディポジティブの考えを伝えるべき。似合ってない胸なんてないんだよ、と。

かに、考えてみると似合わない乳房なる思想彼女らの中で自然発生する訳がない。

anond:20221015212202

・食べてる量が足りないとか。朝がバナナ小松菜スムージーコーヒーなんて食べてないに等しい。

たとえば朝は納豆ひとパックとキムチごはん軽く一膳を食べた上にバナナ1本くらい食べてみると違うかもしれない。それから腸内細菌叢を整える薬は食前ではなく食中か食後すぐのほうが良いと思う。空腹時に摂ると胃酸で分解されてしま割合が増えるので腸まで届く歩留まりが悪そう。

・私はコーヒーを一日に5杯飲む生活を数日続けた時、便がカッチカチになって出てこなくなってびっくりした。たぶんカフェイン摂り過ぎ。増田コーヒー烏龍茶コンボカフェインを摂り過ぎているかもしれない。

追記:私が使ったことがあって今も使うのはビフィーナSではなくビオフェルミンビオフェルミン場合、成人は1回3粒だが、私は通常の体調の時に3粒飲むと便が固くなり過ぎる印象があるので、便秘改善したい場合は2粒(と共にバナナ1本)を基本にしてる。逆に腹を壊したとか、壊しそうという時は3粒飲む。

子育て世帯へのクーポン配布が話題になっています

(悪い意味で)

じゃあなに貰えれば子供増えるねんって思った絶賛2歳育児ますだが日記を書くよ

【前提】

正社員時短都内勤務

•夫育児家事バリバリやってくれる

•年齢共に20代後半

•娘2歳認可保育園

世帯年収1000万程度

祖父母隣県

なんとなく二人くらい子供を産むことを想定されてそうな世帯だけど、うちは子供は1人って決めてる。

から金銭的援助が増えれば産むかと言われると、多分産まない。クーポン普通に嬉しい。

理由一言で表すと、妊娠出産育児の一連の流れが現代にそぐわない につきる。

現代って、辛いことはそこそこ回避できるじゃ無いですか。嫌な人間関係は切っても問題ないし、仕事だって変えられる。リアルが嫌ならネット上で生きればいい。

家事外注可能だし、医療も発達して苦痛も和らげやすい。

嫌なミッションスキップできる。

それが全くできない。しかも数年単位で。ってのが大変辛い。

制度が整ってないのが問題…とも言えるがそもそもそんな風土がないな〜って思う。

ますだもやるまで育児がこんな大変だとは思ってなかった。母親もっと誇って良かったと思う。

妊娠編】

私の場合悪阻がそこそこ重く、吐きまくっていた。二日酔い休みなく90日ほど続いた。この休みなくってのが肝で1日なら我慢できるものも続くと相当精神にくる。治療法が無いのも最悪で、今でも人生で最も辛い時期だったと断言できる。

仕事も穴を開けてしまったりしてさらに落ち込む。これを子供を育てながらやるってのは考えられない。

妊婦検診もそこそこの頻度でやってきて、その度に休み申請出して埋め合わせして。検診自体性器に遠慮なく機材をぶち込まれる。普通に痛いし不愉快だけど、これも仕方ないことだ。

加えて妊娠糖尿病になったか血糖値管理インスリン注射毎日3回。こっちも別で検診ありだから会社を休まざるを得ない。食事けが唯一の楽しみだがそれも奪われる。

出産編】

いや痛ぇんだわ。無痛も効かないことがあるってなんだよ…あと産後も痛い。1ヶ月くらい出血し続ける。

育児編】

1歳半で歩けるようになるまでが辛かった。特に最初の1ヶ月は、3時間ごとに授乳必要授乳の準備をしてると間2時間くらいしか自由時間はなく、里帰りしてたにも関わらず寝たのか寝てないのかわからない状態が1ヶ月続く。酷い偏頭痛にも悩まされて、不調of不調。拷問だし人権はない。

職場復帰した後は、時短勤務による周囲からの冷ややかな目と、子どもの看病のための突発的な休暇が辛い。休暇って言ってもこっちは休めてないのに業務は逼迫する。周りもこちらも辛い。

仕事をそこそこちゃんとやってるので、噛み合わせの悪さはかなりしんどかった。共働きでどっちもバリバリ働いてるって人は、多子を望まなくなるな〜って印象がある。

政府はその世帯にこそ産んで欲しいと思ってそうだけど。

【総括】

デジタル偏重な世の中なのに、身体依存する出産アナログなままで、不便さや不快さが我慢できる閾値を超えている。(勿論改善のしようもないし。)

無理だと思うけど産後2年くらいは夫婦共に休ませて生活保障も最低限してやる くらいじゃないと子供は産みたくないなあ。

anond:20221015092709

所詮、この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ

イキ過ぎたらどうなるのか

野獣は当然のように「イキスギィ」などと甲高い声で吠えるが実際のところ絶頂を迎え過ぎると人はどうなるのだろうか?

組織は守る必要がない人間は守らない

守ると罪に問われるだけだから

家族親族も脅してたね

ログも残ってるよ

2chのやつも

中立」「客観批判論についてメモ

はてなブックマークTwitterなどで、「中立」「客観」と言った態度について批判的に論じるものをたびたび見かける。特に差別政治など、権力闘争の類で非対称性存在するときによく使われるイメージがある。それらについて私なりに論点を整理してまとめ、コメントしようと思う。これらの論に親和的な人も、逆に批判的な人も読んでほしい。

前段

まず、当たり前の話なのだが、何かを批判するときは通常複数論点から批判できる。

例えば、社会民主主義新自由主義立場からすれば「市場政府権力によってゆがめられ、効率的資源分配が出来ない上に政府権力が不健全に増大する」と批判できるし、共産主義立場からすれば「結局彼らは資本主義自由市場と言った搾取を『多少マシ』にしている程度であって、本質的解決には役に立っていない。どころか、革命に向かう人々を減らすという点で有害ですらある」と批判できる。

これを見て、もし社民主義者の人が「アンチ社民主義者は矛盾している。市場原理主義みたいなことを言いながら、資本主義否定している。彼らは矛盾している」と言うのがおかしいというのは分かるはずだ。あるいは、「新自由主義者は社民主義批判している。これは共産主義者と同じだ。よって新自由主義者は共産主義者なんだ」もおかしいとわかるだろう。

インターネットではそれぞれの発言発言主が結びつかず、なんとなく「自分の考えを非難する人」を全部同じカテゴリに放り込む処理をしてしまいがちだ。(なお、話をややこしくするのは本当に矛盾した意見を言うやつも一定存在することだ)

そんなわけで、いわゆる「中立」「客観批判者は皆「お気持ち」(ここでは、自分の快不快問題シームレス社会的問題につなげて、自分感情社会が従うべきだ的な発想を持っている人)の人たちだ、という雑な世界観を持っている人も多いが、ここで「中立」「客観批判理屈に触れて、「なるほど、こいつらはこういう理由でそういっているんだな。(自分賛同できないにしても)まあ理屈は分かるな」と思ってくれれば幸いである。

論点①「自分(あるいは自分が参考にしている幾人かの人間/幾つかの媒体などなど)こそが『中立』だと思い込んでしまうと、本来価値判断問題にすべきことも『中立』『客観』的な事実だと思い込んでしまい、異なる価値観を受け入れられなくなってしまう」

これは厳密には『中立』『客観』を否定していない。どころか、不徹底な『中立』『客観』を批判し、本物の『中立』『客観』を目指そうとする方向性も見受けられる。

実際問題はてなTwitterでは、『中立』『客観』(それからこれと似ている『是々非々』など)を「右」と「左」(あるいは任意対立する二大勢力)のどちらも全肯定/全否定しないことだと思っている感じがする人が複数見受けられる。まあ確かに、「右」のいう事を全肯定/全否定、とか、「左」のいう事を全肯定/全否定すると最初から決めてかかるのは紛れもなく党派的な姿勢であり、中立的でも客観的でもない。しかし、そもそも「右」がどうとか「左」がどうとか党派性を意識し、この二者のいう事には従わないぞ!みたいに決めてかかっているのは、全く同じではなかろうか。ようは、「中道」という第三の党派に過ぎない。そうではなく、中立客観というもの自分完璧に到達できないのだという事を自覚し、他人中立である客観であるかは究極的にはジャッジできない(もちろん明らかにこいつ主観的に過ぎるやろみたいな人はいるけど、そう思っている私の方がおかし可能性は否定できない)という事を踏まえなければ、「中立」「客観」という言葉は単なる党派性の御旗にしかならない。

これは実のところ、「正義暴走」論とよく似ている話だ。正義暴走非難する人は正義が嫌いなのではなく(まあそういう人もいるが)正義のために正義暴走は抑止した方がいいという話をしている。正義暴走とは、やっている本人たちが勝手正義と思っているだけで、実際には悪である、というロジックだ。同じように、「中立」「客観」の濫用非難する人が「中立」「客観」を否定していないのも当たり前の話だ。彼らが否定しているのは「中立」「客観」を装った「党派性」「主観」だからだ。(面白いのが、「正義暴走」論を持ち出す人の多くは「中立」「客観」の濫用問題を考えず、「中立」「客観」を批判する人は「正義暴走」論を持ち出されると不満を表出することが多い事である。両者はほぼ同じことを言っているのだが)

まあ、つまりこの批判は「お前は自分客観的と思ってるかもしれないけど本当は違う(かも)しれないぞ!」というものである個人に向けるとき喧嘩する気がなければ使わない方がいいとは思うが、一般論としては(特にわたしのような『中立』『客観』が大好きな人間ほど)よく頭に刻んでおいた方がいいと思う。

論点②「悪しき権力側とそれに追い詰められる少数の被害者、そして大多数の傍観者/加害者という構図がある。大多数の傍観者/加害者は少数の被害者実態についてよく知らない上に、被害者傍観者/加害者の無遠慮な発言に対して過敏な状態にある。そんな状態で彼らが彼らの持っている知識を総動員して(きちんと)『中立』『客観』的に論じてしまったら被害者が傷ついてしまうし、被害者が声を上げることが抑止されてしまう。他のことならばよく知らずに論じることは無益ではあってもさほど有害ではないが、差別構造についてマジョリティ側が無知であるにもかかわらず論じることは有害である。もしそれについて論じたいならば必ず加害者非難し、被害者非難につながるような事実を示すことは(ダメとまでは言わないけど)避けなければならない」

こちらは、『中立』『客観』的な態度を、ある一分野のみについてとはいえ明確に否定している(と私は思う)ので、論点①とは様子が違う。

まあ言っている事は正直分からなくもない。この手の人たちが良く比喩として使うように、「足で踏んでいる人と踏まれている人」の間で『中立』『客観』的な議論を成立させろ、というのは無茶である差別されている人と、その差別をたとえ直接はしてはいなくても差別によって得られる利益を(その自覚なしに)享受している人の関係は、「足で踏んでいる人と踏まれている人」のそれよりはるかに複雑で見えづらいものがあるが、似たような関係であるという事は、その是非は別として、可能ではあると思う。なので、倫理的個人差別問題について論じるときはその辺に気を付けて論じてもよい、論じた方が好ましいくらいのことは私も思う。

しかし、この考えを強い規範として言論空間に導入することに対しては私は警戒心を抱く。

「誰が加害者か」「誰が被害者か」「どこからどこまでが『差別問題』か」「どんな事実を適示すればそれが『被害者非難をあおっている』と言えるか」

これらをみんなが納得いくように定めるのは非常に難しい。間違った基準を定めてしまえば、例えば本来被害者である人たちを「加害者」として力づくで非難する事や、本来加害者である人たちの罪悪を「被害者」として覆い隠すこともありうる。「被害者」「加害者」の推定が正しかろうと、「被害者非難をあおっていると言える事実」と認定されたものがもし違えば、その事実公論上での扱いが不当に小さくなりかねない。差別発言自体言論の自由で守る価値はまったくないのだが、論点②の批判が拡大すると差別発言以外も巻き添えになるリスクがとんでもなく大きくなりそうであるそもそも一国の言論空間なんて政治勢力も右から左からワラワラ湧いてくる場所なんだから、うかつに基準を厳しくしたら、その基準が「万人」でも「マイノリティ」でもなく「特定政治権力」の都合の良いようになってしま可能性もある。一方で、剥き出しの、それこそ差別主義者やデマもなんでもござれの「言論の自由」が良いとも思えないし、「中立」を装って攻撃を誘発する人たちを何とかしたいという気持ちはあるので複雑なところである

(ちなみに、個人としてこの観点から批判すること自体はどんどんやったらいい。問題なのはこの考えが強い規範になることである

論点③「『中立』『客観』的な論は不快だ。私の不快になる主張をする権利はない。私が嫌だから黙れ」

①②は曲がりなりにも論として成立しているが、③は論外である。これこそが「お気持ちである

これについて論じることは特にない。まあしいて言うならば、「個人的な感情の表明」自体は何ら悪ではないという事は付け加えておきたい。こういう風に、自分感情だけで他人を思うままに動かす権利自分にあると思っている人をまともに相手する必要がないというだけである

全体的な感想

①②③それぞれ、言う層が全然違ってくるということがイメージできるだろうか。

①は、左右問わずおそらくそれなりに頭のいい人、論理的思考好きな人が言うと思う。(ただし、論理的思考好きな人は左に行きやすいので、左が多い気はする)

②は、明確に左の中でも主張が強めの人が言うだろう。(なお、加害者被害者構造を、中国日本あたりにすれば、右の主張強めの人たちも似たようなことを言っている)ここで重要なのは、彼らの主張は我々と大きく違うが、別に彼らは頭がいいわけでも悪いわけでもない。どちらかと言えば頭のいい人が多いと思う。

③の人は、多分単純に頭が悪い。左にも右にも真ん中にもこういう馬鹿は沢山いる。ただし、バカの中でもわざわざ自分バカですとアピールしたがるインセンティブが強いのは右左の中でも過激な人たちだろう。

お気持ちサヨクバカ」みたいなことを言う人たちは、多分①②の理屈で「中立」「客観」を批判している人に左翼が多いという事と、③の人たちにバカが多い事を混同して、左翼お気持ちバカみたいな図式を作り上げているのではないかと思う。あと、「お気持ちサヨクバカ」と言った同じ口で「リベラル(おそらくこの人はリベラルサヨクをほぼ同義として使っているはず)は啓蒙思想押し付けている」みたいなことを言っている人もいた。確かに②は啓蒙思想押し付けダメな部分全開という感じで、③はバカである。たぶん構造としては②が③の人たちを率いて暴れまわっているという感じではなかろうか。まあそんな感じで、「中立」「客観」大好きな人たちも、③は論外として①②の理屈普通にそれなりに通っているっていうことをちゃん意識しよう。(まあ意識できてる人もいるだろうけど)

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