2016年06月30日の日記

2016-06-30

http://anond.hatelabo.jp/20160630013309

40代だが、結婚したいと思ったことがないし、若者がどう思おうが関係ないよ

数字のことはエラい人が考えりゃいいんです、個人は自分人生を生きるしかできない

http://anond.hatelabo.jp/20160629212342

ファッションじゃないよ

そりゃ湯気で曇ってしまうけど、

広い公共の場所裸眼だと、目をつぶって入ってるようなもんだからだよ。

 

試しに最初から最後まで目を閉じて入ってごらん。て言うと断るでしょ?

2016 年 6 月版初心者向け JavaScript セキュリティ

JavaScriptUI を構築していると XSS がうんたらかんたらみたいな能書きをきちんと理解してきちんとやっていくのが一番よいというのはそうなのですが、 2016 年にもなってそんなことの学習時間がしがし使うのもおかしい気がする。おかしい気がしないというそこのあなたCPUFlash ストレージから自作して現代風のシステム全部作っといてください。

というわけで初心者は以下の原則を守ればいいと思う

JSjQuery作業しない

PHP だけでなにかを作る人間はもうたぶんいないですし、 JavaScript での UI 構築ももうそういうものだと思っていいのではないでしょうか。 React か Angular かなんか使っとけばいいと思います。 React おすすめ。これらの現代っぽいフレームワークを使っている限り XSS のような初歩的なミスはほぼ起きません。 React の場合危険機能には Dangerously Set innerHTML というヤバそうな名前がついていて便利です。

同一ドメイン内に決済とかあるサイトに関してはもちろん上の原則はあてはまりません。それは初心者が触るべきものではない。

http://anond.hatelabo.jp/20160630011759

「女が悪いところもあるし、女叩きの一部は正論」という人

こういう人が大部分だと思うけど、そういう人は声高に言わないから見えないんだと思う。

あと、「女びいきは認めるくせに女叩きは許さないってのはおかしい」みたいに書いているけど、

お金まれるのは嫌だけど、お金くれるっていうなら貰うよ」っていうことは割と普通だと思う。

ヨーグルト買うとき硬いタイプかドロドロタイプか見分ける方法

教えてください。

いつも蓋開けてガッカリする

から俺が挙げるものより「意外とありそうでないもの」ってある?

ズッコケ三人組」全作品を詳細レビューしたブログ

http://anond.hatelabo.jp/20160629201917

正解は「嘘つき村の住人はいない」でした。

解説

一見するとAの「私は嘘つき村の住人です」という発言が明らかに矛盾しているので論理パズルとして成り立っていないように見えますが、そもそもの「前提」が嘘を付いている、と考えることで矛盾が解消されます

まり、嘘つき村の住人は正直で、正直村の住人は嘘をつく、ということです。

そうなると、こんどはAはどちらの村の住人でも成り立ちます

Bについて考えると、Aが嘘つき村の住人であれば正しいことを言っているのでBも嘘つき村の住人、Aが正直村の住人であれば嘘になるのでBも正直村の住人になります

Cも同じように考えるとBと同じ村に住んでいることがわかります。つまりAとBとCは同じ村に住んでいることになります

続いて「問題」の内容を見ると、間違っていることがわかります。(「問題」が正しいとすると、嘘つき村の住人になるので正直村の住人は1人か4人で、2人にならない!)

なので、「問題」も正直村の住人として扱います。そうすると、正直村の住人が2人、というのが嘘でないといけないので、結果としてABCも正直村の住人になります

結果として、「前提」、A、B、C、「問題」の"5人"が正直村の住人であることがわかりました。

問われているのは「正直村の住人は誰か?」ですが、これも逆のことを言っているとみなし、解答すべきなのは「嘘つき村の住人はいない」となります

前提自体パズルの一分になってる論理パズルがあったら面白いんじゃないかと思いついてしまったクイズでした。

前提とか問題カギカッコで話してる風でしょ? へりくつですいませんでした。

人の揚げ足取って一生底辺這いつくばってろや

エロゲにおける泣きゲー概観

エロゲには泣きゲーというジャンルがある。傾向として18禁要素は少なく、その必然性が薄いこともままあることから時にエロ不要論が主張されたり、あるいは泣きゲーエロゲではないと揶揄する人もいるジャンルである

しかし「一般に、泣いたあと人間は気分がよくなる」(ウィリアムフレイⅡ『涙―人はなぜ泣くのか』)。快楽を得ながら体液を体外に排出する行為エロと称するのであれば、その意味で泣きゲーエロゲの一ジャンルであることは間違いない。

泣きゲーはある日突然出現したものではなく、それはどうプレイヤーの涙を誘ったか技術の積層であり、様式の歴史である。個々の作品論は星の数ほど存在し語り尽くされてきたが、この歴史という点での言及は少ない。当時それは歴史ではなくリアルタイムだったのだから、当然といえば当然ではあるが。

2016年現在、エロゲ論壇は死に、泣きゲーが語られることも少なくなった。

だが、だからこそ、最初からぶっ通してやり直してみることでその変遷について、その後に何が継承されていったのかという点で俯瞰することが出来るのではないか。

ということでやり直したので、増田に書きなぐっておく。

1988~1996年

そもそもエロゲの目的は何かといえば、もちろんエロである。主役はエロCGであり、脇役に過ぎない物語の出来を評価する者などいなかった。

その様子が変わり始めるのは80年代後半、『リップスティックアドベンチャー』(フェアリーテール,1988/5)辺りからであるエロゲが一つの娯楽物語として成立することが示されたことでプレイヤーはその物語性に目を向け始め、脇役だった物語はSFやホラーなど様々な要素を取り入れていく。その一つが「感動」であった。

例として、早くも1991年の『ELLE』(elf)に対して「ホロリとした」という感想が存在する(小林義寛『ゲーマーエロと戯れるか』)。泣ける物語かというと微妙だが、今プレイしても確かに面白いSFエロゲであり、感動的要素が含まれていると言える作品である

人は感動すると涙腺が弛むことがある。逆に言えば、涙腺が弛む種類の感動がある。この点での先行研究として米沢嘉博の『マンガで読む「涙」構造』があるが、そこで昭和の泣ける少女マンガ少年マンガを分析した米沢は、女性は不幸における愛と感動の物語に泣き、男性友情、努力、勝利の感動に泣く、としている。

男性向けであるはずのエロゲはしかし、何を血迷ったか「不幸における愛と感動」を物語に取り込むことに成功する。

DESIRE』(C's ware,1994/7)、『EVE』(C's ware,1995/11)、更に『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf,1996/12)と傑作を連発した剣乃ゆきひろはいずれも物語の中核に少女の悲劇を配した。それは壮大かつ感動的な物語の帰結としての落涙をしばしば生み、その感想に「泣いた」というものが少なくない。

さらに『同級生2』(elf,1995/1)の桜子シナリオにおいていわゆる難病物がエロゲに導入される。それは当時十分に涙を誘うものであったとして、これが泣きゲー元祖だとする説も存在する(小林,前掲)。

努力・勝利の感動が無かったわけではない。例えば『闘神都市2』(ALICESOFT,1994/12)は自分の無力さが生んだ悲劇きっかけに、強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す物語であり、高く評価された。……しかしそこにはやはり「悲劇」がつきまとっている。

「不幸における愛と感動」は、こうしてエロゲで広く受けいれられていく。

1997年

難病物は概ね、主人公ヒロインの仲が深まるにつれて病状が悪化する展開をとる。これを病気に限定せず、「不幸」に一般化したもの涼元悠一は「萌やし泣き」と呼ぶ(涼元悠一ノベルゲームシナリオ作成技法』)。ヒロインとの幸福日常をまず描いてから一気に雰囲気を暗転して二人の不幸な状況を綿密に描写、涙腺の緩んだプレイヤーに最後の一押しをするという、泣きゲーに慣れた人にはお馴染みのそれである

この萌やし泣きは、しかし突如エロゲに登場したわけではない。

前述の闘神都市2には、ごく短いが構造上萌やし泣きと解釈しうるイベントが存在する。同級生2桜子シナリオは難病物である以上もちろん萌やし泣きだが、その不幸描写は非常に短く、またオチが「主人公勘違い」というギャグである。それは手法としては古くから存在しており、変わってきたのは、それを物語上どの割合で展開するかという点であった。

1997年5月、それが一つの分水嶺を超える。『ToHeart』(Leaf)のHMX-12マルチシナリオは、萌やし泣きを1ルート全てを費やして実現した。

おそらくこれが(エロゲ上で)萌やし泣きの威力が十分に発揮された最初の例だろう。彼女の物語は感動的な場面をクライマックスに据え、それ以外の要素――ギャグも皮肉もセンス・オブ・ワンダーも滲ませること無く、ストレートに終わった。そのシンプルさに価値があったと言え、本作は多くのプレイヤーから「泣いた」と絶賛された。

そしてもう一つ、作り手の意思という点でも分水嶺を越えたものが登場する。『MOON.』(Tactics,1997/11)が「鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV」と自ら名乗ったことは、その後の歴史的意味でも強く象徴である。もし泣かすという意思で作られたもの泣きゲーと呼ぶならば、その明示という点で最初泣きゲーは本作と言うこともできるかもしれない。

MOON.は大量のエロシーンを擁し、エキセントリックな人物造形も無く、萌やし泣きでもない。後の作品よりも本作が泣けるし好きだという人もいるが、多くの人を確実に泣かせる威力に本作があと一歩不足したことは事実と思う。

はいエロゲはついに、プレイヤーを泣かすことを主目的とし始めたのである

1998年

ToHeartで泣かせる物語構造確立し、MOON.で泣かす意思が示され、そしてそれは『ONE』(Tactics,1998/5)において結実する。MOON.スタッフが作ったそのエロゲには、萌やし泣きが全ヒロインルートで導入された。

当時の多くのプレイヤーにとって、それは致死量だったと言っていいだろう。

本作はMOON.と変わって18禁要素は非常に薄く、無くても物語は成立する。物語は全ルートで感動と涙が目的に据えられ、それしかない。にも関わらずこれがプレイヤーの絶賛を浴びたことは、「泣かせること」がそれ単独ジャンルを成立させられることを示していた。

今やり直してみると甘い部分も多い。しかし『sense off』(otherwise,2000)、『それは舞い散る桜のように』(BasiL,2002)など、本作の影響下にありつつも秀逸な作品がのちにいくつも生まれたことを考えれば、その影響力と価値を軽んじられる者はいないだろう。

1999年

6月、MOON.を作りONEを作ったチームは独立してKeyと名乗り、『Kanon』をリリースする。これがどれだけの信者を獲得したかは言うまでもないだろう。

特に技術的な面でKanonはONEよりも洗練されている。OPとED、泣かせるための特殊演出などのソフトウェア面はもちろん、泣かすための専用BGMが用意された、という点も大きい。1997年の『アトラク=ナクア』(ALICESOFT,1997/12)は物語のクライマックス、その絶望的状況下で「Going On」が初めて静かに流れ出すことで異様な精神的高揚をプレイヤーに与えたが、これが事前に何度も使われていたら効果は半減していただろう。これと同様のアプローチKanonは泣かすという目的で採っている。

Kanonから3週間後に発売された『加奈』(D.O.,1999/6)もまた、この時代泣きゲー金字塔である。ONEやKanonが物語を中盤過ぎまでギャグで埋め尽くしたのに対し、加奈は10年以上に渡る兄妹の闘病生活を正面からシリアスに描いた難病物であるリアリティのある物語という点で「新しい」泣きゲーだったと言え、今なお評価は高い。

――一方で、ToHeartもONEもKanon加奈も、悪く言えばただのお涙頂戴であるハッピーエンドは奇跡や幸運によってのみ訪れ、主人公たちは運命に翻弄される無力な存在でしかない。こうしたお涙頂戴は今も昔も根強い人気を誇るが、一方で毛嫌いする人がいることも事実である

興味深いことに泣きゲーは、これらのお涙頂戴では泣けない人々をも泣かせようとするかのように、別の「泣かせる何か」の模索を少しずつ始めていく。

2000年

知名度も低く地味だが言及しておきたい良作として、1月に発売された『Lien』(PURPLE,2000/1)がある。不慮の事故幽霊になった主人公とその周囲の人々が残された2週間でその死に向き合い、改めて別れを告げる物語であり、主人公が生き返ることは無い。従ってお涙頂戴の文法に則っているが、しかしその最後において、彼らは前を向き、笑顔で別れを告げる。別れは悲しみしか生まないものではなく、人の強さを示すものでもあることをLienは描いていた。

そして9月、Keyのリリースした『AIR』は約束された勝利を遂げる。物語はもちろん難病物で、ヒロインは最後に死ぬ。その死を「ほとんどなんの意味もない」(東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)とするならば、これは従来通りのお涙頂戴だろう。

しかし、彼女無意味に死んだことが悲しくてプレイヤーは泣いたのだろうか。

もちろんそういう人もいるだろう。だがかの有名な「ゴール」は、彼女が最後まで努力し、やりきったこと――笑顔幸福記憶を全うしたからこそ、泣いた人も少なからずいたと筆者は考える。最後の別れにおいて、彼女は必死で前を向いていた。

悲劇象徴としての別れの描き方と、それに対する姿勢は少しずつ変化を見せ始める。

2001年

ところで萌やし泣きの多くは幸福8割、不幸2割程度の文量配分で構成される(※数字は筆者の体感であり、根拠はない)。これを反転し、幸福を2割以下、不幸を8割以上にするとどうなるか。

鬱ゲである

MOON.もその一つだが、『DiaboLiQuE』(ALICESOFT,1998/5)や『銀色』(ねこねこソフト,2000/8)など、爆発的に売れることは無くとも鬱ゲーは途切れること無く続いてきた。特に銀色の執拗な鬱展開は秀逸であり、未だ根強くファンがいることも頷けるものである個人的にはDiaboLiQuEももっと評価されていいと思う)。

そして8月、幸福と不幸がほぼ半々、つまり鬱ゲーであり泣きゲーでもある『君が望む永遠』(age,2001/8)が発売される。

男女関係修羅場シリアスに描いたエロゲといえば『WHITE ALBUM』(Leaf,1998/5)が有名だが、そこでは主人公修羅場の矢面に立たされることはない。対して本作のメインシナリオでは主人公は徹底して矢面に立たされ、主人公が別れを切り出すことでのみ悲劇は終幕する。

誰を切り捨てるかは、プレイヤー選択肢が突き付けられることで行われる。だからこそ最後に彼らが再び笑い合える可能性が示されることはプレイヤーを安堵させ、涙を誘った。彼らは奇跡によってではなく、心の強さによって悲劇を克服する。

さらに11月、物語の殆どがギャグで占められ、物語の構造自体は従来の萌やし泣きの延長ながら、にも関わらず枠を踏み越えたものが登場する。『家族計画』(D.O.,2001/11)である

家族に捨てられた連中が偶然集まり、やむなく家族を偽装し、衝突しながら家族になっていき、崩壊し、再び家族になる様が描かれる作品である加奈やAIRでも家族愛は描かれたが、いずれも兄妹あるいは母娘の二者間に閉じている。対して家計は父母兄姉妹という集団の絆を描く。

襲いかかる不幸は彼らの手によって跳ね除けられる。プレイヤーはもはや誰かの不幸にではなく、茉莉がお兄さんになって下さいと訴え、準が最後にスプーンを咥え、その家族としての努力が実ったことに涙する。

なにより家計ではもはや誰一人死ぬことはない。君望もメインシナリオでは誰も死なない。誰かを失う悲しさだけが泣かせる手段ではない。悲劇に敢然と抗い、心の強さで打ち勝つだけでも人は泣くのである

2002年

……などと枠を広げ、新しい要素を貪欲に取り込むパイオニアばかりではない。泣きゲーというジャンルを充実させたのは既存の要素で構成された作品群である

例えば『flutter of birds』(シルキーズ,2001/2)は極めて基本に忠実な難病物だし、特定ルートで萌やし泣きを取り込んだ『みずいろ』(ねこねこソフト,2001/4)や『水夏』(CIRCUS,2001/7)、『グリーングリーン』(GROOVER,2001/10)はいずれも好評を博した。またDESIRE同様、悲劇シナリオの感動としての落涙であれば『腐り姫』(Liar Soft,2002/2)はこの年の作品では秀逸である

また、集団間の絆も広く扱われていく。

うたわれるもの』(Leaf,2002/4)ではSRPGというジャンル上の必然もあるだろうが、家族的な仲間との絆が描かれている。『世界ノ全テ』(たまソフト,2002/4)や『ロケットの夏』(TerraLunar,2002/10)は後半こそ二者間が主軸になるものの、いずれも部活を通して仲間と触れ合うことで主人公が成長し、仲間との絆を育むことで成立する物語である

2003年

ONEとKanonとAIRを足して3で割ったような『SNOW』(Studio Mebius,2003/1)、あるいは『てのひらを、たいように』(Clear,2003/1)では、困難に対する仲間の存在がより大きな価値を持つ。その最後は奇跡による解決はいえ、ヒロインのために仲間全員が努力し、足掻くことでハッピーエンドが訪れる様は「与えられたもの」というより「勝ち取ったもの」という印象が強い。

これらを「みんなは一人のために」とするならば、「一人はみんなのために」もまた登場する。『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine,2003/9)である

ToHeart型のよくある学園物語に始まり、それが綱渡りの上で構築されたものであることが明かされ、ばらまかれた伏線が繋がっていく様は見事の一言に尽きる。と同時にそれは、心の壊れた主人公が何度も失敗しながらトラウマを乗り越え、仲間のために自己犠牲を重ね、それによって心を再構築していく物語である。その実に静謐な最後において、そこで彼が平穏と幸福を遂につかんだことに、タイトルの意味と、そして彼が勝ち得たものが明かされることにプレイヤーは涙を流す。

2004年

そして1月、『Fate/stay night』(TYPE-MOON)が発売される。絶望的状況下で静かに流れだす「エミヤ」はプレイヤー凶悪な興奮を与え、「強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す」展開に涙を流した。

そこに「友情、努力、勝利の感動」があることを疑う者はいないだろう。

泣きゲーというとKanonやAIRがよく話題に出されるが、「泣いた」という感想がC†CやFateにも多く存在することは事実である。と同時に、いずれにも物語の重要位置に少女の悲劇と愛が配置されている。

そしてこれまで言及してきた「不幸における愛と感動」の泣きゲーに、努力や勝利が全く存在しないわけでもない。その努力が実ったかどうかの差はあれど、必死の行動があったことはどの作品でも紛れも無い事実である

としてみると、「泣いた」と感想を多く有する作品、すなわち泣きゲーには「不幸における愛と感動」と「友情、努力、勝利の感動」の要素が、両方含まれていると捉えても間違ってはいないだろう。そしてそうだとすれば両者は対立するものではなく、両立するものと言える。

そう捉えるならば泣きゲー歴史とは、時代によって、作品によって、この両者の配分を巡る歴史だった、ということもできるように思う。

2005年以降

いい加減読んでいる人も飽きただろうし2005年以降は割愛するが、一つ言及するなら不意打ちという手法が導入された点である

例えばいかにも安っぽいハーレムものとして始まりながらシリアスなSF展開を経て感動的最後を迎えたり、あるいは陰惨な陵辱物として始まりながら見事に綺麗な純愛物へと変貌したり、泣きゲーとしての姿勢最初は微塵も匂わせず、突如牙を剥くもの2005年以降に目立ち始める(いずれもタイトルは念のため伏せた)。

また泣けるイベントが用意されていても、それが作品としてのクライマックスと一致しないことが珍しくなくなる。中には語るべき物語は全て終わり、エピローグの最後の最後で油断しきったプレイヤーに猛然と襲いかかるものもある(いずれもタイトル以下略)。

昨今、泣きゲーが減ったと言われることがあり、実際、一見してわかりやす泣きゲーを現在はあまり見かけない。しかしプレイヤーを泣かせることが主目的化した時代を超えて、泣きゲーとしての技術や様式は再び物語を盛り上げるための一要素へと還元されていった、というのが現代の流れだとすれば、それは死につつあるのではなく、むしろ要素として広く普及し、遍在したことで目につきにくくなった、ということのようにも思えるのである

おわりに

リアルタイムにこれらを経験した人にしてみれば、有名作を並べただけでなんの面白みもない内容と思う。申し訳ない。が、今20歳前後若者にとってみればFateですら12年前の古典である。「泣きゲー元祖」がなぜ人によって違うのか。なぜ未だにはわわとかうぐぅとか言ってるヤツがいるのか。若者がそんなことを知っている方がおかしいし、それを知るために最初から全部やり直すなど正気の沙汰ではない。

かつて何が起きて、それが今にどうつながっているのか。粗く拙いまとめに過ぎないが、その理解一助として本稿に役立つところがあれば幸いである。加えて「そういや最近エロゲやってねぇなぁ。またちょっとやってみるか」と思うきっかけになれば、それに勝るものはない。

どうか、幸せエロゲライフを。

草生やしてるおまえだよ

笑われてるの理解できないのかね

http://anond.hatelabo.jp/20160630011759

女が弱いという直感を持たないあたり

新しい世代感覚とも言えるし、あるいは

僕はただ氷を変えたくないだけ

洗い物したくないだけだよ

2015年国勢調査に基づく生涯未婚率

2015年調査抽出速報に基づく生涯未婚率(50歳時未婚率)。概ね1965年まれの人の50歳時未婚率。2010年2005年は確定値。

生涯未婚率
2015年22.77%13.32%
2010年20.14%10.61%
2005年15.96%7.25%

2015年2010年と、2010年2005年とそれぞれ比較し、5年間の各世代婚姻行動を下の世代が将来そのままなぞったと仮定したときの各世代生涯未婚率予測(1965年まれ2015年は確定値)とその変化。

2015予測2010予測増減
1965年22.77%25.54%-2.77
1970年24.47%30.73%-6.26
1975年24.26%33.07%-8.81
1980年23.32%33.34%-10.02
1985年23.30%33.78%-10.48
1990年24.07%-
2015予測2010予測増減
1965年13.32%15.30%-1.98
1970年15.55%20.03%-4.48
1975年16.54%23.45%-6.91
1980年16.24%25.34%-9.1
1985年16.16%26.42%-10.26
1990年17.12%-

平成27年国勢調査 抽出速報集計

http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&tclassID=000001072818&cycleCode=0&requestSender=search

http://anond.hatelabo.jp/20160630005144

なんか分かる。

普通男性っていうカテゴリーですら、昔は日本男児はこうあるべきってのに縛られたりしてたしね。

ゲイの人は派手でオネェ言葉を明るくしゃべる場合はなんとなく受け皿があるけど、そりゃ暗いゲイもいるわけで。

そういう人はマイノリティの中にも存在するこうあるべきっていう姿からも外れちゃって辛そう。

派手でオネェ言葉っていうのはそうしなければ生きられないからしてるっていうところがありそうで、

目立つから観測されやすいだけでそれがスタンダードではないような気がするから

それによってその他大勢が生きづらくなるのもなんだなって思う。

だけど、派手なオネェ言葉キャラは、まずは世間認知させるっていう大事役割も担ってるわけで。

まぁそっちは大分浸透してきたから、そろそろスタンダードマイノリティケアにも目を向けた方が良いような気はする。

http://anond.hatelabo.jp/20160630011418

うん

で、それを指摘したおまえは

何かを得ているとでも

女は、なぜ女叩きされることを正当と思わないんだろうか?

論理的に明白なのに。

女は、「女というだけで差別するな!」というが。

じゃあ、翻って、「女というだけで、なぜ女ひいきになってるんだ?女叩きは正論だっていう男も相当いるじゃないか。君が男だったら女たたきを正論だと思ったんじゃないの?思わない理由は?」そういう風に感じてしまう。

現状の女叩きは、カナリ正論。女のワガママのせいで男が迷惑しているという構図はいくらでもある。いくらでもあるのに社会で面と向かって言われない理由は、ポリティカルコレクトネスを盾にとられているだけ。

ポリティカルコレクトネス無しのネットなら女のキチガイ主張に対して批判が行くのは当たり前。

この構図が、女に理解されないのが本当に理解できない。感情論抜きで、本当に女叩きは異常だと思うのだろうか。

  

がるちゃんとか見ていても、一部の女は「女が悪いところもあるし、女叩きの一部は正論」という人が居る。この人達客観的にモノを見れるんだろう。

なぜ、こういう人が増えないのか疑問だわ。

最近元増田(>>1,投稿者,ブログ主とも)を逆張りで叩いてマウント取ろうとする風潮

本当息苦しいと思わない?

 

恋愛の話すると「お前がクズからだ」「お前の態度に原因があるんじゃないの?」「彼女可哀想」「お前が」「お前が」

仕事の話すると「お前が慕われてないだけじゃね?」「だってお前仕事できないじゃん」「後輩が可哀想」「お前が」「お前が」

どうでもいい話しても「だってお前道程じゃん」「だってお前ハゲじゃん」「だってお前働いてないじゃん」

 

昔はこんなに辛辣じゃなかったと思うんだけど

くじは平等

くじが平等なのはそれがランダムに選ばれることによる。

ところで、人が誰に生まれるかは全くのランダムである

これにより人の生まれによる差は全て平等ものであることがわかる。

http://anond.hatelabo.jp/20160629212342

浴槽や洗い場がどこにあるかわかんないし、シャンプ・コンディショナー・ボディソープも見分けつかないし。家だったら慣れてるから平気だけど。

女が男を選別する暴力

身長の男。不細工な男。

コレラに対して、異常な嫌悪感を女は抱くらしい。

これは生理的ものからしょうがないらしい。

  

確かに、思ってるだけならセーフだ。

だが、女は自分を売るためにリア充なり、おっさんに枕なりで媚びる。

すると、女が下す不細工だの低身長だのの評価リアル底辺男の生活を脅かす。

女が上司と恋仲になれば、気持ち悪い男を淘汰させるだろう。気持ち悪い男仕事ができてもだ。

  

学校生活などでは、スクールカースト存在する理由はほぼ女。

女とセックスしたくてエエ格好しいの男が必ずでる。そういうキョロ充みたいなのが、底辺男子を『いじる』時にはいじめる。

女は、だけどリア充文化が無いと自分を売れないから、キョロ充と一緒になる。

  

これって完全に暴力だよなあ。

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