はてなキーワード: 片仮名とは
コロナが欧米では猛威を振るった一方で、アジア圏では想像よりは流行が抑えられた理由について様々な理由が言われている。おそらく一つだけの理由ではなくて、複数の理由が組み合わさった結果だとは思うんだけど、自分はその要因の一つに「イングリッシュ」があるんじゃないかと思っている。
歯と歯の間から発音する英語は、日本をはじめアジアではあまり普及していないけど(だからアジア人は子音に母音が挟まりまくっていて発音が悪いと言われる)、欧米だとローマ字よりイングリッシュの方が重要だと考えられているくらいみんなが普通に使ってるアイテム。日本だと片仮名みたいなタイプが普及してるけど、欧米で一般的なのは「舌を口の上に巻きつけて喉の奥に突っ込みながら喘ぐタイプ」のイングリッシュだ。自分もこのタイプをいつも使ってるんだけど、これって舌やら唇やらがかなり口腔内に接触するんだよね。話す前に相当きちんと口をゆすいでおかないと、なかなか危険な行為なんじゃないかと感じる。
一字と一字が離れている「母音+子音」主体のアジアと、舌を歯の中に突っ込む「破裂音」主体の欧米。これにマスク習慣の少なさがかけ合わさった結果が、欧米でのコロナ蔓延の一つの要因になったのではと。Twitterとかでもこの話は出てこないから、自分の勘違いって気もするけど。とはいえ、P音で唾を飛ばすのは最高に気持ちいいので、みんなにはしっかり手洗いした上でフロスを使って欲しいと思ってます。
地方ニュースを見ていると、コロナウイルスの感染したと思われる場所が報じられているんだけど、それを見てると喋り声など大きく発声する場所、特に屋内はまずいんだなぁというのがよくわかる。
複数人で盛り上がって大きな声を出したり、酔って声が大きくなったり、そんな行動をする場所。
で、ソーシャルディスタンスとか言ってテレビでも出演者が距離をとっているけど、距離をとることで声が大きくなったら意味ないんじゃ?と思ってしまう。
欧米の握手やほっぺたくっつけるのを控えるのは意味あるだろうけど、日本人は握手はたまにあるけど日常的にはしないし。
欧米で使われるソーシャルディスタンスは単に物理的な距離を取るという意味だけではないのかもしれないけど、片仮名でググってみると離れろということばかり書かれている。
まず、この枝では言葉がここ500年で変化したかどうかが議論になっています。ある増田はそんなに変わっていないと言い、ある増田はいや変わっているだろと反論する。
後者の増田は、時間軸だけでなく空間軸でも変化があると論じている。
私はこれらに明確に答えを出せないけれども、二人の言わんとしていることはなんとなくわかる。
これはたしかにその通りで、たとえばwikipediaの「中世日本語」の項目を見ると、「この時期に古代から備わっていた特徴の多くは失われ、現在の日本語にかなり近い形となった。」
とあり、その細かい要件が書かれている。わかりやすい例でいうと、散々古文で苦しめられた「係り結びの法則」が最終的に崩壊するのがこの時期。
私たちが古文で苦しむのは、この時期に古文が古文になったことが関係している。
増田はこの辺りを論点として「変化がない」と主張したのだろう。
ネットで見られる具体的な原典として大英図書館所蔵『天草版平家物語』を見てみよう。
https://dglb01.ninjal.ac.jp/BL_amakusa/show.php?chapter=2&part=1
発音に多少違いはあるのだろうがこれ、令和を生きる私たちも結構読める。
と表題に書いてある。ぜひ原典と対応させて読んでみてほしい。読める。
正長元年ヨリ
ヘカラス
正長元年より先は、神戸四箇郷に負目あるべからず。字の流れ的にはいけなくはない。
前段では意外に室町時代くらいの日本語ならば通じるのではないかという話をしたが、実は通じないかもという話をする。
世話にやはらげたる
のところ。「世話」も「やわらげたる」も現代語でもほぼ通じそうだ。「世話」という言葉は今も使われるし、「やわらげたる」は「やわらげている」とすぐに発想できる。
ただ現代では、直接「世話にやはらげたる」の意味がわからない。
ところが他に「話し言葉、世俗で使う言葉」という意味がある。現代ではほぼ失われた用法だ。
つまりここでは、『平家物語』を(当時の)現代語に和らげて書きましたよ、ということを示している。
つまり、文法は近いけれども、用いられる言葉やその意味が全然異なるのだ。
方言の問題、あるいは発音の差異の問題と絡めて、この点は500年前の人と会話を難しくする要因になる。
二つの異なる意見が、それぞれ正しさを持っていることを見てきた。
見てきた通り、行けそうでもあるし行けなさそうでもある。私は、それでも、いけるんじゃないか、と思っている。
なぜなら日本語には文字がある。それも、平仮名も片仮名も漢字もある。そして、述べてきた通り音もある。
『論語』やそれこそ『平家物語』など、共通の「話題」もたくさん存在する。
これらを駆使して「会話」すれば、互いの言語感覚を調整・修正しながらコミュニケーションを取れるのではないかと思う(そして、当然と言えば当然なんだが平安人より室町人の方が格段に「会話」は簡単だと思う)。
この点は、元増田の「言語的に正しい大河ドラマ」を作ったり私たちが見て楽しめたりできる可能性を肯定する。
字幕入れたり解説入れれば、英語の字幕より近い感覚を持って楽しくドラマを見られるのではないか。
俺は、俺好みの室町の貴族の娘や守護大名、守護代クラスの娘(前髪ぱっつんの「のじゃ」口調の姫(大人っぽくてもロリっぽくても可))が異世界転生して俺の部屋にシュワみたいにやってきた場合に備えて、室町人と対話する準備はできている。
こまごめピペットという名前は以前から気にはなっていたのだ。どういう状況で使うのかまるで覚えていないその理科の器具は、こまごめという名前のかわいらしさだけが強く印象に残る。
こまごめ。そういえば地名に駒込ってあったな、と調べたら語源はまさに駒込。こまごましたものを吸いとる的なニュアンスではなかった。
手元のキャンパスノート。無論コクヨのだ。これにも元ネタがあるのかもと思って調べたらまさかの『国誉』。いかつい。国誉のキャンパスノート、あんまり買いたくない。
こまごめのように漢字を平仮名にしたり、国誉 → コクヨのように漢字を片仮名にしたりすることでイメージはまるで違ったものになるのは面白い。
それにしても『こまごめピペット』のかわいらしさに比べて『駒込ピペット』の愛想無さったらない。漢字のままだったら教科書には載らなかったんじゃないか。駒込を平仮名にと提案した人は内部では叩かれたろうが良い仕事だと思った。
付け加えると、その「古い法律」は今でも「生きてる」からね。たとえば民法の出だし。
これを
この法律を施行する期日は勅令(天皇の裁可による命令)をもって定める。
明治23年法律第28号民法の財産編、財産取得編、債権担保編、証拠編は、この法律発布の日から廃止する。」
という意味に誤りなく理解するためには、古文・漢文の知識が普通にいる。(たとえば、古文では原則として主語に助詞がつかない。「定ム」はマ行下二段活用動詞で終止形が「定む」(口語文法ではマ行下一段で終止形は「定める」)だから、ここで文は終止している、とか。「此法律」は、あとの名詞に係っているので「此」は「これ」でなく「この」と連体詞で読む、とか(純粋な漢文というよりこれは日本漢文の知識だが)。)そもそも漢字片仮名交じりの表記は漢文の訓読体をベースにしているので、漢文にある程度なじみがないと違和感がすごい。「このくらい分かるだろ」という人は、それは自分がいやいやながら「古文・漢文」をやらされてきたからだということを理解しておいた方がいい。たとえば中国以外の外国出身、日本語ある程度読み書きできる人とかでも、こんな条文になると全くお手上げだ。大学入試から古文・漢文を廃して「実用現代語教育」みたいなことだけにするということは、日本人の日本語力をその(外国人)レベルにする、ということと同義でもある。)
これが万人に絶対必要な知識・教育だとは言わない。だから、義務教育では文法まで教えないし、大学入試でも、古文・漢文なしで入れる大学は普通にある。そういう人が先の法律を見て「訳分からん」となることも、当然おかしいとは思わない。だが、ある程度専門の学習を行う「高等教育」に進学する人間にとっては、戦前に制定された法律や文献が現代社会の重要な基盤となっているという意味で、やはりこれは普通に必要な知識のうちだろうとは思っている。これが不要と言うなら、文系の大半の人間にとって有機化合物に関する化学の複雑な中身とか全く不要なわけだが、それが現代社会の重要な基盤となっているという点では、やはり高等教育を受ける人間にとってクリアすべき知識とされていることに疑問はない。
問題は、その「必要性」が充分教育の現場で徹底されていないことなのだと思うよ。高校教師でそういうことを考えている人間は確かに少ない。「なぜそれを現代社会で、高等教育を望む人間に試験として課す必要があるか」は、最初の増田のように常に問題提起されてよいとは思うし、指導者は常にそれに対して説明する/できるようにする義務があるはずだね。
「を」の発音問題に関しては、現在「を」しか残っていないわ行の問題と考えるべきなのか。「わゐうゑを」「ワヰウヱヲ」だよなあ。だったら/w/を頭子音とする行だ、で済みそうな話だ。
でも何か引っかかることもある。たとえば、今我々の身近で「を」以外のわ行が出てくるものとして「ヱビスビール」の「ヱ」があるわけだが、これはローマ字表記では昔から"YEBISU BEER"と書かれる。でもや行のえ段は旧仮名の時代から「エ」って書くんだよな。
あと、井関農機株式会社というのがあって、これは昔から片仮名表記で「ヰセキ」という記法を使い続けていた。ところがローマ字では"ISEKI"なんだよな。
これらに対して「ニッカウヰスキー」なんかの場合は、まさに whisky の whi を「ヰ」で書いているわけだよな。森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』も、現行の本で見ると『ウィタ・セクスアリス』になっている。これはラテン語の vita sexualis だが、この場合のラテン語における v の発音は /w/ だからこの表記は納得がいく。
これらからすると、わ行の仮名表記ってのは実は結構いい加減に使われていたんじゃないか? ただ商標の場合、オリジナリティを主張する為にわざとわ行の旧仮名を使ったんじゃないか、という疑念も拭えないけど。「を」は助詞の「てにをは」の「を」で現在までがっつり出てくるから、wo というかたちで厳然として残っているのか。うーむ、日本語って難しいよなあこういうところが。