はてなキーワード: 河内とは
佐村河内とか小保方とか、文字通り恥を知らないわけで、行動・言動にブレーキがかからない。
おそらく今の今になっても顔から火が出るほど恥ずかしいとかそういう感情はなくて、
ちょっと不利になっちゃったな、畜生、くらいにしか思ってないだろう。
だが、日本社会は(というか他の国の事情は知らないんだけど)、
結構こういう奴らに甘い気がする。
学校でも会社でも、なんでこんな奴がパージされてないんだろうと思うような
厚かましい人間が意外とのさばっている気がする。
彼らは常に自信たっぷりで、批判されてもまったくブレない。
一部の人からは避けられるが、逆に信者のような取り巻きがつく。
異常なくらい自分を好きになり、自分が口にしたでまかせを誰よりも強く信じること。
嘘がばれたり、色々整合性がとれなくなってきたら、自分に嫉妬する誰かが
自分を嵌めようとしてやってるんだと考えること。
何かが人より優れているから、とかそういう偉さの根拠はいらない。
そもそも他人より自分のほうが偉いんだと信じること。
嫌そうなそぶりを見せても、それは相手が悪いと思うこと。
そして、なるべくでかいことをぶち上げる。
一応誰もが「そりゃ、そうなったらいいよね」と頷くようなこと。
で、そのためにいろいろとしなければならない作業が生まれるが、
そのいろいろな実行を、自分ではなく少しメンタルの弱そうな相手に
やらせるようにする。いかにその人が泥臭いことをすべきか、熱っぽく語る。
嫌がったりしたら、その人が崇高な目的に対して後ろ向きであることを
非難する。
自分は、一番最初に「やろう!」と言った人、ヴィジョンを示した人としてふんぞり返る。
こんなところだろうか。
先ほども書いたが、あなたが思っているよりもみんなはこういう奴に甘い。
相容れない人間は、こういう奴を嫌っても潰しにはこない。
よほど自分が害を被りそうにならなければ、陰口を叩いたりはするかもしれないが、
「いるよね。ああいう人。ほんと困るよね」とか言ってそれで終わりだ。
エロゲレビューサイトめぐりをやってて思ったけど、エロゲをやることが面倒になってやらなくなってから、インプットに応じたアウトプットを行うことすら面倒になってきている感じがする。
だからレビューだけ読んで(自分がプレイしてこういう感想を考えたと錯覚して)満足する。レビューを読むことが趣味になってるレベル?
新作ゲーム買うけど自分でやるのは面倒だから誰かにやってもらうのをただぼーっと眺めるだけ的な。
でも実際そういう人って多い気がするんだよなあ。
日常生活がしんどすぎるのに娯楽が溢れすぎててやりたいのにやる気力がない、時間がないとかそういう。
オートモードもあるけど基本的にボイス待ちで次に進むから、読み終わったらボイス気にせず進める人にとっては基本的に無意味なんだよね。
クリック代行とかでも結局クリックしてもらうっていうアクションの手間>>>自分でクリックする手間だし。。
メッセージ表示終わってから文字数に応じてウェイト時間を決められればいいのか。
あとはあえて言うならエロゲのテンプレ(ツンデレとかハーレムとか中二病アクションものとか)を「そういうもの」として理解する労力も費やしたくなくなってきた。
うーん、、、ノベルゲーをやりたいけど読むのは面倒臭いってところに行き着くのかなあ。。。
なんなんだろうこの矛盾した気持ち。
ダンボール一箱分くらい未プレイのエロゲあるんだけどもうこれやらないまま処分するしかないのかなあ。。。
頭の中ではやりたいって思ってるのにやる気力が出ずに結局やらないままというのは社会人にとっては普通だけど深刻な問題だわ。
とってつけたようでなんだけど、最近の自分が特に史実を調べるでもなく艦これで無造作にレベリングばっかやってるところを見ると、物語を消化するのを避けているのかもしれないとふと思った。
佐村河内しかり大衆は物語を求める云々が最近ホッテントリでよく見かけたテーマだけど、物語を消費することが面倒になってきているのかもしれない。
ここらへんで息巻いていた奴らwwwww
http://b.hatena.ne.jp/entry/www3.nhk.or.jp/news/html/20140310/k10015868081000.html
fukken science 「声高に捏造派を叩いてた奴ら何か言ってみろよ」とか抜かしてるアホがいるので該当する私から反論しておくと、検証不足のうちにねつ造と決めてかかるって、ゆうちゃんに対して検察がやってることと同じだからな
taka18782 科学 間違いがあれば素直に間違いを認められるのが科学の良いところ。そして間違いもまた貴重なデータになるので、とにかくどんどん研究を進めてほしい。
yoko-hirom 小保方氏を罵ったりSTAP細胞を嘲ったりしてきた連中が科学に貢献したかといえばしていないだろう。勝ち誇っているのは何故なのか。
jeffwayne 「俺はわかってた」とか「擁護してた◯◯はバカ」みたいな反応ができるだけ減るような教育が我が国には求められる。
kyasarin123 佐村河内偽ベートーベンの例を上げたくないが、これによって理研及び小保方さん叩きにシフトチェンジしませんように…ダヴィンチだってアインシュタインだってはじめはインチキ扱いされたんだ。
先月末で退職した。今週。寝て、起きて、歩いて、食べた。映画を見た。昼間に。宇都宮に行った。江の島に行った。赤羽に行った。元職場の前まで行った。通勤定期だった。スターバックスに行った。真夜中のガストに行った。イスラエル料理の店に行った。奇妙な味だった。同僚から来たラインを無視した。次の日の朝返信した。もう返信はなかった。本を買った。読んだ。CDを買った。聞いた。佐村河内さんの記者会見をテレビで見た。iPhoneの充電が切れた。ごみを出し忘れた。朝日を見た。夕陽を見た。PS4を見に行った。公園のベンチに半日座った。柏で無職が事件を起こしたのを見た。クロックスを買った。まだ寒かった。ご飯を作った。カレーはいつもより辛かった。泣くもんかと思った。
広島大学名誉教授 難波紘二先生のメルマガ鹿鳴荘便りのダイジェストです。
多くの学者にとってショックな内容を含んでいるらしく、盛んに飛び交っています。
http://blog.goo.ne.jp/motosuke_t/e/d7bb0e2bd291f629b25ea947fcdc72e9
ただ報道には不審な点もある。
Obokataという姓でNIHのPubMedを検索すると、50近い論文がヒットするが、
大部分はA, J, T, Nというファーストネームの研究者。
うち筆頭論文は2本だけだ。
http://blog.goo.ne.jp/motosuke_t/e/18abd4613e541518b77c4fc5dc4b6e7e
組織の再生に寄与する小さな(幹)細胞が存在する」という仮説を論文として発表したが、
「毎日」の記事では極細ガラス管の直径が「0.05ミリ」となっている。1ミリは1000ミクロンだから、
これでは50ミクロンとなり、ヴァカンティ教授のいう「5ミクロンより小さい」に矛盾する。
一体、ヒトの上皮細胞の直径が20ミクロンであり、赤血球の直径が8~10ミクロンであるから、
小保方さんが50ミクロンの細管をマウスのリンパ球にストレスを与えるのに使ったとすれば、
それはデタラメである。他方で、「科学環境部」の記者が3人も名を連ねて、50ミクロンと5ミクロンの違いがわからないとは思いたくない。
http://blog.goo.ne.jp/motosuke_t/e/298498d046d6b2de9d2dcd08019f235f
しかし、この点については論文では何も触れず「正常である」と述べるに留まっている。
恐らく産まれた子マウスをちゃんと追跡調査していないのであろう。
恐らく追試はきわめて困難だろう。山中伸弥教授が記者会見してiPS細胞に関わる3つの誤解を釈明していたが、
「STAP細胞の追試」について口を濁していたのは、追試で確認できなくても、「それは実験のやり方が悪い」と反論される余地があるからだろう。
http://blog.goo.ne.jp/motosuke_t/e/11a2a2dd083e3749d31549a4dcc411f7
2/2付「ボストン・グローブ」紙はキャロライン・ジョンソン記者によるC.ヴァカンティ医師(63)(ブリガム&婦人病院麻酔科部長)の詳しいカバー記事を報じている。
同医師が「博士(Ph.D.)」の称号を持たないことや彼の「小さな芽胞様桿細胞」説は学会からは相手にされず、マサチューセッツ医大でも孤立し、それで現職に移ったこと、
彼はただ自説の正しさを証明してくれる「学生」を必要としていたことも。
捨てるはずの失敗した幹細胞培養のペトリ皿を週明けに顕微鏡でのぞいたら、そこに幹細胞のコロニーができていたという、
フレミングによるペニシリン発見のエピソードをコピーしたとしか思えない逸話もある。
また、同医師には「まだ不確かなこと、まだ論文として報告されていないこと」を気軽に話すくせがあり、「サルでの実験が成功」というのは怪しいことも書いている。
http://blog.goo.ne.jp/motosuke_t/e/44344cc46ffab49fc8323372f91f336c
これで小保方の幹細胞にかかわる3つの論文で、写真の不正使用があることがほぼ確定した。
約10の他施設での追試実験が失敗に終わっているが、肝心の「酸性浴」を与えた細胞の詳細が不明だ。
小保方がいないと実験に成功しないという若山教授の発言も不審だ。
http://blog.goo.ne.jp/motosuke_t/e/0f83da31266896392e8491604ce678d4
が、レーン2と3は同じ画像でレーン2のGLの白いバンドは手書きで加筆したものだ、と思われる。)
http://blog.goo.ne.jp/motosuke_t/e/be7948595669704d417c1e6be8cbe427
昨年の「森口事件」、今年に入って「佐村河内事件」と相継いで大メディアが詐欺師の手玉に取られており、形無しです。
一般市民のメディア不信感はますます高まっており、結局、主体的にネットで情報を知る方向に動いているようです。(私のところまで連絡が来るくらいです。)
http://blog.goo.ne.jp/motosuke_t/e/93ed08f9f627e2685bfafc8247e371ba
例のゴーストライター騒動で、「虚言癖」というのがクローズアップされている。「嘘をつくのは良くない」というのは簡単だけど、実は結構解決の難しい話題。
嘘にもいろいろあり、明らかに人をおとしめるための、詐欺などの嘘もあるけど、一方で佐村河内のような虚言癖は、自己防御の方が強いんだろうと想像する。
実際、自分にもある程度の虚言癖がある。かなり自覚しないと分からないのだけど、いざという時になると、どうしても嘘を言ってごまかしてしまう。社会人になって気がついて、「あ、俺、嘘ついてる」と少しずつ自覚を強めていくようになった。良くネットでネタにされる、「今何してた」って聞かれて「寝てた」って答えるという、アレのもうちょっと高度なバージョンで、それが無意識に発動している。仕事でミスを指摘されると、相手が責めている訳でもないのに、どうしてもそれっぽい言い訳を繕ってしまう。それが日常的に起きるので、自分でも気がつかないくらいだ。だから、嘘をつきそうになると、「本当のことを言わないと」と自分を言い聞かせたりしている。一方で弱音が吐けず、強がりの意味で嘘をつく時もある。
嘘をつくトリガーというのがどこにあるかは、人それぞれだろう。自分の場合は、いわゆる毒親問題だ。自分の父親は、自分の小さい頃から、何かミスをするとすぐにあれこれ文句を言ってきた。なので、どうしても人と本音で接したくないという思いが強くなる(本音を話すだけ徒労だし、嘘でも言ってその場を逃れないと精神的な圧迫が強いから)。そうなると、自分が厳しい状況に置かれそうになると、どうしても嘘をついて逃れようとしてしまう。
虚言癖を持つ人間を単に「誠意のない人間」と理解するのは難しい。実際、佐村河内もきちんと新垣に金を払ったり、人を集めたり、やるべきと思ったことはやっていたみたいだしね。まじめな人が体調が悪くても「大丈夫です」と毎回答えてしまうのも、虚言癖の一種と言っても良いかもしれない。
といって、「虚言癖を許容しろ」とは言うつもりはない。実際、逃げるためについた嘘で大きなトラブルを引き起こす事例は後を絶たないし、信用してくれた人にも迷惑だから。虐待する親が自分の子供について容易に「虚言癖がある」と"嘘"をいうこともある(報道ではそう書かれるけど、多分もっといい加減に「こいつが嘘をついてんだよ!」みたいな発言なんだろうな)。だから、精神的に弱い人の防御反応としての「嘘」と、騙したりおとしめたりしたいが故の「嘘」は表面上見分けがつきにくい。
佐村河内にしたって最初から金銭をだまし取る目的で全聾を装っていたとは、ちょっと考えづらい。「全聾の作曲家」というポジションがヒットに結びつくとは、事前には考えられないからだ。どこかで自分の音楽的才能がないのをごまかすために「耳が悪いんで」と言いだして、結局引っ込みがつかなくなって全聾を通し、その証明のために障碍者手帳を入手し...、みたいな成り行きかなと思う。だからといって、彼のやったことが一種の詐欺に当たることは否定できないし、それを拒否するものでもない。
ただ、虚言癖を一概に攻撃するだけで終わる病だなんて思ってほしくない。どこかで「嘘をつかないとやってられない」心理的状況があるのだろう。それを「社会の問題」と広げるつもりもないけど、また「一個人の自覚と責任」みたいな安易な理解で終わらせてほしくもない。まあ、難しいんだけどね。ぶっちゃけ言えば、JR北海道の件だって、虚言癖の変形だろうしね。
ジャンプそのものに感動している人間であれば、より優れた1位のジャンプに注目しているはずで、そうではない奴はスポーツそのものではなく、スポーツの背景にあるストーリーしか見えていない。これは音楽そのものではなく、音楽の背景が消費された佐村河内現象そのものだ。
ゆえに葛西の銀メダルに感動しつつ、佐村河内をけなしている人間がいたら、それはダブルスタンダードに気づかない馬鹿か、ナショナリズムに染まったネトウヨか、勝ち馬に乗りたいだけのクズ。
佐村河内以来、感動話アレルギーを発症して「すべて嘘に違いない」と片っ端から否定してる人を散見するけど、アレはアレで極端すぎるよな。
食品偽装と同じく、しばらくしたら忘れて元通りなんだろうが。
実はゴーストコンポーザーが作曲していたものだし、そもそも聾ではない疑惑もある佐村河内だが、もともとの物語は全聾の作曲家の生んだ奇跡の音楽みたいな話なわけだ。作曲にとって最も重要な感覚である聴覚を失いながらも名曲(?)を生み出したというのは(今から思えば)信じがたいことではあるが、しかしベートーヴェンという先例があるので受け入れられる素地はあったのだろう。従来より楽聖の全聾説には疑問が挟まれているが、よほどクラシックに関心でもなければ知らなくても当然である。もちろん、仮にベートーヴェンが全聾でなかったとしても、難聴を抱えながらあれほどの傑作群をものしたのは奇跡だ。
そして私はもうひとつ似たような奇跡を、そしてベートーヴェンよりはるかに信じがたい奇跡を知っている。すなわち、塙保己一である。
日本文学・日本史を主とする一大叢書『群書類従』、『続群書類従』を、そして『大日本史料』のベースとなった「史料」を編纂した保己一は全盲であったという。信じがたいことである。単に読んだもの(読んでもらったもの)をほとんど記憶しているというだけならば、問題は記憶力のみであり、そういう異能者の話は稀に聞くので信じられないではない。たとえば、井筒俊彦の家を訪れたアラブ第一の学者が、本棚にずらりと並ぶ本を見て、「本が焼けたらどうするんだ。お前は火事ごときで研究ができなくなるのか」と笑ったとか。もちろんこの学者は必要な物はすべて記憶していたわけだ。
しかし、編纂である。複数の本から善本を選び、校合して本文を確定するのだ。しかもその中には大量に漢文(変体漢文)が含まれているのである。これらの作業に最も重要な感覚が視覚であることは言うをまたない。目で見れば即座に違いがわかり、どの漢字を使っているかを認めることができるのだから。つまり保己一は編纂作業に最も重要な感覚を失いながら、日本史に燦然と輝く大偉業を成し遂げたのだ。
正直信じられない。意味がわからない。実際には、プロデューサーやディレクターの役割を果たしたのであって、実務にはそんなに噛んでなかったのか。仮に編纂実務に携わっていたとしたら、どのように行っていたんだろうと疑問に思っているんだけど、その点について詳述したものが見当たらなくて困っている。なんかいいのないかな。