はてなキーワード: チャートとは
モー娘。とかホワイトビスケッツとかは「そのグループがどういう集団で、どういう物語の中でこの曲を歌っているか。歌詞は何をイメージしたものか」をCD買ってるほぼ全員が理解していたレベルじゃん。
でも今チャートにいるのって、大部分がどういう連中が歌っているのか誰も知らない気がする。
ドラマや映画のテーマソングであっても「流行りそうな曲を流行ってそうな歌手に歌わせる。作品との相性は関係なく」みたいなのが一時期はやりすぎたせいで土壌が丸焼けになって、日本人の多くは「作品の何らかの場面をイメージしたもの」とは感じなくなってるように思える。
でも音楽ってのは本来「表現」なわけであって、つまりは「手段」としての側面こそが本体だったはずなんだよね。
祭りでドンガドンガ太鼓を鳴らすのは、祭りをやってますよと神様にまで伝えるためであり、その背景があるから聞いてる人達は「オラオラめっちゃ楽しいから一緒に混じって、ついでに俺たちの願いもちょっと聞いてけ」を踊りで表現したりする。
そういった文化の中で、いつからか単純に音楽そのものを楽しもうという研究が進み純粋な技術のぶつけ合いを至高とする人達も出てきたけど、それでもクラシックならオペラの劇伴であったりポップカルチャーなら時代の空気を歌うものであったりした。
CDを買うという文化が失われ、配信という超高速でチャートが入れ替わる世界が始まったことで、そういった感覚はかなり散り散りになってしまった。
誰がどこで何を歌っているのかはよく分からないけど、なんとなく歌詞に共感する気がしないでもないのレベルまで、音楽によって表現されるもの、少なくとも受け手が聞こうとするものは曖昧化していった。
そういう背景があるからこそ、「誰が歌詞や曲を書いて誰が歌っているのかを明確にフューチャーした音楽」が強烈なインパクトを持って伸びていったんじゃないだろうかと思うわけだよ。
多様性多様性と言っている中でいわゆる音楽の「ヒットチャート」は意味を成すのかと思っている。
昔のように最近の曲を知っていないと話題についていけないこともないし、知らないことであまり馬鹿にされることもない。
「最近の曲を知らないんだよね」という年齢も昔はおじさんおばさんだけだったのが普通に学生が言う。
髭男の曲も米津の曲もAdoの曲も、人気ではあるものの大衆が熱狂して聴いているほどではなく、あくまで多くの人が聴いている曲の中の最大公約数に過ぎない。
最新の曲を知らなくても過去の曲に簡単にアクセスできるようになったし、人気の曲を聴かなくても自分の好きなジャンルはこれだと胸を張って言う人が増えてきたように思える。
「人気の曲」の指標は確かに必要だし、アーティストのモチベーションにつながると思う。
けれど今はCDの大量買いに再生回数の水増し工作など、そのチャート自体がある程度「いじれる」ようになってしまっている。
提供元が対策を講じてもすぐに再度抜け道を探したり倍の努力をしてその対策を無にしてしまう。こうやってチャートもぐちゃぐちゃになっていく。
いや、意味はあるのだけれど、今後更に音楽に対するアクセスがしやすくなり、音楽の価値が下がると同時に、音楽の好みの多様性が広がり、「これが人気です」の指標に人が興味を示さなくなるんじゃないかと思っている。
ホッテントリに入っていた記事(https://news.yahoo.co.jp/byline/soichiromatsutani/20221231-00330955)とそれに対するブコメを読んで思ったことを書く。あくまで個人の感覚に過ぎず、先の記事のようなデータに基づいた分析ではない。
同じ年代の人5人で集まって紅白を見ていた。どの人もそれなりに音楽を聴く方の人だと思う。趣味でギターをやっていたり軽音に入っていたりした人たち。
俺は楽器とか弾けないけど、音楽は人並みより聴くという認識。参考までに、Spotifyが教えてくれた「去年のトップアーティスト」5つはmy little airport、中谷美紀、フィッシュマンズ、くるり、Nujabes。ああ、そういう系統か、と思ってもらえればよい。ただ音楽の趣味はみんなわりとバラバラ。さっきのSpotifyのリストは日本のアーティストが多いけど、もっと洋楽中心の人もK-POP中心の人もいると思う。
さてそんな面子で見たとき、別にいまの流行曲だからみんな知ってるとかはない。いまセットリスト(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_63aa433fe4b0d6724fb7e745)を見ながら思い出しているけど、紅白を見ながらみんなが一部でも歌を口ずさんだりして盛り上がったのは、鈴木雅之、Perfume、ウタ(Ado)、Vaundy、あいみょん、藤井風、篠原涼子、ゆず、関ジャニ、KinKi Kids、石川さゆり、福山雅治とかか。
たとえばKing Gnuとか髭男とかSaucy Dogとか、アーティストは知っていても紅白で歌った曲まで知っているとは限らない。音楽が好きでも(あるいは音楽が好きだからこそ)そんなに熱心にバイラルチャートを追いかけていない人の方が多いと思う。
だから逆にみんながちゃんと知っている曲って夏色とか硝子の少年とかになるんだよな。歌手としての篠原涼子を知っているのは一部の世代では? みたいな反応もあったけど、「恋しさとせつなさと心強さと」くらいは知ってる(ほかは全然知らんけど)。むしろ、わりと親世代が小室哲哉の影響にあって車とかで流してがちだと思う。Get Wildとかだってまだ流行ってるしな。
夏色、硝子の少年、桜坂あたりを「おっさんに媚びたラインナップ」とか言う人もいたけど、その世代の人がそう感じるのはそれで合ってるだろうけど、たぶんいまの20代もどれもかなり知ってるし、カラオケで歌っても全然大丈夫なレベル。下手な流行曲よりむしろ外さない。紅白出てないけど、丸ノ内サディスティックなんて必ず誰か歌うような感じ。
だから月並みなことを言うようだけど、音楽の聴き方が変わってみんなが知ってる流行曲というものが少なくなって(たとえばTikTokとかで流行ったりした曲は、TikTok見ない層にはまったくわからないし、アニメの主題歌とかはアニメ見なければ知らない)、90年代とか00年代の流行曲が、もちろんごく一部だろうけど、しぶとく生き残っているという話だと思う。
でもそれは20代だから、音楽の聴き方が変わったからというだけじゃなくて、別に40代でも50代でも自分が生まれる前かかなり幼い頃の流行曲を何曲も知っているはずで、後世においても愛唱される作品というのがどの時代にもあって、夏色とか硝子の少年とか桜坂はもうその域なので、別に必ずしもおっさんに媚びたラインナップでもなくて、むしろ万人向けに用意しているんじゃないかと思った。まとまらない話だけど。
玉置浩二が今年の紅白で安全地帯として歌っていたのを見た。安定の歌声、私のTLはジジイとババアしかいないのだけど、だからこそすごい評価高かった。きよしの次くらいに。
ただ、私は2020の田園を歌った玉置浩二こそを推したいのだ。
田園は1996年リリースの玉置浩二ソロ曲で、当時のCD売れ売れ時代ですらチャート上位に食い込み、毎週ラジオで繰り返し流れていた状態だった。
当時高校生だった私は、玉置浩二なんて全然好きじゃなくて流れるたびにうざいなー、と思って次の曲が流れるのを待っていたものだったのです。多分みんなそう。あの曲をJKは理解できないんよ。理解できるならJKやってないよ。そういうものよ。
でもね、あれか、30年近く経ってババアになって2020の紅白で田園を聞いてすごい泣いて、今年、というか今またネットで動画探して聞いて泣いて、なんだろうね、玉置浩二に救われる人生が来るとは思ってもみなかったね。歌詞は全体的に人類讃歌なのよ、一生懸命生きてる人偉い、みたいな。
でもね、唐突に『愛はここにある 君はどこへもいけない』『そして君がいる 他になにができる』とかいうの。あのいい声で。いけないのよ、いかないじゃないのよ。ある場所で頑張りなさい、の歌なのよ。1996年の私、勉強ばかりせずにもうちょっとこの歌を真剣に聞いた方が良かったね。そしたらこんな夜空の星を掴もうとして地上の塵芥さえ掴めないような人生じゃなかったかもね。
今、塵芥さえ掴めなくて、子供も産めず何もこの世に残せず、ただただ消費だけしていく有様で私は生きていて、でもなんかしらんがこの世では生きていかないといけなくて、そういう詰んだ状況を考えた時に、その場所でやれることしかまぁできんよな、って歌ってくれる玉置浩二がまさか私の神になるとは思わんかったね。
なにが言いたいかって、本当に玉置浩二ありがとう。あなたたに救われた41歳のババアがここにいます。あなたの伸びやかで人を赦す歌声がいついつまでもこの世に残りますように。
玉置浩二が今年の紅白で安全地帯として歌っていたのを見た。安定の歌声、私のTLはジジイとババアしかいないのだけど、だからこそすごい評価高かった。きよしの次くらいに。
ただ、私は2020の田園を歌った玉置浩二こそを推したいのだ。
田園は1996年リリースの玉置浩二ソロ曲で、当時のCD売れ売れ時代ですらチャート上位に食い込み、毎週ラジオで繰り返し流れていた状態だった。
当時高校生だった私は、玉置浩二なんて全然好きじゃなくて流れるたびにうざいなー、と思って次の曲が流れるのを待っていたものだったのです。多分みんなそう。あの曲をJKは理解できないんよ。理解できるならJKやってないよ。そういうものよ。
でもね、あれか、30年近く経ってババアになって2020の紅白で田園を聞いてすごい泣いて、今年、というか今またネットで動画探して聞いて泣いて、なんだろうね、玉置浩二に救われる人生が来るとは思ってもみなかったね。歌詞は全体的に人類讃歌なのよ、一生懸命生きてる人偉い、みたいな。
でもね、唐突に『愛はここにある 君はどこへもいけない』『そして君がいる 他になにができる』とかいうの。あのいい声で。いけないのよ、いかないじゃないのよ。ある場所で頑張りなさい、の歌なのよ。1996年の私、勉強ばかりせずにもうちょっとこの歌を真剣に聞いた方が良かったね。そしたらこんな夜空の星を掴もうとして地上の塵芥さえ掴めないような人生じゃなかったかもね。
今、塵芥さえ掴めなくて、子供も産めず何もこの世に残せず、ただただ消費だけしていく有様で私は生きていて、でもなんかしらんがこの世では生きていかないといけなくて、そういう詰んだ状況を考えた時に、その場所でやれることしかまぁできんよな、って歌ってくれる玉置浩二がまさか私の神になるとは思わんかったね。
なにが言いたいかって、本当に玉置浩二ありがとう。あなたたに救われた41歳のババアがここにいます。あなたの伸びやかで人を赦す歌声がいついつまでもこの世に残りますように。
「芸術とはコミュニケーションの一形態である」という大前提を伝えるのが音楽・美術という科目の教育要領の根っこだと思います。
なんとなく気持ちがいい、とにかく上手、といった要素は芸術において重要な評価点ではありますが、あくまで評価点であって主題ではない。
メインとなることは「何を伝えようとしているか」なのです。
宗教画であれば「神という偉大な存在の物語」を共有するための手段として存在しますし、オペラミュージックであれば「場面の持つ意味を強調する」ことを目的とします。
音楽はその歴史の中で技巧に偏る部分が多く、宮廷音楽についても「こんなにも素晴らしい音楽を聞いている自分たち貴族の精神的な豊かさ」に重きをおいた表現になりがちでした。
そこから大衆化を経る過程において「純粋に音楽の持つ楽しさを共有する」ということへとテーマが移っていきます。
やがて現代のポピュラーミュージックにおいては、「現代社会の中で感じる様々な感情」が表現のメインへとなるわけです。
世界の音楽チャート上位をラブソングが占めがちなのは恋愛というものが「共有したくなるような事柄が多い事象」であるからだと言えます。
つまり、音楽とは昔も今も音を通して何らかの「物語」や「感覚」を共有するものとなっているのです。
造り手の想定したイメージを、受け手が音楽を聞くことによって脳内に再度作り出す。
それは紛れもなく「コミュニケーション」なんですね。
結束バンドのアルバム「結束バンド」はそうそうたるメンバーを集めた上で「駆け出しの天才たちによる青春ロックバンドのファーストアルバム」というコンセプトでリリースされます。
バンドとは元来「世の中に何か表現したい者たち」が集まって産まれるもの、その「表現したい者たちが集まって産まれた」という状態そのものを表現するのがこの名盤「結束バンド」なのです。
大衆化とそれへの反発心が混ざり合う中で詰め込みすぎた結果の若干なチグハグさ、そういったものが確かに感じ取れます。
音楽という強力な武器を持ってしてでも何者かに伝えんとする強力な叫び、その最もプリミティブな部分がファーストアルバムの奥底には光るものですが、結束バンドにならぶ「後藤ひとりという孤独な人間による反抗」というコンセプトの歌詞はハッキリとそれが現れています。
ロックとは大本をたどれば反発のミュージックであるわけですが、今では最も平穏でありきたりな音楽の一つとさえなっています。
同時に、「社会への反抗」「本当は人付き合いなんて好きじゃないことの暴露」といった事柄も、今ではポピュラーな文化の一つとなり、SNS等では日常のように誰もが口にするようになりました。
ですがその中にはそれぞれが心に持つ確かな苦しみや叫びがあるわけです。
現代に宿るそういった「一般化した反抗心とロック」を、「結束バンドの後藤ひとり」という触媒を用いることによって鮮烈に浮かび上がらせ「現代におけるロック」を一つの形に組み直したのがアルバム「結束バンド」なのです。
その表現に対して「もっと上がある」というのはナンセンスだと思います。
コミュニケーションには間違いなく良し悪しがありまして、それは「表現しようとしたものが表現できているか」で決まります。
結束バンドのアルバム「結束バンド」は、それによって表現しようとしたものが確かに表現できている。
これに対して「もっと良いものがある」と言ってしまうのはどうにも心が貧しいように思えますね。