はてなキーワード: 震災とは
ロシアがウクライナ侵攻したりした日に某所で引退発表があってダブルパンチを受けた層は一定数いるのではないかと思うし、増田にも前者の記事はあふれ返っているので後者について語る。
(別に前者と比較できるほどの話だと思っている訳ではない。戦争より大きな芸能問題なんてあるわけがない、当たり前だ)
ただまぁ、遠い国で戦争があっても「怖いな」「ロシア史にこういう流れあったな」とは思っても、現地で起きた悲劇のすべてに感情移入することはない。『アクタージュ』の原作者が前科者になって連載が打ち切られても「続きが読めなくて残念だな」とは思っても、原作者に同情はしない。どちらも遠い話だし、後者であっても自分が好きなものと作者は別物だからだ。世の中の悲劇のすべてに感情移入していたらどんな聖人でも発狂してしまう。よそはよそ、うちはうちだ。
その『よそ』を『うち』に変えてしまうのがライブ配信型の魅力であり、最も恐ろしい地獄でもあるという話。
Vtuberというのは、元々『二次元のキャラが本当に生きていたらいいのに』というオタクの願いを部分的に叶えるものだった、と思う。
2017年末にキズナアイの動画を始めて見た時は「はー珍しいことやる人がいるもんだ。面白いな」ぐらいの感想ではあったが、確かに感動した。ニコニコ動画時代には謎技術で見たこともないような動画を投稿している投稿者がわんさかいたが、その一種のような認識だった。その後四天王だの何だのと次第に盛り上がり始め、新しい時代が来たなぁと眺めていた。配信型を見るようになったのはブームの始まりより後だった。2020年末頃だ。
元々東方Project好きだったこともあり、ハードシューターがいるという話を聞いて観始めたのがきっかけだった。観てみると確かに面白い。バラエティ番組で芸人のトークに笑うことに抵抗はなかったし、配信系に馴染みがなかったのも「男女を問わず別に人間の顔を画面で見続けたいと思えない」という理由だったので、『アニメキャラがゲームやトークをしている』感覚で観ることができた。(この辺りは「中身の人間がいるのは論外」派も根強いようなので人によるらしい)ともあれ日常的に配信を観るようになっていくと、学生時代のボーカロイド全盛期を思い出してどこか懐かしかった。何事も流行りというのは流行っている内に楽しんでおくと、時代の空気を味わえるものだ。ミーハー万歳。
そのうちにわかってきたのが、このジャンルの本質は『コンテンツ』ではなく『コミュニティ』であるということだった。考えてみれば当然でもある。作品を一方的に受け取るのが『コンテンツ』なら、コメントを本人に送り、配信内でやり取りし、あるいはリスナー同士の横の繋がりも増える。(そういえばラジオ同様「リスナー」という表現を使うのは何故だろう? ライブ動画を観てはいても、本質は声ということだろうか)これほど双方向的ならば、それは勿論『コミュニティ』だ。
『コミュニティ』に加わるということは、例えばMMOオンラインで深夜までチャットで盛り上がる仲間ができるようなものだ。毎日のように遊んでいるから、相手が大体何をしているのかわかる。家族や友達、と言っても言い過ぎでないのは昨今増えたという「オンラインゲーム婚」とやらを鑑みても明らかだ。画面の中から一方的に渡されるだけの『コンテンツ』と違い、『コミュニティ』では画面の向こう側に自分から何かを届け、加わることができる。実社会にとても近い。精神的な、代用品にもなりうる。
そして人気の高いライブ配信者、特にそれがグループであればクオリティも保証されている。その『コミュニティ』はいつも楽しく、賑やかで、甘酸っぱく、可愛い。現実の自分の人生では味わうことなど到底不可能なほどに。この構図は従来の何かによく似ている。そう、『二次元』だ。現実逃避をして二次元コンテンツに耽溺し、そこに行きたい、加わりたいと考えるオタクはずっと昔から存在していた。
ライブ配信型Vは二次元そのものではない。だが、二次元と同じ効能を果たしてくれるから、その代用品にはなり得る。かくしてオタクは『画面の向こう側の二次元コミュニティ』に加わる手段を手に入れた。これこそ可視化された楽園だ。この世の何処かにはあるかもしれない、いいやあるはずもない、と諦めていたきらら世界観。それが実在すると思えた。何割かは演技かもしれないが、しかしすべてではない。あまりにも長時間、毎日のライブ配信がある。『素』を隠し通すのは不可能に近く、むしろ『素』をある程度出すことが人気の秘訣にもなっている。
演技ですらなく、『素』で『楽園の二次元キャラ』が現実の過酷さによって苦しむ姿をリアルタイムに眺め、想像することができるのだから。百合に男を挟むな、なんて次元ではない。きらら漫画を読んでいたら急に震災やコロナが登場してメインキャラが何人も死んでしまうようなものだ。大炎上間違いなし、トラウマものである。
結局のところ彼女達(あるいは彼等)は現実を生きる生身の人間だ。現実の過酷さの中で当たり前に生きている。だからろくでもない事態にも見舞われる。本人が原因になることも、しょうもない理由で叩かれることもある。それは別にこれまでもごく普通にあったことだ。
ただ、可視化されただけ。家族でもなければ身近に感じることがなかった苦痛を、日本中や世界中に分け隔てなく配って共有することができるようになっただけだ。
タイトル通り、この変化はあくまで二次元オタクかつ、ライブ配信型Vを許容できる層に限られる話でもある。人気アーティストや声優が死んだり結婚したり引退したりで阿鼻叫喚の嵐になるのはいつものことだ。珍しくもなんともない。ただ「二次元イラスト」が聖域で、仮に宇崎ちゃんポスターのように現実で炎上したところで、作者に何が起きたところで、作中世界のキャラには何の影響もない、という感覚はここにはない。
『画面の向こう側』に手を伸ばせることはとても魅力的で、そして地獄だ。
何度か自分でそれを経験してからは、二、三歩引いた距離感で観るようになった。離れて見れば『コンテンツ』として面白いのは変わらない。ただ『コミュニティ』にまで加わると、火傷をするからだ。古き悪しき2ch時代のROM専文化は、ここにきて自衛の意味を取り戻しつつある。
(別に前者と比較できるほどの話だと思っている訳ではない。戦争より大きな芸能問題なんてあるわけがない、当たり前だ)
ただまぁ、遠い国で戦争があっても「怖いな」「ロシア史にこういう流れあったな」とは思っても、現地で起きた悲劇のすべてに感情移入することはない。『アクタージュ』の原作者が前科者になって連載が打ち切られても「続きが読めなくて残念だな」とは思っても、原作者に同情はしない。どちらも遠い話だし、後者であっても自分が好きなものと作者は別物だからだ。世の中の悲劇のすべてに感情移入していたらどんな聖人でも発狂してしまう。よそはよそ、うちはうちだ。
その『よそ』を『うち』に変えてしまうのがライブ配信型の魅力であり、最も恐ろしい地獄でもあった。
Vtuberというのは、元々『二次元のキャラが本当に生きていたらいいのに』というオタクの願いを部分的に叶えるものだった、と思う。
2017年末にキズナアイの動画を始めて見た時は「はー珍しいことやる人がいるもんだ。面白いな」ぐらいの感想ではあったが、確かに感動した。ニコニコ動画時代には謎技術で見たこともないような動画を投稿している投稿者がわんさかいたが、その一種のような認識だった。その後四天王だの何だのと次第に盛り上がり始め、新しい時代が来たなぁと眺めていた。配信型を見るようになったのはブームの始まりより後だった。2020年末頃だ。
元々東方Project好きだったこともあり、ハードシューターがいるという話を聞いて観始めたのがきっかけだった。観てみると確かに面白い。バラエティ番組で芸人のトークに笑うことに抵抗はなかったし、配信系に馴染みがなかったのも「男女を問わず別に人間の顔を画面で見続けたいと思えない」という理由だったので、『アニメキャラがゲームやトークをしている』感覚で観ることができた。(この辺りは「中身の人間がいるのは論外」派も根強いようなので人によるらしい)ともあれ日常的に配信を観るようになっていくと、学生時代のボーカロイド全盛期を思い出してどこか懐かしかった。何事も流行りというのは流行っている内に楽しんでおくと、時代の空気を味わえるものだ。ミーハー万歳。
そのうちにわかってきたのが、このジャンルの本質は『コンテンツ』ではなく『コミュニティ』であるということだった。考えてみれば当然でもある。作品を一方的に受け取るのが『コンテンツ』なら、コメントを本人に送り、配信内でやり取りし、あるいはリスナー同士の横の繋がりも増える。(そういえばラジオ同様「リスナー」という表現を使うのは何故だろう? ライブ動画を観てはいても、本質は声ということだろうか)これほど双方向的ならば、それは勿論『コミュニティ』だ。
『コミュニティ』に加わるということは、例えばMMOオンラインで深夜までチャットで盛り上がる仲間ができるようなものだ。毎日のように遊んでいるから、相手が大体何をしているのかわかる。家族や友達、と言っても言い過ぎでないのは昨今増えたという「オンラインゲーム婚」とやらを鑑みても明らかだ。画面の中から一方的に渡されるだけの『コンテンツ』と違い、『コミュニティ』では画面の向こう側に自分から何かを届け、加わることができる。実社会にとても近い。精神的な、代用品にもなりうる。
そして人気の高いライブ配信者、特にそれがグループであればクオリティも保証されている。その『コミュニティ』はいつも楽しく、賑やかで、甘酸っぱく、可愛い。現実の自分の人生では味わうことなど到底不可能なほどに。この構図は従来の何かによく似ている。そう、『二次元』だ。現実逃避をして二次元コンテンツに耽溺し、そこに行きたい、加わりたいと考えるオタクはずっと昔から存在していた。
ライブ配信型Vは二次元そのものではない。だが、二次元と同じ効能を果たしてくれるから、その代用品にはなり得る。かくしてオタクは『画面の向こう側の二次元コミュニティ』に加わる手段を手に入れた。これこそ可視化された楽園だ。この世の何処かにはあるかもしれない、いいやあるはずもない、と諦めていたきらら世界観。それが実在すると思えた。何割かは演技かもしれないが、しかしすべてではない。あまりにも長時間、毎日のライブ配信がある。『素』を隠し通すのは不可能に近く、むしろ『素』をある程度出すことが人気の秘訣にもなっている。
演技ですらなく、『素』で『楽園の二次元キャラ』が苦しむ姿をリアルタイムに眺め、想像することができるのだから。百合に男を挟むな、なんて次元ではない。きらら漫画を読んでいたら急に震災やコロナが登場してメインキャラが何人も死んでしまうようなものだ。大炎上間違いなし、トラウマものだ。
結局のところ彼女達(あるいは彼等)は現実を生きる生身の人間だ。現実の過酷さの中で当たり前に生きている。だからろくでもない事態にも見舞われる。本人が原因になることも、しょうもない理由で叩かれることもある。それは別にこれまでもごく普通にあったことだ。
ただ、可視化されただけ。家族でもなければ身近に感じることがなかった苦痛を、日本中や世界中に分け隔てなく配って共有することができるようになっただけだ。
タイトル通り、この変化はあくまで二次元オタクかつ、ライブ配信型Vを許容できる層に限られる話でもある。人気アーティストや声優が死んだり結婚したり引退したりで阿鼻叫喚の嵐になるのはいつものことだ。珍しくもなんともない。ただ「二次元イラスト」が聖域で、仮に宇崎ちゃんポスターのように現実で炎上したところで、作者に何が起きたところで、作中世界のキャラには何の影響もない、という感覚はここにはない。
『画面の向こう側』に手を伸ばせることはとても魅力的で、そして地獄だ。
何度か自分でそれを経験してからは、二、三歩引いた距離感で観るようになった。離れて見れば『コンテンツ』として面白いのは変わらない。ただ『コミュニティ』にまで加わると、火傷をするからだ。古き悪しき2ch時代のROM専文化は、ここにきて自衛の意味を取り戻しつつある。
震災で世の中暗くなったよな
時々書くんだけど、コロナ禍当初に人気者だった、上先生について、ある医師が「震災のころは医療体制の不備などをビシビシ正論で指摘する、素晴らしい先生だった。テレビに出るようになって変わってしまった」と嘆いていたのをTwitterで見たのよ。
岩田先生も、今日話題の宮沢先生も、あのポジションにたどり着いたわけだから、きっと優れた研究者だったのだろうに、テレビに出て、Twitterを始めて、おかしくなっちゃったね。
やっぱり、メディアで注目されるって、人を壊してしまう何かがあるんだね。尾身先生も、この前一瞬壊れかけてたね。
市井の我々だって、Twitterでちょっとおかしなことを言って、それに共感が集まったり、そこからリンクを辿ってしまうことで、陰謀論者になってしまうわけでね。
立場が人を作る、という言葉もあるように、人に見られることで行動・言動が良いほうに変化することもあるんだろうけど、やはり普通の人にとっては一気に数百万、数千万人の視線が集まる状況ってのは、耐えられないものなんだろうね。
時々書くんだけど、コロナ禍当初に人気者だった、上先生について、ある医師が「震災のころは医療体制の不備などをビシビシ正論で指摘する、素晴らしい先生だった。テレビに出るようになって変わってしまった」と嘆いていたのをTwitterで見たのよ。
岩田先生も、今日話題の宮沢先生も、あのポジションにたどり着いたわけだから、きっと優れた研究者だったのだろうに、テレビに出て、Twitterを始めて、おかしくなっちゃったね。
やっぱり、メディアで注目されるって、人を壊してしまう何かがあるんだね。尾身先生も、この前一瞬壊れかけてたね。
市井の我々だって、Twitterでちょっとおかしなことを言って、それに共感が集まったり、そこからリンクを辿ってしまうことで、陰謀論者になってしまうわけでね。
立場が人を作る、という言葉もあるように、人に見られることで行動・言動が良いほうに変化することもあるんだろうけど、やはり普通の人にとっては一気に数百万、数千万人の視線が集まる状況ってのは、耐えられないものなんだろうね。